第134話


 閑散、と呼ぶほどに街の通りには活気がない訳ではない。

 トルーセンでの滞在にあたりロボスの好意で領主邸に宿泊していたエレナは、昼食を兼ねて一人街へと赴く道中で賑やかな、とは言い難くはあったが住民たちが行き交う通りを目にする。

 街の中心街、大手の商会が立ち並び比較的裕福な層が生活していた大通りなどは大半の店舗や家々が固く扉を閉ざし、目に見えて閑散とした風景が広がってはいたが、それ以外の幾つかの通りや施設は全体的な人数の減少は見られるものの、それでも人がまったく途絶えるなどと言う事はなく、其処には人々が当たり前に暮らす日々の日常が存在していた。


 「お嬢様、お一つ如何ですか?」


 疎らに人が行き交う通りを一人歩くエレナに年配の女性が声を掛けてくる。意識を其方へと向けるエレナの視界の隅、通りの端で小さな出店を開く年老いた老婆の姿が映る。

 硬い路上に敷布を敷き、恐らく足が悪いのであろう老婆は足を崩し座っている。その傍らには木製の杖が壁に立て掛けられていた。


 「丁度お腹が空いていた処だし、一つ頂こうかなお婆さん」


 エレナは老婆に笑顔を向け、路上に並べられているものへと中腰となり目線を落とす。

 穀物を製粉したものを焼き上げて作るオーランド王国では一般的な軽食類……焼きたて、とはいかなかったが老婆の手作りであろうそれらをエレナは幾つかその手に取る。

 そんなエレナの様子を見た老婆が手元から大きめの紙袋をエレナへと手渡してくるが、明らかにその大きさがおかしい。エレナが手に取ったのは二、三個……だがその紙袋は容量的に十個程度は入る大きなもので、もっと小さな紙袋も老婆の手元にはあったのだ。


 「もっと沢山お持ち下さいお嬢様、御代は結構ですので皆様でお召し上がり下さい」


 エレナの戸惑いを感じ取ったのか老婆はにこやかに笑う。

 間近にエレナの顔を見ても老婆の態度に変わった様子は見られない。

 自意識過剰という訳ではなくエレナの美しい容貌を目にした者たちの多くが、特に男たちに多く見られる邪な、と言って良い不快な眼差しに始まり、同性や子供たちであっても少なからず好奇の視線をエレナに対し向けてくる者は多い。

 エレナは自分を前にして変わらぬ老婆の対応を前に、珍しいな、などと感じてしまう自分に我ながら歪んできたかな、と内心苦笑を浮かべる。

 だがその理由にエレナは直ぐに気づく。

 自分を見る老婆の瞳、僅かに白み掛かり白濁したその瞳は見えてはいない訳ではないのであろうが、かなり視力が衰えているであろう事を窺わせた。


 「そういう訳にはいきませんよ、きちんとお金は支払わせて下さい」


 生活の糧として路上に立つ老婆に、善意とはいえ無償で物を貰うことはやはり躊躇われ、エレナは懐へと手を伸ばす。だがそんなエレナに老婆はその小さな手に自身の手を差し伸べ握ると、笑顔を浮かべたままそっと首を横に振る。


 「皆様方のお陰で……皆様が街を守って頂いているお陰で私共の様な者でもこうして生き長らえることが出来ているのです……高貴なる身である皆様の様な方々が毎朝、私共が住む卑しき者の家を訪れ食材を届けて下さるからこそ、こうして日々の糧を得ることが出来ているのです……お礼などと言える様な品では御座いませんが、どうか感謝の気持ちとしてお受け取り下さい」


 恭しく自分に語る老婆の言葉にエレナははっきりと老婆の誤解に気づく。

 考えて見れば簡単な話ではある……今この街にエレナの様な年頃の少女が、しかも帯剣して歩いていれば貴族の子弟の一人と勘違いされるのは必然であったのだ。

 

 「分かりました……ただお金は受け取って下さい、お気持ちは嬉しくはありますが無償で物を頂いたと知れれば私が皆に怒られてしまいますので」


 エレナは一度老婆の手に自分の手を重ね、渡された大きな紙袋一杯に老婆の手作りであろう品々を詰めていく。そして一杯に膨らむ紙袋を地面へと置いたエレナは懐から小さな皮袋を取り出すと硬貨を数枚取り出し老婆に握らせる。

