197話


 ゆっくりと……だが確実に自分の脇を通り過ぎて行く少女をフェルネンは視線だけで追って行く……しかし最早フェルネンはその場から立ち上がる事すら出来ずにいた……体力が尽きた訳でも、まして戦意を失った訳でもない……にも関わらず思うままに動かぬ己の身体に、その異変の原因に、フェルネン自身既に気づいている。


 大量の汗を吐き出し熱を帯びているというのに、まるで極寒の地にでも居るかの如く全身に奔る寒気と震え……この変調を齎したモノがエレナ・ロゼという少女に対する怖気……生物である以上、抗う事が出来ぬ根源的な死に対する恐怖であるのだと。


 だがそれでも――――。


 エレナの数歩後ろを歩くアニエスは、その背に男が立ち上がる気配を感じ驚きと共にゆっくりと振り返る。


 膝を揺らしながらも、全ての体重を己の長剣に乗せて立っているフェルネンの額から流れ落ちる汗は既に冷や汗とも脂汗ともつかぬモノへと変化を遂げ……その姿はお世辞にも凛々しいなどとは決して云えぬモノへと成り下がっている……だがアニエスはそれでも自分の肩越しにエレナの背を睨み視線を逸らさぬフェルネンの姿を無様だとは思わない。


 男と女……性別や身姿を越えて両者にはそれぞれ埋められぬ明確な差が存在している。


 男が子を産めぬように、女も生まれ持った身体的な能力は総じて男に劣る。


 骨格からして異なる両者の身体的特徴ゆえに身長や体格……それに伴う体重差から齎される運動能力の違いは歴然として両者の間には存在し……ましてエレナはその女性の中でも小柄で細身……恵まれた体躯を持つフェルネンが、それに奢る事無く鍛錬を重ねて来た者が、相対したエレナに抱く思いは、資質や才能に寄らぬエレナの技術を目の当たりにした者が抱かずにはおれぬ思いをアニエスは理解が出来る。


 まして今のエレナから漂う気配はアニエスですら寒気を覚えるほどに冷たく鋭利なモノ……にも関わらず男を再び立ち上がらせたモノ……それにこそアニエスは其処に男の騎士としての矜持を見る。


 騎士にとって死は絶対の恐怖ではない……真に恐ろしいのは意地を……誇りを失うことであると、騎士ではないアニエスが、だが最高の騎士の背に焦がれた者だからこそ、それが理解出来た。


 立ち上がる男の気配と共にアニエスは身を横に引き、エレナとフェルネンの間には阻む者無き一線の距離が開かれ……エレナは背後で動き出すフェルネンの気配を前に、その右手がゆっくりとアル・カラミスの柄へと伸びる。


 「もう良い、下がれ」


 静寂に満ちた空間を裂くように響き渡るオルフェスの声にエレナの右手は動きを止め、フェルネンもまた雷鳴に打たれたが如く、再びその場で片膝を付き恭順の意思を示す。


 エレナとオルフェルの間には最早道を阻む者の姿は無く、エレナはエルマリュートを鞘へと収めると再びその歩みを進める。


 オルフェスの眼前へと近づくエレナの姿に王国の従騎士たちは一様に緊張した面差しを浮かべはするが、フェルネンの様に制止する者の姿は見られない……だがそれはエレナに気圧されたからでは無く、主の……オルフェスの意向を汲み取っていたからに過ぎない。


 オルフェスの号令があれば一命を賭して挑む、と物言わずとも表情が語り、従騎士たちの覚悟のほどは滲み出る気配からも容易に窺う事が出来た。


 エレナはオルフェスから距離を取り膝を付いて礼を示す……それはエレナの剣戟の間合いの外……敢えてエレナは一刀の間合いを外し膝を折る。


 「エレナと言ったか小娘よ、申して見よ」


 自分を見下ろすオルフェスの姿にエレナは一度深く頭を下げ、


 「感謝致します」


 と、一言それだけを述べる。


 次の言葉が紡がれるまでの僅かな沈黙……地に向け伏したエレナの表情を窺う事は出来ずとも、その僅かな間こそがエレナの苦悩と葛藤の現れであると、彼女を良く知る者たちならば或いは気づけたであろうか。


