第37話
レティシアは自室の窓から外の景色を眺めていた。
色を失い色あせた情景。のどかな田園が広がる美しい光景も今のレティシアには何の感慨も感銘も与えることは無い。
胸にぽっかりと大きな穴が開いてしまったかのようなこの消失感をレティシアは以前にも一度味わっている。
(アインス様が凱旋した遠征軍の中におられないと知れされた時……あの時も……)
そして今また同じ消失感に襲われている自分自身への不甲斐無さに知らず唇を噛み締める。
レティシアの中に渦巻くのはエレナが自分に相談することなく姿を消してしまった切なさと、唯一人彼女に相談されたカタリナへの理不尽な嫉妬心。
自分がもし相談されていれば間違いなくエレナを止めていた。どんな手を使ってでも行動を制限しようとしただろう。
それが分かっていたからこそエレナはカタリナに相談したのだ。だからこそ……それが分かるからこそレティシアは悔しかった。エレナの一番は自分なのだから……どんな理由があれ自分を頼って欲しかったのだ。
それがどれ程矛盾した思考なのかレティシアにも分かっている。だが理屈で割り切れぬほどにエレナへの想いは強く激しく燃え上がりレティシアの胸を焦がす。
アインスを想う気持ちは今も変わらない。レティシアが唯一人と心に決めた憧れの男性。だが同時にエレナもまたレティシアにとって唯一人の女性なのだ。
この二つの想いにレティシアの中で何故か葛藤は生まれてはいない。その理由の一端はエレナの戦う姿に、その立ち振る舞いに憧れる英雄アインス・ベルトナーの姿が重なるからだろうか。そのことが二人の存在の境界をレティシアの中でどこか曖昧なものにしていた。
チリン、チリン。
入口の扉に設置していた呼び鈴が鳴る。その音に反応してレティシアは部屋を飛び出し駆け出していた。
エレナが約束した期日にはまだ二日あった。だけどもしかしたら……その思いがレティシアの心を騒がせる。
だが扉を開けた向こうに立っていたのはエレナとは似ても似つかぬ大男の姿であった。しかし考えてみればエレナなら呼び鈴など鳴らす筈が無いではないか。そんな単純なことすら忘れ僅かでも期待してしまった自分の浅はかさにレティシアははぁ、と深い溜息をついた。
「会った早々、随分なご挨拶じゃねえか」
ヴォルフガングはレティシアのその対応に些か心外そうな顔をする。
「あ……ご免なさい、ヴォルフガングさんに思う所があるわけじゃないのよ」
レティシアは慌てて手を振りながらヴォルフガングに弁明する。ヴォルフガングの方も本気で責めている分けでもなかったので、そんなレティシアの弁解を内心面白そうに眺めていた。
「今日はよ、紹介したい奴がいてな、少し時間を貰えるか?」
一通りレティシアの弁明を聞き終え、機嫌を直した振りをしてヴォルフガングはそう切り出した。
その言葉でレティシアはヴォルフガングの後ろに立つ女性の姿に気づく。
その女性を見たレティシアが感じた印象は大人の女性……香り立つ色香と呼べばいいのだろうか。そんな魅力を感じさせる美しい女性であった。
「では、詳しい話は中で、どうぞ入って下さい」
レティシアに促されヴォルフガングがそしてその女性がレティシアに軽く会釈をし中へと入っていく。
レティシアから声を掛けられたカタリナ、シェルンも広間へとやって来る。広間には双刻の月の面々とヴォルフガング、そしてその女性がテーブルを挟み介していた。
「まずは紹介するぜ、聞いた事もある名かも知れねえが彼女の名はアニエス・アヴリーヌ。遙遠の回廊に所属してたんだが、今は分けあって無所属の傭兵だ」
「貴方があの銀閃の女王……」
レティシアのような女性のギルド員にとってアニエス・アヴリーヌという女性はまさしく憧れであり目指すべき目標だ。知らぬ筈がない。
だが今は感激より驚きの方が強かった。まさかこうして知り合う機会を得るなど想像もしていなかったためだ。
「まぁ、どんな理由があったかはお前らならもう察しがついてるとは思うけどよ、ちょっとした経緯でうちと関わりが出来てな、うちで預かろうにも何せ男所帯なもんでな、暫くここで彼女を預かって貰いてえんだわ」
「無理は承知でどうかお願いする」
アニエスもレティシアたちに深く頭を下げる。
