第153話


 トルーセンの街へと向かう中型船、折り返しセント・バジルナへと帰港する巡回船であるこの船の船室の一つ、その扉を叩く男の姿がある。

壮年と呼ぶには年若く、青年と呼ぶには年の往った四十台前半であろうか、身に纏う黒を基調とした武具が良く栄える威風堂々とした美丈夫であった。中でもその腰に帯剣した長剣の鞘は意匠が凝らされ、精巧なその細工からもその剣が名立たる名刀である事を窺わせる。


 「導師アルテイシア、もうすぐ船が港に着きます」


 淡々と用件だけを述べる黒衣の男に、閉ざされた扉の奥から女性の声が掛けられ、室内に入るよう請われた黒衣の男は扉を開き室内へと足を踏み入れる。


 黒衣の男が始めに視界に捉えたのは椅子に腰を下ろし、細く長い足を組んで悠然と座る若い女性の姿。

 女性が纏うローブは一見して魔法士のそれと分かる特徴的なものではあったが、大陸でも貴重な金糸と銀糸を編み込んで作られたそのローブは彼女が特別な立場の人間である事を周囲に知らしめるに十分な高級感を醸し出していた。

 まだ二十代前半であろうか、うら若いその女性は長い艶やかな金髪を腰まで伸ばし、整った顔立ちに薄っすらと笑みを浮かべ黒衣の男を出迎える。


 女性の胸元で輝きを放つ首飾り……精巧な銀細工が施されたそれは、だが見た事も無い生き物を象っている。

 梟と鴉の合いの子の様な歪な生物の名はカラグナ。

 冥府の女王シャウラの使い魔とされる神話上の生物であるカラグナは同時に人間を知識の泉へと誘う導き手としての逸話を持つ。故にカラグナは協会の象徴であり、それを象る首飾りを身に付ける女性、アルテイシア・ミレットは協会でも最高位の魔法士の一人でもあった。


 動乱と災厄という未曾有の惨劇が大陸に吹き荒れた結果として、大陸全体の人口に対する男女比は四対六と女性の数が男性を上回るという統計が出されていたが、王制を敷く王国が大陸の大半を占めている封建的な社会の中で女性の地位は今だ高いとはいえない。

 それに加えて現在の大陸には魔物という具体的で身近な脅威が存在し、それ故に身体的能力が男性に劣る女性が軽視され、一部の国や地方では男尊女卑という思想に拍車を掛ける結果になっているという否めぬ現実が確かに存在する。

 そうした中、男性よりも女性が優遇され台頭できる組織が存在する……それが魔法士と呼ばれる異端の存在を中心に構成されている協会である。

 物理的な身体能力が総じて男性が高い様に、魔法的資質は女性が優れているとされ、それを裏付ける様に史実的に見ても開祖アグナス・マクスウェルを除けば、賢者エリーゼ・アウストリアを始め災厄の魔女カテリーナと大魔法士と呼ばれる多くの者たちが女性であったのだ。

 そしてこれは公には知られてはいないが、体外的な象徴でもある協会長こそ男性ではあるものの、協会の最高意思決定機関にはアルテイシアを含めかなりの数の女性の姿が見られる。

 魔法士を快く思わない一部の民衆の間では、本来女性に対する侮蔑的な用語である『魔女』という単語をそのまま魔法士全体に当て嵌める風潮が見られ、裏を返せばその事が女性の優位性の高い職として大陸全土において広く認知されていることをも意味していた。


 「それと、森に回収に向かった者たちからの報告によるとアウグストの遺体は発見出来なかったようだ」

 

 そうですか、と呟くアルテイシアには黒衣の男の報告に左程驚いた様子は見られない。


 「あの魔女と渡り合って生き延びるとはあの男も存外にしぶといですわね、でもまあいいですわ……網を広げ絡め取るとしましょう。あの男にはまだ利用価値がありますし、なにより聞いて置かねば為らない事もありますから」


 アウグストと協会の間には表沙汰には決して出来ぬ浅からぬ縁が存在する。

 これまで互いに利用し合ってきたが、エリーゼ・アウストリアが直接動き出したというならば協会としても見過ごす事は出来ない。アウグストとの関係も一歩先に進めねばならないだろう、とアルテイシアは結論に達していた。

 

 「ではルシウス、我らが魔女、カテリーナお嬢様をお迎えに行くとしましょうか」


 「その名を使うのは止めておけ、色々と問題が生じるであろう」


 嬉々とした表情を見せ、まるで歌う様に語らうアルテイシアを黒衣の男、ルシウスは眉根一つ動かす事なく諌める。

 

