第99話
中央区でも指折りの高級宿の一つであるメイルリーヴ。
貴族たちを始めライズワースでも名立たる豪商たちが会談や商談の場を設けるこの宿では其処で働く従業員たちに対して徹底的な教育が施されていた。
宿で顔を合わせた人物、そして交わされた内容、その一切の口外を固く禁じ、もしも情報が漏れた場合には法的手続きすら辞さない旨を従業員たちと書面で取り交わす程に徹底された管理体制が敷かれたこの宿を常宿とする貴族や商人たちも多い。
高級感溢れる一階の広間から吹き抜けの階段を二階へと給仕の男が上っている。
手には大きめの盆に高級酒の酒瓶と意匠を凝らした杯が二つ。
給仕の男は二階部分まで階段を上がりきると通路に並ぶ個室の一つを慣れた手付きで控えめに叩く。
僅かの間を置いて室内から応答があり給仕の男が室内へと入ると、その視界にテーブルを囲む一組の男女の姿が目に入って来た。
テーブルに座る細身で長身の男性。金髪碧眼。だが何処か色褪せた髪質に整った顔立ちに奔る傷痕。
荒事とは無縁の給仕の男ですらその男の名と姿を知っていた。
男の名はベルナディス・ベルリオーズ。
このオーランド王国で……いや、大陸全土を見渡しても屈指であろう傭兵の姿と名を知らぬ者は少なくともこのライズワースには居ない。
そのベルナディスと向かい合う様にテーブルに付いている女性……給仕の男からは背を向けたその女性の艶やかな長い黒髪だけが目に映る。
美しい黒髪だな……。
給仕の男は無論言葉に出す事などないが少女の後ろ姿にそんな感慨を抱く。
元々この大陸に置いて黒髪自体が珍しい。
黒い髪質は東部域のロザリア帝国でも更に東の半島の住民たちに多く見られる髪の色であると一般的に語られてはいたが、多種多様な人種が住まうこのライズワースでも黒髪の女性を見掛ける機会はそう多くは無い。
その黒髪の女性の後ろ姿に給仕の男は内心興味を惹かれていたが、徹底された教育の賜物かそんな気配などおくびにも出さず給仕の男は丁寧な所作でテーブルへと酒瓶と杯を置いていく。
「有難う」
想像よりも遥かに若い女性の……少女の声に思わず給仕の男が聞こえた声の方向へと顔を向ける。
瞬間、給仕の男の手が止まる。
いや手だけではない……まるで時が止まったかの様に給仕の男は食い入る様に、少女の顔に魅入ってしまう。
それ程までに少女は美しかった。
言葉にすれば酷く稚拙で趣きに欠ける形容詞ではあるが、そう表現する以外適切な言葉が浮かばぬ程の完成された美が其処にある。
神話に語られる美の女神たちですらこの少女の姿を目にしたら嫉妬に狂うのではないか、とそう本気で思わせる程の少女の可憐で美しい姿見に給仕の男は一瞬仕事や立場すら忘れ少女を凝視してしまう。
給仕の男の不躾な視線に少女は黒い澄んだ瞳を男に向け、少し困った様に微笑んだ。
その少女の姿に給仕の男は直ぐに我に返ると、慌てて少女に謝罪をし逃げる様に部屋を後にする。自分などが関わってはいけない……この少女はそうした側の人間なのだと、経験からくる直感が給仕の男に告げていた。
その直感に従った給仕の男はある意味賢明であり、また優秀な男であったと言えるのかも知れない。
「男としてあの者の無礼を責める気にはなれぬ故、許してやって欲しい」
ベルナディスが苦笑を浮かべながら少女に……エレナに給仕の男の無礼を謝罪する。
「いえ、気にする程の事でもありませんから」
エレナにしても男たちのそうした態度や視線には慣れたもので、最早当初の様な困惑すら浮かんでは来ない。なにより未だにエレナに取ってこの身体は借り物の現し身であり、その容姿を如何に褒め称えられようが正直、一般的な女性が抱く様な感情が芽生える事など無いのだが。
「本来、試合を前にこの様な場に呼び出す形になった事、そしてそれに応じてくれた事には感謝の言葉も無い」
