158話


 先程の醜態を無かった事として……いや申し合わせた訳ではないのであろうが、記憶から消去し忘却の海へと投げ込む事を決め込んだ両者の会話は当初何処か間の抜けたお茶を濁す様な世間話に終始していたのだが、やがて意を決した様に口火を切ったエレナの独白に場の白けた空気は一変する。

 重苦しい空気と共に語られるエレナの告白にレイリオは耳を傾け、疑問を投げ掛ける事もなく静かに聞き入っている。

 そんなレイリオの姿に……自身の存在の消失を意味する抗えぬ結末を前に、エレナ・ロゼとして生きることを決め……英雄の名を捨てた自分がかつての自分に押し潰される恐怖に、エレナの黒い瞳にこれまで見た事もない色が浮かぶ。


 それは怯え……大切な友人を失うことへの耐え難い恐怖の色。


 だがそれでも伝えねば為らなかった……巻き込むのならば真実を話さなければならない……誰の為ではない自分の為に、レイリオ・ガラートという青年の人生を狂わせてしまうかも知れない決断を迫ろうとしているのだから、責めてそれに見合うだけの対価を自分も支払わなければ為らない……。

 無碍に断られるかも知れない、蔑まれるかも知れない、レイリオが見せる冷たい眼差しを……英雄に向ける憧憬の眼差しを……想像するだけでエレナは身体に身震いが奔る程の恐怖が襲う。

 家族と言うものに対する焦がれるほどの憧れ……親しき者たちに抱く執着……それはアインス・ベルトナーが得られなかったもの、失ってしまったが故に魂の根幹にまで刻まれ歪んだ願望が発露した魂の形。


 死ぬ事など怖くはない……だが失ってしまう事が何より恐ろしい。


 エレナは話の途中幾度となく口を閉ざしかけ、後悔に苛まれ……だがそれでも最後まで話の腰を折ることは無かった……それは恐怖に支配されながらも譲れぬ強き想い……真摯であれ、というただ一つの拠り所に縋って……。


 実に半刻以上もの長き時間の果て、レイリオに全てを告白したエレナの口が閉ざされ……沈黙が流れる部屋の中、躊躇いながらも顔をレイリオへと向けたエレナの視線の先、変わらぬ優しげな青年の姿があった。


 「嬉しいよエレナ、僕にだけ全てを話してくれたんだね?」


 荒唐無稽である筈の、俄かには信じ難い話である筈の自分の話にもまるで戸惑いを見せず、疑っている様子すら見られぬレイリオが以前と変わらず自分をエレナと呼んでくれた事に安堵の気持ちが先に立ち、ベルナディスという存在を失念したまま思わず頷いてしまうエレナ。

 だが同時に真実を知って尚、自分に向けられるレイリオの変わらぬ眼差しにエレナは視線を合わせることが出来ず俯いてしまう。


 「信じてくれている……それを疑っている訳じゃない……でもなんでそんなに普通に……変わらずにいられるんだ」

 

 聞くべきではない……其処かでそう思いながらも聞かずにはいられなかった。見上げる様にレイリオを見つめるエレナの瞳に宿るのは怯えと恐怖……そして同じだけの期待と希望。


 「僕は聖人君子でも人格者という訳でもない、金の力で世界に影響を与えられると信じている俗物的な商人だからね……だから純粋にエレナの美しい……可憐なその姿見が好きだよ、艶やかな長い黒髪が、星々を宿す神秘的な黒い瞳が、白磁の様な肌が……君の全てが僕を魅了して止まない」


 しかしそれはこの少女の魅力の一端でしかない……話を聞いた今ならば理解が出来る……余りにも純粋で気高いその理想と信念が、孤高の高みにありながらも挑む様に更なる高みへと美しい翼を羽ばたかせ、誰よりも高く、高く飛び続ける彼女の生き方が、英雄として生きてきた凄絶な人生の裏返しであり、揺り返しである事に。

 持たざる者が持つ者に憧れを抱く様に、自分たちには為せない何かを追い求め続けるエレナの在り方が眩しく魅力的に映るのだろう……そして強く抱くのだ、自分だけが飛び続ける彼女が翼を休める止まり木になりたいと。


 「レイリオ……私は……」


 「僕は無神論者だからね、目に見えぬ魂に性別が備わっているなどとは考えてはいないんだ、だから君の身体が生物学上の女であるのなら、僕の目から見れば君は紛れも無く女性であって、君が言う様な男としての自覚などそれこそ君だけの認識に過ぎないんだよ」