 「そう……ですわね、今は何と名乗られていらっしゃったのかしら?」


 「エレナ・ロゼ、と。南部では福音の風として名を馳せていると聞いている」


 ルシウスの言葉にアルテイシアは、はっ、と息を呑み口元に手を当てる。


 「福音の風……素晴らしい……本当に素晴らしいですわ。まさに我ら魔法士に福音を齎す存在……真理へと至る鍵……」


 恍惚とした表情を見せるアルテイシアの姿は妖艶で妖しく……そして美しかった。だが年頃の娘には余りに相応しくないその雰囲気はより大人の色香を感じさせ見る者を魅了する。

 魔法士の見た目と実年齢は必ずしも一致しない……特に女性の魔法士は。

 魔法士という存在を深く知る者ならば常識的と呼べる程に一般的な知識ではあったが、エリーゼ・アウストリアがそうである様に、このアルテイシアもまたどれ程の長き時を生きてきたのか、この場にそれを知る者はいない。



 

 トルーセンの領主邸の一室。

 周囲の廊下を警備隊の男たちが昼夜問わず巡回し、扉の前には常に歩哨が立つ物々しい警戒の中、その室内の寝台には眠る様に身を横たえている少女の姿があった。

 室内にはもう一人、少女の身の回りの世話と容態の急変に備え侍女が常時交代で付き添っていた。


 侍女は甲斐甲斐しく意識のない少女の身体を濡らした布地で拭いていくが、侍女の視線は時折少女から外され、居た堪れない、といった悲痛な表情を浮かべ何度となくその手が止まる。


 白磁の様に白く艶やかで美しかったであろう、少女の肌は生気を失い青白く乾燥し、潤いを失ったその肌はとても生者のものとは思えない。

 そして余りにも損傷が激しい、左腕と顔の左半分は外気や周囲の目に触れぬよう隠されてはいたがローナウドが手を付けられぬほどに酷い有様だとという。

 通常壊死が始まった左腕と、特に左目の周囲の部分は早急に切除しなければ、壊死が全身に、脳にまで及び死に至るというのは、魔物の被害や戦乱の世を生きてきた大陸の人々には医学の知識とは別に経験として持っている知恵の一つ……だからこそ、それを行わないローナウドに対して侍女はある種の疑惑を抱いていた。

 もう既に三日に渡り少女の意識は戻っていない……それがもしローナウドが施した投薬の作用だとしたら……治療が不可能な、回復が見込まれない哀れな患者に対して、ローナウドは少女に意識を失わせたまま緩やかな死を与えようとしているのではないのか、と。

 もしそうなら、それは絶対に救え、と命じた主であるロボスへの背信行為に他ならない……だが同じ女性の身として少女を見た時、同情してしまう、理解出来てしまうのだ。

 少女のことを良く知らぬ自分から見ても彼女は余りにも……美し過ぎた……いや、美しかった、と言うべきだろうか。

 これだけの美貌を持って生まれたこの少女は、これまでの人生において男たちに蝶よ花よ、と持て囃されてきたことだろう……彼女の願い事を断れる者などいない程に男たちを魅了してきたに違いない。

 だがこれから彼女の人生は一変する事になる。

 今の彼女の姿を見れば多くの者たちが手の平を返した様に離れていくだろう……残った身近な者たちも、もう二度と以前の様な笑顔を彼女に向けることはなくなるのだ。

 それ程に……完成された美が歪むということは、ともすれば嫌悪感を抱かせる程に無残で……醜悪なものなのだ。

 満足に身体を動かす事も出来ず、常時投薬を続けねば気が狂う様な痛みに精神を蝕まれ、自分から目を背ける者たちに自尊心を傷つけられながら、自己を否定され続ける様な地獄の日々を送り続ける……そう考えた時、自分ならば耐えられるのか……答えなど分かりきっている。

 自分ならば間違いなく泣いて縋り、殺してくれと懇願するだろう事を。

 

 今の自分の姿を近しい者に見られることを少女は恐らく望まない筈だ……だとすればこのまま人知れず、眠るように神の身元へと送ってあげた方が幸せなのではないか。


 そうした女性としての思いがローナウドの不審な行為をロボスへと報告しようとする彼女の忠義心を揺らがせ、迷わせていたのは間違いない。

 

 思案している侍女は不意に意識が遠のく様な感覚に、強烈な睡魔にも似たその感覚に、懐中に忍ばせている短刀へと手を伸ばす。

 主の身の回りの世話をするのが侍女の役割の全てではない。有事に際しては我が身を盾として主を守護する為に特殊な訓練を受けてきた彼女だからこそ、この異変が人為的なものであることを瞬時に察し、身体が無意識に反応する。

 だがその彼女ですら突如生まれた背後の気配に対して振り返るのがやっとであった。振り向いた侍女は瞳に長身だが細身の女性らしい姿を映し出し、瞬間、その意識は深い闇へと堕ちていく。

 

