第1話【2】隠されたメッセージ
恋心とは、いつ咲くのか張本人にすら分からない花である。
幼い頃から同じ教室で机を並べ、それまで意識したことのなかった相手に突然、特別な感情を抱くことだって珍しいことじゃない。
暗号屋を訪れた中等部三年の
珈琲の滴がデカンタに落ちていく様を眺めながら、華子は八坂の話に聞き耳を立てていた。
決して他人の恋愛相談に興味津々なわけではない。あくまでも仕事のため。旧校舎から安吾を追い出すには、実態調査も必要不可欠だという判断からである。……と、自分に言い訳する華子。
八坂の話の内容は、過去に戻ったり、現在のことについてだったりで、なかなか本題に入りそうになかった。
困っているのも事実。だけどもそこにはノロケ要素も多分に含まれている。割合にして、丁度半々。華子が母親から教わった肉ジャガのレシピと同じだ。醤油と砂糖、基本は半々。好みによって砂糖の分量を少し控える。
しかし八坂の場合は砂糖が多めで、甘みがわずかに強めかもしれない。
今から季節が一周する前、彼は生まれて初めての恋をした。
確率で物事を差し測るなら、好きになった相手が同時に自分のことを好きになってくれるなんて都合の良い出来事。その99%は漫画と妄想の中で起きる。
残りの1%だけが現実世界。その点を踏まえれば、きっと彼は恵まれていたのだろう。
「もうすぐ交際が始まって丸一年じゃないですか。それで僕、記念日のプレゼントには何が欲しいか聞いたんですよ。その返事がコレなんです」
八坂は向かいのソファーに座る安吾に、自分の携帯電話を差し出して画面を見せた。
「ね、意味ありげなメールでしょ。何でも良いって言っているようにも受け取れるけど、どこか引っ掛かるんですよね」
八坂は興奮気味にそう主張する。
「そうだな。それはきっと正しい判断だ」
八坂のテンションとは対照的に安吾は冷ややかだった。ようやく本題に入ったここまでに、どうでも良い恋愛話を長々と聞かされ、ウンザリとしてしまっていたのだ。
いっそのこと「好きにすれば良い」と突き放すのは簡単だ。しかしそれは同時に、暗号屋としての存在意義を自分から否定することになる。その結果として絞り出した返事だった。
だけども安吾が喉の奥に飲み込んだ本当の感情までを読み取れなかった八坂は、その相槌を好意的に受け取り、満足そうな表情を見せた。
桜花堂学園では「清く、恥じないものであること」という条件が課せられてはいるが、特に男女交際が禁じられているわけではない。
そのため毎年、何組もの交際が誕生する。そんな恋人たちが仲良さげに寄り添って下校していく様を見て、いつも華子はうらやましく思っていた。
「一周年か……良いなぁ」
カップに注いだ珈琲を二人の前に並べながら、華子は思わず呟いた。
それを聞いた八坂は、口を大きく横に開けてニカッと笑う。とにかく話を聞いてもらいたくてしょうがないらしい。本当に悩んでいるのか怪しいものだ。
「夏休みに入る前にと思って、去年の七月八日に告白したんですよ。その場でOKがもらえたから、その日がそのまま記念日なんです」
華子は安吾が手にしていた携帯電話を横から覗き込んだ。そこには質問の返事として、八坂が彼女から受け取ったメールが表示されていた。
―――――――――――――――
総くんへ
色々と二人の想い出が
詰まった物が良いな
やっぱり私は思うんだけど
手を繋ぐ時に嬉しい
―――――――――――――――
さて……、
恋人からメールを受け取った『総くん』こと八坂総次郎。彼は一体、彼女に何をプレゼントするべきだろうか?
