居場所

氷月青音

居場所

社会人になって四年。平凡に、平凡すぎるほどの暮らしをしてきたのに、まさかこんな穴にはまるなんて。考えたこともなかった。そう、はまったのだ。文字通り、穴に。

ごく普通に何の変化もない日常。不可思議な現象や奇跡なんてものは物語の世界にしかないと分かりきってしまった、夢も希望もない毎日。当たり前の、そんな日々。それが、こんなことになるなんて。

いつもの帰り道。歩いていたらふっと体の浮かぶ感触。段差を踏み外したか、溝にヒールがはまったのかなんて考えられたのはほんの刹那。そこから先は、落ちていく感覚に声にならない悲鳴をあげることしかできなかった。


 


気がつくと、そこは見知らぬ空間だった。飲めないお酒を飲まされすぎたときの歪んだ視界に似ている。天へ伸びる、曲がりくねった方眼用紙。そんな感じ。

私ったら足を踏み外した拍子に頭でも打ったのかしら。きっと夢でもみているんだわ。他にありえないもの。こんな異常な風景。


「そうよ、夢よ、夢なんだわ」


自分に言い聞かせるようにそう呟くと目を閉じた。


「あんれぇ、おめぇさんも落ちてきただか」


途端に耳元で変な声がした。どこかの方言みたいなそんな言葉。

でもきっと幻聴に違いない。それは夢をみてるんだから。


「おめぇさん、起きろ。起きねえだか」


ん、もう、うるさいなあ。寝ているのに何で起こそうとするのよ。

無視を決め込んでいると、頬を何かで叩かれた。人間の手のひらとは違う平べったくて冷たい何かの感触。そう、コンニャクに近いような。冷たくて柔らかい。でも、しっとりとしたその感触がたまらなく気持ち悪い。おばけ屋敷とかでコンニャクがつるされているのが怖がられるのがよくわかる。こんな感触暗闇で感じたら、誰でも悲鳴を上げたくなるだろう。背筋に寒気が走り出す。この感触から逃れたい。

私は身をよじって、その感触から逃げた。なのに、それはいつまでも私の頬を叩きつづける。痛いわけではないけれど、不快なもの。


「なんだってのよ」


夢だからってこんな気持ちの悪いのはいやだ。いや、夢だからこそ、思い通りにならないのががまんできない。

怒鳴って起き上がって、横をみると野球帽をかぶった黒い物体がそこにいた。真ん丸い身体につぶれたおもちのような、丸い、そうペンギンの手に似た手足がついている。


「……何、これ」


思わず黒い物体に手を伸ばす。触れてみると、濡れた、べとべとしないおもちのような感触。気持ち悪い。さっと手を引っ込めたのだが、それでもまたひんやりとした妙な柔らかさが手に残っている。夢だからって結構リアルだ。得体の知れないものをつくりだしたり、感覚を再現したりするなんて私の想像力も結構なものである。夢の中だからこそ、なのかも知れないけど。


「人が起こしてやったのに、お礼の一つもいえねえだか」


口なんかどこにもないはずなのに、それはしゃべった。それも、変な方言で。きっとテレビなんかで見た田舎の人の口調がごちゃ混ぜになって私の中に残っていたのね。それがこんな変なものを生み出したんだわ。口がないのは、私がそこまで考えなかったから。しゃべるのは、それが当たり前だと思っているからに違いない。普通、こういう変な世界に来たら日本語なんてしゃべっているわけがないのに、私の夢だから日本語をしゃべってるんだわ。変な言葉遣いだけど。私の想像力もそこまでだったってことね。

多少理不尽なことがあってもそれは夢だから。簡単な理屈だわ。


「おめぇさん、これは夢だなんて思ってねえだか」


「夢に決まってるじゃない。こんな変な世界。ありえないもの」


「これは夢なんかでねぇ。おめぇさんは落ちてきただよ」


主張しているのか、私を起こそうとしているのか黒い物体は私を何度も叩く。まったく痛くないのだけど。それはそうだ。夢なんだから痛いわけがない。だいたい落ちてくるなんて私が歩いていた下はちゃんと地面だったんだから。踏み外したような感じはしたし、落ちていくような感じもしたけど。踏み外して頭でも打って気絶したから落ちていくような感じがしたに違いないんだから。


