第90話
壱組の決勝が終わり、エレナ・ロゼが闘わずして優勝を決めた結果に困惑していたのは観客たちだけでは無かった。ベルナディスが二位で決勝を終えたと言う事実が、後に控えていた残りの組の者たちに大きな影響を与える事となる。
何故ならば決勝大会の一回戦は各組の優勝者と二位がそれぞれ入れ替わり対戦が組まれる為このままもし優勝してしまうと、決勝大会の一回戦でいきなりベルナディスと対戦する確立が跳ね上がる為だ。
そうした思惑が交差する弐組の決勝を前に、エレナは一人控え室へと戻って来ていた。決勝ともなると出場者それぞれに個室が割り当てられる為、エレナの他には控え室に人の姿は無い。
「お久しぶりね、アインス」
突然背後に生まれた気配に、振り向き様鞘走らせたエルマリュートの刀身が、エレナの背後に立つ女性の首筋でピタリと止まる。
「前にも言ったと思うがそう言う姿の見せ方はいつか命を失う結果を招くぞ」
「勿論相手は選んでいるつもりよ」
エルマリュートの刀身が自身の首筋に触れているこの状況でも、まるでエリーゼに動じた様子は見られない。寧ろ楽しげにエレナを見つめ妖艶な笑みを浮かべている。
エレナはそんなエリーゼを呆れた様に眺め、何か口に出そうとするが直ぐに諦めた様に軽く溜息を付くと、エリーゼの首筋に当てられているエルマリュートを鞘へと収める。
「来ていたのか、エリーゼ」
「当然じゃない、貴方は大切な観察対象ですもの、ずっと気に懸けていたのよ」
気紛れな女性であるエリーゼのその言葉が、何処までが本気であるかなどはエレナには理解が及ばない。元々女性の扱いには不慣れなエレナではエリーゼの様な女性の心理を読み取るのは至難の業といえた。
「アテイルの聖杯……古の魔法士が残したと言われる遺物の一つ。貴方にしては目の付け所は悪くは無かったのだけれど、言った筈よ、私に解けない呪いなら他に解呪の方法など無いと」
「それでも呪いの類には多少なりと効力があるんだろ?」
「そうね……呪いの進行を遅らせる程度の効果なら望めるかも知れないわね、一年から十年……いえ、一週間かそれとも三日程度かも知れない」
余りに幅広く、そして曖昧なエリーゼの推測にエレナは僅かに眉を潜める。
「随分と適当な推測だな」
「お馬鹿な貴方に説明しても難しいでしょうけれど、そうした効果には個体差や相性もあるの、一概に一定の効力は望めないものなのよ、魔術とはアインス、貴方が思う程に単純なものでは無いわ」
可哀想な子を見る様なエリーゼの眼差しに、だが以前と変わらぬエリーゼの姿にエレナは不快感よりも懐かしさを感じてしまう。どうやら以前の自分が思っていた程に自分はこの変わり者の事を嫌いでは無いのだな、とエレナはこの時初めて気づく。
「私はもうアインスじゃない、だから私の事はエレナと呼んで欲しい」
エレナのその何気無い一言にエリーゼの瞳が妖しい輝きを帯びる。
「あら……随分といじらしい事を言える様になったのね……いいわ……エレナ、私の可愛い子」
先程までとは打って変って妖艶な雰囲気を纏わせたエリーゼがエレナへと身を寄せる。
「一年以上肉体的な接触は無いのでしょう、私が女の喜びを教えて上げる」
ゆっくりとエレナの頬へと伸ばされるエリーゼの指が――――エレナの頬に触れる直前で止まる。
カチリ、と殊更音を立てて僅かに抜かれたエルマリュートの刀身が、室内の明かりを反射する様に鈍い輝きを放っている。
「お前のそういう所は好きにはなれないな」
触れ合う程にその身をエレナへと寄せていたエリーゼをエレナの黒い瞳が射抜く様に見つめる。
そんなエレナの様子にこの時ばかりはエリーゼも少し残念そうな表情を一瞬浮かべるが、次の瞬間には何事も無かったかの様にエレナから離れていた。
