第55話
アドラトルテ国軍は第一から第三までの三個師団。各一万人から成る総数三万名の人員で構成されている。これら師団に付随する形で組織されている幾つかの大隊と都市警備を主任務とする治安維持部隊。平時は召集される事の無い予備役兵とこれにアドラトルテに滞在していた傭兵たち。
これら全てを動員して防衛戦を展開するアドラトルテ国軍の総員は五万名を超える。
机上の空論になるが、これらに戦う力を持つ市民の男たち全てを掻き集めればその数は十数万にまで跳ね上がり、数の上では魔物たちに匹敵する戦力となる。
だがそれはあくまで数字の上での話しだ。
仮に数の上で魔物と並べたとしてもその戦力差は圧倒的なまでに異なる。
通常どの国も魔物の討伐は最低三人一組で行われる。それは協会が膨大な数の情報を集め、統計として出した魔物討伐に必要最低限の人数とされている数値である。そしてそれは安全性を考慮に入れた数字ではない。
それ程までに人間と魔物とでは身体能力を含めた全ての能力において大きく差があるのだ。
単純な計算でも今アドラトルテを襲っている十数万の魔物を討伐する為には、最低でも戦闘訓練を積んだ兵士が四十万は必要となる。その事だけでも今アドラトルテが置かれている状況が如何に絶望的であるかが伺えるだろう。
エレナの弓から放たれた矢がベイル・スナッチャーの脚に突き刺さる。
矢が刺さった脚が外壁の隙間から離れるが、ベイル・スナッチャーは器用に残りの七本の脚でその体重を支えている。
外壁の上に立つエレナはそれを眺めながら慣れた手つきで矢筒から矢を抜き取ると続けざまにベイル・スナッチャーへと矢を放った。
体重を支えていたベイル・スナッチャーの数本の脚に次々にその矢が突き刺さると、堪え切れず滑り落ちる様にベイル・スナッチャーは外壁の下に蠢く黒い絨毯の中へと消えていく。
「早く油を持って来い!! 外壁をよじ登られるぞ!!」
エレナの周囲でそうした怒声が飛び交っている。
一門を魔物に破られてから二日。外壁での防衛線は既に限界に達しようとしていた。
昼夜問わず襲い来る魔物に対し師団を三つに分け三交替で対応することで何とか兵士たちの疲労を抑えていたとは言え、肉体的な疲労以上に精神的な疲労感が兵士たちの精神を蝕んでいた。
それはエレナたちがいる第三師団に限った話では無い。他の方面の外壁を死守している兵士たち全てに当て嵌まる深刻な問題になりつつあったのだ。
そうした精神的な問題と共に物理的な問題として逼迫していたのが物資の問題である。
食料や水などそうした生活物資に関しては備蓄を含め当面の心配は無かったが、外壁の防衛での生命線となっている油が底をつき掛けていたのだ。
日常の市民生活でも大量に消費される油はアドラトルテでも大量の備蓄があった。だが魔物の襲撃から七日。貯蔵庫と市街から掻き集めた油は既に残り僅かとなっている。早ければ今日中、遅くても明日には確実に底をつくだろう。
そうなれば外壁を登れぬアンダーマンは兎も角、ベイル・スナッチャーの侵入を防ぐのはほぼ不可能と言えた。
鮮やかな弓捌きで次々とベイル・スナッチャーを外壁から落としていくエレナの姿を、隣に並んで矢を射ていた兵士や外壁を巡回している兵士たちが立ち止まり見惚れたように眺める。
エレナ・ロゼと呼ばれる美しい少女の名は直接エレナと共に戦った大隊の兵士から瞬く間に第三師団全体へと広がり、今ではアドラトルテ国軍の中でも盛んに噂される渦中の人になっていた。
普段ならそうした自分に関する噂を快くは思わないエレナだったが、今は兵士たちが望み信じる姿を意図して演じている節もある。こうした緊張状態が長く続く事で磨り減っていく兵士たちの精神を少しでも支える事が出来るなら、戦意を鼓舞する事が出来るなら、そうした道化を演じる事にエレナの中で躊躇いなど無い。
「エレナ殿、少し宜しいか」
エレナは背後から声を掛けられ振り返る。
