157話


 二つ星の由来が示す通り、シャリアテには商いを主とする商人たちの街と国内外からの観光客を迎え入れる歓楽街という二つの区画により構成されている。基本的な都市構造を王都ライズワースを踏襲して作られているシャリアテのそれぞれの区画の専有面積は他の地方領の街……トルーセンなどとは比べるまでも無いほどに広大である。

 港を基点として東西に広がる両区画の入口から外壁へと続く街の出口まで、旅慣れた者でも半日はかかるであろうシャリアテの街の規模はライズワースを除けば人口百万とも言われるロザリア帝国の帝都オルサリウスにも比肩する程の広大な面積を有していた。

 初めてシャリアテを訪れる観光客たちの為に専用の案内人を斡旋する組合の施設が商売として成り立つ程に、複数の通りが交差し交わる網の目の様なシャリアテの街並みは其処に住む住民たちや店舗を構える商会の商人たちでさえ時折既視感を覚える程良く似寄っていた。

 にも関わらず港で馬車を拾ったエレナたちが降り立った眼前に建つ改装中の建物、自身の名の一部が刻まれた看板が掲げられるガラート商会の支店へと馬車が迷いなく辿り着いたのは、馬車の御者の質の高さ故か、或いはガラート商会の知名度の高さ故なのか、それを知る術は少なくとも今のエレナは持ち合わせてはいなかった。


 全面改装中であろう建物の外装は高価な大理石が惜しみなく使われ、世の流行や時勢に疎いエレナから見てもレイリオ・ガラートという青年が好む……落ち着いた高級感が漂う佇まいを見せる店舗へと生まれ変わる過程である事を強く感じさせるものであった。

 一過性のものではないレイリオのそうした拘りや嗜好について、自身の服装を含め高価な物、華美な物を余り好まない……いや、頓着しないエレナが正直抱くのは、随分と費用が掛かるのだろうな、という至極単純な身も蓋もないような表層的なものに留まっていたが、同時に敷居が高いかな、と苦笑気味に呟いたエレナの飾らぬ感想はそれを漏れ聞いたアニエスには正鵠を射たものである様に感じられた。


 本人に言えば向きになって否定するかも知れないが、エレナは親しい者や身近な者に対して酷く甘い……ゆえにエレナの人物眼は親しさの度合いによってより強く色眼鏡が掛かっていると言っても良いかも知れない。だからこそフィーゴ・アルセイスの様な、アニエスから見れば人格の破綻した殺人鬼にしか見えぬ男に対してもエレナは寛容さと共に一定の親和性すら見せるのだ。

 その人間の長所のみを強く捉え、他の短所には驚く程の寛容さを見せ目を瞑る……それは度量の深さとは似て非なるエレナが持つ狂気の一端であり、その異常さゆえにフェリクスの様な者ですらも惹き付ける魅力を放っているという事もまた間違いない事実ではあった。長所と短所は表裏一体であり、エレナは欠点の多い少女だ……だが同時にその長所に、輝きに、好意を寄せ敵意を抱き、焦がれ憎む者たちの、惹かれ集う者たちの何と多いことか。


 そうした思いゆえにアニエスは何度かエレナの口から語られ、また幾度か話す機会があったレイリオ・ガラートという男に対してもエレナ程に信頼も信用も寄せてはいない。

 

 シャリアテはライズワースやセント・バジルナの様に一部の富裕層を相手にすれば良い市場とは大きく異なる……直轄領とは比べ物にならぬ程に安い物価に群がるシャリアテの人口の実に八割以上が傭兵であるエレナやアニエスたちを含め低所得者層なのだ。そしてそれら多くの者たちがこの商会の建物や雰囲気に抱くであろう感慨は、今まさにに呟かれたエレナの感想に集約されていると言っても過言ではないだろう。

 関税に伴う中間手数料と大量の物資を捌く薄利多売が主流となるこのシャリアテの市場で、レイリオ・ガラートという男が、ただ己の嗜好を優先させ支店の外装を整えているのだとしたら、そんな安易な認識しか持たぬ者がこのシャリアテで成功を収められるとはアニエスにはとても思えなかった。


 エレナには悪いが人間関係の根幹には利害関係が一致しているからこそ……互いの思惑が合致している間のみ、他者に対して一定の信用を持てるのであり、純粋な行為や善意での行動などエレナという異質な存在を例外にしてアニエスはそんな得体の知れぬものを基準に語られる全てを鵜呑みにするつもりなど毛頭ない。