「まったく、毎度毎度なんでか誰かしらここに落ちてくるだな。おめさんもここに落ちてきたからには、めいっぱい働いてもらうさ」


「働く?」


いやよ。もう毎日毎日同じ仕事ばっかりして、そりゃ年に何回か旅行とか行くけど、残りは貯金もして、とりたててすることもないような、そんな毎日と何も変わらないじゃない。夢の中なんだから、働くなんてことからは解放されたい。

そんなに働くのが気にかかっていたのかしら。夢にまでみるなんて。


「もう少しましな夢見ればよかったわ」


日常的なことから解放された夢を見ればよかった。頬に手を当てて大げさなため息をついてみる。思ったことを心の中とはいえ言葉にしてしまうと少しすっきりした。社会にいると言いたいことを言葉にする前に飲み込んでしまうことが多かったから。ストレス発散には少しはこの夢は役に立ったみたいだ。


「おめぇさんがこれを夢だ思いたがるのはよっぐわがる。けんど、これは現実だ。おめぇさんは、日常の穴にはまっただよ。非日常の世界に足を踏み入れてしまったんだぁ。日常(もと)に戻るにも非日常(ここ)に暮らすにもおめぇさんは働かねばならね。働くゆってもおめさんの考えるようなことではねえべ。ここの世界で働くゆったらこれだ」


黒い物体は虫取りアミを取りだした。

流れるように話す黒い物体に圧倒されて私は虫取りアミを受け取ってしまった。いったいこれを何に使えというのだろう。


「虫を捕まえるだよ」

私の考えを読んだのか、それとも顔に出ていたのか、黒い物体はそう言った。


「ちょっとまってよ。何で私が」


このままではなんだかわからないことに巻き込まれてしまう。そう思って私は虫取りアミを黒い物体に返そうとした。


「そうしなけりゃ、おめさんはどこにもいけねえだ」


黒い物体は私から虫取りアミを押し付けられないようにしっかりと距離をとっている。つき返すこともできず、かといって捨てることもできず私は虫取りアミを持ってその場に立ち尽くした。


「虫っちゅうのは、この非日常(せかい)を喰うやつのことだ。そいつの喰った部分が日常の中の非日常へ続く穴になる。穴は自然にふさがるだがたまぁにふさがっちまう前におめぇさんみてぇな人間が落ちてくる。そういうやつらはみんな夢だ夢だいって、何もしないでいる。ここではおめさんらがいるんが非日常なんだぁ。虫は日常(むこう)と非日常(ここ)の境を好む。働かねおめさんらは虫の一番いい食いもんだ。動く日常と非日常の境だからな。働いたらとりあえずそれはこの世界のもんだ。虫を騙せる。喰われたくねがったら働くしかねえだよ」


「ちょっとまってよ。それじゃこれは現実なわけ? 嘘でしょう?」


だってこれは夢なんだもの。眠っている私のみる、少しばかり私に不都合な夢。でも、ここまでくると夢だと信じつづけられなくなる。私の想像を超えることが多すぎる。ここは私のいた世界と何かが根本的に違う。天へと伸びる、歪んだ方眼紙のように、どこかが歪んだ世界。


「信じる信じねぇはおめぇさんの勝手だ。おらはちゃんと忠告しただからな」


黒い物体がにやりと笑った気がした。

口なんてどこにもないわけだし、目だってどこにあるのかわからないような物体だけれども、そう見えた。そう、感じた。


「虫を捕まえたらどうなるの」


まだ見ていない虫なんかよりも、この黒い物体が危険な気がして、私はとりあえず虫を捕ることを決めた。


「はぁん。働くことにしただな。虫さ捕まえたら、そん虫が食べた世界に行くことができる。そんなかにおめぇさんのいた世界があるかも知れね。おめぇさんさいなかった世界だらいってもすぐさ戻される。わかりやすかんべ?」