ベルナディスが言う様に、決勝の舞台で戦う両者がこうして事前に席を共にする事は極めて異例であり、厳密には禁止事項に触れぬとはいえ余り好ましい行為とは言えない。
それ故にベルナディスも細心の注意を払いこの宿を指定したのではあるが、それでもエレナがこうして誘いに応じてくれた事に対して感謝の念を持っていたのは偽らざる真実であった。
「無礼とは承知してはいたのだが、同じ時代を生きた者として英雄アインス・ベルトナー殿とどうしても最後に言葉を交わして見たかった」
ベルサリア王国の騎士であったベルナディスにしても、ビエナート王国の騎士アインス・ベルトナーの名は直接戦火を交えた事の無かった両国の間でも知れ渡る程の勇名であり、なにより愛すべき祖国を滅ぼし、数百万に及ぶ無辜の人民の命を奪った忌まわしき魔物たちの首魁である魔女カテリーナを討ったアインスはベルナディスにとっても尊敬すべき偉大な英雄であったのだ。
「私一人の力で魔女を討てた訳ではありません……遠征軍に参加した数百万の勇士たち、そして共にノートワールへと赴いた数万の同胞たちの挺身によって成し得た成果です」
エレナの言葉には一切の迷いは無い。
ノートワール攻略の為に各国の魔導戦艦と、輸送船とは異なり対地対空兵装を搭載した今は大陸に現存しないとされる数百もの魔道強襲艦。
各国の誇る航空戦力の全てを動員して行われた大規模な攻略作戦は、だがノートワール上空まで辿り着けた艦は一隻として存在しなかった。
魔導戦艦は一隻保有するだけで国家間の天秤を大きく傾ける程の圧倒的な戦闘能力を有する最強の機動兵器である。
エレナが知るビエナート王国の戦艦グイレゴリウスに搭載された特殊兵装、粒子砲は別名裁きの光と呼ばれ、その粒子の輝きを一閃させるだけで一つの都市を薙ぎ払う程の凄まじい威力を秘めていた。
その余りの火力の高さ故に国家間の戦争においても戦艦同士が相打つ事などは有り得ず、切り札として……抑止力としての効果として互いに牽制し合う道具としての意味合いがより強かったのだ。
だからこそカテリーナの災厄当初から各国首脳部は魔物の台頭にも何処か楽観視していた部分があったのは否めない。
対人戦闘において絶大な脅威となる上級危険種や特定危険種でさえも、戦艦の砲火の前では地を這う虫けらに過ぎない、と高を括っていた側面は確かにあったのだろう。
だからこそ当時中央域に密集していた数千万とすら言われる魔物の群れを相手に遠征軍は強引で無謀とすら思える単純な物量戦を展開したともいえる。
結果動員した全ての戦艦と強襲艦は中央域の上空を黒く塗り潰す程の圧倒的な飛行種の人海戦術により、激しい戦闘の中ノートワール近郊で撃墜される。
そこからは地獄であった。
魔物の群れの只中に不時着した魔導船から、運良く生き延びたアインスたちの前には数千にも及ぶ上級危険種が群がり一方的な虐殺……いや、魔物たちによる捕食が始まる。
そうした死地の中、アインスたち宣託の騎士団がノートワールまで辿り着けたのは、そんな絶望的な状況の中にあって尚、アインスたちの為に己の身すら省みず道を切り開いてくれた数多の英霊たちのお陰であり、ノートワールの地でアインスが魔女カテリーナの下へと至れたのはクリルベリアを始めとする特定危険種を足止めする為に死闘を繰り広げたアンリたち宣託の騎士団の面々の功績によるものだ。
自分一人では何一つ成し得なかった。
その事を強く胸に刻み付けていたエレナにとって、自分を英雄視する人々の思いには心中複雑な感情を抱いてはいたが、今の大陸にあって救世の騎士の呼び名が後の人々の支えとなり希望となれるなら、分不相応ながら甘んじてそれを受け入れようと言う思いもまたあった。
ベルナディスとの些細な会話の中、エレナの脳裏にノートワールでの戦いの記憶がまざまざと呼び起こされる。