 アニエスは今回の事を含めレイリオがエレナに見せる無償の愛を額面通りに受け取ってなどいない……いや寧ろエレナの好意を得ようとする打算的な行為にしては行き過ぎた、レイリオが見せる度が過ぎる偏狭的な愛情に危うさや危機感すら抱いていたといっても良い。

 そうした考え方の相違がエレナとアニエスの相性が決して良いとは言えぬ根本となる根の部分であり、相容れぬ価値観の土台として今尚両者の間に存在している溝であると言っても語弊は無いのかも知れない。


 

 まだ実質的な営業を行ってはいないだろう商会の入口の大扉は大きく開け放たれたまま、改装作業に従事している男たちが頻繁に行き交っている姿が見える。

 馬車から降りたエレナたちがその商会の入口へと歩みを進めると同時に、中から一人の女性が姿を見せた。


 「エレナ・ロゼ様でしょうか?」


 お待ちしていました、と恭しくエレナたちの前で頭を下げる女性、アイラ・ホーデンの登場に二人は戸惑いの色を見せる。約束もなく突然訪れたにも関わらず出迎えの為に現れたアイラに、此方の動向を見張られていたのではないか、という穿った想像をエレナたちが抱いたとしてもおかしな事ではない。


 「エレナ様たちを乗せた船が港に到着したという一報は商会の者から受けておりましたので、そろそろ頃合かと思いまして注意を払っておりました」


 エレナたちの疑問に答える様にアイラは口を開き、建物の中へと二人を招きいれる。

 商人たちが持つ特殊な情報網ならば自分たちの足取りを追う事はそう難しくはないのかも知れない、と納得するエレナとは対照的にアニエスは油断なく周囲への警戒を怠る様子を見せず、その瞳は鋭さを増している。


 「アニエス様にはささやかでは御座いますが奥の部屋に歓待の席を御用意させて頂かせております」


 来賓に対する姿勢を崩さぬアイラの物言いは礼節を失わぬ丁重なものではあったが、アニエス一人を指定した言い様は、言い換えればレイリオが会うのはエレナ一人である、と暗に告げるものであった。だが敢えてアニエスはその言葉に言及する様な真似はせず、後で話は聞くわ、と新たに姿を見せた黒い礼服に身を包んだ別の女性と共に奥の廊下へと姿を消していく。


 「エレナ様は此方へ」


 アイラに導かれる様に二階への階段を登るエレナは、アニエスが見せる緊張感とはまるで異なる、相変わらずレイリオは女性の趣味がいい、という美しい女性たちの姿に抱く妙な感心であったのだが、その事だけを見てもレイリオ・ガラートという青年に対するエレナとアニエスの認識の違いをはっきりと示す、二人の温度差を現しているとも言える。



 

 「逢いたかったよ、エレナ」


 案内された一室へと足を踏み入れたエレナの前に、席を立ち両手を広げて自分を迎える見知った青年の姿が瞳に映る。アドラトルテの一件以来久方ぶりの再会となるレイリオ・ガラートは初めて出会った頃よりも伸びた背が、より成熟した大人の男としての印象をエレナに与えていた。

 テーブルに用意されていた紅茶から漂う懐かしい香りが、エレナに三年近くも前になる出逢った頃の記憶を呼び起こさせていた、という事も少なからず影響を与えていたのかも知れない。


 月日と共に経験を重ねてきたレイリオは以前の様にエレナを抱きしめようとする様な、接触を求める様な真似はせず手を差し伸べエレナを席にと誘う。席にと腰を下ろしたエレナの視線の先、テーブルを挟んで向かい合うレイリオは優しげな笑みを浮かべたまま、多くは語らずただエレナの顔を静かに見つめていた。


 そんなレイリオの姿にエレナは思い描いていた、命を救われた事への感謝の言葉も、旅に出る事を直接告げられなかった謝罪の言葉も口に出す事が躊躇われ……二人の間に沈黙が流れる。


 もし自分が逆の立場なら、そんな言葉など友に望みはしない……だが、レイリオにこれから話さねばならぬ事があり、協力を得ねばならぬ事がある……これがレイリオ・ガラートの中でエレナ・ロゼとしての最後となるならば、けじめだけはつけておきたい、とエレナは迷いを捨てる。


 「レイリオ……これを受け取って欲しい」


 エレナは事前に用意していた皮袋を懐から取り出すとテーブルへと置いた。ジャリン、という硬貨同士が触れ合う音と確かな重さを示す様に膨らむ皮袋を見たレイリオは眉を顰め……露骨に不機嫌そうにその表情を変えていく。


 「金貨三十枚……この程度の額では足りない事は承知しているけど……これが私が今レイリオに示せる誠意の全て……こんな真似はレイリオの気分を害することだと分かってる……でもどうしても受け取って欲しいんだ」


