第133話
「本国は我らを見捨てる算段をたて、協会もそれに追従する腹づもりであるとそう受け取っても構わぬのだな」
自身の屋敷の応接間に集う主要な面々を前に今後の対策を話し合っていたロボスは、煮え切らぬ協会員の態度に激昂した様に口火を切る。
ロボスの知らず握られた拳はその感情の捌け口として、腹いせに眼前の机へと振り下ろしかけるが自身の隣に座る女性、アイシャの諌める様な眼差しに気づきなんとか自制する。
この場での自分の立ち位置を考えても儘ならぬからと言って悪戯に癇癪を起こし感情のままに行動して、皆の前で己の無様な姿を晒しても何の益にもならぬ処か全体の士気を下げ、話し合いの場における活発な意見交換を阻害する弊害しか生み出しはしないからだ。
しかしロボスの苛立ちや怒りは決して的外れなものであった訳ではない。
協会と王国に再三に渡り救援の要請を送っていたロボスに対し沈黙を続ける王国と、ロボスの依頼に対して協会は傭兵の手配を約束しておきながら今だ一人としてトルーセンに到着しない傭兵たち……今回の一連の事態において王国の対応は不自然さを感じさせるものではあったが、それ以上に協会の動きにロボスは拭えぬ強い違和感を覚えていた。
大陸全土、国の垣根を超えて拠点を持つ協会は国の思惑に左右されず、また干渉されることなく魔物への対処に当たる為、全ての勢力に対し原則中立を建前上謳っている。
だが傭兵の手配からその討伐に始まり被害者や避難民への対応、広範囲の土地における情報収集……多岐に渡る組織活動を円滑に進める為にはどうしてもその国の勢力……権力者たちと蜜月とは言わぬまでも少なからず良好な関係を、協力体制を維持していかねばならず、お互いの利害が一致すれば国の思惑に、その方針に沿った行動を取ることも珍しい話ではない。
それらを踏まえ、トルーセンへの対応について協会と王国との間に何らかの取り決めが成されたいるとロボスが勘繰っても不思議なことではなかったのだ。
「ロボス様のお怒りは御尤もとは存じますが、我らもセント・バジルナの支部だけではなくライズワースの本部に対しても幾度にも渡り嘆願の書状を送っております……しかしながらより良い返事処か返書すら届かぬのが現状でありまして……」
法衣と呼ぶには地味で飾り気のないローブを纏った一見して魔法士と分かる中年の男……トルーセンの協会の支部長を務める男は申し訳無さそうにロボスへと頭を下げる。
その様子から見ても男が虚言を弄しているとは思えず、またロボス自身も移動鳩を使いライズワースとの連絡を試みていたがほぼ同様になんらの返信もない状態にあった為、男自身が何かしらの策謀に関与しているとは現状考え難かった。
現在の大陸において主要な情報伝達方法は魔導船や商船を用いての人的手段を別にすれば、鳥類の帰巣本能を利用した移動鳩と呼ばれる鳥類の中でも帰巣本能に優れ比較的安価な鳩を用いる手段が一般的に普及してた。
しかし如何に帰巣本能が優れた鳩といえど、飛行中に方向を見失い迷ったり、または猛禽類に襲われ命を失うといった事例は少なくはなく、確実な伝達手段としては些か安定性に欠く面は否めず、その為重要な書簡の運搬には不向きであることは否めない。
そして鳩たちはあくまで自分たちの巣に戻る為に飛び立つ為、巣の存在する目的地以外には飛ばせぬ上に、このトルーセンへと自力で飛んで戻ることも出来ず、再度利用する為にはその鳩たちを再度トルーセンへと運搬せねばならない。
飛ばせるのは巣のある一箇所のみ、しかも片道しか使えず回収の労力も必要とされるこれら移動鳩は利便性や効率面においても甚だ問題が多く円滑な情報伝達手段と呼ぶにはほど遠かった。
「王国のこの仕打ち……我々が一体何をしたというのでしょうか……」
応接室に集まる中の一人、実務を預かる文官の多くがセント・バジルナへと避難した中でロボスと共にトルーセンに残ることを選んだ実直そうな初老の男がうな垂れ呟く。
この場に集められた主要な面々の内、警備隊の隊長、自警団の団長といったトルーセン在住の男たちがそれに同意と憤りを示す反面、トルーセンの守護の要として召集を受けたエレナやアニエス、そしてカルヴィンなどはそうした場の雰囲気にやや困惑した様な表情を見せる。
