くちさけ

 「口裂け女」という都市伝説をご存知だろうか。

 俺も詳しいわけではないし、諸説あるそうだが、確か大体こんな感じだ。


 夕方だか夜だかに1人で歩いていると顔の下半分を覆うほど大きなマスクをした女の人にこう声をかけられるそうだ。

 「私、きれい?」と。

 もしそれに「きれいです」と返すと、彼女は「これでも?」と言って顔にかけたマスクを外す。その下から現れるのは、耳まで大きく裂けた口。

 そこで身の危険を感じて逃げ出しても、もう遅い。彼女はマラソン選手のような速さで走って追いかけてくる。まず逃げ切れない。

 そうして追いつかれた人は、彼女の鎌によって口を切り裂かれてしまうそうだ。ちょうど彼女と同じように。

 ちなみに、最初にきれいかどうか訊かれた時点で「ブス」などと答えようものならその場で斬り殺されてしまうらしい。




 なぜこんな話をしているかというと、まさに今それらしき人(「人」ではないのかもしれないが)に「私、きれい?」と訊かれているから。


 真っ赤なワンピース、同じように真っ赤なハイヒール。被っているベレー帽まで真っ赤だ。髪は墨のように真っ黒で、肩からは大きくて、カラスのように黒いかばんを提げている。中に入っているのであろう、本来ならば草刈りや芝刈りに使うための刃物を想像せずにはいられない。

 顔の目から下の部分をすべてしっかりと覆い隠しているマスクの白が、赤と黒が多い彼女の中でそこだけ妙に際立っている。


 「私、きれい?」

 彼女がもう一度尋ねてきた。


 たしか口裂け女への対処法はたくさんあり、簡単にできるものもあったと思うが、焦りと恐怖で白み始めた頭では思い出すことができない。

 とりあえず、彼女を貶すようなことさえ言わなければ襲われることはないはず。とにかく褒めよう。俺は唾を飲み込んでから答える。

 「…きれいです…」

 

 彼女は目を細め、満足そうにうなずいた。そして、マスクのゴムに手をかけ、ゆっくりと顔から外した。

 噂に聞いていたのと違わない、大きく裂けた、真っ赤な口。それがぱくぱくと動き、ハスキーな声が俺の耳に届く。

 「これでも?」


 逃げ出したかったが、必死な思いでもう一度同じことをいった。

 「…きれいです…」


 言ってから気付く。ああ、これじゃあ都市伝説の被害者とまったく同じ受け答えじゃないか。開いたままの口の中がカラカラに乾いていく感覚に満たされる。

 でも他に答えようがなかったんだ。どうしよう、この後は追いかけられるのか? でもまず逃げられないんだろ? ああ、まずい、彼女の撃退法が全然思い出せない。何かを3回言えばいいんだっけ? それとも今さら言ってももう遅いのか? どうしよう…

 動揺しながらも無理やりにでも脳を働かせようと意地になっていると。


 「そう」

 彼女の声がした。

 見ると、彼女はその大きな口をほころばせて微笑んでいる。

 「ありがとう、きれいって言ってくれて」


 普通の笑顔だ。怖くもなんともない、ただ嬉しいから笑っているという、普通の笑顔だ。

 なんだ、そうか、そうだよな。一気に肩の力が抜ける。

 きっと、こういう存在だって、褒められれば嬉しいんだ…

 緊張から解放された俺はほっとして下を向き、ふう~と息を吐いた。




 顔を上げた途端、じゅっ、と右頬が熱くなった。

 はい?

 いつの間にか目の前に来ていた彼女が、笑顔のまま何か鈍く光る長いものを両手で持ち、俺に向けて振り下ろす。ひゅっ、という空気の音に続いて、左頬も熱くなる。

 ゆっくりと生ぬるい液体が垂れてきて、俺の顔を濡らしていく。両方の唇の端から両方の耳にかけての、燃えるような熱…違う、これは、痛みだ。

 そう認識した瞬間、まるで炎の中に顔を突っ込んだかのような激痛が走った。

 痛い痛いいたいいたいいたい!

 悲鳴を上げるために口を開けるのが痛い。痛い理由は、鏡を見なくともはっきり分かってる。でも叫ばずにはいられない。それくらい痛い。

 口が痛い、でも悲鳴が止まらない、でも口が痛い、でも悲鳴が止まらない、でも口が痛い、でも悲鳴が止まらない、でも…

 ああ、なんで、なんで、なんで、なんで…


 顔を押さえて地面にのた打ち回る。涙にぼやけた視界の中に、きょとんとした顔の彼女が映っていた。


 あなたが私の顔を「きれい」って言ってくれたから。とっても嬉しかったから。

 だから、あなたも同じようにきれいにしてあげたよ。

 なのに、なんでそんな悲鳴を上げてるの?

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