第1話
第1話【1】旧校舎の暗号屋
私立
よく広さを表現する時に使う『東京ドーム何個分』だとかそこまでじゃないけど、国道沿いにある市民球場なら、四つや五つぐらい簡単に収まってしまう。
なにせ敷地内には、幼稚園に相当する幼等部から、初等部、中等部と続き、さらには高等部までの校舎が揃っているのだから。
それに加えて特別教室棟や、教師以外の学校職員が働く事務舎など、たくさんのコンクリート壁が建ち連なる様は、そこら辺のちょっとした街にだって、まったくもって見劣りしない。
実際、2号館の1階にある購買部へ行けば、文房具からお菓子まで、街角のコンビニエンスストアに負けないだけの商品が、常時取り揃えられている。
寝泊まりするベッドなら保健室に用意されているし、きっと学園の敷地から一歩も外へ出ることなく生活できると、桜花堂学園高等部一年、
もちろん、できるからといって、やってみようと思うかどうかは別である。
今のところ華子には、それを実行するつもりはない。遠慮しておく。
それはさて置き……、
今、華子が直面している最も重要な問題は、広い桜花堂学園の敷地の中でも正門から遠く離れた一角、近代的に構成された校舎群を抜けて、一番奥まで行った先にあった。
位置的に群を抜けただけに留まらず、まさに群を抜いて異質な木造校舎。
数年前までは、不要になった物を放り込んで倉庫として使われていたようだが、本来の用途である教室としてなら、もう何十年も使われていない。
新しい校舎が次々と増築され、現在、桜花堂学園では番号による名称が使用されるようになった。
以来、正式な書類の上では、その木造校舎は『0号館』として記載されている。
が、誰一人として、そんな名前で呼ぼうとはしない。
生徒、職員、保護者、桜花堂学園に関わる全ての人が、この古い建物を『旧校舎』と呼んでいる。
また、安全上の理由から、基本的に旧校舎への生徒の立ち入りは禁止されている。
しかしそれはあくまで、基本的にでしかない。
管理は大雑把。立ち入りを制限するような鍵が取りつけられているわけでもないので、その気になれば、いくらでも出入りが自由だ。
今日にしたって、玄関脇のところに備えられた下駄箱の上では、虎ジマ柄の猫がどっしりと膨らんだ腹を投げ出し、華子を見て逃げるどころか、まるで自分のことを管理人だとでも思い込んでいるかのような顔で、大きなアクビをしただけだった。
つまり猫も杓子も誰であっても、四六時中ウエルカム状態なのである。
「桜花堂学園高等部三年、
華子は勢いよく右腕を振り下ろし、正面に捉えた相手を指差した。
「また学園敷地内にて暗号屋と称し、金銭の授受を前提とした商いを営んでいるとの報告も受けています。いかなる理由と権利を主張しようとも、生徒による営利目的の活動を見過ごすわけにはまいりません。こちらについては調査の上、厳格に対処させていただきます」
視線を相手から外さず、それでいて大人びて見える顔の向き。信念を曲げないことを込め、指の先まで真っ直ぐに伸びる腕の角度。規律に対する誇りを表現した背中の反り具合。それらの全てがミリ単位で計算され尽くしている。
完璧だ。どこからも隙はない。ビバ、華子。偉いぞ、華子。
そりゃあ、そうだ。
旧校舎を私物化する問題生徒、宇徳安吾を指導する任務を、尊敬してやまない風紀委員長の
鏡の前で納得がいくまで繰り返した練習は、窓の外が白ずみ始めるまでにおよんだ。
ただし完璧に仕上げてきた華子の口上を聞いている者は、この場に誰一人としていない。
いや、正確にカウントすれば、一人もいないが、一匹なら目の前にいる。華子の指差した先で、旧校舎管理人の虎ジマ猫が再びアクビした。
ビシッと決めた姿勢と共に止めていた呼吸。息が苦しくなって、華子はポーズを解除した。
「ぷはーッ。よし、大丈夫。私にならできる」
それからバチンと、両手で自分の頬を張る。
と、ここで少しばかり華子の紹介を……。
鳥羽華子、十五歳。桜花堂学園高等部一年。
幼等部からエスカレーター式に上がってきた、生粋の桜花堂育ち。
