第98話


 フィーゴ・アルセイスの棄権によりエレナ対フィーゴの準決勝の第一試合が見送られた為、急遽予定が変更され繰り上がる形で開始の時間を向かえたベルナディス対アニエスの準決勝第二試合。

 圧倒的な強さで勝ち進んできた両者が今激突する。


 舞台に立つアニエスは自身の周囲に鋼線を展開させ臨戦態勢を取る。

 アニエスの現在の序列は五位。

 王立階位の中では末席として見られがちではあるが、その実序列一位は別格として残りの四者の実力が必ずしも序列通りという訳では無い。

 王立階位と称される特別な序列を持つ者たちの実力は無論、他の者たちを圧倒する程の実力者たちである事は間違いない。

 しかし不敗の勝利者の証たる序列一位を除けば、序列二位から五位までは大会の組み合わせに寄る部分も多く、現にアニエスは序列こそ五位ではあるが前回の大会を通じて敗北を喫したのは今アニエスの前に立つベルナディスただ一人であり、その事実からしても序列二位であるフェリクスや、序列三位のフィーゴに実力でアニエスが劣るという短絡的な発想を持つ者がいたとしたらそれは大きな誤認であると言わざるを得ない。


 エレナは舞台に通じる入口で両者の戦いを見つめていた。

 舞台袖で戦いを観戦できるのは大会参加者のみに与えられたある種の特権であり、今やそれが許される存在はエレナのみとなっていた。


 二人の対決を前にエレナは戦いの趨勢を予測する。

 ベルナディスとはまだ直接刃を交えていない為、エレナには未知数な部分が多く戦い方の想像は難しかったが、自分がもし全力のアニエスと戦うと仮定するならば戦い様はある。

 アニエスが振るう鋼線は十指に填められた指輪に仕込まれた十本。

 その一本一本が恐るべき殺傷力を秘めた鋭利な刃であり脅威ではあったが、裏を返せばそれら全てを絶つことでアニエスを無力化させる事が可能である。

 当然の如く口で言うほどにそれが簡単な事では無い上に、アニエス程の者がそれを易々とやらせるとも思えない。

 だがアニエスの誇る不可侵なる絶対王域に踏み込み戦うよりは、後手に回ろうと彼女の鋼線を一本づつ処理していく方が勝算は高く確実だ。

 とはいえあくまでも戦い方の一つとしての手段であり、実際エレナもアニエスとの戦いでその方法を取るかと言えば素直に頷けない部分はある。

 エレナに取って勝利とはただ勝てば良いという訳ではない。

 相手の全力を、最高の一手すら凌駕し、越えてこそ真に価値があるのだ。

 だからこそエレナには、オーランド王国のギルド制度において最強の座に君臨し続けるベルナディスがアニエスを相手にどう戦うのか、興味深く試合を見つめていた。



 開始の合図と共にアニエスは美しく両腕を天に突き上げる様に交差させる。

 そのアニエスの動作に合わせ鋼線たちがアニエスを中心に渦を巻き上げ、ピリピリ、と周囲の空間に異音を轟かせる。

 アニエスの鋼線の射程は五メートル。ベルナディスはアニエスの聖域たる絶対王域の数歩手前で長剣を抜き放つ。

 ベルナディスは右手に長剣、左腕には固定された小型の白銀の円盾を装備している。それ故実質右腕一本で扱うベルナディスの長剣はエレナの双剣とその形状が酷似していた。

 エレナのエルマリュートやアル・カラミスの様に極限近くまでの軽量化は流石に施されている訳ではないのだろうが、斬撃を主眼において鍛えられたその長剣は今のエレナの……というよりも、かつてのアインスの愛剣、ダランテにより雰囲気が近い。