「虫って何匹いるわけ?」


「そっだらこと数えたことねえがらわがんね」


「だいたいでいいのよ」


「そら、山のようにいるに決まってるべや」


気が遠くなりそうな気がした。

自分のいた世界に戻るためにも、ここにいつづけるためにも、大量にいる虫をとりつづけなければいけないのだから。


「そんなら、がんばるだよ」


黒い物体は私の肩を励ますように軽く叩くとどこかへいってしまった。

肩に妙にひんやりとした嫌な感触が残っている。


「もう、何であいつが触るとこんなに気持ち悪いのよー」


八つ当たり気味に叫んでしまう。

もう金輪際あれに触ったり触られたりするのはやめよう。私はそう、心に誓った。

鬱憤を晴らしたいのだけれど、ここには蹴る石一つない。

方眼用紙が天井に向かって曲がりくねってのびているだけ。近くに見えて、足元以外の方眼には触れることはできない。近くて遠い青空のように。


「気が狂いそう」


小さいころにやったゲームに似ている。四角いマスの中に色が入っていて平面的な森や川が表現されていたもの。ここの景色はそれとそっくりだ。

川らしき色の上を歩くと確かになんとなく冷たいし、(でも濡れるって事はない)森らしきものや、砂らしきものの上はなんとなく足が取られて歩きにくい気がする。けど、それだけ。

何も変わらないただのマス目。

アスファルトの感触や排気ガスに汚れた空気やビルが立ち並んでいて四角く切り取られている空。

見て、感じられるものが懐かしい。帰りたい。

平たく、冷たい感じのする草地らしきところに座る。草の少し刺さるような、痛いような、でも懐かしい感触がしない。土の匂いがしない。偽物の草地。

いや、ここでは私が偽者なのだ。私が変わらないと信じていた日常(せかい)とは違う非日常(せかい)。


「は~い」


不意に目の前に何かが現れた。目を凝らして見てみると、それは小さな羽根を生やした光の玉。


「何これ」


つつくと光の玉は光る粉を撒き散らしながら私から離れた。


「何するのよ。失礼しちゃうわ」


どうやら光の玉は怒っているらしい。


「またしゃべってる……」


どこから声を出しているの、と聞きたい衝動をかろうじて抑えた。

今更目がなかろうが、口がなかろうが、丸い物体が飛んでいようが驚いても仕方ない。私の理解の範疇はとうに超えているが、ここはそういうところなのだろうから。

人間、自分の許容量を超えたことに出会うと妙に冷静になるというのは本当のことだったらしい。


「もう、せっかく忠告してあげようと思ったのにぃ」


「また忠告?」


今度は働け、虫を捕れなんていうことよりはマシなことを願うわ。何かしら。ここで生きていくためには方眼用紙に色を塗って世界を構築しろなんてことじゃないでしょうね。スーツが汚れちゃうからそんなことはしたくないわ。


「あいつには気をつけなさいよ」


「あいつ?」


誰のことよ。実物目の前に持ってきて説明してよね。私がこの世界初心者だってこと分かってないんじゃない、この光。忠告しにくるのならそれくらい分かってから来なさいよね。


「黒くて帽子かぶってペとペと歩くやつのことよ」


なるほど、それなら私にも心当たりがあるわ。というか、"あいつ"なんていわれてとっさに出てくるようなこの世界での知り合いなんてあれしかいないけど。


「これをくれた変な方言しゃべる黒い物体のことね。あれがどうかしたの」


虫取りアミを持ち上げて眺める。

今更黒い物体のことで何か言われたって私のためになるとは思えないんだけど。

光る玉は、私の持ち上げたアミをみると少しあとずさった。


「あいつは落ちてきた人を騙して自分が楽しようとしてるんだから。ここには何もないのに。楽しみも、悲しみも、喜びも、もちろん危険なことだって」


「そう」


虫取りアミを動かして、光る玉を入れてみる。どっちとも信じられない。ここでは私のふつう常識は通用しないから。

虫取りアミの中に入ってしまうと光の玉は羽根だけ残して消えてしまった。


「なるほど、これが虫か」


とてもそうとは見えなかったけど、ここはそういうところだから仕方ない。

残った羽根がアミから零れ落ちた。

私はそれを拾い上げようと手を伸ばした。

光が、はじける。

まばゆい光に目を閉じる。

体が浮き上がり、上下左右、自分がどちらをむいているのか、感覚がわからなくなる。

空気が肌を刺してくる。私のいた世界でもなく、落ちた世界でもない。異質な空気。ここは違うと全身が拒否する。逃げたくなる。この世界に"私"が拒絶される。いてはいけないと、追い出そうとしている。