忘れ得ぬ筈の死闘の記憶……だが魔女カテリーナと対峙した最後の記憶だけが霞が掛かったかの様にうすぼんやりとしている。
最後の瞬間、魔女と何か言葉を交わした覚えがある。だがその内容も魔女の姿すらも何処か霧の中にあるようではっきりとしない。恐らくは禁呪によりこの身体に魂を移した事で何らかの記憶障害が発生しているのであろうが、ただ一つはっきりと覚えている事もある。
自分の双剣が魔女の首筋を捉えた瞬間、あの魔女は……カテリーナは確かに微笑んだのだ……。
あの時自分は確か何かを……。
思い出そうとすればする程に濃い霧に覆われていく記憶。
「エレナ殿」
自分の世界に没入していたエレナはそのベルナディスの声で我にと返る。
「すみません……まさかこうして誰かを相手に過去を振り返る機会が訪れるなど、想像すらしていなかったので」
エレナは苦笑を浮かべ、ベルナディスに詫びる。
エリーゼからは自分のこの状況について口外するなと口止めされていた訳ではないし、特に何かエリーゼとの間に制約を課していた訳でもない。
だが現実問題として愛玩用の人形に魂を移された英雄の話などしたところで信じる者などはいないであろうし、また元の身体に戻れる見込みが薄い現状では仮にエレナの話を信じる者がいたとしても要らぬ混乱を招くだけだという思いから、これまで誰にも話す様な真似はしてこなかった。
境遇が似通ったベルナディスであったからこそ素直に打ち明けたのだが、だがこうして誰かに話してみると何処か不思議な感覚にエレナは襲われる。
哀愁とも取れる様な淡い懐かしさ……そんな思いに捉われる自分をエレナは笑う。
ベルナディスもそんなエレナに根掘り葉掘り問い質す様な不細工な真似などしない。
二人の間には緩やかで静かな時間が流れ、ぼつりぽつりと語るエレナの話をベルナディスは疑問を挟む事も無く聞き入っていた。
「数奇な運命と片付けるには些か作為的なものを感じざるを得ないな」
エレナの話を黙って最後まで聞いていたベルナディスは、率直な疑問を口にする。
魔女カテリーナの呪い、禁呪、魂の定着、残された僅かな余命。
エレナの身の起きた一連の出来事は余りにも荒唐無稽でありそれ故に出来過ぎている。
「エレナ殿に今更語るまでもないだろうが、魔法士という輩を余り信用されぬ方が良い」
自身を探求者として称する魔法士たちの多くが人の理から逸脱した存在であり、独自の価値観を有する異端者である事は間違いない。
ベルナディスはエレナが語る話の中でエリーゼへの親しみの様なものを感じ取り暗に注意を促す。
エレナもエリーゼが何かしらの思惑から行動しているのは感じ取ってはいたが、それでも命を救われた現実と結果として自由に生きる機会を与えてくれたエリーゼには感謝の気持ちがあるのも事実なのだ。
大分夜も深けた頃合でエレナは何気ない様子でポツリと呟く。
「私はこの大会を最後にライズワースを離れ、南方域のアドラトルテへと向かいます。中央域はその道すがらであり、自分もノートワールまで同行しても良いか」
と。
今や人が近寄る事が出来ぬ魔境と化した中央域の、それもその中心部たるノートワールまでの行程をまるで旅のついでの様に語るエレナに流石のベルナディスも息を呑む。
エレナ以外の人物が語ったならば一笑に付す様な言動に、だがベルナディスはそっと瞳を伏せた。
「それは真に心強い話であり、私にそれを拒む理由は見当たらぬ」
エレナが差し出した杯にベルナディスが杯を合わせる。
「今は無き友人と偉大なる英霊たちに」
互いに杯を空けるエレナとベルナディス。
英雄たちの短い夜は厳かに、ひっそりと深けていった。
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