第145話


 早朝の森は寒暖の差が激しく、森全体を包み込む様に発生した朝靄が人影を……少女の姿をぼんやりと霞ませ映す。ほっそりとした少女の両腕の影が大気を切り裂く様に十字の軌跡を刻み、その両の手が腰へと交差されると、刹那、両手の双剣が腰の鞘へと収まるカチン、という短い金属音のみが周囲に響く。


 ギ…ガガガッ。


 金切り声にも似た呻き声が静寂に包まれる森の中、刹那響き――――頭部の複眼を縦に両断され、胴体の半ばまでを断ち切られた中級位危険種、ベイルスナッチャーがその胴体部を二つに別ちながら背を向ける少女、エレナの後方の大地に沈む。


 周囲に生物の気配が途絶えた森の中、無数の魔物の屍を前に返り血で真紅にその身体を染め上げた美しき少女の姿だけが、まるで虚ろな幻の様に朝霧に映り込んでいた。





 小川を遡る様に進む少年たちの姿がある……エレナたちが森の中を彷徨い始めてから四日目が過ぎようとしていた。


 「大丈夫ですか エレナさん?」


 「問題ないよ、レオ」


 心配げに自分を見つめるレオニールにエレナは笑顔を向け答える。


 普段と変わらぬエレナの様子にレオニールはそうですか、と呟きそれ以上追及する様な真似こそしなかったが、納得はしていない、といった表情を見せる。

 明らかに血の気の薄く青み掛かった疲労を感じさせるエレナの表情……その額に滲んでいる珠の様な汗、いくら平静を装うとしても明らかにエレナの体調が優れぬことくらいレオニールにも察することが出来る。

 いくらエレナが鋼の様な精神力を有しているとはいっても、肉体を自制するのも自ずと限界は存在する……つまり精神力で押さえ込める限界を超えてその身体が悲鳴を上げているのではないか、とレオニールは心配していたのだ。

 それを……エレナの異変を感じて尚レオニールが会話を終わらせたのは、例えその事を追及したとしてもエレナが絶対にその事を認めないでろうことが分かっていたからに過ぎない。

 相手が絶対に折れないのが分かっていると言うのに無駄に口論など重ねても、エレナに余計な負担を強いるだけだということが分かっていたからだ。


 道なき道、獣道とすら呼べぬ険しい森林を抜けるより、砂利道が続き歩き難いとはいえ、自然に切り開かれた小川沿いは少なからず道らしき呈を保っていた。

 そうした意味では比較的体力を温存し易い行程であるにも関わらず、最後尾を歩くエレナが気づかれぬ様に速度を調整しながら、だが確実に自分たちに遅れ勝ちになるほどに体力を消耗している事実にレオニールは言葉を失う。


 この森に入ってからまだ一度も魔物の襲撃にはあっていない……レオニールはその幸運に、神の奇跡を前に心の中で祈りを捧げていた……だが本当にそうだったのであろうか……自分やクロイルが惰眠を貪っている間、この少女は同じ様に睡眠を取っていたのだろうか、と。


 そして本当に魔物は一度も自分たちを襲うとしなかったのだろうか、と。


 それに思い至った瞬間、レオニールの顔から血の気が失せていく。


 自分が思い描く想像が真実だとしたら……その余りの事態の深刻さにレオニールは進めていた歩みが遅れる。だが先頭を歩いていたクロイルもまた小さな岩場に徐に腰を下ろした為に、結果として二人は並ぶ形で足を止めていた。


 「悪いなエレナ、足が痛くて今日はもう歩けそうに無い」


 クロイルは右足を摩る仕草を見せながら近づいてくるエレナを見上げ呟く。


 「エレナさん、僕も少し体調が思わしくないので今日は早めに休むことにしませんか」


 自分に追従する様なレオニールの言葉にクロイルは露骨に顔を顰め、無言の抗議をレオニールに向けるが、レオニールはレオニールでしれっとクロイルを無視して見せる。


 確かに過酷な強行軍を強いられているとはいえ、クロイルの性格を考えても絶対に弱音など吐くような男ではない……苦しければ苦しいほど、きつければきついほど、他人にその弱みなど見せない……クロイルとはそういう男だという事をレオニールは誰よりも知っている。

