第143話


 月明かりのみが照らす深い森の中、翳す手すらも見えぬ闇の中にぼつり、と淡い光が灯っている。焚き火に焼べられた小枝がバチバチッ、と爆ぜる音が静寂に包まれる森の片隅で断続的な音色を刻んでいた。

 焚き火の淡い光が大樹の幹を背に腰を下ろす三つの人影を浮かび上がらせている。

 もし第三者がその光景を目にしたならば、一様に目を見開き驚愕の表情を浮かべたことだろう……何故ならばこの様な場所に人間の姿がある事自体、災厄後の大陸では有り得ない光景であり……しかもその人影は、焚き火に照らされる面差しはまだ幼さを残す少年、少女のものであったからだ。


 「上手くやり過せましたかね」


 周囲を警戒する様に見回していた少年の一人、レオニールは大樹に背を凭れ掛からせ休息を取っている少女、エレナへと声を掛ける。


 「どうだろうね、そう多くの気配は周囲には感じないけど」


 レオニールの問い掛けに俯き瞳を閉じたままエレナは答えるが、エレナの言葉の意味を理解したのだろうかレオニールだけでなく、隣に腰を下ろしているもう一人の少年、クロイルもまた青ざめた表情を浮かべ慌てて周囲に広がる闇へと視線を送る。


 多くの気配は感じない……裏を返せばまったく気配がない訳ではない、という事にはならないか。


 クロイルは事も無げに告げられたエレナの言葉の意味を察し首筋から冷たい汗が滲むのを感じる。

 

 こうした深い森には平野部と比べても相対的に高位の魔物が多く生息しているというのが定説になっている……強奪する者ベイル・スナッチャーに代表されるそれら中級位危険種たちの名はクロイルやレオニールたち騎士見習いに対して真っ先に教えられる死そのものの名と言っても良い。


 「大丈夫だよクロ、狩りに特化した個体は総じて慎重な種が多い、此方が集中を切らさぬ限り安易に襲ってきたりはしないから」


 愛称で名を呼ばれ、むず痒そうにエレナに目を向けたクロイルは、顔を上げたエレナの黒き眼差しの鋭利な輝きにはっ、と息を呑む。

 焚き火に照らされ赤き焔を宿すエレナの澄んだ黒曜石にも似た神秘的な黒い瞳……僅かに細められ、まるで研ぎ澄まされた抜き身の刃を思わせるその眼差しの鋭さが、エレナが身体を休めながらも決して周囲への警戒を怠ってなどいない事を示していた。


 通常こうした場合、お互いに交代で休息を取り合うのが常であろう……だがエレナは二人に対してそうした声掛けをしてはいない。

 その理由は明白でありクロイルもそしてレオニールもその事に気づいていた……自分たちでは焚き火の番は出来ても、暗闇を忍び来る魔物への警戒は荷が重いという事に。

 

 エレナが突出した剣の技量を誇る凄腕の傭兵である事は置いておいても、自分たちの力量が置かれているこの難局に比してまるで無力な存在であるという事実に、歯噛みするほどの無力感にクロイルは襲われる。

 エレナと自分たちの歳の差は精々離れていても一つか二つ……だがその内実は赤子と大人程の大きな隔たりがあり、エレナにとって自分たちは只の足手纏い……いや、重荷でしかないだろうことは疑いようも無い。


 「君たちはまだ若いのだからこれから多くを学んでいけはいい、焦る必要など無いんだよ」


 クロイルが浮かべた表情から何かを察したのだろう、エレナはクロイルだけでなくレオニールにも聞こえる様に二人へと呟く。

 

 同年代の少女にしか見えないエレナのその大人びた言葉や滲み出す雰囲気に、二人は本来なら感じて当然であろう、反発や苛立ちを不思議と抱く事はなく、それどころかこの状況にあって尚、冷静な、落ち着いたエレナの姿に安心感すら覚えていた。

 

 エレナが見せる圧倒的な剣の技量だけではなく、歩んできた道程が、経験が違い過ぎる、と自分たちと同様に高々十六年近くしか生きていないであろう少女に対して信じ難い話ではあるが、目指すべき目標であったバルザックと同じ、騎士としての気高さと共に戦場を生き抜いてきた者のみが持つ独特な雰囲気を感じ取っていた。


