第2話【1】13番目の猫

 桜花堂学園0号館。通称、旧校舎。


 一般生徒の立ち入りが禁じられている木造の旧校舎に足を踏み入れると、そこだけ時間が流れるのを忘れてしまっているかのように感じられる。


 静寂の中、板張りの長い廊下を歩くと、小さな足音ですら空間の調和を乱した。


 このまま奥へ進むと、神隠しにでも遭って、二度と現実世界には帰ってくられなくなるのではないかと心配にもなる。


 ただしそれは、ついさっきまでの話。


 コンコン。コンコン。


 ぶしつけな音が校舎内のずっと先まで響き渡り、それは次第に暴力的なものへと変貌していく。


 ドンッ。ドンッ。


「宇徳先輩、宇徳先輩ッ!」


 ドンドンドドドン。ドン。ドドドン。


 音の正体は扉をノックする音。


 旧校舎の管理人である虎ジマ猫も、何事かと首を伸ばしてこちらを見ている。


 桜花堂学園高等部一年、風紀委員(仮採用期間中)の鳥羽華子は、感情に任せて元校長室の扉を乱暴に叩いた。そこは宇徳安吾が営む暗号屋である。


 相手の反応がないことで、徐々にヒートもビートもアップする。そこで華子はようやく、安吾から下の名前で呼べと言われていたことを思い出した。


「中に居るのは分かっていますよ、安吾先輩ッ!」


 華子はいっそのこと扉を蹴り破ってしまおうと、助走のために後ろへと下がった。


 もちろんいくら古い建物の扉だとはいえ、格闘技経験もない一介の女子高生の蹴りごときで開くものではない。それでも扉に安吾の顔を思い浮かべれば、多少は華子の気が晴れるというもの。


「勝手に開けて入ってくれば良いだろ」


 部屋の中から安吾の返事が聞こえると、それと同時に扉が開いた。


 ただし安吾の「勝手に」の部分が聞こえた時点で、華子はすでに扉に向かって突進を開始している。猪突猛進。その結果、勢いの矛先が突然消え失せ、華子はそのまま中に転げていってしまった。


「おや? ハナじゃないか。昨日の今日で早くも顔を出すとは驚きだな」


 床に仰向けになっている華子をまたぎ、安吾は応接セットのほうへ向かいながら言った。その言葉とは裏腹に、驚いている様子など微塵も感じられない。


 それまで読書に興じていたらしい安吾は、テーブルの上にページを開いたまま置いてあった本を手に取り、古いソファーに体を深く沈めた。肘掛けに置いたクッションを枕替わりにして、足まで上に乗せて仰向けに寝転ぶ。


「早すぎちゃ駄目でしたか」


 床から起き上がった華子は、語気を荒げて反抗的に言い返した。


 たしかに風紀委員長の伏見小太郎から命じられ、華子が初めてここに訪れたのは昨日のこと。まだ一日しか経っていないことに間違いはない。


「真面目なヤツは、答えが出るまで考える。要領の良いヤツは、考えたフリをしながら頃合を見計らう。面子を気にするヤツは、無かったことにして忘れてしまう」


 安吾は「フン」と鼻を鳴らして、わずかながら華子に視線を向けたが、すぐに背表紙の角を自分の腹に乗せた分厚い本に戻した。


「……とまあ、どんな性格であれ、普通はすぐに顔を出せないものだ。特にハナは頭にバカがつくほど生真面目で、正面しか見えていない人種のようだったからな。ジックリと考えて、考えて、考え抜いて、回り道をして、また考えて、少なくとも一週間ぐらいは顔を出してこないと踏んでいただけのことだ。気にするな」


 そこまで言われて黙っているわけにはいかない。華子は目の前の応接テーブルの上に、わざと派手な音が立つように、一枚の黒いカードを叩きつけた。手のひらが痛い。やり過ぎた。


