双剣のエレナ
ながれ
オーランドへと続く道
第1話
――――血飛沫が舞う。
地面に転がる仲間の死骸を目の当たりにして男たちは僅かに後ずさり、恐怖を宿す男たちの眼差しの先、ソレは返り血で塗れた巨体をうねらせながら嘲笑うが如く蠢いていた。
その姿はまさに異形。
人の姿を模倣したソレには六本の触手の如き腕が生え、異常に長いその腕が不気味に地面を這い回りながら、頭部らしきモノに付いた巨大な目玉がギョロリ、と忙しなく辺りを見回している。
人ならざる異形のモノ……人々は恐れと畏怖を込めてそれらをこう呼んだ。
――――魔物、と。
人間を捕食し喰らうその生物はこのシュメリア大陸において人類にとっての最大の脅威であり畏怖の象徴でもある。
半年前の魔女カテリーナの災厄の折りに爆発的に増加したこれらの魔物の被害は、災厄が去った現在でも大陸全土に大きな爪痕を刻み続けていた。
皮肉な事に国家間の紛争が絶えないこの大陸において、新たなる脅威である魔物の出現が、それが齎した未曾有の被害という深刻な問題を抱えることで初めて国家という垣根を越え協力する事となる。
各国が条約を締結し生まれた魔物討伐を主とした報奨金制度は、傭兵たち、そして貧困に苦しむ多くの者たちの受け皿となり瞬く間に大陸全土へと広がっていく。
今、この魔物の前に立つ彼らもまたそうした傭兵たちの一団であった。
「だらしないね、下がってなよ」
その口調とはまるで似つかわしくない涼やかな少女の声が男たちの背後から掛かり、男たちを掻き分ける様に姿を見せた少女は――――美しかった。
歳の頃は十六、七だろうか……長い艶やかな黒髪に白く透き通るような肌。整った顔立ちに夜空を映す黒く澄んだ瞳。
この場には凡そ似つかわしくない清楚な、神秘的な魅力を漂わせる少女は、だがその口元に冷笑を浮かべ、腰と背中に吊った二振りの長剣を同時に引き抜く。
恐らく特注であろうその長剣は、少女の小柄な身体に合せ誂えられたかの様に刀身は薄く……そして長い。
重量と腕力で対象を叩き潰すことに主眼に置いている一般的な大剣と比べ、強度において大きく劣るだろうその長剣の用途は明らかに別種である事が窺える。
潰すのでは無く断つ――――少女の手に握られたそれは、一つの特性のみを追求し特化させた形状をしていた。
少女の持つ長剣を木々の間から差し込む陽光が照らし出し、刀身に映る異形の姿を霞ませる。
その刹那、少女が動く――――。
自分に向かって駆ける少女を異形の目玉が捉えると左右六本の腕が鞭のようにしなり少女へと襲い掛かる。
速度を落とす事も無く少女が刹那奔る左右の長剣が、迫る二本の腕を半ばから切り落とし、魔物との間合いを瞬時に詰めた少女は舞うが如く身を翻すと残る全ての腕を一瞬で瞬断する。
少女は両腕を交差させ虚空に斜め十字を刻む。
瞬間、放たれた剣閃は風――――鮮烈なる風。
絶叫と共に少女の倍はあろうかという魔物の巨体が二つに別たれ、断ち切られたその残骸が崩れ落ちる。
両断された魔物の四肢は暫くの間小刻みに動き続けていたが、やがてぴくりともしなくなり、驚異的な生命力を持つ魔物を一瞬で屠ったその恐るべき少女の剣技を目にした男たちは呆然と立ち尽くし動けない。
だが少女が荒い息を吐きその場に片膝を付くと我に返った男たちが慌てて少女のもとへと駆け寄っていく。
「まだまだ……以前の様には行かないな……」
立ち眩みに似た感覚に襲らながら少女は一人苦笑する。
この程度で呼吸が乱れ、激しい動悸の為に立っていることすら苦痛になる……そんな脆弱なこの身体に我ながら呆れていた。
だが以前に比べれば短時間であれ戦闘が可能なほどに回復しているのも確かな事実であるのだから……悪くはない……そう悲観する程、悪くはないのだ。
まともに歩く事すら困難だったあの頃を思えば……。
「エレナ!! 無事か」
真っ先に駆けつけた男は少女……エレナに駆け寄るとその手を差し伸べる。
エレナは一度男を見上げ黙ってその手を掴むが、男は掴まれた右手から伝わる柔らかなエレナの感触と荒いその息づかいに思わず顔を背けてしまう。
僅かに頬を朱に染め、額から薄っすらと浮かぶ汗が、その吐息と相まって男の欲情を誘う……それ程に今のエレナは姿は男を魅了せずにはおかない艶かしい魅力を漂わせていた。
「ゾルテ、悪かったね、もう大丈夫だ……」
