172話


 特別区画の街路は中央区画の歓楽街や商業区画の通りと比べても人通りは多くはない。

 通りの車道を走る馬車は貴族たち専用の装飾が施された立派なモノが多く、時折それらとは異なる御用商人たちの荷馬車を見かけはするが、他の地区の様な時間帯に寄って混雑する、などという慌しい雰囲気などはこの特別区画には存在せず、疎らに歩道を歩く人々も貴族の従者や使用人といった限定された者たちが大半であった。

 通りを歩く人々の首からは懐に仕舞う夫々が仕える貴族の家紋が刻まれた小さな木札に付けられた紐が覗き、己の身分を担保してくれる証明書となるそれらを肌身離さず持ち歩いている事が窺えた。


 領主の居城を中心に貴族たちが屋敷を構える特別区画は居住人口に比せず広大な区画は、ゆえに持て余すほどの敷地を有する屋敷が数多く点在する、喧騒とは無縁な緑豊かな光景が広がるシャリアテでも特異な区画となっていた。


 領主の居城に近い土地に屋敷を構える事がシャリアテの中で……いや、このオルバラス地方の貴族たちの中でも権力を持つという風潮がある中で、領主の居城に程近い、昼夜問わず巡回する憲兵隊を頻繁に目撃する重点地区には高位貴族の屋敷が多く存在し、その一つグランデル家の邸宅の中庭には現在二人の男たちの姿がある。



 中隊規模の部隊が戦闘訓練を行えるほどの広大な中庭は、だが短く刈り揃えられた青々とした芝生を見ても日々の手入れがされている事を窺わせ、邸宅に近い木々の傍に立つ亜麻色の髪の少年の視界の先、見事な庭園が広がっている。

 正装に身を包み柄に家紋が施された剣を帯剣するクロイルの姿は、元々が持つ気質や風格ゆえなのだろうか、騎士見習い然とした雰囲気などは微塵もなく今や男子はクロイル一人となったマドラー家を支える時期当主、若き騎士の姿が其処にある。


 ビュンッ、ビュンッ、と重量感を伴い空気を震わせる風切り音……クロイルの視界の中心に映る男が大剣を振っている。

 

 上半身裸で大剣を振るう男の姿は幼子が見れば泣き出すであろう威圧感を伴う強烈な存在感を放っている……それは漠然とした雰囲気などではなく、クロイルの目から見ても異様と呼べる男の体躯が大きな要因となっているのは明らかであった、


 盛り上がる様な胸筋と腹筋、野太い首にクロイルの倍はあろうかという腕周り、筋肉の塊……そう表現しても差し支えないだろう男、シャリアテを守護する二大騎士団の一つ青銅騎士団を束ねる騎士団長たるグレゴリウス・グランデル子爵は巌を思わせる、そんな男であった。


 嘗て戦場を席巻し戦場の華と謳われた騎兵たちをも凌ぎ戦局を左右する駒と讃えられた重装歩兵たち……だが華やかな彼らの時代は魔物の襲来と共に終焉を迎える。

 どれ程の重装甲を身に纏っても魔物の一撃は容易く鋼を砕き、噛み砕く。


 そんな化け物たちを相手にする戦いはやがて運動性を重視した機動戦へと変化していくのは自明の理ではあった。

 受ければ致命傷を負うのであれば触れさせねば良い……恐ろしく単純な論理ではあったが同時に考案された三人一組の対魔物用の戦闘陣形が結果を挙げ浸透していくと共に速度を犠牲にして防御性能を特化させていた重装歩兵たちは歴史から姿を消していく。


 今ではオーランド王国の聖騎士たちですら胸部の胸当てと全身の稼動部位である間接部を保護するだけの軽装が主流となる中で、グレゴリウス・グランデルは今だ視界のみを残し頭部全体を覆う兜と、全身に鋼の重装甲を纏う、王国でも数少ない重装歩兵の生き残りであった。


 四十代半ば、遠征軍にも従軍しあの中央域での戦いを生き残ったグレゴリウスは騎士として戦場で多くの逸話を持つ猛将としても知られ、近年行われたメーデ・ナシル運河沿岸部での大規模な魔物の漸減作戦に置いて、単騎でノー・フェイスと渡り合い、素手でその首を圧し折り頭部を捥ぎ取ったという信じられぬ猛勇ぶりはシャリアテでも語り草になる程に有名な話である。


 気さくなその人柄と輝かしい戦績を誇るグレゴリウスはシャリアテの民衆からの人気も高く、戦禍で失った左目が印象的なその容姿から『隻眼の獅子』の渾名で知られるオルバラス地方随一の騎士として讃えられる勇士であった。


 「マドラー卿、待たせて済まなんだな」


 全身から流れる汗をそのままに、大剣を軽々と片手で担いだグレゴリウスが此方へと歩みを寄せる姿を目にしたクロイルは腰の剣を外し左手で持つと片膝をつき左腕を背に回すと己の剣を芝生へと置きそのまま頭を下げる。


