ニグラ・ブランカ

スミバチ工房

第ー話

同じ大地で


 一寸先は闇の中。

 私は森の中を走っていた。

 暗い、暗い、闇の中。

 ランプも持たずに、ただ、がむしゃらに逃げていた。


 何も持たずにここまで逃げれたことだけでも奇跡だった。だがその幸運は長くは続かず、怒り狂った民衆によって、郊外の外れで見つかってしまった。


「わんっ、わんっ」

 犬が私の居場所を知らせる。

 ――しまった。撒けたと思ったのに。


「はあっ、はあっ」

 足が重い。息が上手く吸えない。だけどそれでも走らなければならない。私は死にたくはない。捕まったら最後、殺される。

 木の根に足を取られて体が傾いた。だが直ぐに体勢を立て直し、私は又、必死に足を動かした。


「待ちやがれ! この人殺し集団がっ! ぶっ殺してやる!」

 ――はっ。ミイラ取りがミイラになるのね。

 後ろが騒がしい。「待て」だの「見つけたぞ」だの「殺しちまえ」だの、複数の怒鳴り声が追ってくる。

 私は振り返ることはせず、前の闇をひたすら進んだ。木の枝が頬を掠め、私の体に細かい傷を付けていく。

 それでも私は走るのを止めなかった。


 民衆の怒りは、私の想像を遥かに超えていて、驚くほど我々を憎んでいた。そしてそのしつこさも、想像を遥かに超えていた。


 一体いつまで走らなければならないのかな。

 一体私は何処を走っているのかな。

 一体どこまで追いかけて来れば、民衆は満足するのかな。

 ――ああ、一晩中鬼ごっこをするはめになるのかしら……。


 民衆の声が、足音が、気配が、段々近づいて来ている。

 早く、早く逃げなければ、逃げないと。

 嫌だ死にたくない。あの死に方はしたくない。


 頭の中で三日前の出来事がフラッシュバックする。



 私は剣闘場で檻の中にいた。沢山の仲間と共に入れられて――


 二本の縄と、二頭の牛がその場に用意されていた。

 一人の仲間が檻から出され、彼の右手首に縄を一本、左手首に縄を一本、きつく縛られた。

 空いている縄の端は、一頭の牛の後ろ足に結ぶ。同じように、もう一頭の後ろ足にもう一本を結ぶ。

 手首に縄を縛られた彼は、膝を着き、項垂れていた。自然と腕が横に伸ばされ、Tの字の姿をした彼は大人しかった。

 その時彼は恐怖に怯えていたのだ。

 彼の最後は今でも鮮明に覚えている。

 彼はずっと地面を見て、カチカチと歯を鳴らしていた。これから自分の身に起きることに脅えて。


 元は何の職業だったのか、見た目の服装で町民と思われる男が、牛に鞭を入れる。

 牛がゆっくりと、それぞれ反対方向に動いた。その瞬間、彼の体は縦に真っ二つに割けた。

 悲鳴は無く、体内に詰まっていた臓器はドシャッ、と音を立てながら崩れ落ちた。

 地面は赤を通り越して黒に染まっており、再び赤い湖と臓器の山が出来上がった。


 周りの観客は、彼の死を目撃することができて喜びの声を、わっと上げた。観客が全員民衆だったその場は、明らかに異様な雰囲気が滲み出ていた。

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