171話


 セイルの背後に立つ護衛の一人、傭兵団『鉄の輪』の団長であるジルバン・メレスは額から大量に流れ落ちる汗を拭う事すら出来ず、既に長剣の柄に手を掛けている右手は滲む汗で湿り握る柄を滑らせている。

 経験豊かな傭兵である筈のジルバンが身動ぎ一つ出来ず得物すら持たぬ少女から視線を外す事すら出来ずにいた。


 少女から発せられている怖気が奔る様な気配と感覚にジルバンは覚えがある。


 嘗て渡り歩いた戦場で、災厄後の魔物との戦いで、幾度と無く味わって来たこの感覚は――――迫り来る絶対的な死に対する抗えぬ恐怖。


 魔法ではあるまいし、この少女の影響で本当に室内の温度が下がった筈など有り得はしない……だと言うにも関わらず全身を襲う寒気、異常なまでの発汗が齎される原因は、帯剣し己が手に剣を携えながらもそれが如何に無意味で無力である事なのかを本能が告げるのだ、拒絶し悲鳴を上げるのだ……自身が抵抗出来ぬほどの絶対的な存在を前にして。


 それは以前参加した大規模な掃討作戦中に、中級位危険種討伐の折に……払った多大な犠牲と共に目にした異様な魔物の姿を前に抱いた感覚に良く似ている……絶望と畏怖……抗えぬ根源的な感覚……だが少女から感じる死の気配はそれすらも、これまでジルバンが感じてきたモノとは比べ物にならぬ程にその密度の桁が違い過ぎる。


 これはもう駄目かも知れんな。


 と、自嘲ぎみに、しかしジルバンの豪胆さを現すかの様にその口元が薄っすらと笑みの形に刻まれる。


 頑ななまでにこの場への同席を拒んだニコラスやテオの心情が今ならジルバンにも痛い程に理解が出来た……なる程当然だ、と。


 知ってさえいれば、理解さえしていれば当然の事なのだ……人を喰らう巨大な大熊に今は腹が満たされているから平気だと言われて、はいそうですか、と傍に近づく馬鹿などいよう筈などないのだから。


 「エレナ・ロゼとしての私と取引をしたいのでしたら、この様な駆け引きなどせず後日正式に訪ねて来て頂けますか、私とて人の身ゆえに機嫌が優れぬ日もあるのですから」


 瞬間、世界は氷解し日常を取り戻す。


 ――――ガシャン。


 消え去った圧力から不意に開放された為か弛緩したセイルの手から離れた杯が床へと落ちて砕け散る。


 だがセイルはそれを取り繕う事すら出来ず、ジルバンと隣に立つもう一人の男もまた主を気遣うほどの余裕はまだ……ない。


 アニエス、とエレナは立ち上がり目配せをする。

 それを受けアニエスの両手の指が僅かに動き……彼らは知らぬまま全てが終わる、この時のエレナが示した意思表示こそが真に彼らの命を救い繫いだことを。


 「色街での私はエリーゼ・アウストリア……セイルさんほどの思慮深い方ならばこの意味をご理解頂けていると信じています」


 扉を前に背を向けたまま告げられたエレナの言葉が静寂に包まれた室内に消える。



 バタン、と扉が閉まりエレナが部屋を後にしても決して短いとは言えぬ時間、セイルは口を開く事すら出来ずにいたが、やがて背凭れに体重を預けたまま天を仰ぎ大きく嘆息する。


 「良い道化ぶり……いやいや、想像以上に無様な御姿でありましたな」


 「フンッ、貴様こそ子猫の様に震えおって、いつ正気を失い斬り掛かってしまうかと正直気が気ではなかったぞ」


 その結果齎されるのは己の死だという事を本能で知るセイルにしてみれば軽口で誤魔化してはいたが、内心笑い話では、冗談では済まされぬ、とう心境ではあったのだが。


 「だがまずは上々の成果というべきか」


 「それなんですがね……調査の過程の段階で既にあの化け……いや、エレナ・ロゼがどういう人となりの人間かは予想がついてたってのに、何でまあ、あんなに煽る様な真似をしたんですか……正直やばかった……殺されていてもおかしくなかったんですよ」


 荒事の専門ではないセイルではあったが商売上、身に危険が及ぶ様な状況に置かれた事は一度や二度ではきかない……だが先程のあのエレナとの遣り取りはそのセイルにしても心胆を寒からしめる……己の死を予感させる初めての経験であった事は間違いない。

 だがそれでもセイルは殺されぬ、という確かな計算の上での行動であり、仮に読み違えて命を落としたならば自分は所詮その程度の人間であったという割り切った考えを持ってもいた。


 「印象というのはそれ程に重要な要素でね、好感や嫌悪といった感情の種に寄らずセイル・ロダックという人間を彼女の心に強く刻むことには成功しただろう?」


 時間を掛けてエレナ・ロゼとの間に良好な関係を築いていく……そんな遣り方をしていては既に後塵を拝しているレイリオ・ガラートに代わり彼女の心を占めることなど不可能だろう……ましてや素性を知らぬ段階でとは言え一度は力ずくで手に入れようとまでしていたのだ……それを知られれば全ては破綻してしまう。

 たからこその無謀な賭けではあったのだが……まずは死なずに生き延びたことを思えば成功したといえるだろう。


 「今だからはっきり言えますがね、あの女は危険ですよ……少なくとも商人として成功を収めている旦那が火遊びで関わって良い種の人間じゃありませんぜ」


 セイルは真摯な表情で忠告するジルバンに怒気を含んだ眼差しを向ける。


 「この様なちっぽけな都市の支店で成功した程度で何を誇る要素がある……折角ロダック商会の会頭の子として恵まれた家系に生を受けたのだ……ならば選ばれた者のみしか望めぬ高みを、景色を見てみたいではないか。だからこそ兄たちにも親父殿にも負けぬ……負けられんのだよ」


