第104話
エレナを囲む様に始まった酒宴は始めこそエレナとの別れを惜しみ何処かしんみりとした静かな雰囲気の中それぞれが酒を酌み交わしていたのだが、しかしそんな雰囲気などは半刻ともたず、今では酒が入った男たちが裸で踊り出し、呂律が廻らず歌とすら呼べない怪音を発して大声で叫びだす者たちが場を支配する酒宴の席は混乱と喧騒に包まれていた。
エレナは目の前を全裸で走り回る男たちに呆れながらも、僅かに目尻を下げ酒の杯を口に運ぶ。
異性の裸を目の前にしても恥らう様子すら見られずなんら動じた風もないエレナの態度は年頃の若い娘らしからぬ堂々としたもので、寧ろまじまじと自分の裸体をエレナに見つめられた男たちの方が恥ずかしげにそそくさとエレナの前から立ち去っていく。
アニエスもエレナ同様そんな男共などまるで眼中に入らぬかの様に黙々と酒を煽っていたのだが、だがこちらは酔っていてもエレナには出来ない不埒な行いに及ぼうとした男が二人、割れた二本の酒瓶と共にアニエスの足元でのびていた。
エレナはそんな男たちの姿に、こうした場の空気に懐かしさを覚えていた。
国や民族は違えど男たちの……荒くれ共の別れの場は何処もそうは変わらない。エレナも何度となく……いや数え切れぬ程こうして仲間たちと馬鹿騒ぎをして亡き同胞たちを送ったものだ。
「男の裸なんて見慣れてますって顔だな」
顔を真っ赤に染めたヴォルフガングが酒の入った大樽を抱えたままエレナの隣へとどすり、と座るとそのまま酒臭い顔をエレナへと近づけてくる。
エレナはつっかえ棒の様に小さな左手を伸ばしてヴォルフガングの迫る大きな顔を自分に近づけまいと阻止を図る。
「そうだと言ったらヴォルフガングさんは信じるのかな?」
ヴォルフガングは自身の頬に触れるエレナの左手の感触を楽しむかの様にまんざらでもなさそうな表情を浮かべる。
「そりゃあいい、俺は信じるぜ、どうだエレナ見慣れてるんならこの際俺たちも裸の付き合いを……」
「冗談は顔だけにしてくれ」
間髪入れず放たれたエレナの辛辣な言葉にヴォルフガングは存外傷ついた様子を見せ、不貞腐れた様に大樽から浴びるように直接酒を煽る。
男たちの中にあってもまるで動じた様子すら見せず、寧ろ何処か居心地の良さそうな雰囲気すら感じさせている反面、こうした男女の色恋沙汰には激しく拒絶反応を示す。さりとて男嫌いなのかと思えばそんな素振りは微塵も感じさせない。
色々な女を抱いてきたヴォルフガングにしてもエレナの様な不可思議な反応を見せる少女は初めてであった。
エレナに似た存在としてアニエスが挙げられるかも知れないが、ヴォルフガングから見ればエレナとアニエスではまったく気性が異なる。
アニエスは氷の女王とまで呼ばれ男を寄せ付けない冷徹な女の様に見えて、その実純粋で初心な娘だ。惚れた男が出来ればその身を委ねる事に躊躇いなど持たぬであろう。
だがエレナは違う。
アニエスよりも柔軟で荒くれ共たちとも気安く付き合える半面、どれ程付き合いが親密になろうと絶対に最後の一線は越えさせない、とその表情に歴然と現れている。
それは年頃の娘が見せる潔癖さにも似たものではあったが、ヴォルフガングは本質的にそうした潔癖さとは異なる何かがエレナにはあると踏んでいる。
そうした一面も含めエレナは本当に不思議な少女だ。
その美しい可憐な容姿は置いておくとしても、見た目はどう見ても十五、六。まだ成人を迎えていないか、迎えていてもそう月日は経っていない……まだ少女と呼べる娘。しかしその少女が見せる剣の冴えや戦闘技術は遥かに常人の粋を超えている。
多くの者がエレナの剣は華麗であり完成された芸術品と賞賛を惜しまない……だがヴォルフガングはエレナの剣の本質に気づいていた。
エレナの双剣は対峙する者を制圧する為に特化した……どれ程優美で美しかろうがその剣はヴォルフガングや此処に居る男たちと同じ奪う者の剣。戦場で生き残る為に他者の命を刈り取ってきた者の……凶剣だ。
大陸の動乱末期、そして災厄当時ならば四大国は別としてどの諸国も深刻な人材不足の最中にあり、エレナの様な少女が戦場へと従軍していた可能性はある。だがそれでもその期間は長くても精々一年から二年……もしその期間でエレナが今の剣の技能と現在の性格を構成したのだとしたら、それはヴォルフガングにすら想像する事の出来ぬ地獄の様な日々を過ごして来た事になる。
それにしてはエレナの人格に歪みが無さ過ぎるのだ。エレナを慕う多くの者は切欠はその容姿からだとしてもやがてはその心の在り方に惹かれていく。
凄惨な日々を過ごした者たちは例外なく心が痩せ細り壊れ歪んでいく……そんなどん底から足掻き、もがき、這いずりながら長い年月を掛けて自分という人間を確立していくのだ。