 昏倒し意識を失った侍女は床へと倒れ込み、それを絶世の美女が冷やかな眼差しを向け見下ろしていた。


 暫くその侍女の姿を眺めていた美女、エリーゼ・アウストリアはやがて興味が失せたかの様に寝台に横たわる少女、エレナの下へと歩みを進める。

 この騒ぎにも微動だにせず、まるで神話の眠り姫の様に瞳を閉ざすエレナの胸元にエリーゼは右手を伸ばすと、その指が鮮やかに詩篇を綴るかの如く術式を組み上げていく。

 やがて構成された術式により集められた魔力が魔法元素へと昇華を始め、術式に示され、込められた言霊を再現する為に事象に干渉し、理を歪め、魔法は発動する。

 

 瞬き程の刹那、エレナの身体を淡い光が覆い、そして消える。


 万物に作用し事象に影響を与える魔法の効果は絶大であり、これまでまったく変化が見られなかったエレナの残る右目の瞼が僅かに、だが確かに断続的に震えだし……やがてその瞼が開かれる。


 「酷い有様だと聞いて心配していたのよ、エレナ」


 まだ意識が混濁しているのだろうか、虚ろな眼差しを自分へと向けるエレナにエリーゼは憂いを帯びた口調で問い掛けるが、その言葉とは裏腹にその瞳には何かを期待しているかの様に妖しい輝きが宿っている。

  

 「本当に貴方には驚かされるわね……ただの人間が面白い技を使う」


 エレナの右目……自分へと向けられている赤い瞳をエリーゼは興味深げに見つめていた。

 

 魔法人形でも最上位とされる生体人形は愛玩用として用いられる程に人体と区別がつかぬ構造を持つが、それはあくまでも見た目上だけの話であり、その本質において人間とは似て非なる存在なのだ。

 人間の様に生命活動を維持する為に栄養を摂取する必要もなく、また成長や老いすらない希少ではあるが魂の宿らぬただの人形に過ぎない。

 故にどれ程の外的圧力が掛かり重度の損傷を受けようと人体の様に死を迎えることなどない……ただ破損し壊れるだけだ。だが禁呪により魂を定着しているエレナの様な存在は、本来ならば人形の損壊と共にその繋がり自体が絶たれてしまう筈なのだが……。


 エレナが使用した『アルカナル・ペイン』の精神支配は人形の身体にまで作用を齎し、今だアインス・ベルトナーという魂をエレナ・ロゼの身体に繫ぎ留めている……いや、縛り付けている、と言った方が正解か。

 『アルカナル・ペイン』の本来の効果を知らぬエリーゼではあったが、エレナ・ロゼという生体人形にとって、それは永続魔法にも等しくその魂と肉体を絡めとる呪い呼べる程の効果を発動し続けていると推測していた。

 それが結果としてこの様な状況を招いているのだから、エレナにとってその事が災いが幸いかと問われれば答えに窮するのだろうが。

 

 「ああ……可愛そうなエレナ……でも私にして上げられることは何もないの……人の身体を癒す魔法などこの世界には存在しないのだから」


 身振りを交えエレナを心配するエリーゼの姿はやや芝居掛かった大げさな演技にすら見えなくも無かったが、まだ意識がはっきりとせず思考が回らないエレナは言葉通りにその意味を受け取ったのだろう、そっと瞳を伏せる。

 エレナのその姿にエリーゼは期待に満ちた眼差しを向ける。


 自分という存在が最後の希望であった筈のエレナが、自分がこの場に現れたことで否が応にでも高まったったであろう希望が打ち砕かれたその瞬間の……エレナが見せる絶望を見逃さぬ様にエリーゼの意識がそのエレナの表情に注がれる。


 「状況は分からないけれど……私が生き延びたというのなら、あの二人も無事なのだろう……なら十分過ぎる……本当に十分だよ」


 満足に動かぬ身体、醜い傷跡を残す己の顔、その全てを理解し受け止めて尚、エレナには絶望も後悔の色もない……それどころか口元を僅かに綻ばせ笑っている様にすらエリーゼには見えた。

 

 己が闘争の果てに齎された結果にエレナに異があろう筈がない。


 それはエリーゼにも分かっていた事……この者の心が……魂がこの程度の事で折れるはずも挫くことなど出来ぬことを。


 我が身を呪い、泣いて救いを求めてくれば多少は可愛げもあるというのに。


 元々が只の余興……自分の無力さを思い知らせる為に思い付いた程度の遊び……だが結局エレナの行動はこの街を救い、彼女の名を高める事に繋がった。


 これも貴方の加護なのかしらね、カテリーナ……。


 エリーゼはらしくなく、本当にらしくなくエレナの前で俯き大きく肩を落とし嘆息する。

 

 「さて……茶番はこの辺にしておいて、さっさとその身体、直してしまうとしましょうか」


 僅かな沈黙の間を経て顔を上げたエリーゼは、エレナの良く知る思考の読めぬ、だが決して憎めぬ愛嬌すら感じさせるいつものエリーゼ・アウストリアその人の姿であった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る