外の人間……部外者である自分たちが街の方針に口を挟むことが憚られ成り行きを見守っていたエレナではあったが、必要以上に王国や協会の陰謀や策謀を疑い袋小路に陥っているこの場の流れに、彼らの認識に正直、戸惑いに近い感情を抱いていた。
本当に彼らは分かっていないのだろうか、と。
その事について口を開きかけ……エレナは逡巡する。
それはエレナにしては珍しく煮え切らぬ態度ではあったが、現在自分やアニエスが今だ形式上においてはギルドに所属する傭兵であるという自身の曖昧な立ち位置がエレナの口を重く閉ざさせる。
ギルドに所属する傭兵にはその活動において得た情報に関してその情報がギルドや延いては王国に対し不利益になる場合、口外することを禁じる守秘義務のようなものが存在する。
このまま行けば遠からず除籍処分にはなるのであろうが、現状まだギルドに在籍している以上、その禁則事項に触れかねない話は出来るだけ避けたかった。
何故ならばそうした不用意な発言は自分やアニエスには問題がなかろうと、巡り巡ってレティシアたち双刻の月に迷惑を掛ける事態に発展しないとも限らないからだ。
特に双刻の月は上級危険種、穢れし殉職者アンダーズ・ペインの一件を皮切りに、黄昏の獅子の事件、そしてアドラトルテの戦いと国内外の騒動、その暗部に触れている。
双国の月というギルドが規模は小さくとも一部の有力者たちの注目を集めているという事実が確かに存在している以上、エレナとしては出来うる限りその辺りに触れざる得ない話をすることは避けたかったのだ。
そうしたエレナの迷いを知ってか知らずか、カルヴィンが、こほん、とわざとらしい咳払いを一つ付き周囲の意識を自分へと集める。
「ええ……っと、皆さんなにか誤解してませんかね」
場の雰囲気にそぐわぬ軽い感じで話し始めるカルヴィンに応接室に集まる全員の視線が集中する。
「どういう意味かねフェルス殿」
カルヴィンの真意を図りかねロボスは不審げに眉根を顰めさせる。
「ですから、はっきり言っちゃうとですね……ええっ、と例えばこの街の今の人口はどれくらいですかね」
「希望者や商人たち、そして役職に就いていた主要な面々を含めると街の住民の半数以上は避難を済ませていますので、現在このトルーセンに残るのは四千から五千の間……といったところでしょうか」
ロボスに代わり文官の一人がカルヴィンの問いに答える。
「なるほど……では五千としてですね、その程度の数、戦場で出る死傷者数に比べてもそれ程深刻な数字ではないんですよね」
カルヴィンの口調が軽いゆえ、その発せられた言葉の意味と……そしてその残酷性にロボスを始めアイシャですら理解するのに一瞬の間が必要であった。
応接室に刹那、沈黙が流れる。
「王国や協会が陰謀や策謀を巡らせている、てのは穿ったものの見方であって真実はもっと単純なのではないのかな、と」
「つまり……我々の存在など王国も協会も歯牙にも掛けておらぬ、と貴殿は言いたいのか」
「そこまでは言ってませんが、ただ優先順位はそう高くはない、とそういう事ではないのでしょうか」
カルヴィンの言葉にロボスの身体が怒りの為か小刻みに震え出す。
カルヴィンの言葉が仮に真実であったとするならば、我々の存在は王国にとって無価値な必要のない人間であると宣告されているのと変わらない……だが否定しようとすればするほどロボスにはそう考える事で辻褄が合うことや納得出来てしまう事柄が多かった。
王都ライズワース、そしてセント・バジルナという二大都市で軍事、経済、そして政治の全てが完結出来てしまうこのオーランド王国の特殊な環境下においてトルーセンの……いやソラッソ地方の王国に対しての貢献度が低いのは否めぬ事実であったからだ。
無関心、とは酷く残酷な言葉だ……それならば一層のこと陰謀でもあってくれた方がまだ救いがある。
ロボスの身体から震えが治まり怒りの色が消えていく……だが同時にその表情には落胆とも諦めともつかぬ生気が抜け落ちた様な表情を覗かせていた。
「上級位危険種の……」
暗澹とした空気に包まれるその場に澄んだ少女の声が響く。
