194話


 シャリアテには都市整備の一環としてその規模は場所や環境に合わせて様々あれど、旅人や商人たち、そして住民たちの足を休める、または憩いの場として多くの広場が各区画に点在していた。


 商業区画、ガラート商会から幾つか通りを跨いだ先にある小さな広場に、他に人の姿など見られない早朝の朝焼けの日の光を浴びながら、少女は備えられていた長椅子に一人座り空を見つめていた。

 いや……広場全体を良く見渡せば少女が一人、という表現は不適切であっただろうか、少女が座る長椅子からは大分離れた広場の入口、開け放たれていた門扉に背を預け佇む長身の女性の姿が見える。


 美しい長い黒髪を紅く、紅く輝かせ、黒い瞳に朱色を映す可憐な少女の姿は物語の……神話の中にしか登場する事など無い、この世の者ならざらるモノの存在を信じさせるほどに魅惑的で幻想的な美しき姿が其処にはあった。


 自身の背中、後背から近づく人の気配に少女、エレナは見上げていた頭をゆっくりと下げると上体だけを傾け振り返る。


 エレナ自身、広場へと近づく人の気配には気づいてはいたし、また入口に居るアニエスが黙って通す相手ともなれば大凡誰が来たのかは視線を向けずとも察する事は出来た。


 振り返った視界の先、瞳に映る予想通りの人物の姿にエレナは微笑みを浮かべ迎える。




 「随分と察しが良いじゃないか」


 と、自分に屈託の無い笑みを向けるエレナの可憐な姿にレイリオは胸の高鳴りを覚える。


 もう数年来の付き合いとなる少女を前にして、今だ出逢った頃と変わらぬ感覚を呼び起こされる事に、慣れるという事の無い気持ちの高ぶりにレイリオは思わず苦笑してしまう。


 ぽんぽん、とエレナの手が自身の座る長椅子の隣を叩き……肌が触れるほどのその近しい距離に、間違いなく無自覚であろうエレナの変わらぬ異性に対する頓着の無さにレイリオは懐かしそうに目を細める。


 美しく可憐なエレナ……尊き薔薇『エレナ・ロゼ』――――カテリーナ・エレアノールの若き日の写し身。


 エレナと出会う前の……いや、エレナから話を聞かされる前の自分であったなら果たしてフルブライトから語られた話を何処まで信じられたであろうか、とレイリオは自問せずにはいられない。

 だが話を聞かされて尚、自分の中でエレナへの想いが何らの揺らぎも変化もありはしない以上、答えなど最初から出ている……例えその身が仮初めであろうとも、過去がどうあろうとも、今のありのままの彼女を愛しているレイリオにとってはその想いだけで己を納得させるに十分であった。


 エレナに誘われるままにその隣へと腰を下ろしたレイリオの鼻腔に涼やかに流れる風に運ばれてエレナの黒髪から漂う甘い花の香りが届き、妙な気恥ずかしさを覚えレイリオはそっと瞳を伏せる。


 「エレナは以前僕に言ったね……自分はこれまで誰かを焦がれるほど愛した経験が無い、と……男としての自覚と共にその事が僕に友人以上の感情を持つ事が出来ない理由だと」


 「さては爺さんに何か言われたんだろう? らしくないよレイリオ」


 こんな朝早くから自分を探しに出たのであろう事と併せ、突然妙な事を言い出すレイリオにエレナは違和感を覚え、同時に察しの良い処を見せるが、無言のまま自分を見つめるレイリオの真摯な姿にそれ以上の疑問を口に出せなくなり……暫し逡巡するエレナではあったがやがて肯定する様に小さく頷く。


 「正直羨ましいと思う時があるよ……純粋な愛情……異性を……誰かを其処まで想える事はきっと素晴らしい事だろうから……」


 エレナの憂いを帯びた瞳には偽りの影など微塵も見られない……そんなエレナの姿にレイリオはまだ見ぬカテリーナに対して嫉妬と共に複雑な感情を抱きはすれど……恋敵と呼ぶには余りに遠く……姿見だけに囚われた感情などではないと自覚はしていても目の前のエレナの……少女の姿こそがそのカテリーナ本人の写し身ともなればレイリオとしては感情の持って行き場に窮してしまう。


 だがそんな自分の葛藤にやがてレイリオの口元は緩み……声に出して笑い出す。


 自分の言葉を笑われたと感じたエレナは一瞬むっ、とした年頃の少女らしい表情を見せるが、心から笑っている様子のレイリオにやがて呆れた眼差しを送る。


 「エレナ……僕は君の子が欲しい……二人……いや三人、元気な男の子が良いな……勿論女の子でも構わない、でも君に似た女の子だと僕は父親として心労で倒れてしまうかも知れない」


 屈託無く笑うレイリオの姿に変わらず呆れた眼差しを送っていたエレナではあったが、友人が偽らざる本心で未来を夢見る姿に、徐々にエレナの表情からも険が取れゆき、最後には肯定の言葉こそ発せぬものの眩しそうに表情を緩ませる。