ベルナディスは躊躇なくアニエスの間合いへとその足を踏み入れ――――両者が今激突する。


 アニエスが突き上げた両腕を左右に払う様に広げた刹那、無数の鋼線がベルナディスへと襲い掛かる。

 蠢きながら複雑な軌道を描き襲い来るアニエスの鋼線は、それのみにおいても恐ろしく捌き難い。加えて研ぎ澄まされたその刃は不可視とまでは言わないが視界で捉えるには余りに細く、薄く、そして速い。

 ベルナディスは肉眼では捉え切れないであろう、そのアニエスの鋼線を右腕の長剣で次々と撃ち落としていく。ベルナディスによって弾かれた鋼線が舞台の床を削り取り無数の爪痕を刻む。

 ベルナディスがやってのけているのは、以前エレナがアニエスとの戦いの折に見せた技術。

 鋼線の一点のみに正確に打撃を加える事でアニエスの鋼線を弾き、その軌道を強制的に制御して見せているのだ。

 恐るべきはベルナディスの技量であったが、アニエスにしてもこの程度の事態は折り込み済みであり焦りなどは微塵も無い。 いや、寧ろこの程度はやってのけて貰わねば困る。

 前回の大会でベルナディスに敗れてから一年余り、色々な出来事があった。その中でもエレナとの出会いはアニエスに大きな影響を与えていた。


 英雄アインス・ベルトナーの影を追いかける様に遠征軍に参加し、中央域での戦いに身を投じていたアニエスは、だが最後までその英雄の背に追い着く事は出来なかった。

 魔女カテリーナ討伐の為に発案されたノートワール攻略戦に一介の傭兵でしかなかったアニエスは参加を許されず、結果としてアインスを始め全ての英傑たちはノートワールの地で命を散らし、自身も上級危険種との戦いで瀕死の重傷を負い中央域から逃げ帰る様にこのライズワースへとやってきたのだ。

 それからのアニエスは胸に空いた大きな消失感を埋める為に、英雄たちの軌跡を、その功績を後世にまで残す為だけに戦い続けてきた。

 そんな中アニエスはエレナ・ロゼという少女と出会ったのだ。

 アニエスにとってエレナは終わってしまった夢の欠片……失った夢の続きをアニエスに示してくれる存在。エレナと共に命を懸け戦ったアドラトルテでの戦いを経てアニエスのその思いは確信へと変わる。

 生き急ぐ様なエレナの生き方は危うさすら感じさせ、だがそれ故に彼女の在り方が、その魂の輝きがアニエスを魅了して止まない。

 エレナ・ロゼという少女はアインス・ベルトナーという輝かしい存在とは異なり、歴史に名を残す事は無いかも知れない。だがそうだとしてもエレナの進む道の先にはかつての英雄たちが見ていた景色が広がっている。そうアニエスに確信させるだけの何かがエレナにはあった。

 エレナはもう一度アドラトルテへと、南方の地に赴こうとしている。そこが例え死地となろうとアニエスもそれに同行するつもりでいた。

 その為にアニエスは今此処に、ベルナディスの前に立っている。

 エレナに……誇り高い魂を持つ新たな英雄に自分の存在を示す為に。


 奔る鋼線の軌跡にベルナディスの長剣が重なり大気に火花が迸る。

 アニエスの鋼線が、ベルナディスの長剣が乱舞し両者の周囲の空間すら震わせる。

 巧みに鋼線を操り自身の領域を支配するアニエス。

 アニエスの絶対王域の中にあってすら退かず、鋼線の絶え間無い連鎖を完全に防ぐベルナディス。

 伯仲する両者の攻防に全ての者たちの目が釘付けになっていた。


 アニエスの細い美しい両の指が鮮やかに、艶やかに動く度に鋼線が幾重にも折り重なり、時に四方にと広がり、無限の軌道を描きベルナディスへと襲い掛かる。

 ベルナディスの接近を許さないアニエスの技量は最早語るまでも無いが、その技の切れは冴え渡りこれまでに無い程に研ぎ澄まされていた。

 アニエス・アヴリーヌ。

 女性の傭兵の中でも彼女ほどの使い手をエレナは他に知らない。

 だが――――。

 これまで左右への動きを主体としてアニエスの鋼線を防いで来たベルナディスが刹那、直線的な動きでアニエスへと迫る。

 アニエスの懐へと駆けるベルナディスを追う様に鋼線が奔り、ベルナディスは急所へと迫る三本の鋼線を長剣を一閃させ断ち切る。瞬間、残りの鋼線がベルナディスを捉えアニエスの眼前で血煙が巻き上がる。