もし仮にエレナが地獄の日々の中、短期間で其処までの成長を遂げたのだとしても心の成熟をなすには期間が短すぎる。如何に容姿が美しかろうが心が歪んだ人間にこれ程の人々の心を惹きつける魅力を放つ事など出来様筈がない。
その答えに至った時ヴォルフガングは一つの可能性に思い至る。だが直ぐに自分の考えに、その余りの馬鹿らしさに我ながら呆れてしまう。
生まれ変わり、転生、そうした非現実的な事象をヴォルフガングは信じない。もしそんな事が有り得るのなら今を生きる意味とは一体なんだというのだ。
一度しかない人生だからこそ人間は必死に、自由に生きようとする。その命に固執するのだ。何度でもやり直せる……そんな糞みたいな人生など何処に生きる意味や価値があると言うのか。
エレナの隣で漠然とそんな事を考えていたヴォルフガングに広間の扉の近くで誰かを待っていた様子の男がヴォルフガングへと目配せを送る。
それに気づいたヴォルフガングはまるで悪戯っ子の様に口元を緩ませた。
「なあエレナ、折り入って話があるんだが悪いがちょっと付き合ってくれねえか」
「此処ではまずい話なのかな?」
「まあな」
エレナは露骨に胡乱げな表情を浮かべるがさっさと席を立ち入り口へと向かうヴォルフガングの大きな背中に軽く溜息を付き自身も身を起こす。
宴が行われている広間を出て通路を歩くエレナとヴォルフガング。
先を歩くヴォルフガングに明らかに距離を取り歩くエレナ。
「おいおい……いくらなんでもそりゃ露骨過ぎねえか……」
明らかに自分を警戒するエレナの態度にヴォルフガングは呆れたような、情けなさそうな声を出す。
「こと女関係でヴォルフガングさんを信用しろと言う方が無理があるよ、最後の思い出とばかりに強引に手篭めにされるなんて御免だからね」
普通なら考え難い……だがヴォルフガングの人となりを考えると有り得ないとは言い切れない。
嫌がる女を強引に襲うなどヴォルフガングの性格からしても相反する行為だろうとエレナも承知してはいたが万に一つの可能性がない訳では無いのだ。
非力なエレナではヴォルフガングの様な大男に組み敷かれなどしたら抗う術は無い。それを考えれば慎重にもなろうというものだ。
通路を抜けた二人はやがて中庭へと出る。
「こんな場所で一体……」
そこでエレナは言葉に詰まる。
中庭でエレナとヴォルフガングを待つ人影がある。その影は三つ……それは余りに見知った、エレナの良く知る者たちの姿であった。
「余計な事を……」
エレナは前に立つヴォルフガングを激しく睨み付ける。
ヴォルフガングはそんなエレナの視線など意に介す様子も見せず自身は脇に寄りエレナと三人……シェルンとカタリナ、そしてレティシアとの再会を促す。
「エレナ……」
悲痛な眼差しでエレナを見つめるレティシア。
ヴォルフガングの余計なお節介のせいで少々予定が変わった……だが自分が負うべき責務は変わらない。
レティシアやシェルンにとって自分は通り過ぎるだけの人間なのだ。だからその別れはせめて……惜しまれ悲しまれるくらいなら疎まれ憎まれよう。
負の感情は決して悪い影響だけを及ぼす訳では無い。強いそうした感情は明日を生きる為の力になるのだ。
難しい事ではない……カタリナの前で見せた様に二人を冷たくあしらえばいい……二人の気持ちをただ利用してきただけだと……何の感情も抱いてなどいなかったと。
レティシアに声を掛けようとしてエレナは自分の身体が知らず微かに震えている事に気づく。そして襲い来る胸の痛み……それは決して負った怪我のせいなどでは無かった。
双刻の月での生活は……それは本当に剣舞の宴までの腰掛けのつもりだった。だが其処で過ごしたレティシアやシェルンとの時間は、過ごした日々は本当に新鮮で居心地の良い、いつしかエレナにとって掛け替えの無い大切な居場所に、許されざる自分が唯一心休まるそんな場所へと変貌を遂げていた。
エレナは胸の痛みに耐えられず痛めていた右手を構わず強く握りしめ胸へと押し当てる。
そうか……どう言い逃れしようが自分は結局恐れていただけなのだ……こうして二人と直接出会う事を。
それ程までにエレナが二人に抱く思いは強く強く別れ難いものとなっていた。
「絶対に行かせない……行かせないわよエレナ!!」
レティシアは右手に握る槍を高く掲げ、その切っ先をエレナへと向ける。
カタリナはそのレティシアの行為に驚き慌てて止めようとするが、シェルンがカタリナの進路を塞ぐ様に身を寄せてカタリナを制止する。
動揺するカタリナにシェルンは黙って首を横に振った。
「私からもう何も誰も奪わせなどしない、貴方を失うくらいなら此処で……」
もう大切な人を、愛おしい者を失うのは嫌なのだ……だから自分からそれを奪う者は許さない……それが例え愛した少女本人だとしても……。