男……ゾルテの自分を見つめる下卑た眼差しに気づいたエレナはその手を離すようやんわりと促すが、いくら待ってもゾルテの手がエレナを離す様子は見られない。
「ゾルテ」
「ああっ……すまん」
再度詰問気味に掛けられたエレナの声にようやく我に返った様に慌ててその手を離すゾルテ。
自分を見つめるゾルテの瞳に宿る情念の炎。
この身体に魂を定着されてから半年……男から向けられるこの種の視線、絡みつく様な不快な感覚には大分慣れてはきていたが、さりとて気持ちの良いモノではない。
此処もそろそろ潮時だな。
と、息を整えながら素知らぬ顔でゾルテから離れるエレナは心の内でそう呟くのだった。
狩った魔物の首を馬の胴に吊るすとエレナたちは街道を東へと馬を走らせる。
近隣に小さな村々は点在してはいたが、報奨金を受け取れるのは協会のある比較的大きな街に限られる為、多少距離があっても協会のある街を目指さねばならなかったのだ。
魔物も死後腐敗が始まる為、あまり時間を掛けていられないという事情もあり、傭兵たちの一団は駆け抜ける様に街道を疾走していた。
そうしてエレナたちが街に到着した頃には日も暮れ夜の帳が下りてはいたが協会はその性質上、夜であっても門戸を開いている。
魔物の首を持って換金に向かった男以外は先に宿を取り、すでに一階の酒場で派手に祝杯をあげていた。
暫くして戻ってきた男が金貨の入った皮袋を仲間たちのテーブルに置くと、男たちの盛り上がりは最高潮を迎える。
テーブルに並べられた金貨は十枚。あの魔物がそれなりの大物であった事を示す額ではあったが三人の犠牲を出し仕留めた成果が金貨十枚。
それが報酬として見合うかどうかは人それぞれなのであろうが、少なくとも男たちはその額に満足したようにお互いに酒を酌み交わし合い大いに騒いでいた。
しかしその輪の中にエレナの姿は無い……エレナは一人で宿屋の二階、自分に宛がわれた部屋で荷造りをしていた……この傭兵団を抜ける為の。
自分という存在が男所帯のこうした集団に長らく留まることの危険性を、この半年もの間、嫌というほど経験させられてきた。
この傭兵団に身を寄せてから二週間、そろそろ此処も潮時だとエレナは感じていた。
それに僅かな希望も見つけたしね。
とエレナはこの街で得た情報と共にこうなった理由……元凶となった魔法士の姿を思い起こしていた。
あの狂人の下を離れてもう半年……余命が残り二年と告げられたあの時から、残された余生は自由に生きようと。
嘗ての自分は、ビエナート王国の騎士アインス・ベルトナーは、魔女カテリーナと相打ちその命を散らした……その最後は騎士として使命を果たした立派な最後であった筈だ。
ならば悔いなど在ろうはずは無い。
あの狂人の気まぐれでこの人形に魂を定着された今、今更それを嘆いたところで詮無き事……ならば魔女の呪いにより本当の肉体が消滅するまでの僅かな余生を思うままに生きようと誓ったのだ。
魔法人形などと……しかも女の、少女の移し身などあの狂人の趣味や嗜好には一言いってやりたい気持ちがないではないが、例え短い時間であれもう一度この目で、この瞳で大陸を自由に旅することが出来るならばそれはもう仕方が無い。
アインス・ベルトナーは残りの人生をエレナ・ロゼとして生きることを既に受け入れていた。
夜も大分ふけ、下の喧騒も静まった事を確認するとエレナは纏めた僅かな荷物を肩に背負う。
逃げ出すようで心苦しい気持ちはあるが、今日の取り分を手切れ金代わりだと思えば多少胸のつかえも下りるというものだ。
エレナは部屋を出ようと扉に近づくが階段を上ってくる複数の気配を感じその手を止める。
初めは酔っ払った連中が部屋に戻るのかと思い様子を伺っていたエレナであったが、どうもそうではないと気づく。息を殺して近づいて来るその気配は明らかに別の意図を感じさせていた。
エレナは扉に鍵を掛け、素早く部屋のテーブルに置かれたランプの炎を消すと暗闇に包まれた部屋の隅で身構える。
やがてゆっくりとエレナの部屋の扉が開かれる……鍵を掛けた筈の扉が、だ。
「結局こうなるのか……」
エレナはうんざりした様に小さく吐息を吐く。
姿見は少女ではあるが男性としての意識自体が変化した訳ではないエレナには男たちのそうした気持ちが全く理解出来ぬ訳ではない。
だが毎度毎度こうした騒ぎになることに心底うんざりしていたのも事実であった。
開かれた扉から三人の男たちがエレナの部屋に息を殺し、音を立てず侵入してくる……エレナは三人が完全に部屋に入ったのを見計らうと再びランプに火を灯す。