誰にも打ち明けたことはないが、初恋は初等部四年の時。相手は二つ年上で、当時、初等部生徒会長だった伏見小太郎。
高等部に進んだ今年の春、ずっと一筋に憧れ続けていた伏見小太郎に近づくという下心……ではなく、少しでも学園の役に立ちたいという立派な信念に基づき、彼が委員長を務める風紀委員会に志願した。そして今はその仮採用期間中の身となっている。
ちなみに華子の好きな文房具は三角定規。犬派か猫派かで言ったら、だんぜん犬派。得意なモノマネは、首振り機能の壊れた扇風機。
「伏見先輩は私を信じてくれたからこそ、私にこの仕事を命じたのよ。それなのに私自身が私を信じてあげなくてどうする」
最後のリハーサルを終え、今度こそいよいよ本番と意気込む。
目的の部屋は元・校長室。
大きく足を踏み出した華子は、廊下の奥へと進み、突き当りにある両開きの大きな扉の前に立った。
植物のツタをかたどった彫刻がほどこされ、威風堂々とした扉は華子を圧倒する。
ゴクリ。唾を飲み込むと、喉が大きく鳴った。
「ヨシ、行くぞ」
ノックしようと手を伸ばすと、唐突に目の前にあった扉が開いた。
「え……自動ドア?」
華子の右手は行き先を失った末に、宙を迷子になる。
「そんな上等なモン、あるわけがないだろ」
開かれた扉の向こう側には、男子生徒が立っていた。桜花堂学園の中等部と高等部で共通になっている制服を着ている。
おそらく彼こそが宇徳安吾。
先程から廊下で練習をしていた華子の物音に気がつき、彼が中から扉を開いたのだろう。
「……あ、すいません」
一言あやまった直後、華子は「失敗した」と思った。
最初の一言目が肝心だと、散々自分に言い聞かせていたのに、動揺のあまり下手に出てしまった。
「ん、それにしても見ない顔だな。ここは初めてか? まあ遠慮せずに中へ入れよ」
部屋の主はそう言うと、扉を押さえたのとは反対の腕を広げた。
ヤセ型で手足の長い彼のシルエットは、バッタやイナゴといった昆虫を想像させる。
身だしなみには無頓着らしい。シャツの裾はズボンからはみ出ている。言うまでもなく、その着こなしは校則違反だ。
それに肩まで届きそうなほど伸び放題になっている髪には、軽いウェーブが掛かっていて、生まれつきなのか、寝癖なのか、まるで分からない。
清涼感に欠ける。かといって不潔という印象でもない。
自宅の玄関で靴箱の上に居座っている、民芸品の人形に似ているとも思った。華子の父親が会社の出張で東南アジア系の国へ行った時、土産として持ち帰ってきた物だ。
「では遠慮なく」
華子はバクバクと心臓が音を立てていることを隠し、できるだけ礼儀正しい態度を心掛けた。
そして誘われるがまま奥へと進み、部屋の中をぐるりと見渡す。
部屋の中央を占めているのは、立派なソファーとテーブルの応接セット。膝下あたりの低いテーブルを挟んで、横に長い三人掛け用のソファーと、一人掛け用二脚が向かい合わせに配置されている。
さらにその奥には、窓を背にする形で皮張りの椅子と重厚感漂う大きなデスクがあった。
古いながらも一通りの調度品が揃っていて、これぞ校長室といった雰囲気がする。
その他にも、おそらく図書室から運び入れたと思わしき大きな本棚など、他の部屋にあったであろう備品も数多く見られる。
新校舎へ引っ越した時、ちょうど良い機会だからと、まだ十分に使える物であっても、ここに取り残されていってしまったに違いない。
華子はソファーの背もたれに手をかけ、息を吐き出すことを意識した。
そして今度は吸う。
呼吸の回数を数える。
そうやって自分が落ち着いていることを確認してから、男子生徒に尋ねた。
「アナタが宇徳安吾先輩ですか?」
窓際のデスクへと移動する相手を華子は目で追う。
「ああ、俺が暗号屋の宇徳安吾だ。どんな暗号でも解いて見せよう」
彼はデスクの縁に腰をもたれかけさせて、そう答えた。
「どんな暗号でも?」
「それで今日はどんな暗号を持ってきた?」
あまりにも堂々とした安吾の態度に、華子は圧され気味だった。
まったくもって調子が狂う。