「昨日のクイズ、ちゃんと意味が分かりましたよ。もっともらしいことを言って、私をからかっていただけじゃないですか。その続きがコレですか? このカード、安吾先輩の仕業ですよね?」


「何だ、その紙切れは?」


「トボけないで下さいよ。ほらコレ、暗号ですよね。こんなイタズラをやる人、学園中をいくら探し回ったって、安吾先輩以外に見つかりません」


 華子がカードを発見したのは朝一番のことだった。


 安吾から受けた昨日の屈辱を晴らすためには、旧校舎校長室の前にバナナの皮を落としておくしかない……なんてことを考えながら登校してきた華子。高等部の教室だけを集めた十二号館の生徒用玄関で、校内用上履きに履き替えようと自分の下駄箱に手を伸ばすと、その脇に一枚のカードが差し込まれていることに気がついた。


 それは一見したところポストカードのようでもあるが、真っ黒な色をしていた。たとえばロウソクに火の点いたバースデーケーキの誕生日カードや、赤ら顔のサンタクロースが陽気に笑うクリスマスカードとは、少しばかり雰囲気が違う。ましてや御伽の国からお茶会の招待状が届いたわけでもない。


 まれに部活動の勧誘やイベントの広告に、ビラが下駄箱に撒かれていることがあるが、今日に限っては周囲を見ても、他に同じようなカードが入れられている様子はない。そのカードが届いたのは華子だけのようだった。


 黒地のカードには、印刷された白文字でこう書かれていた。


  ―――――――――――――――


雄虎と雄鼠と雌馬の三匹が猫ならば、

雄兎と雌牛と雄馬の三匹が犬である。

雄猿と雄猪と雌牛と雌猿と雄龍と

雌猪と雌牛と雌羊の八匹が止まらない。

         十三番目の猫


  ―――――――――――――――


 まったくもって意味が不明。カードを裏返してみたって、算数の問題集みたいに模範解答が載せられているわけでもない。その代わりかどうかは知らないが、文章の最後のところに『十三番目の猫』という差出人の名前らしきものが添えられていた。


 カードの黒い色と十三という忌み数字。それらが相まって不吉な印象だけが残る。こちらを見てニタニタと笑いながら目の前を横切っていく黒猫の姿が、華子の頭の中に思い描かれた。


「十三番目の猫か……。たしかに暗号のようだな」


 カードをつまみ上げた安吾は、人差し指でトントンと差出人名らしき部分を突いた。


 てっきり「俺を交渉のテーブルに着かせたいなら、まずはこの暗号を解いてみろ」なんてことを言われるものとばかり華子は思っていた。今日こそ安吾のペースには乗せられまいと身構えていたが、肩透かしを食らった気分になる。


「本当に安吾先輩じゃないんですか?」


 心を鎮め、落ち着いて考えてみる。


 初めて宇徳安吾と接触した日の翌朝という絶妙なタイミング。そして暗号と言えば暗号屋の宇徳安吾。


 そもそも華子が犯人を宇徳安吾だと決めてかかった理由なんてものは、その程度のことでしかない。そこに確固たる確証はない。高野山のお坊さんたちが『いろは歌』を好きだからって、作者が空海和尚だと思うぐらい浅はかだ。


「暗号というのはメッセージの一種だ。そこには当然、相手へと伝えたい内容が隠されている。この謎めいた文章にしたって例外じゃないだろう。俺のイタズラなのか、それとも他の者による言葉なのか。ちゃんと正しく解読さえしてやれば、おのずと真実が見えてくるんじゃないのか」


 言い訳は無用。このカード自体が無実を証明してくれる。そういうことらしい。


 ただそれも、もっともな話だ。おやつにプリンを一個食べれば、冷蔵庫のストックが一個減るというぐらい正論だ。目の前に暗号があるなら、四の五の言わずに解いてしまえば良いだけのこと。プリンがあるなら食べてしまえば良い。