 ロダック商会を己が継ぎ、三大商会などではないロダック商会こそが並ぶ者なき勝者として商工会を束ね大陸に君臨する……それこそが幼き頃よりのセイルの夢……男としての野望であった。


 「それとあの女とどんな関係が?」


 「今本店の連中が、親父殿が南部の地で抱えている問題がもしエレナ・ロゼが仲介に入りさえすれば容易く簡単に霧が如く霧散するとしたらお前ならどうする」


 馬鹿げた話ですね、とジルバンは呆れる。


 ロダック商会の本店が持つ莫大な資金と影響力をもってしても解決が困難な問題など、それこそ政治絡みや宗教といった面倒な問題に決まっている……それを一介の傭兵が関与した程度で解決できるなどと、ジルバンには絵空事としか思えなかった。


 「一つ仮定の話をしようか」

 

 と、明らかに疑いの眼差しを向けるジルバンにセイルは語る。


 「ファーレンガルト連邦の七都市の……そう、どの都市でもいい寂れた街角の広場に彼女が立ち一言人々の前で告げたとしよう……私の名はエレナ・ロゼ、神の啓示を受けし者……世を救済し導く者である、と』


 「基地外女の妄言にしか思えませんがね」


 「北部域に根を張るお前たちには想像すらつかぬであろうが、福音の聖女の名は彼の地では最早救世の騎士の名に比肩する偉大なる偶像……希望という名の象徴なのだよ」


 熱が篭るセイルの言葉にも今ひとつ現実感を感じぬジルバンであったが、救世の騎士の名がその口から語られた瞬間、すとん、と理解ができ腑に落ちる。


 仮にこの地に彼の英雄が、アインス・ベルトナーが現れ自分たちにこう告げるのだ。


 男たちよ剣を取れ、と魔物を駆逐し新たな世を築くのだ、と。


 救世の騎士に憧れぬ男など居ない……世界を救った英雄と肩を並べて戦える……ジルバンの様に金の為に人すら殺める稼業に身を置く者ですら心が躍る、血が沸き立つ様な高揚感を覚える……それはそんな光景であった。


 「アドラトルテで直接救われた者たちのみならず、七都市から救いを求める者、或いは信仰の対象として人々は彼女の下に集うであろうな……その数は二十万……いや三十万……だがそれだけではきかぬ、彼女の噂は瞬く間に大陸全土へと広がり、最終的には数百万人という人々が彼女の下に集うことだろう……そうなれば彼女の意思こそが真理となり世界は彼女の色に染まる」


 セイルの予言めいた言葉にジルバンは今だ馬鹿げている、という思いはある……だが妄想とは笑えぬ何かが其処にはあるようで知らず身を震わせた。


 「世界などという面倒なモノはいらぬ……だが私は後世に名を残したいのだよ、稀代の商人として……そして聖女と讃えられた美しき少女の伴侶となった男としてね」


 邪な、と呼ぶには純粋な、真っ直ぐな、と例えるには余りにも野心的な眼差しをセイルは天へと向けた。




 昼を過ぎ、開けた港の車道を一台の馬車が走る……其処には通りで馬車を拾ったエレナとアニエスの姿が車中にあった。


 「何故二度と近づくな、とは言わなかったの」


 アニエスは二人きりとなった車内で疑問を口にする。

 人通りの多い建物の入口で、そして一階の広間でセイルと共に居る事を多くの者たちに目撃されていた以上、あの場でアニエスとしてもセイルを殺してしまうのは最良の方法であったとは思ってはいない。

 傭兵が関わる諍いや刃傷沙汰にはある程度は寛容な姿勢を見せる施政者は多いが、シャリアテでも有力者であるセイル・ロダックを殺せば面倒なことになることは目に見えていた……最悪の場合大罪人として一生ロダック商会と国から追われる身になっていた可能性が高かったからだ。


 だが何時ものエレナならばはっきりと宣言していたであろう言葉が聞かれなかったばかりか、交渉の余地すら残したエレナの意図をアニエスは図れずにいたのだ。


 「私がもしあの場で二度と関わるな、と言ったとしてあの男が素直に聞き入れるとは思えなかったからね、陰でこそこそされるより繋がりは残して置いた方が後々面倒も少ないだろう?」


 エレナの言葉には一理ある……まったく会話が通じぬ相手ならば意味は薄いがセイル・ロダックの様な商人が何を目的で近づいてきたのか、その真意を確かめてから関係を絶っても遅くは無い、というエレナの考えは理には適ってはいる。


 エレナの考えとは別にアニエスとしては丁度良い理由が出来た、という思いがある……面倒事を避ける為にシャリアテを出る、という尤もらしい理由が。

 だが今此処でアニエスはそれを口に出す様な真似はしない……エレナの性格を考えても話が拗れれば意固地になって街に残ると言い出しかねないからだ。

 ガラート商会とあの娼館との正式な契約まで恐らくは後数日程度……それを待ってからでも遅くは無い……エレナの様に頑なな面を持つ人間を説得する為には必要な間というものがあることをアニエスはこの旅で学んでいた。


 少なくとも今エレナの中で生じているであろう葛藤が本人の中で割り切れるまでは様子を見よう、とアニエスはそう考えていた。


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