 大気を赤く染める血煙の中、閃光が奔りアニエスは咄嗟に鋼線を束ねその一撃を受け止める。

 ギリギリ、と鋼が擦れる音と共に長剣を止めたアニエスの視界に全身を赤く血で染め上げたベルナディスの姿が映る。

 アニエスの鋼線により全身を刻まれたその姿……だがどの傷も全て浅い。

 ベルナディスは致命傷となるであろう鋼線のみを防ぎ、それ以外を敢えて避けぬ事でアニエスとの間合いを詰めたのだ。

 それは簡単な覚悟では無い。

 僅かでも迷えば致命傷とはならずとも二度と満足に身体を動かせぬ程の後遺症を残す可能性すらあった……それ程までにアニエスの鋼線の切れは凄まじいものであったのだ。

 吐息すら届く程の距離で密接する両者。

 残りの銅線を操る為、アニエスの左の指が動く。だがこの間合いではベルナディスの方が速かった。

 アニエスの鋼線より早くベルナディスの左腕が突き上げる様に動き、左腕の白銀の盾がアニエスの胸部に叩きつけられる。

 一瞬アニエスの細い肢体が浮き上がる。

 それだけ見てもその一撃がどれ程の威力を秘めていたのかが伺えた。

 叩き付けられた衝撃でアニエスの髪を後ろで束ねていた髪留めが解れ、美しい金髪が宙に広がる。

 時間が緩やかに流れ――――やがて糸が切れた人形の様にアニエスの美しい身体が受身すら取らず舞台の床に叩き付けられた。

 ベルナディスの盾の一撃はアニエスの心臓の鼓動を停止させていた。

 静まり返る場内。

 倒れたアニエスはピクリとも動かず、その瞳は完全に輝きを失っている。

 動かぬアニエスの顔の横にベルナディスは片膝をつくと、その右手をアニエスの胸へと押し当てた。

 刹那、再度アニエスの胸に衝撃が奔り、今度は苦しげにアニエスは身を反らす。


 「胸骨が砕けていよう、今は余り身体を動かさぬ方が良い」


 意識を取り戻したアニエスの耳にベルナディスの声が響く。


 「同じ相手に二度も敗れるなんて……屈辱的だわ」


 苦しげに呟くアニエスの顔には、だが言葉ほどの悲壮感は感じられない。全力を出し切り、それでも尚届かぬのなら自分が弱く、相手が強かった……ただそれだけの事なのだ。


 「貴殿の名は忘れぬ、同胞たちに良い土産話が出来た」


 ベルナディスの勝利を告げる声と共に歓声に包まれる場内、倒れたまま動けぬアニエスに背を向け立ち去るベルナディスがただ一言それだけを告げた。


 ベルナディスから掛けられた賞賛の言葉。それでもアニエスの胸中には複雑な思いが渦巻く。


 あの子に無様で姿を見せてしまったわね……。


 勝敗に……戦いの結果に不満など無い。だがそれでもエレナの前で敗北を喫した事実と折り合いをつけるのはやはり直ぐには難しい。

 激しい痛みに思考が鈍り、アニエスは荒い呼吸のままゆっくりと瞳を閉じる。

 自身へと駆け寄ってくるギルド会館の職員たちの足音を聞きながら、アニエスの意識は深い闇へと落ちていくのであった。


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