 しかし油断はならない。なにせ相手はクセ者の宇徳安吾なのだから。


 華子は自分の財布から千円札を抜き出し、テーブルの上に置いた。


「千円で解いてくれるんですよね?」


「ああ、暗号屋だからな。暗号を解くために俺はココにいる」


「他の場所でも、暗号を解くことはできると思いますけど?」


 さくっと聞いただけでは奥が深そうで哲学めいた台詞だけども、別に暗号を解くのにココ(旧校舎の元校長室)である必要はない。


「ハナは細かいことを気にしすぎだな。そういう女は、男から煙たがられるぞ。はっきり教えておいてやる。見栄を張ってデートで彼女に食事を御馳走しようとしている男に対して、一円単位まで割カンにしようと言い張る女は可愛くない」


「で……デート?」


 生まれてこのかた十五年間、男の子と二人きりでデートをしたことのない華子。甘めにジャッジしても、デートだと判定される可能性があるのは、初等部五年の時に、同じクラスの男女混合グループで遊園地に遊びに行ったことがあるぐらいでしかない。


「もしかして経験ないのか? ま、それでも誰か好きな男の一人ぐらいはいるだろう」


 そう言いながらも安吾は、明らかに特定の誰かを想像している目で華子を見ている。


 憧れの相手と手をつないで、一緒に夜景の見える丘を歩いているところを想像してしまった華子は、耳の先まで赤くした。


「えーっと……コホン」


 大きく咳払いして妄想を振り払い、横に逸れた話を元に戻す。


「解読ができなければ当然のこと、お金は返してもらいます。それに暗号屋としては失格ですから、すみやかに廃業の上、旧校舎から退去していただきます。なにせ暗号を解くためにココにいるそうですから、解けなければココにいる意味はないですもんね」


 昨日の仕返しとばかりに、華子のほうから一方的に条件を突きつけてやった。


 金銭取引を認めるわけにはいかない立場であるにもかかわらず、華子が依頼料としてちゃんと千円を払ったのには、そういう理由があったからだ。


 咄嗟の思いつきだったが、華子は自分の提案を「上手い」とも思った。


 先ほどの彼の主張は、あくまでも「犯人が俺だとは限らない」と、他の人物による可能性を示しただけに過ぎない。安吾は「自分じゃない」とハッキリ否定したわけじゃない。


 どんなメッセージが暗号に隠されているのか、今の段階では分からない。が、ネタばらしがなければイタズラとして成立しない。仮にこれが安吾の仕業だったとするならば、自分の犯行であることを示す文章が現れる仕掛けになっているはずだ。華子が苦労した末に導き出した正解で、実は安吾によって仕組まれていたと分かるシナリオに決まっている。


 だけども暗号屋の営業を止めさせようとしている華子が、まさか報酬を払って依頼してくるとは思っていなかったはずだ。


 自らが用意した暗号を解読させられるという行為は、さぞかしバツが悪いことだろう。自分で掘った落とし穴に自ら足を滑らせ、穴の上からのぞき込んでいる相手に「どう、ビックリした?」と穴の中から聞いているようなものだ。


 それを避けるためには、できるだけ早く、一番はこのタイミングで、自分の仕業だと白状してしまうしかない。それが最も傷が浅くて済む方法だ。もしも誤魔化そうとして「解けない」なんて白旗を挙げようものなら、それこそ華子の望む形となる。


「よろしいですね?」


 込み上げる笑いを堪えながら華子は確認した。


 しかし宇徳安吾は一も二もなく、華子の提案に乗った。


「その依頼、ハナからの挑戦として受け取った」


 一矢報いることができるとタカをくくっていた華子には、これで本日二度目の肩透かし。


「……解けますか?」


「馬鹿にしているのか? 俺に『解けますか?』なんて質問は愚の骨頂。潜水のプロである海女に向かって『泳げますか?』と尋ねているようなものだ」


 華子の千円札を栞代わりに読んでいた本のページに挟むと、飲みかけの珈琲カップに手を伸ばした。そして安吾はカップに残っていた珈琲を一気に飲み干す。


「カフェインは脳神経系に作用する。珈琲は香りを楽しむ娯楽だと評する人間もいるが、俺にしてみりゃ効率よくカフェインを摂取する手段に過ぎない」


 ずいぶんと乱暴な言い方だったが、部屋の中に備えられた珈琲サイフォンなどの機器類を見る限り、豆の品種や品質にこだわりがないとしても、それなりの嗜好家と見受けられる。