 「例えばこの森の様に山脈を背にある程度の方角が分かるこの状況は寧ろ恵まれている……もしそうした目印となるものがない場所で身一つで放り出されたらどうやって方角を知る?」


 クロイルもレオニールもエレナの問いに直ぐには答えられない。

 剣術の鍛錬は別に置いても彼らが学んでいたのは魔物の種別や戦い方、そして騎士としての心構えといったものが殆どを占めていたからだ。

 

 「昼間ならば太陽、月、風、夜ならば星、森ならば樹木、平原なら草木が……この世に存在する森羅万象全てがそれを教えてくれる。君たちがまず学ぶべきは生き残る為の術、知識。勇敢に戦うのもいい……だが若者たちよ、始めはまず生き残る事にこそ全力を尽くしなさい」


 エレナの口から語られるのは助言……それは対等な立場の者からは聞かれること無き、諭す様な目上の者を思わせる言葉ではあったが、その事に特に不信感を抱いた様子は見られず二人共神妙な面持ちで聞き入っている様であった。


 

 そんな二人の様子にエレナは内心でほっ、と息を吐く。

 二人を動揺させぬ様、務めて平静を装ってはいたがこの現状がかなり逼迫している事は間違いない。

 

 口には出さぬが二人が山脈を越えた魔物の群れの心配を……トルーセンの街を襲うのではないのか、という不安と焦りを常に抱いていることは感じていたが、エレナはその可能性は薄いと考えている。

 確かに能動的に活動する魔物の行動を予測するのは難しいが、もし群れを為した魔物が常に都市部を目指すという特性を持つならば当に人間は滅んでいただろう。

 人間の理解を超えた不可解な行動原理を持つ魔物だからこそ逆に遠く離れた海辺の街まで魔物の群れが向かうとは経験上考え難かったのだ。

 

 故にエレナが抱く不安はもっと別のところにあった。


 そう……この森とトルーセンとの距離こそが今のエレナたちにとって最大の障害となって立ち塞がっていたのだ。


 襲い来る魔物の脅威に加え、エレナの目算では森を脱するのに後二日、街道に出てからトルーセンまで徒歩で四日……はっきりいって絶望的な距離だ。

 

 エレナが携帯している食料や水は、どう節約しても三人ならもって二日……これが商隊などの往来がある街道であるならば森さえ抜けられれば助かる可能性はあった……だがトルーセンに続く街道ではその期待はもてない。

 満足な睡眠も食事も取れず、蓄積されていく疲労を考えても、もしエレナ一人であったとしてもかなり際どい行程を……二人を共に連れればまず間違いなく途中で行き倒れるだろう。

 だが考えて見れば当たり前の話ではあるのだ……今のこの大陸で陸路を徒歩で渡るなど自殺行為以外の何物でもないのだから。


 仮に自分一人ならば僅かにでも助かる可能性があったとしても、だからと言ってエレナに二人を見捨てていくなどと言う選択は始めからありはしないのだから、前提としてないことをエレナが悩む筈もなかった。


 後は約束の刻限を過ぎて、アニエスがどう動くかだけど……。


 だがそれを期待するのは余りにも虫が良すぎる話であり、そもそもアニエスまで街を離れてしまってはトルーセンを守護する戦力が低下し過ぎてしまう。なによりも自分を信じてくれているアニエスがそんな危険を冒してまで街を離れるとはエレナには思えなかった。


 あの子たちが無事に街に着いてルイーダが戻って来てくれれば……。


 期待を寄せるには余りに不確定要素が多く、拠り所にするには危険なものではあったがそれですら最も三人が助かる現実的な可能性なのだから、今エレナたちが置かれている状況が如何に絶望的であるのかが窺える。


 「二人共、少し休んだ方がいい、大丈夫もう魔物の気配はないから」


 エレナは焚き火を囲み自分の前に座る二人の少年たちの姿を一瞬見つめ、直ぐに瞳を伏せる。


 だがそれは睡眠を取る為ではない……そう自分が見せねば彼らが身体を休めようとしないことが分かっていたからだ。

 

 だからエレナは嘘をついた。


 瞳を閉じていてもエレナの五感は焚き火を中心に闇夜を蠢く複数の気配を捉えていた。

 気を許せば即座に襲い掛かってくるであろうその獰猛な気配に、エレナは双剣をその両腕に抱える。

 

 ――――瞬時にその刀身を抜き放てるように。

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