 老婆が手にしたのは銀貨が四枚……これらの値段を老婆は告げてはいなかったが、一般的な相場から見ても破格と呼べる額をエレナは老婆に手渡していた。


 目の悪い老婆にはそれが銅貨か銀貨など、その違いに直ぐには気づかなかったのだろう、エレナに深く頭を下げる。

 よいしょ、とエレナは重さを増した紙袋を両手で抱え上げると、老婆に別れの挨拶を交わし通りをまた歩き出す。老婆はそんなエレナの後姿が見えなくなるまでその顔を上げる事はなかった。


 さてどうしたものか、と紙袋に視界を邪魔されながら歩くエレナは考える。

 食事を取る為に街へとで出ては見たものの、この大きな手荷物を抱えて酒場に行くのは些か忍びなく、さりとて屋敷へと今更戻るのも正直億劫であった。


 そんな事を考えながら歩いていたエレナの脳裏に先程の老婆の言葉が過ぎり、そして妙案が浮かぶ。

 元々老婆は貴族の子弟たちに、と善意を示したのだから彼らに振舞うのが一番なのではないのか、と。

 

 貴族の子弟たちは本来、ロボスの屋敷がある一角に各々の家が邸宅を構えていたが、この非常時にあたり緊急時の召集に備え、また集団生活に慣れさせる為に全員が大通りにある宿屋を間借りし寄宿舎代わりに使用させていた。

 宿の主人たちは既にセント・バジルナに避難していた為に主人の承諾を得られてはおらず全ては事後承諾になってはしまうが、ロボスの承認を受けていることもあり無断使用といった大きな問題にはならない手筈にはなっていた。


 無論エレナが両腕で抱える紙袋の中身は三十人もの少年少女たちの空腹を満たすほどの数も量もありはしなかったが、アニエスに同行させている小隊以外は自警団の手伝いをさせていた為、アニエスに強引に休息を取らされたエレナ同様、この時間宿に滞在しているのは非番にあたる一小隊だけの筈であったのだ。


 子弟たちが手伝う自警団は街の治安維持と外壁の見回りを始め犯罪行為に対して独自の権限を持つ警備隊とは違い、非常時に組織されたあくまでも市民の有志たちで構成された集団である為に警備隊の様な特別な権限は持たない。

 そうした事情もあり自警団の活動は主に市民たちの生活の補助行為や不満の解消、警備隊への陳情の橋渡しといったより市民の生活に密接したものが多い。

 あの老婆の家に食料品を届けるといった行為もそうした活動の一つなのだろう。


 「買出しですかお嬢様、宜しければお持ちしましょうか」


 大通りへと向かうエレナに声を掛ける中年の男性が三人。男たちが腕に付ける腕章が彼らの身分を現していた……自警団の者たちである。

 自身の娘ほどの年齢にすら見えるであろうエレナに一定の敬意を払っていることから考えても老婆同様に彼らもまたエレナ対して誤解がある事が見て取れる。


 「あ……いえ、直ぐ近くですので大丈夫ですよ」


 と、エレナが言い終わる前に既に男の一人が腕を伸ばしその腕から紙袋を取り上げていた。

 取り上げた……とは表現が悪いであろうか、その行為は力づくや強引に、といった粗野なものではなく極さりげなく丁寧に、と表現した方が良いであろう。

 紙袋が除かれエレナの顔を間近で見た男たちが一瞬固まる……エレナにしてみればもう見慣れたそれはいつもの光景である。


 「それでは済みませんが宿までお願いします」


 呆然と自分を見つめる男たちにエレナは笑みを返し歩き出す。


 誤解を解く為に事情を説明しようかとも思ったが、宿屋まではそう距離は無かったし手荷物を運んでもらう程度なら問題はないだろうと思い直す。正直に言えば面倒だった、と言うのが偽らざる本音であろうか。


 歩幅が広いとは言えず歩く速度も速くはないエレナの数歩後ろを自警団の男たちが続いて歩く。歩幅を調整しエレナの横に決して並ぼうとしない彼らの姿が、非常時にあっても市井の者と貴族階級に身を置く者との歴然とした階級格差を感じさせた。


 こうした扱いにまるで経験が無い訳ではなかったが、やはりどうも落ち着かないな、とエレナは背後の気配に首筋がむず痒くなる様なそんな違和感を覚え、知らず自身のうなじへと手を添えるのであった。