「少し残念だけれど無理強いをする気はないわ、さて……嫌われる前に退散しようかしらね、エレナ、貴方の勝利を祈っているわ」
酷くあっさりと、それはまるで気紛れな猫の様に控え室を後にするエリーゼの姿に、エレナはまた深く溜息をつくのであった。
控え室を出たエリーゼの指が虚空に複雑な紋様を刻む。
瞬間、エリーゼの姿は掻き消える様に霧散すると、次の瞬間には闘技場を遠く離れ人気の無い丘の頂へとその身を移していた。
エリーゼが事も無げに見せたその魔法は……だがそれは才能ある魔法士たちが生涯を懸けて探究しても達する事が叶わぬ程に高度な呪法の一つであった。
「どぶの臭いがするわね……視ているのでしょう、姿は隠せても薄汚い臭いまでは消せないわよ」
嘲笑う様に虚空へと言葉を紡ぐエリーゼの姿は、先程までエレナに見せていた人間らしさが抜け落ちた……凍りつく様な冷たさを感じさせる、別人の様な雰囲気を垣間見せていた。
刹那、エリーゼの前に闇が生まれ、それは人の形を形成していく。
「どぶ鼠の御登場かしら」
侮蔑を込めたエリーゼの嘲笑の先、その闇は漆黒のローブを纏う男の姿へと変貌していた。
「忌まわしき魔女め……」
ローブから覗く白濁した二つの瞳がエリーゼを見つめ、しわがれた、潰された蛙が如く不快な響きを帯びた男の声が音の途絶えた丘の頂に響く。
「あら、アウグスト坊やは暫く見ない内に随分と色男になったわね」
クスクスと手の甲を口に当て笑うエリーゼ。
「魔女よ……貴様の企み通り事が運ぶなどと思わぬが良いぞ……アインス・ベルトナー……その魂を宿す人形が、魔女カテリーナの若き日の姿とは……なんと悪趣味な事よ」
全てを見抜いているぞ、と暗に告げるアウグストに、だがエリーゼはそんなアウグストを嘲るように見つめる。
「余り調子に乗らぬ方が良いわよ坊や、少しおいたが過ぎて痛い目を見た様だけど、その程度の事でまさか魔導の深遠を垣間見たなどと勘違いはしていないでしょうね」
表情一つ動かさぬエリーゼ……だが放たれる不可視なる圧力がアウグストのローブを大きく波打たせる。
「毒婦よ……不浄なる魔女よ……決して貴様の好きには――――」
パチン、とエリーゼの細く美しい指が打ち鳴らされた刹那、アウグストの周囲の空間が爆ぜた。爆音と共にアウグストが居た空間が抉り取られ、巻き上がった砂塵が辺りを覆い隠す。パラパラと雨の様に打ち付ける小石や砂……アウグストが立っていた地面には穿たれた様な大穴が口を開いている。
「どぶ鼠らしく逃げ足だけは立派なものね」
抉り取られた様な大穴を暫しの間眺めていたエリーゼが嘲る様に呟く。
「三流魔法士風情が余り調子に乗ると、捻り潰すわよ」
何処かで視ているであろうアウグストにエリーゼは言い放つ。
私の可愛い子にこれ以上ちょっかいを掛ける様なら始末してしまえばいい。その程度の事は造作も無い事なのだから。
エリーゼはアウグストの姿を思い出し、またクスクスと笑い出す。本当に楽しそうに……狂気を秘めたその笑顔は、だが妖艶で魅力的な程に美しかった。
誰よりも優しく、そして人間をこの世界を愛し救おうとしたカテリーナ。
だが人間とは何処までも愚かで無知でそして醜く傲慢な生き物――――。
救いを拒み、あまつさえその身を捧げたカテリーナの命すら奪った咎人には相応の報いと、人間たちには避け得ぬ滅びが待っている。
「カテリーナ……貴方が愛した世界は私が代わりに救おう……だがその世界にお前を拒んだ人間たちは要らぬ……」
虚空を見つめるエリーゼの瞳から一筋の涙が零れ落ち……大地を濡らす。
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