「内陸部ラーゼンから上級位危険種を含む魔物の群れがオルバラス地方に向けて南下を進め、またセント・バジルナ方面の街道ではダラーシュ騎士団と魔物の群れが戦闘を繰り広げている……この状況下で王国と協会がその対応に終始するのはやむを得ぬ事態ではありませんか、その事で我々への対応が疎かになっていたとしても悪戯に落胆し此方から接触を絶つなどは愚策の極みであると思います」
意気消沈する男たちの中、そのエレナの発言にアイシャははっきりと、そして大きく頷いて見せる。
「エレナさんの言う通りですロボス様、このトルーセンに限らずソラッソ地方に住む者らは王国の臣民である前に私たちと生き共に歩んできた可愛い子供たちではありませんか、そして子供たちを……その子らの住む地を守るのは親の責務でありましょう」
真っ直ぐに自分を見つめるアイシャの姿にロボスは亡き友バルザックの面影と声を聞く。
似た者夫婦か……。
苦笑を浮かべながら、だがロボスは顔を上げる。
「その通りであるな……今は出来る事を、成すべきを成そう」
アイシャの言葉で少なからず意欲を取り戻すロボスと男たちであったが、やはり受けた衝撃が大きかったのだろう、ロボスの意向で各人が心の整理をつける為に話し合いは暫し休憩を向かえる事となる。
ロボスに続きアイシャが応接間を退出し、その後各々がばらばらに屋敷内にそれぞれ宛がわれている自身の部屋へと休息を取るために応接間を後にする。
そうした中、エレナとアニエスもまた控えの間へと場所を移していた。
「あの男も時には役に立つこともあるのね」
アニエスの言うあの男がカルヴィンを指すことは間違いなく、その物言いにエレナは苦笑を浮かべる。
「相変わらずカルヴィンに厳しいなアニエスは……私は良い男だと思うんだけどなぁ」
エレナの言葉にアニエスは否定の言葉を重ねはしなかったが、代わりにその表情が不服の意を確固として主張していた。
「まああの男の事は置いておいても、これで彼らも引き際について考える事が出来るようになったのではないかしら」
アニエスの言う引き際……街を全面的に放棄するという決断である。
港に商船が寄り付かなくなったとはいえ、このトルーセンには街が所有する中型船が二隻存在する。
一度に全ての住民を避難させる事は無理でもセント・バジルナまでは海路で半日も掛からず、何往復かさせる事で全住民の一時的な退避は可能であったのだ。
「それが住民たちの総意であるならば無論私に異存などないのだけれど……でももしそうではないのなら例えどの様な結末を向かえるにしろ私は最後までこの街に留まるつもりだよ」
極普通に語るエレナの言葉には、だが己の死すらも含め揺るがぬ覚悟を感じさせた。
商いや己の職務として街に滞在していた者たちは別として、この街で生まれ育った者たちの中でも新たな土地で例え辛酸を舐めようとも生き抜こうとする意思を持つ者たちは既に街を出ている。
どれ程の危険があるか知って尚、今このトルーセンに残っている者たちは言わばこの街でしか生きることの出来ぬ者たち……老人たちや小さき商店を営む者、身体に病気や障害を持つ者たち……その理由は様々ではあろうが、その彼らが今更街を捨てるという選択肢を選ぶとはエレナには思えなかった。
生き残る術を持ちながらそれを選ばぬのは命に対する冒涜と断じることは簡単だ……いや……アニエスや多くの者たちが抱く様に、それが恐らく普通の考え方……道理というものなのだろう。
しかし街が魔物たちに蹂躙されれば全てが破壊される……その焼け野原を前にいずれ魔物たちは駆逐され、復興された街にまた戻れるなどと誰が言える、そんな慰めなどが彼らの生きる糧となるとでもいうのか。
知己もなく頼れる親類すらいない……見知らぬ土地で明日をも知れぬ生活を強いられる彼らにそんな漠然とした希望のみで生き抜いていけというのか。
気の遠くなる絶望の暗闇の中、遥か彼方の淡い光を目指し歩き続けられる者たちに比べ、暗闇に足が竦み瞳を伏せ動けぬ彼らを諦めた弱者と笑うのか……例えそれが世の道理であったとしてもそんな不合理をエレナは断じて認めない。