 それは上位者に対する最上位の礼……しかしそんなクロイルの姿をグレゴリウスは面白く無さそうな、つまらなさそうに眺め見るとはぁ……と短く嘆息する。


 「マドラー卿……我が伯爵殿の前でなら兎も角、他領の騎士を相手にその様に跪いてはそなたの主殿の立つ瀬がなかろう……略式で構わんよ」


 家督を継げば同格の貴族とは言え、現状ではまだ騎士見習いである自分が、それを置いたとしても父と子ほどの歳の差があるグレゴリウスに対して、構わんよ、と言われたからと言って、はいそうですか、とは流石に行かずクロイルはその場で逡巡する。

 レオニールやエレナたちに見せる言動や態度はクロイルの偽らざる気質ではあったが、名門マドラー家の人間として恥じぬ教育を受けてきたクロイルは、貴族としての格式や目上の者に対する礼儀を重んじる、古き慣習や形式を良しとする貴族としてはごく当たり前とされる価値観と良識をも同時に併せ持ってもいた。


 バシン、と己の背で響く強烈な音と共に痺れる様な痛みが背中を奔り、クロイルは痛みと掛かる圧力で前のめりに倒れ思わず咳き込んでしまう。

 

 「いかん、いかんぞマドラー卿、若者は若者らしく柔軟な発想と広い視野を持たねばな、堅苦しい慣習やら慣例なぞに縛られていては所詮その程度の器に収まる男になってしまうぞ」


 がはははっ、と豪快に笑い、クロイルの横にどかり、と胡坐を掻いて座るグレゴリウス。

 本人にしては撫でる……だが傍から見れば張り倒す様に背を叩かれたクロイルは感情面とは異なる生理現象として髪と同様に亜麻色の瞳に涙を滲ませ呼吸を整えている。

 目上の人間が先んじて示した崩した姿勢に息を整えたクロイルもまたその場に座り込む……だが心中ではグレゴリウスの気遣いに感謝する、といった思いよりも寧ろまた叩かれては堪らない、といった物理的な恐れが大きな要因である事は感謝の言葉を述べながらもぎこちない笑みを浮かべるクロイルの表情が雄弁に物語っていた。

 

 「それになマドラー卿……本来であれば着任の挨拶を受けるのは領主の役目、それをわしに丸投げした挙句、態々この屋敷にまで足を運ばせるなぞ無作法も過ぎように……本当に済まぬ」


 と、膝に両手をつき深々と頭を下げるグレゴリウス。


 「事前に満足な連絡もせず一方的に訪れたのは我らの不手際、それを快く受け入れて下さったシャウール伯には感謝こそあれ不満などある筈が御座いません」


 内心では舌打ちするほどに不満を抱いてはいたが、クロイルが屋敷を訪れるまでまったく何も聞かされていなかったと憤慨していたグレゴリウスに対して、神妙な面持ちで頭を下げるグレゴリウスを前にして愚痴や不満などを口に出せる筈もなく、レオニールやリリアナなどが見れば開いた口が塞がらぬであろう、教科書通り、と言えば聞こえが悪いが、貴族然とした余所行きの表情をクロイルは見せる。


 「そうか、ではこの話はもう終わりだな」

 

 と、顔を上げたグレゴリウスの表情は先程までの神妙さなど何処吹く風とばかりに飄々と、そして豪快に笑い、その筋肉で構成された丸太の如き腕がゆっくりと動く。


 そのグレゴリウスの動きに、背中を襲った強烈な痛みが鮮烈に再現されたクロイルは身の危険を感じて咄嗟に後ずさる。結果として宙を彷徨うこととなったグレゴリウスの右手は名残惜しそうに逃げた子兎を追おうとするが、やがて諦めたのか青い芝生へと下ろされた。


 「その謝罪という訳ではないが貴公の望みはこのグレゴリウス・グランデルが家名に懸けて叶えると約束しよう」


 尚もグレゴリウスの右腕の動きを目で追っていたクロイルは、直ぐにはグレゴリウスの言葉の意味が理解出来ず思わず問う様な眼差しをグレゴリウスに向けてしまう。


 「なんだ、この時期にシャリアテを訪れたという事はそういう事なのだろう?」


 「討伐軍……ですか?」


 「左様、貴公らを正式に友軍として……ソラッソ地方軍、トルーセンの騎士として討伐軍に帯同することをわしの権限に置いて認めよう」


 拍子抜けするほどあっさりと討伐軍への参加を認められた事への戸惑いと安堵感……しかしクロイルの胸にはそれらとは別種の思いもまた生じていた。


 討伐軍に同行して同胞の行方を、安否を確認する……それが目的の一つであった事は間違いない……しかし同時に同胞たちと共に居るであろうエレナの仲間たちの捜索もその目的には含まれている。