そう、これがヴォルフガングと交わした契約。アニエスにヴォルフガングが全面的に協力する代わりに、目の届く範囲で彼女たち双刻の月の人間たちをアニエスが守る。アニエスはヴォルフガングとそうした契約を交わしていたのだ。
「それは構わないのですが、アニエスさん程の方ならもっと相応しいギルドが幾らでもあるのでは」
「黄昏の獅子と揉めているギルドに力を貸せるのは、私にとっても黄昏の獅子への意趣返しになるのよ」
アニエス本人がそういうのならレティシアに断る理由は無かった。それに何故ヴォルフガングがアニエスを紹介したかもおおよその察しはつく。
「エレナがいない間、用心棒としては丁度いいだろ、番犬にしてはかなり獰猛でおっかねえがな」
「分かりました、アニエスさんが居たいだけここに居て貰って構いません」
「有難う、感謝するわ」
「ではアニエスさん、お部屋にご案内するわ、カタリナ、お願いできるかしら」
カタリナは頷くとアニエスを連れ広間を出て行く。三人だけになると途端に空気が重くなる。既にレティシアの顔からも仮面のような作り笑顔は消えている。
「闘神の宴まであと二日。ここまでは何もちょっかいをかけられてねえとはいえ油断は禁物だぜ。あの手の連中の考える事は今一つ読みきれねえところがあるからよ」
ヴォルフガングもかなりの人数を無法者たちの穴倉に送り込んでいる。そのこともあり今の時点でエドヴァルドが起こした襲撃の顛末もその耳に入っていた。そして今黄昏の獅子が見せている大きな混乱……。
それがエドヴァルドの襲撃と何か関連があるのかは分からないが、確実に情勢は変わりつつある。そうヴォルフガングは睨んでいた、
「分かってます、エレナが戻るまで気を緩めるなんてことは有り得ないわ」
「ならいいんだがよ」
どこか思いつめたような表情を見せるレティシア。ここまで一言も口を挟まず話を聞いているシェルンにもまたレティシアに共通する悲壮感のようなものが感じられた。
危ういな……そんな二人を見てヴォルフガングが抱くのはそんな危惧だ。
エレナがとった行動はヴォルフガングにはその意図するところまで理解できた。エレナは決して二人を足手纏いだと思っていた訳ではないことも、単独で行動することがもっとも効率的であるが故の判断であったということもだ。
それを二人も理解しているからこそ耐えているのだ。だが理解することと納得することは大きく異なる。
そういう意味において彼らはまだ若すぎる。ヴォルフガングにしてみれば互いの気持ちを押し付けあっているようにしか見えないのだ。それが結果として双刻の月というギルド自体がまだまだ未成熟な組織であることを露呈させていた。
だがヴォルフガングはそんな彼らを何故か放っておく気にはなれずにいる。そんな自分の心境に気恥ずかしさすら感じていた。
(まったく柄でもねえな)
無意識に頭を掻くヴォルフガングの耳に慌しく廊下を走る靴音が近づく。それに気づいた三人の目が扉へと注がれる。靴音は扉の前で止まると一呼吸空けて扉が開け放たれた。
「団長、例の男見つかりました」
扉から姿を見せた男はヴォルフガングにそう告げた。
中央区にある宿屋「シャテール」はそれなりの格式を持つ、云わば上流層といわれる階層の人間たちに親しまれるそうした部類の宿屋であった。
一階部分は全て食堂として開放されており、食事のみを目的とした者たちの来店も多い。夕刻の込み合う時間帯ということもあり、店内はかなりの人で賑わいを見せていた。
各テーブルには正装で身を固めた親子連れから若い男女まで思い思いに食事を楽しみ歓談に華を咲かせている。
その中で明らかに異質な空気を纏った一組の客がいた。
男の方は薄汚い革鎧をつけそこから覗く服装も決して上等とはいい難い。なによりテーブルに立て掛けられた長剣が男の粗野な雰囲気を強調させている。身だしなみという点についてもそうだが、このクラスの店において帯剣したまま食事をとるなど作法的に無粋であり、無作法極まりない行為とされているからだ。
向かいに座る小柄な子供もまたしかり。埃を被ったローブを脱ぎもせず、あまつさえ店内においてフードで顔を隠したままなどというのは、最早非礼であり常識を知らないといわざるおえない。