エレナ・ロゼとして生きると決めたその時からその生ある限り何一つ諦めはしないと誓った……成すべき目的と、人の命の重さを量りに掛けて選び取る様な真似はもう二度としないと、そう誓ったのだ。
それがどれ程傲慢で欺瞞に満ちた思いなのかなど言われるまでもなく知っている……例え差し伸ばした両の手から何度命が零れて落ちようと、何度でも何度でも、この命尽きるまで差し伸べ続けよう……奪い続けることしか出来なかったこの剣で、せめて救える命が一つでもあるのなら自分は迷いなどしない。
「アニエスはどうする? 」
これまでエレナはアニエスに対してこうした問いを掛けたことはなかった。
多くを語らずともアニエスは己の意思と覚悟でこの旅に望んでいる……それが分かっていたからこそ、これまで投げ掛けすらしなかった問いを敢えてエレナは口にする。
アニエスと自分とでは価値観もその思想すら大きく異なる。
この街での戦いの果て、迎えるかも知れぬ最後を無為の死と、アニエスが僅かにでも思い其処に迷いがあるのならば、エレナはアニエスに無理強いをする気も付き合わせる気もなかったのだ。
自身の闘争の場が常にアニエスの望む戦いと同義であると思える程にエレナは自身の思いに、その戦いに理想を描いても、美化し陶酔などもしてはいない。
「愚問ね、貴方がその剣を振る傍らに私は常に立つ、それが私の望み……貴方のいない世界に私の生きる意味などもうありはしないのだから」
それは愛の告白にも似た真摯な思い。
エレナはアニエスの発した言葉の意味を暫し理解出来ず……瞬間、ばっ、と身を反らすエレナの白い頬が瞬く間に朱に染まっていく。
「なっ……ななっ、何を言ってるんだ」
狼狽し顔を真っ赤に染めて自分に両手を突き出し振っているエレナの姿を、アニエスは不思議そうに眺めていたが……やがてエレナがしたのであろう誤解に思い至り……。
くすくすっ、とアニエスが可笑しそうに笑う。
それは本当に珍しい……いや、エレナが初めて見るアニエスの笑顔であった。
その緑の瞳に涙すら滲ませ、表情を崩し楽しそうに笑うアニエスの姿はとても柔和で優しげで、人間味に溢れた美しい笑顔であった。
そんなアニエスの飾らぬ素顔を見たエレナは顔を一層に赤く染め、その狼狽ぶりに拍車が掛かる。
「そうね……貴方がもし男であったのなら私は初めて憧れとは違う感情にこの身を焦がしていたかも知れないわね。でも安心していいわエレナ……私は同性に好意以上の感情を抱く嗜好は持ち合わせてはいないから」
尚も滲む涙をその白い指先で拭いながらアニエスは呟く。
そのアニエスの言葉で自身の誤解に気づき、ばつが悪そうに自分から視線を反らせ自身の長い黒髪を撫でる少女の姿を、そうしているとただの年頃の少女にしか見えぬエレナの姿をアニエスは可愛らしいと思っていた。
本当にエレナ・ロゼとは不思議な少女だ。
これまでエレナとは意見の対立も、その考え方の違いから今でも相容れない部分は多い……だがそれでもこうして共に戦いたいと思える、惹きつけて止まぬ魅力がエレナにはある。
中央域の戦いで死に損なった自分が、もう一度エレナと共に戦い死にたい、とそう思わせる何かが彼女にはあるのだ。
確かにクリルベリアやアドラトルテの開放という大儀の下、戦いに身を投じる事はこの上ない名誉だ……だがこの小さな街を守る為、名も無き者たちの為に命を賭したとしても、エレナと共に往けるのならばそれも悪くはない。
かつて憧れた英雄たち……今尚焦がれ続ける英雄たち……エレナもまたアニエスの中ではそうした色褪せぬ英雄たちの一人。
だが其処まではっきりとエレナの前でその想いを口にする気はアニエスにはない。
あくまで同列の仲間として共に戦えればアニエスは満足であった……自身の勝手な思いをエレナに押し付ける気は最初からアニエスには無かった。
今だ落ち着き無く髪を弄るエレナの姿にアニエスはまたくすり、と笑ってしまう。
それはこれまでアニエス自身浮かべ方すら知らなかったであろうそんな笑顔……氷の仮面を脱ぎ捨てた優しく柔和な女性の姿……だがそれこそがアニエス・アヴリーヌという女性の本来の姿であったのかも知れない。
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