 「生まれた子供たち……僕たちの子は僕とエレナと大切な友人たち……僕らの家族で育てよう……そして子供たちが独り立ちしたのならまた二人で旅をしよう……君の望む場所に何処だろうと構わないよ」


 それは幻想にも似た夢物語……だがエレナは一瞬真摯な表情を見せ、ぽつりと呟く。


 「もし……もし叶うのなら外海に出て見たい……でも仮に十年……二十年……私が生きられたとしても、歳すら経ることが叶わない化け物かも知れないよ?」


 「自分の妻がいつまでも若く美しい姿を保つ女性だなんてまさに男の夢じゃないか、君に愛想をつかされぬ様に僕の方が努力しなくてはね」


 真剣に悩んで出した答えであろう事が窺えるレイリオの姿を前に、らしくなく真剣に悩むレイリオの姿に、今度はエレナが楽しそうに咲き誇る花の様な笑顔で笑う。


 「有難う……君に出逢えて良かった……私は幸せ者だ……私にとっても君は掛け替えのない人だよ」


 顔を背け徐に立ち上がったエレナの表情はレイリオからは窺う事は出来ない……だが直ぐに恋愛感情はないからね、勘違いしないように、と悪戯っぽい表情で自分へ手を差し伸べるエレナにレイリオは僅かな落胆と共にらしいその姿に安堵もまた覚えていた。


 「エレナ……二度とは聞かない、だから答えて欲しい」


 エレナの手を取り長椅子から立ち上がったレイリオは今この時、この場でしか問えぬだろう言葉を口にする。


 「神話で語られる箱舟の伝承を……君はどう思う?」


 此処までの話の流れとは掛け離れた、余りにも脈絡のないレイリオの問い――――しかしエレナは困惑する事も逡巡する事すらなくその口が開かれる。


 「選ばれた者たちの手で創造される新世界……例えそれがどれほど輝かしい理想郷だとしても多くの人々の犠牲と悲しみの上に成り立つそんな世界を私は容認する事など出来ない……神話から読み解かれる通り、人間が愚かしい生き物で、その未来には破滅しか待ち受けていないとしても、人の想いは理を……定めすらも越えられると私は信じているよ」


 グレゴリウス・グランデル……そしてクラウディア・メイズ。


 行き着く先を、求める理想の先を同じくする彼らと袂を分かつのは、辿り着く事にのみ執着する彼らの性急過ぎる在り様ゆえである。


 時の治世、権力の全てを否定する彼らとは異なり、エレナは功罪を含め長き大陸の歴史の中で確立されて来た王制と言う制度自体に否など無い。


 彼らが求める自由と平等、格差無き貧富無き平和な世界とは、共生……或いは共産思想と呼ぶべきソレは突き詰めれば究極の理想論である。


 無償の奉仕も続ける事でやがては義務となる様に、進む方向を違えれば個人としての個性や尊厳すらも排される危険思想へと為り果てる。


 己を含め人間とは今だ未成熟な生き物。


 ゆえにこそ強制などあってはならない、と。


 ゆえにこそ断じて押し付けて良い理想などではないのだ。


 エレナの遣り方ではグレゴリウスの言う様にそれは幾百年、幾千年掛かろうと覚束ない遥かなる道の先、或いは本当に只の絵空事で終わるのかも知れない。


 しかし人が歩みを止めなければ、それが例え亀の如き緩やかな歩みであったとしても、求め、願うのその意思こそが、何よりも尊いのだとエレナは信じている。


 結果では無く過程に、明日では無く今を強く想い願うエレナだからこそ、貧者の刃を振り翳し、多様性を排してまでも思想信条を一色に染め上げようとする彼らの遣り様に賛同など、まして協力など出来よう筈も無い。


 フルブライトからレイリオが何を聞かされたのか、それ自体についてエレナは詮索する気も無かったが、同様に箱舟の神話を用いて何かを測ろうとする意図が其処に在るのなら、偽らざる本心を語る事に、エレナにはそれを憚るべき理由など一つとして無い。


 迷いなどないエレナの言葉……それを聞いた瞬間レイリオの中にあった疑念は全て払われる。


 自分はアインス・ベルトナーを知らない……だからこそ彼が何を想い、何を為そうとしたのかなど真実において分かろう筈などないのだ……だが今この手に暖かな温もりを残す少女の名はエレナ――――エレナ・ロゼ。


 彼女の生き様をこの目に焼き付けてきた自分が、彼女のありのままの姿に惹かれ愛した少女を疑う事の無意味さを、レイリオは己の愚かさを笑う。


 「さあそろそろ戻ろう、こんな朝早くから部屋を抜け出した事が知れたらまた爺さんの説教が始まる……年寄りの小言は長いからね」


 苦笑気味に小さな肩を竦め、自分の手を引いたままアニエスの下へと歩き出すエレナに、レイリオもまた歩調を合わせるが、そういう気など無い事は分かってはいても意識する事無く男の手を取るエレナの姿に、男心も少しは学んで欲しいと思わなくは無いレイリオであった。

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