相手が宇徳安吾本人であることを確認したら、散々練習してきた口上を読み上げるはずだったのに、このままではいつまで経っても向こうのペースにはまったままだ。
しかも彼は勝手に、聞かれてもいない料金説明を始めた。
「基本料金は千円。たとえば建物の壁に書かれていて動かせない暗号だったり、色々と諸事情があったりで、どうしてもこちらが他の場所へ出向く必要が生じた場合には、移動経費と出張手当を加えて別途請求する。まあ、詳しいことは内容を聞いてからの応相談だな」
これぞ渡りに船。華子は、ほくそ笑んだ。
自分を宇徳安吾本人であると認めた上、更には旧校舎での金銭授受までもが、白日の下にさらされたことになる。
華子が一番に厄介だと心配していたのは、「困っている人を助けるためのボランティア活動だ」なんてふうに、言い逃れをされた場合の時だった。
そうなると旧校舎から追い出すことができても、他の場所に移って商売を再開されることは目に見えている。イタチゴッコは御免こうむりたい。
華子は仕切り直すため、もう一度、気合を入れ直す。
「風紀委員会から遣わされて参りました。高等部一年の鳥羽華子と申します。ちなみに華子のハナは、野花じゃなくて中華のほうのハナです」
華子は都合の悪い部分をカットし、仮採用期間中であることを伏せて自己紹介した。
これで軌道が修正されたことになる。ここからが勝負本番、待ったナシ。
「高等部三年、宇徳安吾先輩。アナタの行為は学園の設備を不当に占拠するものであります。つきましては桜花堂学園風紀委員会の名の下、旧校舎からの……」
「風紀委員? ああ、なるほど。小太郎のトコか」
華子が何度も何度も何度も何度も、寝る間を惜しんで練習した口上に耳を貸さず、安吾は平然と悪びれる様子もなく口を挟んだ。
「こ……こた、ろォ?」
もちろん最後までおとなしく聞いてもらえるなんて、そんな蜂蜜と練乳をブレンドして角砂糖に垂らしたみたいに甘ったれたことを考えていたわけじゃない。
考えられる全ての反論に備えて、華子はこの場に臨んでいる。
たとえば逆ギレで脅迫じみたことを怒鳴りつけられるパターンは三十八番目に設定し、あらかじめ対処方法を練ってきた。
だけどもここで、安吾の口から伏見のファーストネームが出てくるのは想定外だった。
もちろん二人とも桜花堂学園の高等部三年に在籍しているのだから、互いに顔ぐらいは知っているだろう。ひょっとすると顔を合わせた時には、軽く会釈するぐらいの関係性はあるかもしれない。
しかし、それ以上に親密な仲であるはずがない。
もしもそうであれば、わざわざ旧校舎明け渡しの件を華子などに託さず、伏見が直接自分で安吾に話をすれば良いはずだ。
華子はそう考えていた。
ところが安吾は、伏見のことを親しげに「小太郎」と呼んだ。
これは完全に想定外。安吾自身に意図がなくとも、華子の出鼻をくじくには十分だった。
本来の用件には直接関係のないことなのかもしれない。他の者なら何も支障のないことなのかもしれない。
だけども、だ。完璧を目指すあまりに散々シミュレーションを重ねてきた華子にとっては、少しの綻びでもそれが致命的になる。
目の下あたりの筋肉がヒクヒクと、小刻みに反復運動しているのが自分でも分かる。というよりも止めようと意識すればするほど、むしろその速度が上がった。
「伏見先輩とは仲がよろしいのでしょうか?」
冷静を取りつくろって、立て直しをはかる華子。
「昔からの腐れ縁だな。同じクラスになるのは、今年でもう十五回目だ」
「じゅ、十五回!」
華子は指を折って数えた。
三歳の幼等部年少組から高等部三年生までを数えると、十五年間になる。
毎年のクラス分けで十五回も同じクラスになるということは、つまり宇徳安吾と伏見小太郎の二人は、一度たりとも別のクラスに割り振られたことがないということ。
何者かの陰謀でなければ、その確率は宝くじで一等を当てるよりも遥かに難しい。まさに腐れ縁と呼ぶにふさわしい関係であろう。
「暗号解読の依頼なら、小太郎の代理だとしても正規の値段。割引はナシだぞ」
安吾は華子に椅子を勧めることなく、自分だけがソファーに腰を下ろす。全身の体重を重力に任せて自由にさせると、年老いたソファーはミシリと悲鳴を上げた。