 独自の考えを口にするレイリオの持論にエレナは全てを納得出来た訳ではなかったが、しかし以前と変わらず接してくれるレイリオに対して感謝と安堵の気持ちが生じていないかと言えば嘘になる。


 「有難うレイリオ……でも君の好意が私への恋愛感情からきているものだとするなら、はっきりとさせて置かなければ為らない事がある……君の気持ちを、好意を利用する様な真似だけはしたくないから……」


 これだけは言って置かねばならない……真摯に対応してくれているレイリオに誤魔化しや嘘を付く事など、曖昧な物言いでお茶を濁す事など、今のエレナには耐えらねぬ不義理に思え、また苦痛であった。


 「君が危険な状況に置かれれば私はレイリオの為に命を賭けられる……その結果としてこの命を失ったとしても後悔など無いほどに君を大切に想っているよ……掛け替えのない友人として君が好きだから……でもそれは恋愛感情の様な愛情からじゃない……レイリオ……君がどれ程私を想ってくれても、私がレイリオに抱く感情は親愛の情を超えることはこの先も有り得ないと思う」


 それがエレナの正直な気持ちであった……レティシアやシェルンに抱くのが家族に対する深い親愛の情である様にレイリオに抱いているこの気持ちもまたそれらと同様のものだ。異性という意味でならカタリナに対して感じていた感情の方が恋愛感情と呼べるだけのものではなかったが、より愛情に近い感情であったろう。

 好ましい、好ましくない、と言った個人に対する思いは別にしても男と寝屋を共にする事や肉体的な意味で一線を超えることなどエレナには想像も出来ないし、またそれらを想像するだけで嫌悪感を抱く自分が男性としての意識を持っていることは間違いない事実なのだ。


 一瞬、頭部に疼く様な鈍い痛みが奔り……エレナの脳裏に見知らぬ黒髪の女性の姿が映り……消える。

 

 「もしもこの先、私が誰かを愛することがあったとしても……それがレイリオ……君であることはないよ」


 それははっきりとした拒絶。

 

 飾らず偽らず、自分の正直な思いを吐露したエレナに……だがレイリオが表情を崩す事はなかった。


 「人の嗜好が時を経て変わることがある様に、人が抱く認識が如何に移ろい易いものなのかを僕は知っている、エレナ……君は気づいているのかな、感情を荒げても君の一人称が『私』のままである事に」


 「それは演じている内に使い慣れただけで、私の本質的な部分が何か変わった訳ではないよ」


 「そうだね……慣れただけだ、でもねエレナ、人間は慣れる、『成れる』生き物なんだよ、だから男などという内面的な認識が変わるだけで、君は正真正銘ただの女性に成れるんじゃないのかな」


 「エレナ・ロゼとして生きるという意味は、女性として生きるという意味と同異ではないよ、私は女性としての幸せを求めている訳じゃない」


 互いに主張を譲らず、交し合う言葉にも熱を持ち始め本筋から逸れてきた話し合いの中、先程の反省を踏まえたのだろうか、先に折れたのはレイリオの方であった。

 

 「とりあえずこの話は今は此処までにしないか、先に考えないといけない事や、やらればならない事が山積みなのだからね」


 何処までいっても平行線になりそうな話題を此処で永遠と続けても不毛なことこの上ないと悟ったレイリオはこの場はエレナに譲ることにする。それはエレナの認識を変えられるというレイリオの自信の現れでもあり、或いは才気に満ちた成功者としての驕りであったのかも知れない。

 協力を求めた方の立場としてエレナがその提案に異を唱えることなど出来る筈もなく矛を収める形となるが、当初の趣旨を忘れ向きになるエレナの子供っぽい癇癪にも似た態度にも惚れた者が負けというべきか、呆れるよりも愛おしさを覚え、レイリオは口元を緩めてしまう。


 今エレナから聞いただけでも数多くの疑問がレイリオの脳裏には浮かんでいる……だがそれを今此処でエレナに告げる気はない……対策や裏付けも取らぬまま話した処でエレナを混乱させるだけだということが分かっていたからだ。

 まずはクレストを呼んで……そうして考えを廻らせていたレイリオは大切な事に気づき、右手を机の引き出しへと忍ばせる。其処には……。


 「そういえばオルサリウスに滞在していた折に良い露店を見つけてね」


 と、さり気なく切り出したレイリオの右手には赤石が施された銀細工の髪飾りと腕輪が握られていた。


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