 金貨三十枚、傭兵が稼ぐには……持つには余りにも過ぎた額の大金。

 エレナの黒い艶やかな黒髪がゆっくりと流れ……自分へと頭を下げる少女の姿にレイリオの瞳に宿るのは悲しみと……。


 「生憎だけどエレナ、今の僕にとってその程度のはした金を貰って何の益があるのかな、僕が受け取れば君の心は満足するのかも知れないけどね」


 怒りを湛えた眼差しをエレナに向け、レイリオの口からは皮肉げな言葉が漏れる。

 

 「分かってる……だから私に出来る事なら何でも言って欲しい」


 「なんでも? 本気で言ってるのかエレナ」


 エレナの言葉に更なる怒りが込み上げるレイリオであったが、憎らしい事を言うこの愛おしい少女に対して天恵にも似た悪戯心が芽生える。

 

 「エレナがどうしてもというなら、一つだけ方法があるけど」


 と露骨に襟元を緩める大げさな動作と共にレイリオはエレナの視線を続き間となっている寝室へと誘う。


 視線を寝室の入口へと向けたエレナの黒い瞳は見開かれ……レイリオの言葉の意味と意図を察したエレナの頬が見る間に朱に染まっていく……無論それは羞恥の為ではない。

 

 バンッ、と両手でテーブルを叩いて立ち上がったエレナは腰に帯剣していた双剣を外すと勢い良くテーブルへと叩き付ける様に置き、つかつかと寝室の方へと歩き出した。


 「レイリオがそうしたいなら好きにすればいい、でもこれで本当に貸し借りは無しだからな!!」


 満面に怒りを湛えたエレナはレイリオを睨み……ちょっと困らせてやろうとしただけのレイリオは、その涙すら滲んでいる様にすら見えるエレナの形相に気圧された様に一瞬怯むが、エレナが口にした貸し借り、という言葉にカチンと来たレイリオは後に引けないとでも言う様にエレナの後を追う。


 アニエスやアイラがこの場に居れば子供の喧嘩の様な二人の遣り取りに呆れた表情を浮かべていたであろうが、エレナがこうして向きになる相手が限られた人間だけである様に、商談の席だけに限らずレイリオがこれほど感情を乱す相手はエレナだけである事を二人に思い出させる人物がこの場には居ない事がこの混乱に更なる拍車を掛けることになる。


 寝室にやって来たエレナは、好きにしろ、言わんばかりに細い両腕をレイリオへと広げ……怯えた様子など一切見せないが怒りを湛えながらも緊張の為が薄っすらと汗が滲むエレナの美しい肢体を前に、抗えぬ欲求を前に、レイリオは混乱した頭を整理すら暇もなく、衝動的に細いエレナの両手を掴むと寝台へと押し倒していた。


 甘い花の様な香りがレイリオの鼻腔に届き、流れる黒髪がレイリオの頬を擽る。

 息遣いが届く程に間近に迫る可憐な少女の顔に、抗い難い魅力的なその姿に、レイリオの理性が悲鳴を上げ、エレナを押し倒した姿勢のままその細い両腕を掴む手に知らず力が篭る。レイリオが男としては細身で非力であったとしても、この体勢では最早エレナには抗う術はない……だがそれ以前に組み敷かれた様な姿勢のままエレナは抵抗をする素振りすら見せず、真っ直ぐレイリオを見つめていた。


 ゆっくりとレイリオの顔がエレナの小さな唇へと近づき……互いの唇が触れ合う刹那――――バッ、と身を起こしエレナから離れたレイリオの身体が勢い良く寝台から転がり落ち……レイリオは床へと座り込んでいた。


 「ああっ……もう!! 悪かった、悪かったよ、僕の負け……僕の負けだエレナ!!」


 こめかみを押さえて呻くレイリオの姿に、寝台から身を起こしたエレナは急速に冷静さを取り戻していき……自分の行為の余りの無謀さに見る見る表情を青ざめさせていく。


 青ざめ引き攣った笑顔を浮けべるエレナの、出逢った頃とまるで変わらないエレナのその姿にレイリオは思わず頭を抱えていた。その表情には心配で堪らないといった感情と共に、千載一遇の好機を棒に振った、という男としての後悔があったとしても笑える者はいないだろう。


 これがヴォルフガングの様な男であったら、と背筋が凍りつく様な後悔に襲われるエレナと、何とも表現できぬ感情が脳裏に渦巻いているレイリオ。

 二人の虚ろな笑い声が奇妙な沈黙と共に寝室に暫く響き渡るのであった。


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