 だからこそ、そのクロイルが自分から休もうなどと言い出す理由などレオニールには一つしか思い浮かばない。


 クロイル一人に良い格好などさせない、それがレオニールの発言の意図であり、クロイルへの牽制でもあった。だが同時に二人共がエレナを少しでも休ませてあげたい、という共通の思いからの行動であることは間違いなくクロイルもそれが分かっているからこそ、自分の見せ場に水を差すレオニールに対して言葉による抗議を敢えて控えていたのだ。


 「そうだね、無理をしても得はないし今日は早めに休息を取ろうか」


 クロイルやレオニールの予期せぬ提案をエレナはあっさりと飲む。

 本来ならば少しでも距離を稼いで置きたいであろう状況にあっても尚、ともすれば我侭とすら取られ兼ねない二人の言葉にエレナはだが、まるで苛立ちの様な感情を見せることすらない。

 

 それは親が子を守る様な、姉が弟を見守る様な、下手をすれば過保護な程のエレナの自分たちに対する接し方に、自分たちの言葉を疑うことも無く、その身を心配するエレナの姿にレオニールもクロイルも複雑な思いが湧き上がりはしたが、今はそんな感傷に悩まされている場合ではないだろう、と二人共強引にその思いを心の隅へと押しやるのだった。


 開けた水辺は歩きやすく、また水の確保を始め色々便利な側面を持つ反面、おうとつの激しい砂利道ゆえに何の準備も装備もないエレナたちでは横になって休息を取ることが難しく、砂利道を外れた土の面も水分を含みぬかるんでいる為に休息を取る場としては適さなかった。


 その為エレナたちは小川を離れ、再度密林の中へと分け入ったのだが……。


 「まったく……次から次へと」


 エレナは腰の長剣を抜き放ち、レオニールとクロイルもまた剣を抜き、死角を埋める様に背中合わせに周囲を警戒している。


 エレナたちの視界の先、無数の木々が薙ぎ倒され円状に広場を形成している……決して自然現象とは考え難い人為的に作り出されたその空間を前にエレナは周囲の気配を探る。


 間違いなく戦闘による爪跡……しかしこれだけの規模の破壊は人間同士の戦闘ではあり得る筈もない。


 「二人共、私から離れないように」


 緊張を含んだエレナの言葉に二人は頷く。

 緊迫した状況下では黙ってエレナの指示に従う……それが二人の間で暗黙の約束事になっていた。


 薙ぎ倒され、切り開かれた広場の中央、この場にあって尚明らかに異質な……黒い塊が横たわっている。無言でソレに歩み寄るエレナの後方、その背を守る様にレオニールとクロイルが続く。


 「ヘイル・スロース……」


 まともに原型を留めてはいないとはいえ、忌まわしき黒き騎士の姿をエレナが見間違う筈は無かった。

 地面にめり込み拉げた漆黒の鎧、想像を絶する程の圧力によって押し潰されたとしか思えないヘイル・スロースの四肢は千切れ飛び、エレナですら断ち切ることが出来なかった程の硬度を誇った胴体部のみがまるで鉄屑の如くその場に存在している。


 完全に活動を停止し地面に埋もれる黒い残骸を前に驚きの表情を見せているエレナに対し、レオニールもクロイルもこの現状よりも寧ろエレナがこうして感情を乱すことの方にこそ驚きを覚えていた。

 無論それは二人が上級位危険種という種に対する知識の乏しさ故ではあったが、この事態の不可解さと深刻さが直ぐには理解が出来ず、彼らにしてみれば何事にも動じないエレナのこうした姿の方にこそ、より身近な驚きを感じていたのだ。


