高校野球とウィスキー

村上はがす樹

第1話

 僕はウィスキーのオン・ザ・ロックを飲みながら、テレビを見ていた。

 開け放った窓からは庭木の悲鳴みたいな蝉の声がリビングに流れ込んでいる。暑い。しかし、夏場でもできるだけエアコンを付けないというのが、我が家の暗黙のルールだった。氷山から毟ってきたみたいな歪な形をした氷が、ブランディーグラスの中でカランと子気味のいい音を立てた。

「高校野球って、いいわね」隣で缶ビールを飲んでいた妻が、テレビ画面を見つめながら独り言みたいに言った。

「あれ、君は野球が好きだったっけ?」

「野球じゃないわよ、高・校・野・球」彼女は柿の種を齧りながらピシャリと訂正した。

 僕は黙って前方の液晶画面に視線を移した。画面には、上空から撮られている甲子園球場の様子が映し出されていた。赤茶色のグラウンドは、まるで流しに置いたスポンジみたいに真夏の太陽の光を目いっぱいに吸収しており、客席は見るからに超満員だった。観ているだけで暑い。画面の右端には、2つの高校の名前が表示されていた。ひとつは知らない名前、もうひとつはよく知っている名前だ。なぜなら、娘が通っている高校名だからだ。試合は、4回の表で双方無得点の同点、ちょうど、知らない名前の高校の1番バッターに打順が回ったところだった。

「恵梨香はどのあたりに座っているんだろう?」僕は言った。

「わからないわ。あんなに人がたくさんいるんだもの」

「さっき、応援団の様子が映っていたね。恵梨香も映るといいんだけど」

 その時、画面から大きな歓声が聞こえた。先ほどのバッターがヒットを打って出塁したのだ。知らない方の高校の客席では制服を着た高校生たちが飛び上がって喜び、打たれたピッチャーは力なく口を開け、まるで爆撃を受けて燃える街をベランダから眺めているような表情をしていた。さぁ、試合が動きました、ここが正念場です、ここからは強力な打線が続きます、と解説者が興奮した様子で言った。

「高校球児っていいわね」

 僕がキッチンから2杯目のウィスキーと缶ビールを持って戻ってきたとき、彼女はまだテレビ画面を食い入るように観ていた。

「高校野球って素敵よ」彼女は繰り返した。

「そう?」と僕は言って、キンキンに冷えた缶ビールを彼女に渡した。

「だって、あの子達はとても純粋に野球を楽しんでいるのよ」

 僕はウィスキーを一口飲んで、スモーク味のさけるチーズを一切れ齧った。

「大人にはできない事だわ」

「でも、プロ野球選手だって野球に対する姿勢はまっすぐだよ。なんと言ったって、彼らには生活がかかっている」僕は反論した。

「そういうことじゃないのよ」彼女は呆れたような口調で言った。「お金とか、契約とか、そういうことじゃないのよ。高校球児はそういう余計なしがらみに捕らわれず、純粋に野球を楽しんでいるのよ。そして応援団も純粋にチームを応援している。あの球場にいる人間は、全員が純粋に野球を楽しんでいるのよ。その純粋さが、視る者の心を打つのよ」

 僕は自分が高校生だった時のことを思い返してみた。体育祭の日、クラス対抗リレーで盛り上がっている最中に誰も居ない校舎を一人で散歩した時の事、昼休みに図書館の入口で司書の先生が鍵を開けてくれるのを待っていた時のこと、そして、なんだか顔がムカつくという理由から野球部の連中に食べかけのクリームパンを投げつけられたこと。

 男子高校生なんて、そんなものなのだ。せいぜい、クラスメートの粗探しか、担任の先生の悪口か、どうやってセックスまで持っていくかということしか考えていないのだ。おまけに顔はニキビだらけで汚いし、汗臭いし、大した才能もない癖に自分が世界の中心だと思っている。そんな薄汚い性欲の塊の猿みたいな小僧が、僕が手を出したら犯罪になる女子高生とセックスをしているのだと思うと、僕は理不尽でやるせない気持ちになる。

「人が大人になる時って、どういう時だろう?」僕は言った。

「20歳になったとき、あるいは学生を卒業して、社会に出た時」彼女は即座に答えた。とても付け入る隙のない、実際的な回答だと僕は思った。無理もない、彼女は公務員をしているのだ。

「法律上の成人という意味じゃなく、精神的なものとしての大人だよ。つまり、精神分類上の定義について」

 しばらく指先でピーナッツを転がした後に、「わからない」と彼女は言った。

「僕は、『はじめてのおつかい』を見た時に、あるいは高校野球を見た時に、他人事として感動することができたら大人だと思っている」僕は言った。「人は、他人の事だと感動できるんだ」

「なるほど」

「つまり、子供の頃の自分を他人だと感じることができたら大人だ」

「そうかもしれないわ」彼女は言った。

 試合は、解説者の予言通り娘の高校が立て続けにヒットを打たれ、ノーアウト満塁の大ピンチを迎えていた。ベンチではチームメートが体を乗り出して声を張り上げ、女子マネージャーは記録用のプラスチックバインダーを胸に抱え、祈るように目を瞑っていた。まるでサイズが合っていないブカブカの帽子を被り、赤いフレームのメガネをかけている可愛らしい女子高生だ。泥だらけのユニフォームの球児たちに囲まれ、彼女の白い柔肌の美しさが余計に際立っていた。彼女はどうして野球部のマネージャーになったのだろう?汗と泥と性欲にまみれた汚い猿共のユニフォームの洗濯や記録係など、アルバイト代を貰ってやるようなことを無給で、しかも高校時代の休日と放課後というとびっきりに美しい時間を犠牲にして、なぜあんなケダモノの世話をするのだろう?

 画面は、マウンド上のピッチャーのアップになった。とても男前とは言えない顔が、汗と泥と、日焼けと赤いニキビで荒れた肌とで、とても醜い形相になっていた。

「ここで、負けちゃうのかしら」彼女は不満そうな顔をしていた。

「負けても、きっと彼は満足だよ」

「どうして?」

「モテるからさ」僕は言った。「甲子園出場校のピッチャーだからね。信じられないことだけど、彼のことを好いている女の子が、高校にはきっと何人もいるんだろうな」

「あら、知らなかったの?」

「何を?」

「恵梨香、去年からあのピッチャーの男の子と付き合っているのよ」妻は当たり前といったような口調で言った。

 僕は3杯目のウィスキーを一気に飲み干し、助走をつけた後に液晶画面に向かって華麗にドロップキックを決めた。

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高校野球とウィスキー 村上はがす樹 @murakamihagasuki

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