181話
グランデル邸の広い庭園には手入れに勤しむ幾人もの庭師たちの姿が見られ、同様に客室や応接間を始め十数室はあろう邸内には、片付けや掃除と言った雑務に精を出し働く多くの侍女たちの姿がある。
敷地内に建てられているこれら使用人たちが住み込みで暮らす別邸は実に二棟も存在し、数十人という人間がグランデル家の家人として日々生活していた。
上位貴族である子爵家が多くの使用人を抱える慣習は権威と家名を他に誇る示威行為として貴族社会の中では当然とされる一般的な常識……特にそれ自体には特異な事や目を惹く様な事もない。
ゆえにグランデル家を取り巻く一部の者たちが囁く嘲笑や心無い噂の元と成っている要因は別にあり、その原因は他と大きく異なる家人たちの出自にある。
家の格式を何よりも尊ぶ上位貴族たちの屋敷に奉公に上がれる者たちは本来限られている……長らく仕える執事や家令の親類縁者たち、または付き合いの深い商人の紹介を受けた者、或いは家門の従騎士たちの中でも経済的な理由などで婚姻の目処が立たぬ令嬢たちなど、その事情は様々あれど一定の身分が担保されている者たち、という点では共通している。
それらより下の者たちは卑しい下賎の者たち。
それが彼ら貴族たちが己の邸宅で働かせる為の最低限の条件……家名を汚さぬ程度の身分の者たち、という認識であったからだ。
此処グランデル子爵家に働く者たちはほぼ全てそれら貴族たちの条件を満たせぬ者……卑しき者として蔑みの対象とされている者たちであった。
グレゴリウスの妻、マリッサ・グランデルが組合や孤児院を通じて雇った彼らの大半が貧民街の出身者たちであり、その年齢層も下は十代前半のまだ子供たちから上は六十を越えた老婆など幅広い。
その多くは戦災孤児であったり、何らかの理由で満足に働けぬ、体力を必要とする重労働が出来ぬ障害を持つ者や年老いた女性たち、と他者の助力を必要とする者たちであった事から、組合関係者たちの間ではマリッサは慈善家として広く知られる存在となっている。
だが同時に、見受けと言えば聞こえは良いが安い金で拾った弱者を屋敷に囲い、夜な夜な虐待を楽しむ人格破綻者、などという何ら根拠すら希薄な噂も流れてもいたが、汗を流し真面目に働く彼らの活き活きとした表情を見ればその答えなど語るまでも無い事ではあった。
そんなグランデル家の屋敷の一室、普段から食事の席として使われている広間にグランデル子爵夫婦の姿がある。
しかし何時もなら身の回りの世話をする侍女たちの姿はこの日は見られず、広い広間には二人だけという、夫婦水入らずにしても、何処かそれは些か寂げな光景ではあった。
「幾らわしでもこの量は流石に食いきれんぞ……」
次々とお手製の料理をテーブルへと運んでくるマリッサの嬉々とした姿をグレゴリウスは情けなさそうな表情を浮かべ、ちらちら、と盗み見る。
こうして不定期ながら週に何度かは二人だけでマリッサの手料理を食べながら昼を共に過ごす事が夫婦の暗黙の約束事になってはいたが、それにしても今日用意されている量は多過ぎた。
「あの子は今日は来ないのですか?」
最後の皿をテーブルに置いたマリッサがグレゴリウスの向かいの席に着く。
呆れた声で囁かれたグレゴリウスの呟きが耳に届いていたのか、マリッサは右手を口元に当てて驚いた素振りを見せている。
「まあ……確かに此処連日屋敷に招いておったのはわしだがな、しかしあれも主命を帯びてこの地に赴いた騎士、そうそう毎日顔は出せまいよ」
赴任の挨拶でこの屋敷を訪れたクロイルを気に入ったグレゴリウスは時間があれば顔を見せに来い、と帰り際そう声を掛けたのだが……グレゴリウスとしては気軽に遊びに来い、という意味合いの言葉をクロイルは別の意味に取ったらしく律儀に連日屋敷を訪れていたのだ。
しかし城勤めのグレゴリウスが常に屋敷に居る筈もなく、時間を定めた面会という訳ではないクロイルとグレゴリウスはすれ違いも多く、結果としてこの屋敷でマリッサとクロイルが昼を共にするという妙な関係が出来上がっていた。
しょんぼりと肩を落とす妻の姿にグレゴリウスは、ごほん、と一つ大きく咳をすると、猛烈な勢いで目の前の皿を平らげていく。