 エレナは五感を研ぎ澄まし全神経を集中させて周囲の気配を窺う。

 レオニールとクロイルがエレナに何か話し掛けている様であったが、それすら気づかぬ程にエレナは意識の全てを周囲へと向けていた。

 上級位危険種が討伐不可能な対象では無い事はエレナ自身が証明している……だがこれが人の手で行われたと思うには余りに異様に過ぎた。

 

 考えられるとすれば魔法……だが物理原則を歪めるような、事象に干渉する魔法などエレナにしても俄かには信じ難い話であったのだ。

 魔法というものに対する造詣こそ深くはなかったが、ビエナート王国で暗躍していた魔法結社を壊滅させた経験を持つエレナは魔法士たちの暗部もまた実体験として知っている。

 エリーゼ・アウストリアという規格外の存在を別にすればこれまでエレナが手に掛けてきた魔法士たちが持つ対人戦闘魔法は、相手の意識を奪い、行動を制限させる様な精神干渉系の魔法のみ。

 精神干渉といえば脅威に聞こえるかも知れないが、特殊な訓練を積めば耐性を得られるそれらの魔法は騎士たちにとっては深刻な脅威にはならず……まして魔物との戦いにおいては行使する魔法そのものが役に立たぬ為、魔物に対して魔法士の存在は無力と言って良い。


 だが……その認識は改めねばならない、ということなのか……。


 上級位危険種を屠れる程の物理干渉系魔法……そんなものがもし本当に存在するのならば、魔法士という存在が人々にとって容易く恐怖の対象に転化するであろう事は想像に難しくない。

 それだけに留まらず齎されるその事実によって大きな混乱や血生臭い暴動を含む排斥運動にまで発展する恐れすらあった。

 少なくとも魔法士たちが組織の中核を担う協会という存在を中心にして大陸の力関係自体が大きく揺らぐことになるのは間違いない。


 

 常人の範疇を逸脱した鋭敏な感覚を有するエレナが、全神経を集中させねば気づけぬ程の僅かな違和感……ざらつく様な異質な気配を感じた刹那――――エレナは駆ける。


 エレナの戦闘を目にしていたレオニールやクロイルですら、一呼吸の間に開かれたエレナとの距離に、俊敏などという言葉すら当て嵌まらぬ物理法則を疑う程の反応速度に、制限を外したエレナの全力の高速戦闘――――その一端を目の当たりにした二人は驚くよりも先に思考そのものが一瞬停止する。


 エレナの両手からアル・カラミスとエルマリュートの双極が旋風を巻き起こし何も存在しない筈の空間へと放たれる。


 刹那――――世界が崩壊する。


 エレナの眼前で空間そのものが軋み――――そして砕け散った。


 

 双剣から確かな手ごたえを感じながら、睨む黒きエレナの瞳の先、先程まで存在していなかった筈の存在が……漆黒の魔法士が地に座している。

 いや……座しているという表現は正しくはないだろう……引き千切られたのだろうか、歪な切断面を覗かせる上半身のみが大地に存在していた。

 一見すれば無残な死骸……この状態で人間ならば生きている筈などない……だがその魔法士は確かに自身の胸元で、枯れ果てた細木の様な両手で呪印を結んでいる。


 「人を捨て人外にまで堕ちたか魔法士」


 アル・カラミスの刃先を地に座す魔法士に突きつけ、一片の憐憫すら感じさせぬ、冷徹な刃の様なエレナの言葉が静寂を取り戻した広場に響く。


 「心外なことを言う……我が友よ……そなたとて此方側の人間ではないか」


 ぼろぼろのフードは最早や機能を失い、焼け爛れた頭皮、削り取られた鼻、想像を絶する拷問の痕を窺わせる魔法士の男……アウグスト・ベルトリアスは白濁した両眼でエレナを見上げ……崩れた唇を僅かに歪め笑った。

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