 子弟たちの寄宿舎代わりとなっている宿はトルーセンでも最も有名な、また最多の収容人数を誇る立派な佇まいを見せる建物であった。

 宿の入口が通りに面している一般的な造りとは異なり、会食や商談の場として使われていたこの宿は広い敷地面積を有し、通りから門を潜り中庭を抜けた先に建物が建つという、高級感を出すためであろうか貴族たちの住む屋敷を模した造りになっている。


 その宿の中庭に囃し立てる様な少年たちの声が響いている。

 真剣を構え対峙する二人の少年。

 それを取り囲む様に歓声を上げている三人の少年たちと心配そうに見つめる少女が一人。


 「どうしたレオ、かかって来いよ」


 向かい合い立つレオニールを挑発する様に少年が嘲笑う。

 少年の名はクロイル・マドラー。

 アニエスに最後まで噛み付いていたあの少年であった。


 「クロイル止めて!! こんなの教練ではないわ、貴方たちのただの腹いせじゃない」


 二人の様子を見つめていたリリアナが叫ぶ。


 「黙れリリ、これは立派な教練だよな、レオ」


 同意を求めるクロイルにレオニールは無言で頷くと、自分を見つめるリリアナに大丈夫だから、と呟き掛ける。

 クロイルたちの怒りは最もだ……とレオニールは思っている。

 リリアナのやクロイルを始めこの小隊に配属された者たちはクライフ家を支えて来た譜代の家系……名家の子弟たちで構成されている。その中でレオニールの家系は新参の部類に入る末席の家柄であり、その自分の失態で他の小隊の者たちにまで陰口を囁かれ馬鹿にされる事がクロイルたちには我慢がならないのだろう事はレオニールも理解が出来た。

 これが教練に託けた制裁であろうと、自分が我慢すれば済む事、とレオニールはそう納得し諦めてもいたのだ。

 これで彼らの気が晴れればリリアナにまで危害が及ぶことはないだろう、と。

 

 無造作に間合いを詰め振り下ろされるクロイルの長剣、レオニールは自身の眼前でその長剣を受ける。

 互いに真剣を扱っている為、一歩間違えれば怪我だけでは済まない……だがクロイルの口元の笑みは崩れない。彼もまた知っていたのだろうレオニールが決して反撃して来ない事を。

 

 鍔迫り合いの姿勢を保つ二人。

 すっ、とレオニールの背後の少年が動き、瞬間レオニールの背中を蹴り上げる。

 無防備な背中を蹴られレオニールはぐっ、と短く呻き態勢を崩す。

 揺らぐレオニールの側面からクロイルは自身の長剣の柄でレオニールの顔面を強打する。


 視界に火花が散るほどの激痛にレオニールはそのまま地面へと倒れこむ……見る見る口の中に鉄の味が広がり這い蹲り咳き込むレオニールの血の色に染まった唾液が地面を濡らす。


 「駄目じゃないかレオ、戦場では敵は何処にいるか分からないんだ 集中を切らせれば命取りになるぞ」


 地面に蹲るレオニールを見下ろす様にクロイルが笑う。


 「酷い……」


 その余りの光景にリリアナは我慢できずレオニールの下へと飛び出し掛ける。

 その刹那、


 「感心だね、非番の日まで教練とは精が出るじゃないか」


 涼やかな少女の声が中庭に木霊する。


 その澄んだ音色に誘われる様に皆の目が中庭の入口へと注がれる。

 

 自警団の男たちであろうか、三人の男たちを連れ立った黒髪の少女が中庭の入口にと立ち此方を見つめていた。その場に居た全員の視線が神秘的な長い黒髪を風に靡かせ立つ美しき少女の姿に暫し時間が止まったかの様に、魅入られた様に少女へと釘付けになる。

 その少女が誰かなど、此処に居る者たちに問うまでもない。自分たちの指導に当たっているこの美しき少女の姿を見誤る者などいよう筈などなかった。


 一時の沈黙の後……少年たちの間に動揺が奔る。


 エレナを見つめるそれぞれの眼差し……クロイルと共に囃し立てていた少年たちの瞳には明らかな動揺と……そして恐怖が、リリアナの瞳には救いを求める様な懇願の色が浮かぶ。