彼の恋愛が今後とも上手く続くよう、手助けが求められている。
「想い出が詰まった物……手を繋ぐ時に嬉しい」
華子は自分なりに考えてみる。今、この部屋の中にいる三人の中では唯一の女の子だ。女の子の気持ちなら自分が一番に分かるはず。
「私だったら記念日に一緒にいられることが何よりも大事かな。手を繋ぐのだって、二人で一緒にいないと出来ないわけだし」
そこまで言って閃いた。華子は嬉々として八坂に教えてやる。
「そうか、だから答えは『時間』よ。きっと思い出の場所で一緒に過ごす『時間』をプレゼントしてもらいたいって意味じゃないのかな」
暗号屋だとか大層な屋号を掲げたところで、素人に先を越されるようじゃ、客が料金を支払う価値などない。案外、安吾を追い出すのは簡単な仕事かもしれない。華子は内心、勝利を確信した。
「これで宇徳先輩にも分かったでしょ。この桜花堂学園から暗号屋がなくなったって、誰も困らないんですよ。今日できっぱりサッパリ廃業ですね」
「ハナは大人しく黙っとけ。それに俺のことは、安吾と呼んでくれて構わないと言っただろう」
運ばれてきた珈琲に口をつけていた安吾は、テーブルにカップを戻してから、華子の唇の上下を指でつまんで閉じさせた。
「いいか、これは紛れもなく暗号だ。そんな単純なモノじゃない。オマエたちでも『いろは歌』ぐらいは知っているだろう」
華子は「ううーっ」と何かを言おうとするが、唇を摘ままれたままなので喋られない。
代わりに八坂が安吾に確認する。
「いろはにほへと……の『いろは歌』ですか?」
「そうだ」
安吾は華子から手を離すと、壁際にあったホワイトボードに向かい、そこに全文を書き始めた。
―――――――――――――――
色は匂へど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
―――――――――――――――
「すべての仮名文字(ひらがな)を、重複なく一度ずつ使って作られている和歌ですよね。作者は不明ですが、弘法大師として有名な空海和尚だとも、百人一首に歌が選ばれている
安吾から解放された華子はようやく発言が許され、その知識を披露した。
歌の意味はこうだ。
匂うような鮮やかな色をした花でも、いつしか散ってしまう。つまりこの世では誰もが変わらずにはいられないものである。どこまでも続く山深い景色のような現世を越えて、はかない夢をむやみに見たり酔いしれたりするものではない。
すべての仮名文字が使われている特質から、現代では書道の練習や、イロハの記号として用いられることが多いが、歌われている内容としては、宗教要素の強い教えが込められている。
「その通り。だが空海を作者だとする説は、高野山真言宗の僧侶たちが、この『いろは歌』を好んで学んでいたことに由来するにすぎない。むしろ有力視されているのは柿本人麻呂のほう。それとはまた別に、
「えッ……そうなんですか。源高明って、光源氏のモデルになった人ですよね」
華子にとっては初めて聞く話で驚きだった。
光源氏とは紫式部が書いたとされている『源氏物語』の主人公である。
「ああ、本当は高明自身が『源氏物語』の作者なのではないかという説があるぐらいで、彼は優秀な歌人だった。もちろん人麻呂も三十六歌仙に数えられるほどの歌人だ。そしてこの二人に共通するのは、政治的な争いによって迫害を受けた身であるということ」
安吾の説明に、華子は首をひねった。
「源高明は醍醐天皇の息子で、藤原氏によって失脚させられました。でも柿本人麻呂は、万葉集の編纂を手伝ったとされているぐらいで、政治的な文献には名前が一切出てこない謎の人だったはずじゃありませんか。どうして政治に関係していたと分かるんですか?」
安吾は「ほう」と感嘆した。華子の知識は学校の授業で習う域をはるかに越えている。
「さすが小太郎が遣いに出すだけのことはあるな」
安吾にそう言われて、華子はすっかり気を良くしてしまった。さっきアヒル口にされたことも忘れて、ついつい安吾の話に引き込まれていく。
―――――――――――――――
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
奥山の紅葉ふみわけ鳴く鹿の
声聞くときぞ秋は悲しき
―――――――――――――――
「それぞれ誰の歌だか知っているか」
安吾は『いろは歌』に続いて、別の歌をボードに書き出していた。
「両方とも百人一首に選ばれている歌ですね。えーと、最初のが柿本人麻呂で、次が