「今日は腹が減っていてな、城に戻る前に完全に空腹を満たしておくとしよう」
などと言いながらさながら熊の如く次々と料理を片付けていく夫の姿に、最初は呆れた表情を見せていたマリッサはやがて、くすくす、と小さく笑い出す。
四十を越えた大人だというのにまるで子供の様な姿を見せる夫に、自分を気に掛けるその優しさが嬉しく、マリッサの頬が自然に緩む。
「そうだ……確か人を探していると言っていたな」
探し人の名は聞かなかったが腕が立ち、そして借りのあるその傭兵を今回の遠征軍に参加させたいと自分に語っていた事を思い出す。
派兵を明日に控え最早準備は間に合わぬとしても、多少危険にはなるが後追いでも構わぬであろうし、その辺りの話は付けておいてやろうとグレゴリウスは考えていた。
「想い人と再会できれば良いのだけれど」
何気なく呟かれたマリッサの予想外の言葉にグレゴリウスは思わず口の中身を吹き出しそうになる。
「なっ……なんだと!!」
「まあまあ……貴方は気づかなかったのですか……本当に朴念仁ですわね」
クロイルの探し人が女……妻の衝撃の告白にグレゴリウスは暫し固まり……次の瞬間には広間に楽しげなグレゴリウスの豪快な笑い声が響き渡る。
「そうかそうか……いやいや、やはりそうでなくてはな、折角男と生まれたのだ、年頃の男が女の尻を追い掛けなくてどうする、愉快愉快、実に愉快な話だ」
将来有望な若者が生真面目に枠に嵌り小さく育ってしまう程馬鹿馬鹿しい話は無い……未来を……明日を担う若者たちは多少型破りな程度で丁度良い。
クロイルに少なからず期待を寄せていたグレゴリウスはその事が本当に嬉しく楽しそうにまた笑う。
そんな夫の姿にマリッサも釣られた様に笑い出し、暫しの間夫婦の楽しげな笑い声が絶える事なく広間に木霊していた。
げふっ、と呻きグレゴリウスは腹を押さえる。
テーブルの上、クロイルの分まで用意されていた全ての皿は空になっている。
「これで明日まで何も食べずとも良さそうだ……」
と、苦しげな声で呻くグレゴリウスにマリッサはお粗末様でした、と微笑み返す。
食事を終えた後も皿を下げる時間すら惜しむ様にマリッサは中庭に植えた花の種の話を楽しげにグレゴリウスに語って聞かせ、グレゴリウスは黙って目を閉じてマリッサの話を聞いている。
それは二十年以上もの間連れ添った二人にとって当たり前の日常……だが掛け替えのない時間。
そんな穏やかで優しい時間が過ぎ去って往き、
「さて、そろそろ戻らねばな」
と席を立つグレゴリウスの姿に次の話題を口にしかけていたマリッサは黙って立ち上がると夫を見送る為にその背に続く。
「マリッサ……お前と連れ添ってから何年になるのだったかな?」
「もう二十七年になります」
そうか、と歩みを止めて、だがマリッサに背を向けたままグレゴリウスは呟く。
「お前に辛く悲しい想いばかりさせてきたわしを恨んではおらんのか」
常に戦場に身を置く夫の無事を願い心労で倒れていた日々……愛する息子を失った深い悲しみの余り後を追おうとした自分の姿……マリッサが長き年月抱いてきた様々な想いは余人には計り知れない。
「恨まなかったと言えば嘘になります……でも貴方が悪い訳ではない……誰かが悪い訳ではない……掛け替えのない者を護る為に誰かの大切な者の命を奪う……それが戦争、それが戦い……その憎しみと悲しみの連鎖は誰かが何処かで止めねばなりません……例えそれがどれほどの悲しみと痛みを伴おうとも」
長き時の中、悲しみを越え、憎しみを越えてそれがマリッサが辿り着いた答え。
「女子とは本当に強き生き物だ」
「殿方も少しは見習って欲しいものです」
真にそうだな、とグレゴリウスは真実そう思う。
「明日の派兵から暫く忙しくなる、屋敷には当分の間帰れなくなるやも知れぬ」
「ご懸念なきよう……私は何時までも此処で貴方のお帰りをお待ちしておりますから」
それ以上、夫婦の間には言葉は必要なかった。
そして二人はまた無言のままに歩き出す。
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