「ほう、なるほど……なかなか面白い。だから『十三番目の猫』なのか」


 安吾は口元を緩めて、早くも勝利を確信したような表情になっている。


「もう分かったんですか?」


 安吾が実際にカードの内容に目を向けて思考していた時間はごくわずかだった。言うだけではなく、たしかにカフェインが脳を活性化する手助けをしているらしい。


 ふと華子は昨日の料金説明を思い出した。場所を移動する必要がある場合には割増料金を請求すると言っていた。華子は財布の残金を心配して尋ねる。


「虎だとか馬だとか……もしかして動物園に行く必要がありますか?」


「動物園に龍はいないだろう。龍に会いたければ七つの玉を集めろ」


 そう言うと安吾は昨日と同じようにホワイトボードに向かい、そこに漢字を丸く書き並べ始めた。


  ―――――――――――――――


        子

    亥     丑

  戌         寅

 酉           卯

  申         辰

    未     巳

       午


  ―――――――――――――――


「と、これで十二匹の動物」


「えーと……?」


「そう、干支だ」


 華子の呟きを勝手に正解だと解釈してくれる安吾。彼はそのまま注釈を加えた。


「ただし正確には、干支ではなく十二支だ」


「十二支の動物のことを干支と呼ぶんじゃないんですか」


 子(ねずみ年)から始まり、亥(いのしし年)で終わる。華子は十二年間で一周する年賀状の絵柄を思い浮かべた。


「十干と十二支の組み合わせで、理論上は百二十通りの組み合わせが出来上がるが、実際に存在するのは、その最小公倍数である六十通り。これが本来の干支」


「十干? 十二支は分かりますが、十干っていうのは?」


 耳なれない単語に、華子は聞き返した。


「風水に用いられている五行は知っているか?」


「木・火・土・金・水。万物を構成する五つの元素のことですよね」


「その五つをそれぞれ、陽を意味すると、陰を意味するに分けて、十種にしたものが十干だ」


「もしかすると『』で『干支えと』ですか」


「スルドイな。干支かんしを『えと』と読ませるのは、兄弟えとに由来するとも言われている」


  ―――――――――――――――


  【十干じっかん

きのえ  きのと

ひのえ  ひのと

つちつちのえ  つちつちのと

かのえ  かのと

みずみずのえ  みずみずのと


  【十二支じゅうにし

子・丑・寅・卯・辰・巳

午・未・申・酉・戌・亥


  ―――――――――――――――


「すなわち干支の一番目は『甲』と『子』を組み合わせた『甲子』となる」


「甲子園!」


 華子は『甲子』から連想される球場の名前を叫んだ。


「一九二四年(大正十三年)の『甲子』の年に完成した球場だから、甲子園と命名されたそうだ。ちなみに干支は六十年で一周するので、六十歳の誕生日を還暦として祝う」


 余談ではあるが、西暦年号の一桁目が『0』の場合は必ず『庚』となり、『1』の場合には『辛』と、そこから一つずつ進む。


 また十二支については、西暦を『12』で割り、余りの数字分を『申』から数えれば知ることができる。


  ―――――――――――――――


  【西暦一桁目】

4・5・6・7・8・9・0・1・2・3

甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸


  【西暦を12で割った余り】

4・5・6・7・8・9

子・丑・寅・卯・辰・巳

10・11・0・1・2・3

午・未・申・酉・戌・亥


  ―――――――――――――――


「そう言えば『丙午の女性は気性が激しい』って話を聞いたことがあります。あれも干支のことを言っているんですよね」


 華子は知っている迷信のひとつを取り上げた。


「丙は『火の陽』、午の五行が『火』。それらが重なることから言われ始めたことだな。結婚には向いていない性格だとされ、その一年間の出産はできるだけ避けられたらしい。前回の丙午である一九六六年には、統計グラフが不自然になるほど出生率が下がっている」