 「まさか邪魔をするつもりではないですよね、エレナさん」

 

 我に返ったクロイルはエレナに対して挑戦的な眼差しを向ける。

 確かにこの少女は自分たちに対して大きな権限を有している……だが非番である現在の、しかも同意の上で行われている小隊での教練に対し口を挟ませる気はクロイルにはなかった。

 権限の範囲外、例えエレナが止めてもそうクロイルは突っぱねるつもいでいたのだ。


 「いいんじゃないかな、非番の日まで小隊での鍛錬を怠らないとは感心、感心」


 この場の雰囲気を見れば其処で行われている行為が教練とは掛け離れたものである事は、エレナの背後に立つ自警団の男たちですら分かっていた。

 だが笑みすら浮かべるエレナのその声音はクロイルたちを咎めたり、制止する様な調子はなくそんな素振りも一切見られない。

 てっきり救いの手が差し伸べられると期待していたリリアナはエレナのそんな様子に失望と、怒りをその瞳に滲ませる。

 

 「それじゃあ――――」


 「勤勉な君たちに若輩者ながら多少は先達である私が一手教授してあげるとしようか」


 クロイルの言葉に被せる様にエレナが呟いた一言に、少年たちもクロイルもその意味を直ぐには理解が出来ず呆然とエレナの姿を見つめる。


 「真剣での立会いが御所望なのであろう、四対一で構わぬから向かって来るといい」


 エレナの言葉に少年たちの顔に隠しようのない明確な恐怖の色が浮かぶ。


 実戦経験も真剣での訓練の経験も浅い彼らにして見れば、下級位危険種を単独で瞬殺する様な少女を相手に真剣で向き合うなどと、如何に教練の場とは言え狂気の沙汰としか思えない。


 睨み付ける様な眼差しをエレナへと向けるクロイルとは対照的に、動揺した少年たちがエレナに向かい慌てて弁解しようと口を開きかけ――――無言の内に双剣を鞘奔らせるエレナの姿に言葉を失う。


 「どうした、敵を前に剣も抜かず丸腰で対峙しようなどと……死にたいのか」


 ゆっくりと自分たちへと歩みを進めるこの少女にもう何を言っても無駄であるのだと、自分たちに選択権など与えられていなかったのだと、ようやく少年たちは気づく。

 変わらぬ笑顔を浮かべるエレナ……だが僅かに細められたその黒い瞳に宿る冷たい輝きに少年たちは身震いする。

 一歩、一歩、とエレナが歩みを進める度にこの場の気温が低下していくような、底冷えする様なその威圧感に少年たちはまるで自分たちが極寒の氷土にでも立っているかの様な錯覚すら覚えていた。

 少年たちが震える手で腰の長剣を引き抜く。

 だがそれは決してエレナに対して抵抗を試みようなどという、勇ましさにも似た衝動とは凡そ掛け離れた、恐怖からくる自己の防衛本能に近いものである事は少年たちが浮かべている表情が如実に物語っている。


 「名立たる騎士が何故人々の尊敬や憧憬の対象として長く語り継がれていくか、その理由に思いを寄せたことはあるか」


 両手でその柄を握り締めながらも子羊の様に小刻みに刀身を震えさせている少年たちにエレナは問う。


 「所詮人を殺める道具でしかないその剣を振るい、それでも尚人々の心を惹きつけて止まぬのは、揺るがぬ信念の下、誇り高きその魂をその刃に宿しているからだ……街を守る為散って逝った君たちの父君や兄弟たちが今尚人々に慕われ続けるのは、常に誇り高くあれと願い続け戦い続けたその気高さゆえと知れ」


 無言……沈黙……少年たちはエレナの言葉に、その圧倒的な威圧感を前に身動ぎ一つ出来ずにいた。


 「少年たちよ、騎士を志すならば剣を引き抜く度にその刀身に常に問え、これから振るうその剣がなにものにも恥じること無きものであるのか、と」


 剣戟の間合いにまで近づいたエレナを前に……少年たちは剣を下ろしうな垂れる。

 エレナの迫力に気圧され、完全に戦意を消失していた。

 

 一人を除いては。


 「黙れ……黙れよ!! 貴様如き卑しき傭兵に我らの何が分かる!!」


 食いしばる唇から血を滲ませクロイルが吼える。

 激情が恐怖すら上回り、その剣をエレナ目掛けて振り下ろす。


 斬り下ろす様に振るわれたクロイルの剣をエレナはその場から動くことなく、眼前でエルマリュートの根元で受ける。


 押し切れる!!


