第36話

 漆黒のローブの男。


 例えるならその存在は不吉。凶兆。そうした負の印象を呼び起こす。

 その姿が見えた瞬間、エレナは駆けていた。魔法士に対して魔法を展開する時間を与えないことは基本中の基本であり、まして戦い慣れているエレナの身体は漆黒のローブを纏った、その姿が見えた刹那に反応していた。

 ローブの男はそのエレナの動きに反応を見せず佇んでいる。いや、その速度に反応出来ないというのが正確だろう。魔法士といえど身体能力は普通の人間と変わらない。修練を積んだ屈強な傭兵たちですら捉えきれないエレナの動きをこのローブの男が見極めることなど不可能といえる。

 エレナが放つ左右からの連撃がローブの男の首筋を捉えた――――そう思われた瞬間、鈍い金属音と共に二本の短剣が弾かれた。

 エレナはそのまま流れる様に身を捻りローブの男との距離を取る。両手に構える短剣の刃先は大きく欠け刃こぼれを起こしている。それが今の衝撃の大きさを物語っていた。

 エレナは今の衝撃の感覚を知っている。それは一部の魔法士が使う防御魔法の一種。詳しい原理は分からないが確か周囲の空間を変質させ反発させる。そんな魔法であったと記憶している。

 だがそれでも、今持っているのが短剣では無くアル・カラミスとエルマリュートならばその障壁ごと奴の首を刎ね飛ばしていたという確信があった。あの双剣は余りに目立ちすぎると思い街の外に隠してきたことがここに来て仇となっていた。

 今の連撃を弾かれた以上、現状奴を仕留めるほどの有効打はエレナには無い。絶え間ない連撃を繰り出し奴の障壁を崩す方法も考えたが恐らくはそれでは短剣の強度が持たない。


 (術式を組み上げる時間は与えなかった筈……だとすれば常時展開型の魔法ということか)


 エレナは小さく舌打ちする。


 「感じるぞ……貴様……人ではあるまい」


 老人の様にしわがれた声が薄暗い室内に響く。その声を聞いてエレナは直ぐに気づいた。このローブの男の喉が潰されていることに。

 ローブの男はゆっくりと自身の顔を隠すフードに手を掛け、フードを取る。

 普通の人間なら絶叫し腰を抜かしたかも知れない……そこに現れた顔はそれ程に……余りにも無残な姿であった。

 光を宿さぬ白濁した両眼、剥ぎ取られた鼻、口、耳、そして頭皮。顔中を覆う重度の熱傷。それは決して事故で負ったとは思えない、人の悪意を体現したような無残な傷痕。このフードの男が言語に絶するような拷問を受けたことは明らかであった。


 「目が見えぬからこそ感じるのだ……そなたという異質な存在を……貴様……人形か」


 その問いにエレナは沈黙で答える。静まり返る薄暗い室内に少女と異形の魔法士が無言で対峙していた。


 「貴様の戯言に付き合う気はない」


 エレナの高まる殺意を感じたのか、待てというようにローブの男は右腕をエレナの眼前に伸ばす。その痩せ細った右手もまた焼けただれ、指の一部からは骨が覗いている。恐らく体中に激しい熱傷と拷問の傷を負っているであろうこのローブの男が生きていること自体が奇跡といえる。


 「待つがよい人形の娘よ、そなたがここに来た理由はおおよそ見当が付く。そこで我と取引といこうではないか。そなたが作り手の名を明かすというのならば、我は金輪際ここの俗物的な輩共に力は貸さぬ。寧ろそなたに協力してもよい。契約の神アルダーテに誓って盟約と成そう」


 魔法士の盟約はそれが口約束で合っても強い効力を持つといわれている。例えるならば商人や傭兵が書面で契約を交わすのと同様に。

 だが人の倫理すら大きく逸脱したこの魔法士にそんな常識が通用するのかは甚だ疑問が残る。しかし同時に一瞬で自分の正体を看破したこの魔法士にエリーゼの存在を隠しておくデメリットもさほど感じられずにいた。少し考えれば容易く思い至る可能性の一つなのだから。

 悪いなエリーゼ……とアインスは心の中で彼女に詫びる。相手の出方を探るためその誘いに乗ることにしたのだ。もっともエリーゼには自分の名を出すなとも、正体を明かすなとも言われていた分けではない。それに原因の半分は彼女にあるのだから巻き込んでも文句は言わないだろう。


 「エリーゼ・アウストリア」


 エレナからでた人物の名にローブの男は驚いた様子はない。もっとも潰れたその顔面からでは表情を読み取ることなど出来はしないのだが。


 「あの女狐め……だがやはりそういう事か……」


 エレナが口を開きかけた瞬間、扉の外の通路から大勢の人の気配が近づく。どうやら隠し扉の状態を気づかれたようだ。


 「部屋の隅の壁が隠し通路と繋がっている、それを伝っていけば外へと出られよう、行くがいい」


 ローブの男は薄暗い部屋の隅を指差すとそうエレナに告げる。

 自分を逃がすかのようなローブの男の言葉にエレナの疑念が深まる。交わされた約束がどうであろうと、自分の存在を知ればこの身体を実験材料にでもしようと企むとばかり思っていたからだ。


 「エリーゼ・アウストリア……あれは言霊に毒を含ませ人を蝕む毒婦よ……あの魔女の一言一句、夢信じぬことだ……」


 外の喧騒が濃厚な気配となって近づいて来る。それは直ぐ扉の向こう側へと迫って来ていた。


 「約束は違えるなよ、もしまた姿を見せることがあれば、必ず殺す」


 エレナはそうローブの男を一瞥し、部屋の奥の闇へと走り出す。


 「盟約はなされた。我が名はアウグスト・ベルトリアス。この名を覚えておくがよい」


 エレナの背中から掛けられたアウグストのしわがれた声が闇へと溶け込むように消える。

 何かの罠かも知れぬ、というエレナの警戒は杞憂であったらしくアウグストが示した壁は薄暗い室内故に遠目からは分からないが、近くで見ると明らかに周囲の壁とは古さも色合いも違った。