「いくら迷信でも、それが原因で本当に苦労しそうですもんね」


「でもなぜか男の場合には悪くは言われない。俺と同じ名前を持つ小説家の坂口安吾は、一九〇六年の丙午の生まれ。本名を炳五へいごといって、親はわざわざ丙午を前面に押し出した名前をつけているぐらいだ」


 これで十干が五行の流れに沿って順番が決まっていることは、華子にも理解できた。


「ところで十二支の順番には何か理由があるんですか?」


「実は元をただせば十二支と動物の間には何も繋がりはない。十干は天の動きを、十二支は地の動きを理解しやすいよう便宜上作られた記号のようなものだ。そこに後になってから、分かりやすく動物が当てはめられたに過ぎない」


「十二支を象徴する動物を誰にするか、お釈迦様のところに新年の挨拶に来た順番で決めたっていう昔話のアレですか」


 もちろん実話ではなく誰かが作った空想上の物語なのだが、牛の背中に乗った鼠や、仲良く一緒に出かけた犬と猿の話など、実に上手く様々なエピソードが盛り込まれている。


 特に鼠に嘘を吐かれて日時を間違えた猫なんて、お釈迦様から「顔を洗って出直してこい」と言われて、前足で顔を撫でるようになっただとか、その時の恨みから今でも鼠を追いかけているなど、結果として十二支には入っていないにもかかわらず印象的だ。


「十三番目の動物はイタチだったという話が一般的だが、十二匹の中に入れなかったという意味合いだと考えれば、『十三番目の猫』は解読の鍵が十二支にあるというヒントだと推測できる」


 ちなみにイタチは惜しくも十二支には選ばれなかったが、その代わりに毎月の最初の日に名前をつけてもらって、一日を「つ」と読むようになったそうだ。


「干支ってたしか、昔は時刻を表すのにも使われたんですよね?」


 華子は腕組みをして黒板を見つめた。安吾は十二匹の動物を時計盤のように書いている。


「……ムムム。これはひょっとして、私にも分かっちゃいましたよ」


「ほう……だったら聞かせてもらおうか」


 本来は華子が依頼主で、安吾が解読役だ。しかし気がつけば、そんな枠なんて最初から存在していなかったように華子はまんまと乗せられていた。


「この文章では雄と雌の二つに分類されていますよね。つまり午前と午後。だから最初に出てくる『雄虎』は『午前2時』ってことじゃないですか」


 華子が言おうとしているのは、『雄』が午前を、『雌』が午後を示し、干支の動物がそれぞれ順に0時から11時までの時刻を表しているのではないかということ。


「だからこの文章は『午前2時と午前0時と午後6時は猫』って意味なんです。その三回が猫のエサの時刻ってことだとか、きっとそんなところですよ。猫って夜行性ってカンジがしますからね。エサを食べるのも昼間じゃなく、夜中に決まっています」


 冒頭部分の『雄虎と雄鼠と雌馬の三匹が猫ならば』について、自分なりの解釈を披露した。


「だとすると、カードを下駄箱に入れた犯人はハナに何を伝えたかったんだ? 自分の飼っている猫が腹を空かせているから、代わりにエサをやってくれと頼み事か?」


 安吾は呆れた口調で言った。


「……やっぱり間違っていましたか」


「しかしまあ、考え方は悪くない。干支が時刻を示すことを知っていたなら、他にも方角を表すのにも使っていたことだって知っているだろう。『子』の方角が北で、『午』の方角が南。だから地図上で北から南へと結んだ線を『子午線』と呼ぶ」