通り過ぎる人々はどこか見下すような冷たい視線を二人に送っていく。他のテーブルの客たちからも同様の視線が時折二人に向けられていた。
事実二人は宿屋の受付で一度入店を断られている。だがアシュレイが受付の男の手に銀貨を握らせると受付の男は手のひらを返したように嬉々として二人をこのテーブルまで案内していた。
「どうだ美味いだろう、あそこで喰う残飯見てえな料理とは物が違うからな」
確かにテーブルに並べられた料理は豪勢であり、滅多に口に出来ないであろう物ばかりであった。
「いつまでだ?」
「どうした、アトリ」
「いつまでこの兄妹ごっこを続けるつもりなんだ」
エレナの言葉にアシュレイは顔色一つ変えることなく料理を口に運ぶ。
「ごっこでも構わねえじゃねえか、お前は俺の妹のアトリでお前の面倒は俺が生涯見てやる。だからお前は病気を治すことに専念してればいいのさ、お前にとって何の不都合もないだろ、黙って俺を利用してりゃあいい、それが賢い生き方ってもんだ」
「そうやってお前は死んだ妹の面影を私に重ねて生きていくつもりなのか」
料理に伸ばされたアシュレイの手が止まる。
「妹は……アトリは……」
それは一瞬、瞬きするほどの僅かな瞬間アシュレイの瞳に宿った情念にも似た暗い、激しい感情をエレナは見逃さなかった。
この男もまた闇を抱えて生きている。
いやこの男だけでは無い。災厄を生き延びた多くの人々がそうした思いと折り合いをつけ日々を生きている。それはエレナにしても例外ではない。
「済まなかった、いい過ぎたよ……」
エレナ自身が彼を利用しているというのに、その生き方にまで口を挟むなどおこがましいにも程がある。直ぐに自分の失言に気づき反省する。
「ほらアトリ、折角の料理が冷めちまう、さっさと喰っちまおうぜ」
アシュレイは再度料理に手を伸ばしながら何事も無かったかのようにエレナに声を掛ける。
互いに料理を口にしながらもそれ以降二人の間に会話は無かった。
やがて食事を終えるとアシュレイがおもむろに席を立つ。
「もう日が暮れるし、今から馬車を拾ってもあそこまで送ってくれる豪気な野郎もいねえだろ。アトリ、今日はここに泊まってきな、勘定を済ませたついでに部屋を取っとくからよ、兄ちゃんはこれから野暮用があって今日は帰らねえが心配いらないぜ」
そういい残し受付へと向かうアシュレイの姿を黙って見送るエレナ。このアシュレイの突然の行動の理由にエレナは気づいていた。
先ほどから自分たちを見つめる強い気配が六つ。それは好奇の視線を向ける周囲の人間とは明らかに異なる別種の気配であった。
アシュレイの姿が店の外に出るのを確認するとエレナも素早く席を立つ。同時にそれらの気配もアシュレイを追うように少しづつ遠ざかっていく。どうやら狙いは自分ではなくアシュレイの方らしい。
エレナはアシュレイの後を追うように店を飛び出していた。
既に通りにはアシュレイの姿は無い。人通りも疎らになって来ている夕暮れの通りをエレナは走る。エレナはもっとも強く異質な気配を目指すように路地へと駆け出していた。
既に包囲網は完成している。どこに逃げようと後は追いたて狩るだけだ。
アニエスはゆっくりと裏路地を歩く。その指に嵌められた指輪が街灯の明かりで鈍く輝く。
不意にそのアニエスの足が止まる。大通りに抜ける為の裏路地を進むアニエスの前に人影がその進路を遮っていた。
他に人の気配の無い裏路地でアニエスはその人影と対峙する。
ローブを身に纏い顔を隠すその姿は小柄で子供のようにも見える。だが纏うその雰囲気はとても子供のそれではない。
「あんたのその気配、随分と物騒だね」
ローブ姿の人影から聞こえる少女の声にアニエスは僅かに眉を顰める。
「あの男の知り合いだというなら手を退きなさい。女、子供を相手にするのは趣味ではないわ」
「随分と優しいねお姉さん、どんな事情かは知れないけどこっちも一宿一飯の恩義があってね、そうもいかない」
その少女の言葉にアニエスはそう……と小さく息をつく。そして少女を見つめる切れ長のエメラルドのような瞳は鋭さを増す。
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