 エレナとクロイルの実力差は圧倒的ではあったが、油断からであろう棒立ちのまま力の入らぬ体勢で自身の剣を受けたエレナにクロイルは勝利を確信する。

 どれほど剣の腕が立とうとも、この体勢からでは体重を乗せた自分の一撃をエレナの華奢な細腕では受けきれる筈はない。

 クロイルは力負けしたエレナの剣が弾かれ、少女が地面へと倒れこむ姿を想像し美しいが生意気で傲慢なこの少女の醜態に愉悦に近い感覚を覚える。

 

 だが現実とは常に残酷でままならぬもの……。


 ばっ……馬鹿な……。


 クロイルの剣の切っ先を刀身の根元で受けた刹那、流れる様に手首を返し振り子の様に半円を描くエルマリュートの鮮やかな波紋が刻まれる刀身の上をクロイルの剣が滑っていく。


 エレナのエルマリュートの軌道により、クロイルは徐々に上体が引き込まれその体勢が崩れていく。

 剣を引き戻そうと、体勢を立て直そうとクロイルは足掻くがまるで剣自体が意思でも持っているかの如く、自身の意思に反してエレナの剣から己の剣を引き剥がすことが出来ない。


 その技術は最早行動の強制すら超えた支配にまで至るエレナ・ロゼの絶技と言っても良い。


 クロイルの剣が弾かれ宙を舞うのと同時に限界を向かえたクロイルの身体がエレナの足下へと倒れこむ。

 受身すら取れずそのまま地面へと顔面を強打する恐怖に、眼前に広がる芝生の鮮やかな緑に、クロイルは目を閉じる。


 だが、覚悟した衝撃も痛みも訪れなかった。


 代わりに伝わるのは暖かな温もりと柔らかな感触……そして春の花の様な甘い香り。

 エレナに抱きかかえられる形で救われたと気づいたクロイルは慌ててエレナの胸元から身を離す。

 

 「貸しだなどと思うなよ……エレナ・ロゼ」


 羞恥と……自分でも良く分からぬ感情が渦巻き顔を真っ赤に染めるクロイル。


 「勝気なその性格も、その傲慢さも、君は騎士に向いているかも知れないな、少なくとも私は嫌いではないよ」


 「君でも、少年でもない……俺の名はクロイル……クロイル・マドラーだ」


 少なくとも激情は去ったのだろう、地面へと座り込むクロイルはそう呟いた。


 「ぞうか失礼したね、ではクロイル、食事にしようか」


 先程まで見せていた冷たさも、冷え冷えとした気配など微塵も感じさせずエレナは屈託のない美しい笑顔をクロイルへと向け、その手を差し伸べる。


 そのエレナの行動にクロイルは少し迷いを見せたが、一瞬の逡巡の後、黙ってその手を取った。


 「さあ皆、教練は終わりだ、差し入れがあるんだ食事にするよ」


 ぱんぱん、と手を叩き促すエレナの姿に周囲の少年たちも安堵の表情を浮かべエレナの周りへと集まっていく。


 エレナを中心に自然に出来上がる輪の外、リリアナとレオニールだけが今だ呆然とその光景を眺めていた。


 「あの……エレナさん、ご迷惑を掛けて済みませんでした……」


 自分たちの争いにエレナを巻き込んでしまったことを悔やむレオニールに、声に気づき振り返ったエレナは少し困った様な表情をレオニールに向ける。


 「少年、君は謝ってばかりだな」


 とそれだけを残しレオニールの脇をクロイルと少年たちと共に通り過ぎていく。

 剣の柄で強打され頬を腫らし、唇から血を流すレオニールにエレナの手が差し伸べられることはなかった。

 

 自分には差し伸べられなかったその手を、だがレオニールは当然だと、瞳を伏せる。

 失態を冒した上に、こんな下らぬ事に巻き込んだ自分などをエレナが相手にする筈はないではないか……自分は一体何を期待していたのだ、と。


 立ち去るエレナたち。


 痛みすら忘れ、うな垂れ動かぬレオニールの姿は自分すら拒絶している様で、リリアナは心配げに見つめることしか出来なかった。


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