ランプの明かりが部屋中を照らし出し、突然点いた明かりに男たちは驚き僅かに身を竦めた。
「こんな夜更けに一体何の用かな、ゾルテ」
「これは……いや……」
予自分を見つめるエレナを前に、期せぬ展開に、動揺を隠せずしどろもどろになるゾルテ。
「それにその縄で何をするつもりだったんだ」
男の一人が慌てて後ろ手に隠したそれをエレナは見逃さなかった。
「もういい犯っちまおう、こういう生意気な女は一度犯っちまえば従順になるってもんだ」
情欲に狂った眼差しをエレナに向けるもう一人の男が腰から短刀を引き抜くと二人に叫ぶ。
「大人しくこのまま帰るなら今日のことは誰にも言うつもりは無いよ、だがそれ以上近づくなら……殺す」
エレナは男たちを睨みつけたまま腰の剣に手を掛ける。
「勇ましいねエレナ嬢ちゃん、だがよこの狭い部屋でその長剣は些か不利なんじゃねえか、一人殺っても二人残る計算になるわな、俺はお前を犯れるなら命を賭ける覚悟くらいあるんだぜ」
男はエレナの肢体を舐め回すようにみやり、ゴクリと生唾を飲む。
男の勢いに飲まれたようにゾルテともう一人の男も縄を構えている。
「そうか……残念だよ」
男たちが飛びかかろうとした瞬間、エレナはランプの炎を吹き消す。
突然暗闇に包まれゾルテたちの足が一瞬止まる。
刹那、白刃が縄を持つ男の首筋を凪ぎ、血飛沫を上げながら倒れる男を避けるようにエレナは身を捻ると流れる様に腰の長剣を逆手に掴みそのまま切り上げる。
その剣閃は瞬時にゾルテの隣に立つ男の胴を切り裂いていた。
声すら上げる暇すら与えられず絶命し崩れを落ちる二人の男の姿を前に慌てたゾルテが身を引く。
だが暗闇に慣れたゾルテの瞳に迫る白刃が月光に反射し主の顔を一瞬映し出す。
月光に映し出されたエレナの幻想的なまでに美しい顔にゾルテは恐怖すら忘れ見惚れてしまう。
「エレナ……俺は本気で……」
それがゾルテの最後の言葉になった。
血だまりに倒れ絶命する三人を悲しげに見つめるエレナ。
時を置かずざわざわと辺りが騒がしくなって来る。
深夜にこれだけ騒げば無理も無い……こちらに否がある訳ではないができれば面倒は避けたかったエレナは窓を開け、荷物を外に放り投げると自身も二階の窓から迷わず身を投げ出す。
大した高さではなかったが着地の時にズキリと鈍い痛みが右足に奔りエレナは眉を顰めるが今はそれを気にしていられる状況ではない。
エレナは右足を引きずりながら宿屋の裏庭にある馬小屋へと向かうと傭兵団の馬へと跨り勢いよく馬を走らせ街を後にする。
夜間の街道を走るなど自殺行為に近いが、幸い次の街まではそう距離は離れていない……この街に留まれぬ以上エレナには他に選択肢は残されてはいなかった。
刃傷沙汰とは言え今回の事が騒動になることは恐らく無いだろう……鍵が外側から開いたことを考えてもこの一件が宿ぐるみなのは間違いない。
事を大きくして困るのはむしろ宿側なのだから……まして傭兵団の内輪揉めなら尚の事、内々に処理される可能性が高い。
罪人として追っ手が掛かることはないだろうが、傭兵団の連中がどう転ぶか分からぬ以上、街に残るのは危険であった。
最善の選択を選ぼうとして一歩遅かった……もう何度となく繰り返されて来たこの旅路の苦い思い出がまた一つエレナの心に刻まれる事となった。
▼▼▼▼
賑わう酒場の片隅に座りひっそりと食事を取る少女の姿がある。
だがその存在は明らかに周囲から浮いており、露骨に振り返り凝視するような無粋な輩は流石にいなかったが、周囲のテーブルの男たちはちらちらとその少女を盗み見ている。
その少女、エレナはそうした男たちの視線を無視して黙々と並べられた料理を口に運んでいく。
こうした光景にももう随分慣れてきた……変に意識すると余計に人目を惹く事になり返って状況を悪くすることになる。
これまでの経験でその事は既に学習済みである。
だがせめて少年でもいい、この身体が男のものであったのなら、そもそもこんな気苦労などする必要すらなかったのだが……と今更ながらそんな思いに駆られるエレナ。
エレナは此処にきてアインス・ベルトナーとして生きて来た二十七年間で積み重ねてきた価値観が、僅か半年と満たないエレナ・ロゼとしての人生に侵食されていく様な漠然とした戸惑いと不安を抱いていた。
――――まぁせいぜい、頑張って生きてみなさいな。
「気軽に言ってくれたもんだよな」