 ボード上の『鼠』と『馬』の間を、縦にまっすぐな線が引かれた。


「聞いたことあるかも」と、感心する華子。


「話が逸れたついでだ。鬼門の方角については知っているか?」


「縁起の悪い方位のことですよね。家を建てたりする時に玄関の向きを考えたり、凝り性の人だと部屋の内装にまで気を配ります」


「陰陽道において鬼の現れる方角とされているのが鬼門。その鬼門にあたる北東は、『丑』と『寅』の間で『丑寅(艮)』となる。だから昔の人が想像した鬼というのは、虎の顔に牛の角を生やした姿をしていたんだ」


 安吾は『牛』と『虎』を一つの円で囲んだ。牛の頭に虎柄の腰布とされることもある。


「へえぇ」と、またまた感心する華子。昔に読んでもらった絵本に登場する鬼の姿を思い出した。


「鬼門から流れてくる悪い気を防ぐ意味で、一部の地域では男の子が生まれると、家の北東に桃の木を植える風習があったそうだ。そして鬼門の反対側にいる三匹の動物が、猿と鳥と犬」


 安吾は『虎』の正反対にある『猿』から順に『鳥』と『犬』を指す。


「鬼、桃、猿、鳥、犬……と、言えば?」


「桃太郎ッ!」


「鬼退治には最適な組み合わせだったわけだ。このように昔話には十二支の影響を受けている物が多い。そして重要なことは干支の物語には十二匹の動物だけではなく、猫を含めると十三匹が登場するということ」


 安吾はカードにある『十三番目の猫』を指差して言った。


「十三番目……そうか! 十二支の動物をそれぞれ雄と雌に分けても全部で二十四種類しかないけど、猫を入れて十三種の動物だと話が変わってきます」


 華子の指摘に安吾は大きくうなずいた。


「十三の二倍……全部で二十六種類。ちょっと待ってください。この二十六って数字、ドコかで聞いたことありますよ」


 首を捻り、華子は頭の中にある情報の引き出しを必死にひっくり返す。


「二十六、二十六……平仮名は基本形だけでも五十音あるしなぁ」


 その次の瞬間、華子の頭の中に光が差した。


「分かった。うん、そうだ。雄虎と雄鼠と雌馬の三匹が猫……辻褄も合う。今度こそ完璧ですよ」


「本当に分かったのか?」


「平仮名は五十文字だけど、全部で二十六文字のものがあるじゃないですか。アルファベットですよ。この動物はアルファベットの順番を示しているんです」


 安吾の手からチョークを奪い、華子は説明を引き継いだ。


「『雄の鼠』は一番目のA、『雄の牛』は二番目のB、そして十三番目になる『雄の猫』はMに置き換えることができるんです。そして続きも同じです。『雌の鼠』を十四番目のN、『雌の牛』を十五番目のO、最後に二十六番目になる『雌の猫』をZとして考えます」


 華子は自慢気に黒板の空いている場所に書き加えた。


「そうするとホラ、こうなりますよね」


  ―――――――――――――――


  鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鳥犬猪猫

雄 ABCDEFGHIJKLM

雌 NOPQRSTUVWXYZ


  ―――――――――――――――


「で、このアルファベットをカードの文章に当てはめると……」


  ―――――――――――――――


雄虎と雄鼠と雌馬の三匹が猫ならば、

 C  A  T  →CATキャット


雄兎と雌牛と雄馬の三匹が犬である。

 D  O  G  →DOGドッグ


  ―――――――――――――――


「キャットが猫ならば、ドッグが犬である」


「じゃあ次の文章は?」


「同じようにアルファベットを当てはめていくだけですよ」


  ―――――――――――――――


雄猿と雄猪と雌牛と雌猿と雄龍と

 I  L  O  V  E


雌猪と雌牛と雌羊の八匹が止まらない。

 Y  O  U

     