其処に立っていたのは部隊長の男とまだ若い兵士の姿。若い兵士の方はエレナの方をまともに見ようとせず緊張した面持ちで顔を上げ視線を宙に彷徨わせている。頬を赤く上気させエレナを見ようとしない純朴な若者の姿は何処か微笑ましくエレナの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「此処をお願いしますね」
「は……はいっ!!」
エレナの手が若い兵士の肩におかれると若い兵士はびくっと身体を一度震わせ上擦った声で返事を返す。
エレナは部隊長の男に連れられ外壁の階段を降りる。するとそこには一台の馬車が停められており、その馬車の前にはアニエスの姿があった。
「お二人にはこれから軍務省に向かって頂きたい。話の方は其方で」
部隊長の男が二人にそう声を掛ける。
部隊長の様子を見てもどうやらシェルンには声は掛けられていないようだ。だがアニエスが呼ばれていた事にはエレナは特別違和感は感じていない。何故なら三人の中でアニエスの存在感は別格だったからだ。
オーランド王国内では知らぬ者など居ないほどの勇名を馳せるアニエスであったがこの南部域ではほぼ知られてはいない。
災厄以降、各国とも国内以外の他国の情報が中々入手しづらい状況にある事と大国間での戦争が無くなった事により、そうした情報は特に伝わり難くなっていた。
だがそうした情報など無くともアニエスの纏う雰囲気はやはり特別であり、普通の傭兵として扱うのは憚られる、そうした存在感がアニエスにはあった。
そういう意味ではシェルンは腕は立ってもやはりまだ若い少年であり、アニエスの様な存在感を出せる域にまではまだ達していない。
エレナとアニエスが馬車に乗り向かった軍務省はアドラルテの中心部から南の区画に建つ行政府の官舎と隣接する様に建てられていた。
エレナとアニエスは同行する部隊長の男と共に軍務省の官舎の中へと向かう。三人を中で出迎えた兵士に案内され通された部屋には既に先客たちがいた。
広い部屋の中央に置かれた円卓を囲む様に座るのは、
アドラトルテ国軍第一師団長。ベルナーク・ルクス。
第二師団長。ボルス・メビル。
そしてアスボルトに変わり新たに第三師団長に就任したラグス・バラッシュの三人。
アドラトルテ国軍を統括する師団長の面々であった。
「成る程……ラグスの言う通り、いや……噂以上であったな」
三人の師団長の視線が部屋に入ったエレナへと注がれる。第三師団長のラグスの顔は知っていたが他の二人はエレナには初めて見る顔であった。
「お呼びにより参上致しました。エレナ・ロゼと此方はアニエス・アヴリーヌと申します」
エレナはやや不躾な視線を自分に向ける三人に頭を下げる。アニエスは軽く会釈程度でエレナに倣う。
「これは失礼した。エレナ殿、それにアニエス殿、どうか席について貰いたい」
三人の師団長の中でも最年長のベルナークが立ち上がり二人に席を勧める。
エレナとアニエスがそれぞれ席につくのを確認するとラグスが部隊長の男と同行して来た兵士へと目配せをした。すると部屋の隅に控えていた二人は円卓の面々に敬礼し部屋を出て行く。
部屋の中に五人だけになるとベルナークとボルスがエレナとアニエスにそれぞれ簡単な自己紹介をする。
「会って早々申し訳無いのだが、どうしてもエレナ殿にやって貰いたい儀がありこの場に呼ばせて貰ったのだ」
挨拶もそこそこにベルナークはそう話を切り出した。
「私で出来る事があるなら協力は惜しみませんが、詳しくお話を聞かせて頂いても宜しいですか?」
「勿論だ、いや寧ろ聞いて貰わねばなるまいな」
ベルナークは一度言葉切るとエレナを見つめる。
「我々の見解では明日一杯……それが防衛線を維持できる限界点だと考えているのだ」
前置きも無くそう告げるベルナークの考えにエレナの顔に動揺は見られない。エレナの予測もほぼ同様であったからだ。
油が尽きれば外壁を登るベイル・スナッチャーの侵入を防ぐのは難しい。そしてベイル・スナッチャーはギガス・バルダと同様に中級位危険種であり、本来ならば十人規模の傭兵団で一体を相手にする程厄介な魔物である。