レティシアの泣き腫らしたのだろう真っ赤に充血した瞳とくっきりと残る涙の痕、悩み苦しんだ末に出したであろうレティシアの悲壮なまでの決意に、自分への一途なまでの深い想いに、エレナは自分の間違いに気づかされる。
自分は大切な者になんて表情をさせているんだ……。
自分自身が幾度と無く味わって来た惜別。
自分に名を与えてくれた父や血の繋がりすら無い自分に我が身を省みず自身の命すらすり減らして無償の愛を注いでくれた母、そして共に戦った数多くの同胞たち。
それら大切な者たちとの別れは身を裂かれる様に辛く、自分の心が死んでいく様な……音を立てて壊れていく様なそんな思いを味わい続けてきた。だからせめて二人にはそんな思いだけは負わせたく無い……ただそれだけだったというのに。
馬鹿な自分の浅はかさをエレナは心底悔やむ。
別れが辛いのは、胸を締め付ける程に別れ難いのは、彼らと過ごした時間が、思い出がそれだけ尊く眩しかったからでは無いのか。
傷を負うことを恐れる事はその大切な時間を、思い出すらも否定する事になる。それに気づけなかった自分の愚かさがレティシアを深く傷つけ追い詰めてしまったのだ。
エレナは一歩一歩ゆっくりとレティシアへと近づいていく。
「お願いエレナ……何処にも行かないと、私の傍から離れないともう一度言って頂戴……お願いだから……」
震えるレティシアの声音にエレナは近づきながら寂しそうに首を横に振る。
「エレナ!!」
自身の間合いに入ったエレナにレティシアの槍が上段から切り下ろされる。
緩やかに刻む時間の中でレティシアは全てを諦めていた。
エレナならば自分の槍など事も無げにかわしてしまうだろう。自分がどう足掻こうとエレナを止める事など出来る訳などないのだ。
これでエレナに完全に嫌われる……そんな絶望の中、自身の槍の軌道が今だエレナを捉えている事に気づく。
エレナはまったく槍を避けようとしていない。
レティシアはそれに気づき恐怖に駆られて咄嗟に槍の軌道を修正する。だが遅かった。
速度に乗った槍は容易く修正が効かず、何とか軌道を反らすが槍の切っ先はエレナの頬を掠めその白い右頬に赤い筋が生じる。
エレナの頬を流れる一筋の赤い雫を、愛しい者を本当に傷つけてしまった恐怖でレティシアの震える右手から槍が地面へと落ち、放心したようにレティシアの身体も遅れて崩れる様に大地に両膝を付く。
震える両手で顔を覆い項垂れるレティシアの身体を不意に暖かい何かが包み込んだ。
レティシアの鼻腔に届くのは懐かしい……愛おしい春の花の香り。
顔を上げたレティシアの涙に濡れる瞳に自分を優しく抱きしめる愛おしい少女の美しい顔があった。
顔を近づけるエレナの唇がレティシアの唇と重なる。
それは触れ合う様な口づけ。
そのエレナの行為に瞳を見開き驚きを示していたレティシアであったが、やがてエレナに身を任せる様に瞳を閉じる。
「好きになってくれて有難う、愛してくれて有難う」
万感の思いを込めてエレナが囁く。
「レティシアさんは何も無かった空っぽな私に全てを与えてくれた。帰るべき居場所……大切な仲間たち……私の愛すべき家族……こんな私がもっと生きていたいと、叶うならばずっと二人の傍に、このまま時が止まれば良いと願う程に大切な……大切な、レティシアさんとシェルンの隣は私にとって唯一許された世界でした」
最早自分の気持ちは偽るまい、とそう決意したエレナのそれは独白であり飾りの無い本心であった。そしてそんなレティシアに何も返せる事の出来ない自分がせめて贈る事の出来るささやかな思い出という贈り物。
「だからレティシアさんになら討たれてもいい……此処で全てが終わっても構わない」
「エレナ……御免なさい……御免なさい……」
エレナの真実の想いにレティシアはただただその小さな胸に縋り子供の様に泣きじゃくる。そんなレティシアの長い美しい金髪をエレナは優しく撫でる。
「貴方の無事のご帰還を毎日祈り願っています」
レティシアはエレナに笑顔を見せる。
それは涙に染まった悲しい笑顔。
だがエレナはそんなレティシアの笑顔を本当に美しいと思った。
愛しい者が無事に自分の下へと帰って来れる様に笑顔で送り出すのが女の務め。女の度量の見せ所。レティシアもそう学び教わってきた淑女の一人である。だからそれが今レティシアがエレナにしてあげられる事が出来る精一杯であった。
レティシアが落ち着きを取り戻すまでエレナは優しくレティシアを抱きしめ続けた。そしてレティシアを背に旅支度を整え自分を見つめるシェルンの姿をエレナはその黒い瞳の視界に映し出していた。
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