 「王国の治世に叛きし評議会なる集団への御裁き……真に正道、私如きが愚言を呈す余地など何処にも御座いません」


 頭を下げたまま淡々と語られたエレナの言葉に、少なくともその声の届く周囲の青銅騎士たちや評議会の者たちから動揺を秘めたざわめきが起きる。


 その周囲に様子にアニエスは冷やかな眼差しを送る。


 彼らがエレナ・ロゼと云う少女に何を期待していたのかなど手に取るように分かる……だが元を正せばエレナからの申し出を蹴ったのは評議会側の方……それを今更、袂を別った者に救いを求めようなどと勝手な……身勝手な話……アニエスからして見れば彼らがエレナに何を期待していたとて、エレナがそれに応えなければならぬ謂れも道理もありはしない。


 「ですが閣下……この地に住まう者たちは王国の臣民たちで御座います……三日と云う猶予ではこの地を離れられぬ者たちも多く御座います……まだ年端もゆかぬ子供、年老いた老人たちを始め、生活に困窮している者たちでは海路を渡る事すらままなりません……」


 長い黒髪が大地に流れ、額が地に着かんばかりに深く、深くエレナはオルフェスへと頭を下げる。


 「関わり無き……罪無き民たちに寛大な処置を……閣下の……陛下のお慈悲を賜りますように、どうか……どうか伏してお願い申し上げます」


 流れる沈黙。


 エレナを見つめる従騎士たちの眼差しには変わらぬ緊張の色がある……だが同時にその表情にはどれも理解し難いモノを見る恐怖と不安……そして憧憬にも似た複雑なモノが浮かんでいる。


 従騎士たちには少女の真摯な訴えに偽りや虚言があるとはどうしても思えなかった……だからこそ理解が追いつかない。


 この反乱に与する者でないのならば何故此処までこの街の人間に肩入れするのか……関わり薄き者たちの為に己の命すら危険に晒してまでこの様な無謀な陳情にまで及んだのかが従騎士たちには分からない。


 「そなたの言う通り、この国土に住まう全ての者たちは須らく我が国の臣民である……だがそれゆえに、そうであるがゆえに、遍くこの地に住む者たちに関わり無き者など存在せぬ」


 怒号ではなく、諭すでもなく、重々しいオルフェスの言葉だけが大気を揺らし響く。


 「王国の庇護の下、安全を担保され暮らす者たちは大恩ある王国に、陛下に対し果たさねばならぬ責務があろう……ならば反乱の徒が居座るこの街に我が身可愛さで留まる者など我が国の民に非ず……真に忠節を知る臣民であるならば例え四肢に欠損があろうとも這ってでも街を出よ、例えその過程において魔物により命を失おうと、その尊き行いこそが王国に対する、陛下に対する忠義の証となろう」


 オルフェスの言葉にエレナの小さな両肩が小刻みに震える……表情が窺えぬ今のエレナの姿からでは見ように寄れば感涙に咽ている、と捉えられなくもない……だが――――。


 「三日と云う猶予はこの街に滞在している他国の者たちや商人たちの為のモノ、それすら理解出来ていない様では話にもならぬ」


 エレナの下げていた頭がゆっくりと上がり……膝を付いたままオルフェスを見上げるその眼差しには感涙の涙など無い……黒き瞳に宿るのは怒り……燃え盛る様な赤き焔を宿した黒き瞳が真っ直ぐにオルフェスを見据える。


 襲われる過去視……エレナはオルフェスを介し過去の情景を見る。



 