恩人というには些か無責任過ぎるもう一人の魔女の姿にエレナは悪態をつくのであった。
「お嬢ちゃん、一人旅なのかい?」
不意に掛けられた声に思わず顔を上げるエレナ。
其処には酒場の女将なのだろうか中年の女性が立っていた。
「ええっ……と、あ……はい、そうです」
と、咄嗟に言葉を選ぶエレナ。
傭兵たちのような荒くれ者の集団の中にいるのなら兎も角、そうでない普通の場で地の自分を出すのは今の容姿と相まって相手に違和感しか与え無い事はとうに理解している。
「そうかい、そうかい、まだ若いのに苦労してるんだねぇ……」
不憫そうにエレナを見る女将。
彼女の中では既に可哀想なエレナの物語が出来上がっているのだろう。
例えは悪いが、可愛い捨て猫を見るようなそんな眼差しでエレナを見つめている。
「女将さん、お聞きしたいことがあるんですけど」
「なんだい、なんでも聞いておくれ」
そういうと酒場の女将はエレナの向かいの席に腰を下ろしていた。
生来話好きの女将なのだろう、しかしエレナには好都合である。
こうした酒場の主人は職業柄多くの話を聞く機会に恵まれている……故に総じて情報通なのだ。
エレナは実は、と空いた皿を隅に押しやるとテーブルに地図を広げる。
「オーランド王国の王都に向かいたいのですが、最短の経路を知りたいんです」
ビエナート王国の騎士であったアインスにはその領内以外の地理には疎かった。
今いる南部域のこの地方だけではない……オーランド王国に関しても北の地にある大国といった漠然とした位置しか把握していなかったのだ。
「オーランド王国ねぇ……また随分と遠い場所を……」
女将はエレナの言葉に目を丸くする。
オーランド王国といえばここから遥か北の地にある北部域の大国……こんな華奢な少女がそんな長旅に耐えられるとはとても思えなかった。
改めてエレナを見る女将。
女の自分からみても見惚れてしまうほどの美しい少女……何処かの貴族の御烙印なのだろうか、きっと大変な思いをしてここまで来たのだろう、そう思うと知らず女将の瞳にじわりと涙が滲む。
「あの……」
「ああ、済まないね、オーランド王国だったね、陸路だと時間も掛かるし危険も多いからやっぱり海路を使うのがいいだろうねぇ」
女将はテーブルに置かれた地図に指を這わせなぞるように北に動かすと、上に描かれていた街でその指が止まる。
「このベナンの街からオーランド王国に行く船に上手く乗れれば、一週間程度で領内には入れるはずだよ」
「有難う御座います、女将さん」
礼をいうエレナをじっと見つめていた女将であったが、意を決したように口を開く。
「なぁお嬢ちゃん、お嬢ちゃんがよければここで働いてみないかい、大した給金は出せないけど、あんた一人くらい面倒を見る甲斐性はあるつもりだよ」
「女将さん……」
「初め会ったお嬢ちゃんにこんなこと言って可笑しな女と思うかも知れないけどさ、あの災厄で旦那を亡くしちまって、子供に恵まれなかったあたしは天涯孤独の身でね、お嬢ちゃんにも色々事情があるんだろうけど、どうだろう暫くの間あたしの元で働いてみて、それで……よければあたしの家族になっちゃくれないかい?」
熱心に語りかける女将の瞳は真剣だった……言葉を偽っているとはとても思えない。
この旅で初めて自分のことを本気で心配してくれる女将の存在に、エレナの胸に暖かな何かが溢れる。
「有難う女将さん……でもごめんなさい、私はどうしてもオーランド王国に行かなくてはならないの、其処に私にとって大切な何かがあるかも知れないから」
女将を傷つけないよう言葉を捜すが上手く思いつかずついて出た言葉はエレナの心からの思いであった。
「変なこと言っちまって済まないね、でも今日は泊まってっておくれよ。宿代はいらないからさ」
心底残念そうに女将は言った。
簡単に諦める程女将の気持ちは軽いものではなかったが、この少女にどうして無理強いなど出来ようか……。
少女が何か強い思いを抱いて旅をしている事はその言葉や表情から十分女将に伝わってきていた。
その日エレナはその酒場の二階にある客間で一晩を過ごす。
夜早めに営業を切り上げた女将が部屋にやってくると夜遅くまで二人で語らったその団欒は、エレナにとって暫く忘れていた穏やかに時が過ぎていく暖かな時間であった。
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