恐る恐る目を開けると、そこは抽象画の世界。

いろんな色が混じりあって、でも形を成していない。

正しい線がなくすべてが曖昧に融けあっている。

絵の具をぶちまけたらこんな感じになるのだろうか。何もかも曖昧で、自分さえわからなくなる。

何も考えられなくなっていく。

この世界に自分がとらわれていく。

自分という形を成している境目がなくなっていく。

アイスクリームみたいに溶けてしまいそうに。


 


ふいに何かに引っ張られた。

いや、引き戻される、が正しいかもしれない。

融けていこうとする意識が無理矢理のように身体にはめ込まれる。自分を手放す一瞬の心地よさから、自分という抜けられない魂の檻の中へと。

もう曖昧な世界は見えない。方眼用紙がどこまでも続いているだけ。

ここは私の世界ではないけれど、私がいることは許されている場所。私がいてもいい場所。私が私でいられる場所。

自分のいたところとはあまりにも違うけれど、今触れてしまった本当の異質に比べるとどれほど安らげるところだろう。

何もない平面だけが続いて、私の正気を奪いそうにはなったけど、あそこよりはマシ。ずっとマシ。

これが、虫を捕まえるということ。虫の食べた世界に行くということ。自分のいるべきところではなかったら戻されるということ。

怖い。怖い、怖い。

また虫を捕まえたらあんな思いをしなければならない。自分の世界に戻れるまで。自分の世界を飲み込んだ虫に出会えるまで、何度でも。次の虫がそうかもしれないし、どれだけかかっても見つからないかもしれない。

気が遠くなる話だなんて思っていられたうちはまだよかったかもしれない。だって、この怖さを知らなくてすんだんだもの。これから、自分の世界に戻れるまで何度、この恐怖に身を、心を、震わせることになるのだろうか。

一歩も前に進めない。足が竦む。アミを持ち上げることもできない。

偶然虫が入ってしまったら?

その虫がさっき以上に異常な世界を飲み込んでいたら?

私は私を保っていられるのだろうか。狂わずにいられるのだろうか。

私は、この世界を見てもまだどこか遠くでこのことを感じていたのだ。虫を捕まえるまで、腹をくくったつもりで何も実感していなかったのだ。この事態がすでに二重三重に私を取り前いて縛りつけ動けなくしているなんて知らなかった。

もう夢だなんて思えない。思い込めない。思いたくない。現実でもあってほしくはないのだけれど。

喰われてしまったら楽になれるだろうか。虫に、この世界にありえないもの、あってはいけないもの、世界の境として。痛いかも、苦しいかもしれないけど、虫を捕まえることを考えたら……。

腕に火を当てられたような痛みが走った。

一瞬何が起こったかわからない、麻痺した感触と、徐々に感じる体中に響き渡る痛み。

みると、腕が抉れて血があふれている。傷口に光の玉が張り付いている。音を立てて私の血を啜っている。

喰われている、のだ。

生きている、私が。

光の玉が食べる速度は遅く、一度に食べる量も少ない。痛みだけが絶え間なく続く。ひとおもいにすべて食べてくれるわけではないのだ。


「いやああああ」


たまらず腕を振った。

血がしぶいて白い方眼にシミを作る。

光の玉は私から離れたが、すぐにまた私に近づいてくる。

光が、私の血に濡れて重い輝きになっている。

私は夢中でアミを振り回した。

捕まえようとしたわけではなく、追い払いたかったのだ。

どこかへ行ってほしかったのだ。

怖くて、怖くて。

喉が引きつる。

せっかくメイクしていた顔は、涙でぐちゃぐちゃだ。

マスカラが紫の滝を作っているだろう。

今の自分の顔はみたくない。

混乱で醜く歪んでいるだろうから。

アミに手ごたえがあった。

光の玉がはじけて羽根だけがアミから零れ落ちる。

ああ、捕まえてしまった。

アミを落しそうなほど力の抜けた私は、またあふれる光に目を閉じた。

体験しても慣れない。いや、慣れたくない。この拒否される感触、突き刺さる空気、全身が拒否する世界。

固く目をつぶって、決して外を見ないように。すぐに戻されてしまうのだから、見なければ怖いこともきっとない。

遠くから妙な唸り声。いや、音と表現するべきなのかもしれない。私の知らない音。話し声のようにも、ただめちゃくちゃに音を立てているようにも聞こえる。耳に入ってくるその声が神経に障る。外に向かってとげとげしく毛羽立っていくのがわかる。耳を塞いでも音は消えない。遠く、近く、私をあざ笑うかのように聞こえつづける。