「正解。猿丸大夫も、人麻呂と同じく三十六歌仙に数えられる人物だ。ここでポイントになるのが、『大夫』という呼び方。これは当時、官位(身分)の高い者に対してだけ使用されていた呼称だ」
「今で言う『先生』だとか、『師匠』みたいなものですか?」
「ニュアンスとしては合っているが、もっと上の限られた身分だけだ。しかしこの猿丸大夫、政治的な文献にはまったくその名が出てこない。さらに興味深いのは古今和歌集においての彼の扱いだ。序文には過去の優れた歌人として名前が登場するも、この『奥山の』で始まる歌は、作者不明を示す『詠み人知らず』として紹介されている」
安吾が指摘した歌は、後に花札の『鹿』の柄のモチーフとして用いられるほど有名なもの。これが現代なら、著作権でガッポリだ。それが作者不明とは意外。
「どういうことですか? 本当は猿丸大夫が詠んだ歌ではなかったということですか?」
華子の頭は軽い混乱。そろそろ一度、話を整理してもらいたいところだった。
「つまり柿本人麻呂も猿丸太夫も本名ではなく、今でいうところのペンネームだったのではないかということだ。そしてこの二人が同一人物であるのではないかと唱えている者も少なくはない。その根拠の一つとして挙げられるのが、彼らの名前だ。『人麻呂』は『人丸』とも表記される。これは『猿が人に進化した』ことに由来し、最初に使っていた『猿丸』から『人丸』に、名前が改められたのではないかというのだ」
「それはおかしいですよ。だって『百人一首』は一人につき一首が原則のはず。それにもかかわらず柿本人麻呂の歌は、一人で二首が選ばれていることになります」
和歌は一首、二首と数える。百人の歌人がそれぞれ一首ずつで『百人一首』。その原則が崩れれば、看板に偽りありだ。
「同じ人物の歌を二首採用すると、百人一首ではなくなってしまう。しかし選者は二つの歌のどちらを選ぶか決めきれなかったのかもしれないな。その末に苦肉の策として、柿本人麻呂という名を急遽でっち上げたとも考えられる。が、まあ理由はさて置き、ここで重要なのは、この二人が同一人物であれば、柿本人麻呂は『大夫』と呼ばれる立場にあった可能性が高いということだ」
そこでようやく、おいてきぼり感のあった八坂が口を挟んだ。
「えーと、それで結局、『いろは歌』はどうなったんですか?」
「少し逸れたな。話を戻そう。つまり『いろは歌』の作者が、どうして源高明や、柿本人麻呂ではないかと言われているか。その理由についてだ」
華子と八坂は身を乗り出して、安吾が次に発する言葉を待った。
「この『いろは歌』には、政治的に命を落とした者からのメッセージが隠されている」
「はあ?」
安吾が突飛なことを言い出すものだから、華子と八坂、二人の声はきれいに揃った。
「良いか? 最初にハナが言った通り、この歌には、すべての仮名文字が一度ずつ使われるという仕掛けが施されている。しかし本当はそれだけじゃない。七五調に構成された文字を七つずつに区切ると、真のメッセージが浮かび上がる」
今度はすべてを仮名文字で、単語の区切りに捉われることなく純粋に文字数だけを頼りに改行する。
―――――――――――――――
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむういのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
よひもせす
―――――――――――――――
「これのどこに、メッセージなんて隠されてるっていうんですか」
真剣な顔つきでボードを眺めていた華子だったが、結局は早々に降参の白旗を揚げた。
安吾は最初から期待していなかったとばかりに、それぞれの行の一番下にある文字を丸で囲んでいく。
「七文字改行の行末を拾うと『とかなくてしす』。つまり『
平仮名のままだと意味が伝わりにくい。安吾はボードに漢字で書き直しながら説明した。
そして更に各行の五文字目の下に線を入れた。
「次に五文字目を拾うと『ほをつのこめ』。こちらは『本を津の己女』。意味は『このことを津にいる私の妻に報せてくれ』だ」
罪も落ち度もない。あるとすればどこかの誰かが権力を握るために、邪魔な存在であったというだけのこと。そのせいで身に覚えのない罪を着せられた挙句、私は死罪へと陥れられた。どうかこのことを津に住む私の妻に報せて欲しい。それが最後の願いだ。
宗教的要素の強い上辺の内容とは、まったく違った意味がそこから読み取れる。
「作者が誰だったのかということも含めて、この『いろは歌』には色々と謎めいた話が語り継がれている。俺が語ったのは、あくまでも数ある諸説の中の一つに過ぎない。無実の罪で死罪を言い渡された男が、牢獄の中で詠んだとされる物語だ」