 エレナが軽くその壁に手を掛け押すだけで壁は乾いた音を立ててぐるりと回った。その先に表に通じていると思われる階段が現れる。

 隠し扉というには余りに稚拙なこの仕掛けは、特殊な環境にあるこの部屋だからこそ機能している仕掛けといえた。

 階段を駆け上がったエレナが突き当たりの引き戸を引くとそこは屋敷の裏庭であった。裏庭へと出たエレナの周囲には人の気配はない。既に異変は治まったのか正門付近からの剣戟の音も止んでいた。

 エレナは裏庭の壁へとは向かわずに正門の方向へと駆け出す。何が起こったのか事態を知っておきたかったからだ。

 草むらにに身を潜めたエレナの目に、血に塗れた正門の光景が飛び込んでくる。黄昏の獅子の構成員と思われる男たちが、用意したのだろう三台の馬車の荷台に男たちの死体を無造作に放り込んでいる。

 死体は広範囲に渡り周囲に散乱していた。エレナには敵味方の区別などつかないが、二百……いや三百以上はあるだろうか。

 周囲の惨状を見てもかなり激しい激戦が繰り広げられていたことを伺わせた。

 この屋敷が何らかの意図を持つ集団に襲撃を受けたのは間違いないだろう。それだけ確認するとエレナは身を翻し屋敷を後にする。

 街中はこの騒動で持ちきりであった。街頭に出て騒ぐ野次馬たちの群れを掻き分けるようにエレナは宿屋へと戻る。騒ぎに夢中なのかエレナのローブに付着している血痕を気に止める者などいない。

 宿屋に戻ったエレナは直ぐにローブを脱ぎ捨てると着ていた衣服を脱ぎ、返り血を布で拭き取る。部屋の中にアシュレイの姿はない。

 用意していた言い訳は無駄になってしまったが、取り繕う必要が無くなった分エレナは面倒が掛からず幸運だったとそんな事を考えていた。


 日が暮れ始めた頃、部屋の扉が開きアシュレイが帰って来た。


 「アトリ無事か、兄ちゃん少し心配したぞ」


 寝台に腰掛けているエレナの姿を確認してアシュレイは少しほっとしたような表情を浮かべる。


 「なにかあったの? 外が少し騒々しかったようだけど」


 「黄昏の獅子絡みのごたごたがあったらしいな、まぁお前が巻き込まれなくて良かったぜ」


 アシュレイは上着を脱ぎ捨て棚から新しい服を探す。上半身とはいえ少女の前で裸を晒すアシュレイにエレナを女として見ている様子はそこからは感じられない。


 「なぁアトリ、明日は街を出て美味い物を喰いに行こう。この街の料理ばかりじゃ、お前の身体によくねえからな」


 窓から差し込む夕暮れの日差しを背に、アシュレイは楽しげにそう呟いた。



 薄暗い倉庫の格子から夕日が差し込む。アニエスは夕日を背に男と対峙していた。

 怯えた目でアニエスを見つめる男の身体は小刻みに震えていた。


 「ア…アニエス……俺たち仲間じゃねえか……」


 男の言葉に反応したようにアニエスの右手の指が僅かに動く。その指に嵌められた指輪から伸びる鋼線が夕日を浴びて輝く。


 「ぐあぁぁ!!」


 絶叫と共に男の右耳がポトリと床へと落ちた。


 「裏切り者に仲間などと吐かれると虫唾が走るわね」


 耳を押さえ口から泡を吹く男の姿を冷徹な、まるで氷のような瞳で見つめるアニエス。


 「お前を唆した首謀者の名を言いなさい。答えないのなら次は左耳を落とすわよ」


 男はヒイッと短い悲鳴を上げ腰を抜かしたようにその場に尻餅をつく。


 「ア……アシュレイ・ベルトーニとか名乗ってたよ……赤毛の男だ!! それ以外は知らねえ……本当だ!!」


 アニエスの脳裏に別宅で見た赤毛の男の姿が浮かぶ。


 「頼む……殺さないでくれ……頼むよアニエス……」


 恥も外聞も無く無様に土下座する男の姿にアニエスは冷たく一瞥のみを残し背を向けた。無造作に腕を振り上げるアニエス。瞬間、その背に肉が裂ける嫌な音と共にボトボトと何かだ床に落ちる。その音だけが静かな倉庫に響いていた。


 「おいおいアニエス。撒き散らすんじゃねえよ、始末が面倒だろうが」


 倉庫の入口付近で二人を眺めていた巨漢の男が呆れたようにアニエスに声を掛けた。


 「ヴォルフガング。アシュレイ・ベルトーニという赤毛の男を調べて頂戴。黄昏の獅子の関係者なのは間違いないわ」


 「構わなねえが、俺たちとの約束も忘れんなよ」


 「分かってるわ」


 視線を向けることなくヴォルフガングの傍を歩き去るアニエス。

 エドヴァルドがギルドから姿を消したことで遙遠の回廊の行く末は完全に定まったといえる。この状況では誰の目にも彼が逃亡したとしか映らないからだ。

 だがまだ全てが終わった分けではない。


 「私なりのけじめはつけさせて貰うわよ、エドヴァルド……」


 そう呟くアニエスの脳裏に映るのは飄々とした赤毛の男の姿。


 「次は無い……私はそういった筈よアシュレイ・ベルトーニ」


 アニエスの美しい金髪をまるで赤く染めるように夕日がその背を淡く照らしていた。

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