夜の暗いところ
数週間前の猛暑や、嫁さんを募集して連日ライブを開催していた蝉達はどこへやら、すっかり肌寒くなって秋の虫達が婚活と称して熱唱し始めた時期のお話。
一昨年ロクデナシの夫と離婚したUは、5歳の息子と一緒にアパートに住んでいる。
その晩彼女は、リビングでやり残していた仕事を終えてから寝室に向かった。
向かいながら、Uは今日息子が一生懸命話してくれた内容を反芻しようとしていた。
(今日幼稚園でお友達のミニカーが…えっと、どうしたって言ってたっけ…)
ここ最近、家でも続きをしなければならない程に仕事が忙しく、そのことで頭がいっぱいであまり息子にかまってあげられていない。大人の都合での離婚に始まり、あの子には大変な思いをさせてばかりだ。態度にこそ出さないけど、本当は辛いんだろうな…やっぱり私、母親失格だなあ…またそんな考えに陥って、思わず溜息がこぼれた。
30分程前に一足先に寝室に入っていった息子はとっくに夢の中かもしれないと思いながら、起こさないように静かに細くドアを開けた。
だが、彼はまだ夢の中にはいなかった。それどころかドアから光が差し込まない部屋のすみっこで、こちらに背を向けて屈んでいた。
(何してんのこの子?)
そう思ったが、もう少し成り行きを見てみることにした。
息子は部屋の角を見つめながら時折何かに狙いを定めるようにさっと両手を重ねる動作をしては、すぐに首を横に振ったり項垂れたりを繰り返していた。しかし、そうして何度目かに手を重ねた直後、一瞬動きを止め、両手を顔の前に持っていった。そして、確認するようにじっと見つめた後、立ち上がってピョンと飛び跳ねた。それは、彼が嬉しい時によくする挙動だと、Uは知っていた。こちらを向いていなくても、彼が今しているであろう表情が手に取るように分かった。
Uが息子の名を呼ぶと、彼はパッと振り返った。ずっと母親に見られているのに気づいていなかったらしい。
「ねえ! 見て見て、捕まえたの! きれいだよ!」
彼は生まれつき薬指と小指が欠損した左手の上にしっかりと右手を重ねてUの前に差し出した。
(やだ、虫かな? でもこんなに喜んでるんだから見せてもらおう)
だが、息子が次に口にしたことに違和感を覚えた。
「すぐ消えちゃうから、ちゃんと見ててね」
ー 『消えちゃう』? 逃げちゃうじゃないのか?
そう聞き返す暇もなく、息子は重ねていた手を上下に開いた。
2つの小さな手のひらから、複数の闇色の丸っこい何かがゆっくりと浮遊してきた。それらはU の目辺りの高さまでくると、花火のようにばらけ、ちかちかと黒い輝きを放ちながら消滅した。
「えっ… なに? 今の?」呆然としながら尋ねた。
「夜の暗いところ! あのね! お部屋の隅っこにいる暗いところはね、いつもじゃないけど手で捕まえられるんだよ! それで明るいところで見るときらきらしてすっごくきれいなの! だからUちゃんにもいつか見せてあげたかったの!」
息子はさっきの何か以上に輝く笑顔で得意そうに答えた。
Uの決めたことで父親と離され、そのUとも近頃あまり遊んでもらえない。それでも、息子はUと一緒に綺麗なものを見たかったのだ。
Uはたった今見た現実離れした光景にまだ少し混乱していた。だが、こう言った。
「そうだね。すごく、綺麗だったよ。見せてくれてありがとね」
それは本心だったから。
Uは早く次の有給を取ろうと考え始めていた。
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