「どうしてわざわざ暗号にする必要があったんですか? 言いたいことは、普通に言えば良いじゃないですか」
八坂が素直な疑問をぶつけた。
「素直に『俺は無罪だ』と叫んだところで、当時の裁判制度では、その声が外へ伝えられることはなかった。そこで男の考えた唯一の方法こそ、死ぬ前に詠むことを許されていた辞世の句だったわけだ。ただし普通に言いたいことを歌の中に詠み込めば、間違いなく役人の検閲に引っかかり、闇に葬られるのは確実。そこで男は言葉を隠した。これぞ真に暗号が暗号である理由」
「言いたいのに、言えない。僕に届いたメールが『いろは歌』と同じだというなら、何が欲しいのか、言葉にはできない物だということですか」
「伝えたいメッセージを暗号に隠す理由は、人によってそれぞれだろう。第三者に知られたくない場合だけとは限らない。そんなに難しく考える必要はないと思うぞ」
―――――――――――――――
そうくんへ
いろいろとふたりのおもいでが
つまったものがいいな
やっぱりわたしはおもうんだけど
てをつなぐときにうれしい
―――――――――――――――
安吾はボードの空いたスペースに、八坂に届いたメールの内容を平仮名にして書き出した。しかしそこで八坂の反応が薄いことに気がついて、一旦、動きを止めた。
「しょうがないな、ヒントをやろう。オマエが持ち込んだ暗号は、記念日の『七月八日』が解読の鍵になっている。つまり彼女に試されたんだよ。その日をどれだけ大切な日だと認識しているのかってな」
安吾は「試された」の部分を特に強調して伝えた。
「鍵……ですか?」
その甲斐あってか、八坂の表情が一気に引き締まる。お祭りの屋台で何を買うかを友達と相談するぐらいの気持だった浮かれオーラは、ここで完全に消え去った。
八坂の唾を飲み込む音が華子にも聞こえた。
「このメールを正しく解読するには『七』と『八』が重要な意味を持っている。あとの原理は『いろは歌』と同じだ。漢字部分をすべて平仮名に直した後、記念日の数字が示す『七行/八文字』に並べ変える」
―――――――――――――――
そうくんへいろい
ろとふたりのおも
いでがつまったも
のがいいなやっぱ
りわたしはおもう
んだけどてをつな
ぐときにうれしい
―――――――――――――――
「あとは行頭を拾い読めば良いだけだ」
「そ・ろ・い・の・り・ん・ぐ。『揃いのリング』ですね!」
八坂よりも先に華子が声を上げた。
「つまりキミの彼女は、ペアの指輪をはめて、手を繋ぎたいと言っているわけだ。ヘラヘラ笑って巨大なヌイグルミでも渡した日には、一体どうなっていたことか」
解読終了。
安吾は再びソファーへ戻り、ドカッと腰を下ろした。
八坂は感心しきった顔でメールを凝視する。それから思い出したように財布を取り出すと、そこから千円札を抜き取って、安吾に手渡した。
「助かりました。これ、約束のお金です。じゃあ僕は早速これから買い物に行ってきます」
八坂は頭を下げた後、スキップでも踏みそうな足取りで部屋を出ていこうとする。
彼からすれば千円で彼女からの試練をクリアすることができた。安吾にしてみれば、ほんの数分で千円を稼ぎ出した。全員がハッピー。これで丸く収まる……とはいかない者が約一名。
「ちょっと待って、八坂くん」
華子は八坂を呼び止めた。自分の目の前で行われた行為を、見過ごすわけにはいかない。
「なんでしょうか?」
中学生らしい清々しい笑顔。ここに来なければ、この笑顔はなかった。そう考えると、頭ごなしに否定して良いものだろうかという疑問も浮かぶ。
「ううん、えーと、自分だけで決めるより、お店には彼女と行って、一緒に選んだほうが良いかもよ。デザインの好みって、女の子はウルサイから」
「あ、そうですね。言ってくれて良かったァ。恋愛マスターからの素晴らしいアドバイス、ありがとうございます」
八坂は再び頭を下げてから、部屋を出て行った。ほぼ直角。さっきのお辞儀よりも深い。それを見た華子の気持は複雑だった。
八坂の姿が扉の向こうに消えると、安吾は必死に堪えていたものを解放させた。
「ププッ、恋愛マスター。ハナが恋愛マスター。片想いの相手に気持ちを伝えられず、弱者の居場所を奪うことでしかアピールできないハナが、恋愛マスターだってさ」
「笑い過ぎです」
華子はソファーにあったクッションを拾い上げ、安吾に向かって、それを投げ付けた。
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