あの数のベイル・スナッチャーがもし外壁を超えればアンダーマンの侵入を待たずアドラトルテが壊滅的な被害を受ける危険性は極めて高い。もし殲滅出来たとしてもかなりの数の犠牲を覚悟しなければならないだろう。
「そこで我々はその前にアドラトルテを放棄し撤退する。無論全ての市民を連れてな」
そこで初めてエレナもアニエスも目を見張る。確かに限られた選択肢の中では突飛な案と言う訳では無いのだが……。
「南部域の地理には疎いのでお聞きしたいのですが、確かこのアドラトルテから最も近い同盟都市まで五十キロは離れていた様に思うのですが」
仮に包囲する十数万の魔物の包囲を突破出来たとしても五十キロの道程を全市民を連れて陸路を行くなど無謀過ぎる話だ。幸運に恵まれたとしても生き残れるのは精々二割と言ったところだろう。それともアドラトルテと命運を共にするよりは僅かな可能性に賭けてみたいと言う事なのだろうか。
「確かに最も近い同盟都市ルーエンまでは五十キロはあろうな、だが我らが目指すのはルーエンでは無いのだ。目的地はこのアドラトルテから最短距離の海岸だ」
「なかなか面白い事を考えるわね」
ベルナークの意図を察したのだろう、アニエスが不敵な笑みを浮かべている。
「最短の海岸までならアドラトルテから十キロ弱。同時に選りすぐりの中隊を伝令としてルーエンに走らせる。全力で飛ばせばルーエンまで約半日。ルーエンから海岸まで船で数時間。海岸を一日死守できれば活路はあると思うのだがね」
ベルナークの言葉はあくまで全てが希望的観測に基づいている。第一仮に伝令がルーエンまで無事に辿り着けたとしても危険を冒してまで救助の船を出す保障など何処にもないのだ。
だが……アニエスではないがエレナも面白い、と思ってしまった。失敗すれば全員魔物の餌になる。恐らく災厄以降最悪の惨事として歴史に刻まれるだろう。しかし成功すれば多くの市民を救う事が出来るかも知れないのだ。かなり分が悪い賭けにはなるがやってみる価値は十分にある。
「私は何をすればいいのですか?」
「この案が成功するかどうか、鍵を握るのは市民たちの覚悟だ。エレナ殿には彼らを導く道標となって欲しい」
ベルナークはエレナにアドラトルテの市民たちを説得し生きる希望と生き抜こうとする強い意志を喚起して欲しいと頼んでいた。追い詰めれた人々が最後に縋るのは神の存在。ベルナークはエレナに聖女の真似事をしろと、そう言っているのだ。
「時間は少ないがよく考えてから返事を貰いたい。事が失敗すれば間違い無くエレナ殿は人々を死地へと誘った魔女として歴史に悪名を残す事になるだろう。故に無理強いはしたくないのだ」
「お受けします」
その声にベルナークたちは驚いた様子でエレナを見る。
「私にそんな大役が務まるかどうか不安ですが、出来る限りの協力は惜しみません。それに失敗した時は私も死んでいるでしょうし、例えどんな悪名が残っても悲しむ家族もいませんから」
作られた英雄が最後は魔女として最後を迎える。なかなかに滑稽で笑える話ではないか。
それが本当におかしくなりエレナは笑いそうになる。その黒い瞳には迷いなど微塵も無い。
「感謝する。エレナ殿」
ベルナークは立ち上がるとエレナに頭を下げていた。
この強く、真っ直ぐなこの少女の本質にこの時初めてベルナークは気づく。
多くの兵士たちがこの少女に惹かれるのは見た目の美しさだけでは無いのだと。少女の魂の輝きが多くの者を惹きつけてやまないのだと。
故にベルナークはエレナが不憫でならない……いやそれはまだ若いこの娘に大きな重荷を背負わせ様としている自身への憤りからか。
お前さえ生きておればな……アスボルトよ……。
人々の心を纏められたであろう英雄の死を悼み、そして自分たちの不甲斐無さを悔やむ。
だがせめて、例え結果がどうあろうとこの気高き少女の献身に報いねばならぬと、そう強く心に刻むベルナークであった。
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