 それはエレナへの借りを少しでも返す、というクロイルなりの意地の現れでもあり……その肝心な本人の消息が今だ掴めぬのでは……とまで考えていたクロイルの脳裏にエレナの姿が浮かぶ。


 ――――自分に微笑みかける美しい少女の姿。


 其処でクロイルは慌てて己の妄想を打ち消すかの様に頭を振る。


 べ……別に俺はアイツに喜んで欲しいとも……感謝されたいなどと思ってる訳じゃない……た……ただ……受けた借りを返したいだけで……。


 誰に言い訳しているのか虚空に視線を泳がせるクロイル。


 「まあ準備に時間も掛かろうし、最悪後発の二陣の部隊に同行すれば良いさ」


 グレゴリウスはクロイルの葛藤を別の要因のためと誤解したのだろう、そう口にする。


 傭兵とは違い騎士が戦に参加するのであれば身一つという訳にはいかない。

 貴族として家名と主君の名を背負い戦場に、しかも他の領地の戦に臨むのならば最低でも旗下に五人……いや十人は供回りの者は必要であった。

 それは下らぬ貴族の体面とは笑えぬ古くからの慣習であり、それを疎かにする事は己だけでなく家名やひいては主家であるロボスをも軽んじられかねない愚行であったのだ。


 「二陣……今回の討伐軍の編成はそれ程に大掛かりなものなのですか?」


 これ幸い、とばかりに話の流れに乗るクロイル。

 だが同時に王都より援軍の要請はあったのであろうが、部隊を二つに別つほどの編成に疑問を抱いたのも確かではあった。


 「赤銅騎士団が全軍と我が青銅騎士団の半数が作戦に参加する手筈になっている」


 僅かに逡巡する様子を見せたグレゴリウスではあったが、どうせ直ぐ分かる事だ、とクロイルに編成の内実を告げる。


 シャリアテを守護する二大騎士団……青銅騎士団と赤銅騎士団の構成は歩兵と騎兵を合わせそれぞれ一万余名……つまり今回の討伐軍は全戦力の三分の二を投入するシャリアテでも近年稀に見る大規模な派兵であった。


 だがクロイルには腑に落ちぬ事が多々残る……魔物との戦とは何が起こるか分からない不安要素を常に孕む危険な戦いである……その恐ろしさはトルーセンを廻る戦いでクロイルは実感として知っている。

 請われたとは言え何故、益も少ないであろうこの戦いにシャリアテが大きなリスクを負ってまで此処までの兵力を動員させるのか……その意図が、真意がクロイルには読めなかった。


 「都市周辺の魔物の間引きは傭兵たちがいる……それにわしも居残り組みだからな、何も心配する様な事態にはならんさ」


 徐に立ち上がったグレゴリウスはそう豪快に笑い飛ばすが、クロイルが望む根本的な疑問に答える様子は見られない。

 だがそれも当然とはいえる……他領の騎士に己が領地の内幕を、内情を軽々しく語る筈などないのだから。


 「汗が乾き冷えてきたな……そろそろ食事の支度も出来た頃合であろう、屋敷に戻るとしようか……我が妻の手料理は見栄えはしないが味は保障しよう」


 大きなグレゴリウスの手がクロイルへと伸ばされる。


 「何故ですか?」


 とクロイルは無意識に呟いていた。


 それは始めから抱いていた疑問、

 同じ地方領であっても決してソラッソ地方とオルバラス地方の関係は良好とはいえない……それは嘗ては栄えていたソラッソ地方と災厄後急速に発展の一途を辿る事となったオルバラス地方。

 両者が互いに抱く劣等感や対抗心、それは歴史と共に言葉には表せぬほどの複雑な感情となって今尚渦巻いている。

 領主であるオベリンがクロイルたちに見せた素っ気無い姿勢も、派兵を前にした雑事の多さ故という建前を額面通り受け取るほどクロイルも子供ではない。

 だからこそグレゴリウスが本当に直前までクロイルの訪問を知らなかったとすれば、其処に僅かな悪意さえあれば、聞いておらぬ、と門前でクロイルを追い返すことも出来た筈であろうし、例えそうされたとしてもクロイルは抗議できなかっただろう、という思いがある。


 だからこそこうして何かと世話を焼き、歓待の席すら設けてくれたグレゴリウスに対してクロイルが戸惑いの様な感情を抱いていたとしてもそれは無理からぬ事ではあったのだ。


 「それはな、貴公が死んだ息子に面影が似ておるからだ」


 と、まるでクロイルの心の声を察した様にグレゴリウスが笑う。

 

 力強く自分を立たせる大きな手……それは父に手を引かれ歩く幼き頃の記憶をクロイルに呼び起こさせ――――。


 「まあ、冗談だがな」


 とクロイルに背を向け豪快に笑うグレゴリウスであったが、クロイルからは大きな鋼の如き背中に隠されたその表情を覗う事は出来なかった。



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