気が狂いそうで身を捩る。

この音から逃げたい、逃げ出したい。

もう聞きたくない。

早く返して、私を帰して。私の世界に帰してぇ。

心の中で叫ぶ。

不意に音がやんだ。

恐る恐る目を開けると、そこはまた方眼用紙だった。ゆっくりと手を耳から放しほっと息をつく。少しだけ、諦めの混じった息を。


「よか……た」


自分の声さえ心地いい。私にわかる音。私から出る音。


「働いてるだか、おめぇさん」


黒い物体が近づいてくる。憎らしいけど、今は、変な言葉だけどそれでも私にわかる言葉を話すだけ、愛しいかもしれない。


「働きたくなんかないわよ」


顔はメイクが崩れてボロボロ、スーツだってよれよれ、腕は肉が抉れている。さぞかし凄惨な姿だったのだろう。黒い物体はひるんだように見えた。

今は少しでも話していたい。わかる言葉を聞きたい。


「虫捕まえるたびにこれじゃ私の身がもつわけないじゃない。もっと簡単に帰れる方法はないの?」


「ないだな」


「少しは希望をもたせなさいよ」


「落ちてきたおめぇさんが悪いだよ」


黒い物体はそういうと、落ちてきた私を非難することを言い出した。話をしたかった気持ちがすっと消えていく。私だって苦労しているのに、何でこいつはそんなこというんだろう。だいたいこの世界にいるものたちが、虫が他の世界を食べるのをやめさせればいいのに。それがこの世界の責任だろうに。それを私に押し付けるなんて。

私は、アミを持って黒い物体を捕まえた。黙らせるために。黒い物体は驚いたようにこちらをみると、笑った。口はないけれど、はっきりとわかった。黒い物体は私を笑ったのだ。

何かに引かれるように私の体が浮かび上がった。どこかへと持ち上げられていく。

光の玉を捕まえたときと違う、連れ去られる感触。

闇が、私を包み込む。


 


ゆっくりと目を開けると、そこは病院だった。白い天井がやけに目に染みる。方眼用紙ではない、私のいた日常(せかい)。


「気付かれましたか?」


医者が私の顔を覗き込む。


「ええ、ここは……?」


「ここは病院です。あなたは会社の帰りに段差を踏み外して頭を打ち、ここに運ばれたんですよ」


「そうですか」


還って、これたのだ。

自分の世界に戻ってこれた。

あれはすべて夢だったのだろうか。

黒い物体も、光の玉も、方眼用紙もすべて。


「いや、しかし奇跡ですね」


医者は微笑みながら言った。


「奇跡?」


「そうですよ、もう30年も眠りつづけていたんですから」


医者はその後、嬉しそうにこれからのことを話していたが、私にはもう何も聞こえていなかった。


 


会社は当然くびになっていた。

アパートも引き払われ、貯金は口座自体の存在がなくなっていた。

30年という月日が私の上に重くのしかかる。

まだ老人になっていたほうがよかった。中途半端な年では生きていくのも難しい。

腕に残る、抉れた傷跡をみるたびに、黒い物体のことを思い出す。

あの最後の笑い。

あれは、もとの世界に戻った私に居場所がないことを教えていたのだ。

黒い物体を信じずに、捕まえてしまった愚かな私に。

この世界に私の居場所はない。

時間が私の居場所を奪ってしまった。

どこにもいけない。

まだ方眼の世界のほうがよかったかもしれない。

私は、この世界では世界に、ではなく、生きる人に拒絶されているのだから。


 


あの時と同じように会社からの道を歩いてみる。穴が開いていないかと。どこか別の世界へ行きたい。ここではなく、自分の居場所を見つけたい。やり直したい。黒い物体を捕まえる前から。


 


私は勢いよく、段差へ一歩踏み出した。

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居場所 氷月青音 @aohituki

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