アイ LOVEラブ YOUユー


  ―――――――――――――――


「アイ・ラブ・ユーが止まらない」


 華子は屈託のない笑顔を添えて正解を披露した。


「つまりカードの正体はラブレターだったわけだ。これで俺への疑いも消えただろう?」


「そうですね。安吾先輩が私に恋しているなんて、万が一にも考えたくないですからね」


 暗号を解いた高揚感に包まれていたのも束の間、そこでようやく華子は自分を取り巻く現在の状況が飲み込めた。


「ああッ。でも、こ、これは……もしかして?」


 どこかの誰かが、自分のことを好きでいてくれている。生まれて初めての経験。相手の気持ちに応えるつもりはない。が、嬉しいか嬉しくないかということとは、また別問題である。


 そんな華子をよそに、安吾はカードを指先で擦ってみたり、室内のライトに透かしてみたりと、カードに色々と試していた。


「暗号文以外、特に変わった仕掛けがあるわけではなさそうだな。残念だが今ある情報からだけでは、差出人の正体までつきとめることは不可能のようだ。ま、恋心を暗号にしたためるような相手だ。恋愛を成就させることよりも、告白したという充実感が欲しかったのだろう。逆に言えば、芸能人にファンレターを送るような遠い関係なら姿を隠す必要はない。つまり互いの名前を知っている近しい存在による犯行だということになる」


「犯行だなんて言い方、相手に失礼ですよ」


 華子は安吾の手からカードを奪い返した。これは大切なものだ。変な折り曲げグセがつけられていないか、すぐさま確認する。


 安吾のイタズラだと思っていた時と比べて、差出人に対する態度が一変。すっかりと敵対心は消えて、好意的なものへと変わってしまっている。が、気にしてはいけない。細かいことを気にする女は嫌われると、当の安吾から教わったばかりだ。


「それはまた気がつきませんで」


 上辺では謝罪していたが、華子の変わり身の早さに安吾は笑いを堪えていた。


 それにしても暗号を解いた瞬間に覚えた快感。華子はカードを握っている自分の手が小刻みに震えていることに気がついた。心臓の鼓動が通常運行から、いつしか快速運行に変更されている。


 それはなにも暗号に隠されていたメッセージのせいだけではない。


 華子は少しだけ、安吾がこの場所で暗号を解く理由に触れた気がする。


 ……と、その時、ガチャリと入口の扉から音が聞こえた。


「スミマセン、昨日、八坂を通じて頼んでいた件なんですが、今、大丈夫ですか?」


 少しだけ開いた隙間から、遠慮がちに顔だけを覗かせていたのは中等部の男子生徒。話している内容からすると、記念日のプレゼントを相談してきた八坂総次郎の友人らしい。


「次の客が来たようだ。ハナ、今日のところは帰れ」


 来客の顔を見ると、安吾は華子に退出を促した。


 まだ伏見に命じられている本来の使命は果たせていないが、心は空を飛ぶほど軽やかだ。こんな日に安吾と言い争いをする気にはなれない。華子は素直に従うことにした。


「分かりました。明日、また来ます」


 華子は丁寧に頭を下げてから部屋を出る。


 大袈裟に喜ぶと馬鹿にされそうで我慢していたけど、扉を閉めた後の華子は、たまらず旧校舎の廊下をスキップしていた。


「虎島さん、バイバイ」


 安直だけども虎ジマ猫だから『虎島さん』。ノラ猫に名前まで与えて、手を振るほどの浮かれ具合。


 しかし……、


 最も重要なことを見落として……いや、聞き逃していたことを、華子は後に知ることになる。華子が間違った答えを示した時、安吾は言った。


「カードを下駄箱に入れた犯人はハナに何を伝えたかったんだ?」


 だけどもカードを最初に発見した時の状況を、華子は詳しく話していなかったはずだ。犯人を安吾だと決めつけていたからこそ、あえて説明する必要はないと思っていた。


 聞かずとも知っているのは、発見した華子本人と、カードを入れた犯人の二人だけである。

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