 「閣下……ベルトナー卿、投降してきた女、子供らの処遇はいかがなされますか」


 自分に傅く騎士の姿……燃え盛る街並み……建物という建物からは黒煙が上がり空を漆黒に染め上げている。


 ――――良いなアインス、男共は全て粛清せよ、年寄りも要らぬ……だが若い女と子供だけは王都へと連行せよ。


 ――――言語を介すだけの獣とは云え、家畜としての価値くらいはありますからな。


 ――――使えなくなれば処分してしまえば良い、下賎の出の従騎士たちに払い下げるには丁度良い。


 ――――蛮族共の騒ぎが続き国庫も苦しいですしな、俸給は現物支給という事で。


 男たちの下非た声が脳裏に木霊しアインスは表情を歪める。


 「陛下に……我が王国に仇なす蛮族共は女、子供であろうと守るべき臣民に非ず……残らずこの場に頭を並べさせよ」


 「閣下……それでは重鎮方の御意向に背く事に……」


 「構わん、全ての……一切の責任は俺が負う」


 騎士は一度息を飲み込むがアインスの決意が変わらぬのを察したのだろう、黙って一礼を返し走り去っていく。


 希望無き未来の先にあるのは無限の地獄……ならば責めてこの手で……。


 


 「エレナ!!」


 鋭く響き渡るアニエスの声がエレナを現実へと引き戻す――――フルブライトの魔法の効果ゆえか、例え鮮烈な過去視であっても何かの切欠さえあれば現実を認識出来るほどにエレナの病状は回復を見ていた。


 「人は生まれを選べない……だからこそ誰もが自由を欲し、寄り良く生きたいと渇望する」


 立ち上がるエレナの眼差しがオルフェスから逸らされる事はない。


 「だがそれでも……それでも選べぬ環境が……押し付けられた思想が……心を縛り……身体を縛りつけ、選べぬ選択の中で必死に生きねばならない者たちが居る……誰もが好んで争いを起こす訳ではない……誰もが好んで貧しい訳ではない……彼らの嘆きを、悲しみを、痛みを、怒りを、憎しみを、汲み取れずして何が国だ……何が王道だ」


 エレナの叫びはオルフェスに……いや、嘗ての己に向けられていたモノであったのかも知れない――――だがオルフェスはそれを笑止、と一刀で断じる。


 「人が集い国を為す……ならば其処に秩序や法が生まれるのは必然、そして遍く大陸でこれ程までに王制が栄えるのは誰もが強き指導者を求めるがゆえ、王と云う導き手に寄り繁栄が齎された国にあって弾かれた少数が淘汰されていくなど世の必定……それでも尚、自由を掲げ謳うのならば伴う対価を、犠牲を払え、それとも貴様らが求める自由とは只救われたいと願うだけの……それ程に軽きモノなのか」


 「救われたいと願って何が悪い……求める犠牲の先に……小さな願いを踏み躙り続けて辿り着いた世界こそが戦乱の世の果てに魔物を生み出した今と云う未来なのではないのか……ならばこそ人は変わって往かねばならない……例えどれ程その歩みが遅かろうと、私は人間の可能性の先にこそ未来が在ると信じている」


 エレナの偽らざる心情の吐露に、怒りと悲しが入り混じる魂の叫びに、青銅騎士たちは、評議会の者たちは言葉すら忘れた様にエレナの姿を見つめ、一人、クラウディアの瞳からは大粒の涙が零れて落ちる。


 やはり間違いなどでは無かった……と、


 託して往くべき存在を確信したクラウディアの胸に熱い思いが溢れ、流れる涙が地を濡らす。


 「欺瞞だと、愚者の妄言だと笑いたくば笑え、だが幾度踏みにじられようと、何度絶望の淵に落とされようと抱き続けてこその夢、望み続けてこその理想……流された血の……数え切れぬ過ちの果てで夢見た未来……だからこそ……なればこそ、この想いだけは最後まで貫き通す」


 それは誓い……それは宣言……エレナがこれまで胸に秘めていた……激しいまでの感情の吐露であった。


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