華子が伏見の遣いだと分かり、その心安さから、客人として扱うのを止めたようでもあった。
「あ、いえ……依頼だとかそういう話ではなく、ここの場所は一般生徒の立ち入りが禁止になっていますから、それを勝手に使われては困るのでして、だから私はそれを伝えに来たわけで、それが今日の目的ですから依頼だとかではないのです。だからですね……」
昨夜の練習、すべて水の泡。華子はとにかく言葉を発することで精一杯だった。
それでも最低限の内容だけはちゃんと伝わったらしく、安吾は華子の話に眉をしかめた。
「小太郎に指示されたのか? ホント、昔から堅苦しい奴だ」
ここで引き下がるわけにはいかない。いくら理想と違う無様な格好だったとしても、華子には目的を成し遂げる必要がある。でなければ風紀委員会に正式加入する道が閉ざされてしまう。
「確かに私は伏見先輩に指示されて、ここに来ています。でもこれは学校の決まりであって、何も伏見先輩が個人的にお願いしているわけじゃありません」
「ふーん、なるほどね」
華子の全身を頭の先から足の先まで、舐め回すように観察する安吾。
「イヤらしい目で見るのは止めて下さい」
咄嗟にスカートを手で押さえる。が、いくら安吾が低い姿勢といえども、校則に従順な華子のスカート丈では、中が覗かれる心配は無用だった。
「寸分も狂わず、生徒手帳に載っている模範生徒のイメージイラストと同じ」
「当たり前です」
生徒手帳に記載されている内容を安吾が把握していることが、華子には意外だった。
「分かったぞ」
「何が分かったと言うんですか」
「オマエ、小太郎のことが好きなんだろ」
「え……」華子は一瞬、答えに詰まった。
しかしその次には怒涛のように言葉が溢れ出す。
「べ、別に伏見先輩のことなんて、何とも思っていません。あ、いえ、でもこれは伏見先輩のことが嫌いだとかそういうことじゃなくて、恋愛感情がどうこうという話ではないということであって、だからどうかっていうほどのことではないのですけど……」
後からゆっくり考えても、華子はきっと自分が何を喋ったか思い出せないだろう。取りつくろうために言葉を選んでいる暇なんてない。とにかく頭に浮かんだままを口にした。
そしてついに頭の中にあった言葉をすべて吐き出し終え、次にはもう何も出せなくなったところで、ちょうど入り口の扉がノックされる音が聞こえて、華子は我に返った。
少しだけ開いた扉の隙間から、一人の男子生徒が半身だけをひょっこりと中に踏み入れさせて、こちらの様子を伺っている。
制服の襟章から、彼が中等部の生徒であることが分かった。
「すみません……もしかして、お取込み中でしたか?」
一方、華子は他人に目的を悟られてはいけない隠密任務中であるかのように、反射的に部屋の中で隠れられる場所を探した。だけども堂々としていれば良いことに気がついて、咳払いした。
「いや、大丈夫だ。こいつは客じゃない」
安吾は華子のことをそう説明し、中等部の彼に部屋の中まで入ってくるよう勧めた。
「えーと、オマエ……華子だっけ。面倒だから短く『ハナ』と呼ぶことにしよう。柴犬の子供みたいで、良い名前だろ。そのほうが似合っている」
たしかに華子は犬派だけども、決して自分が犬っぽいだとかいう意味じゃない。
「ハナ、珈琲を淹れてくれ。客と俺の分、二つ」
「どうして私が?」
「だったら俺のことも、親しみを込めて『安吾』と呼んでくれれば良い」
「名前のことじゃありません。どうして私が、ここの関係者みたいな真似をして、珈琲を淹れなきゃいけないのかってことです」
「だったら良いぞ、今日はもう帰れ。俺はそれでも一向に困らない。でもきっと小太郎は、言われた仕事もロクにこなせなかった後輩に幻滅するだろうな。ひょっとすると二度とチャンスはもらえなくなるかも。いいや……それだけならまだしも、もしかすると口を利いてさえくれなくなることだって十分にありえるな」
特に後半は独り言でも呟くかのように言葉を濁す安吾。ますます華子の不安はあおられる。
華子の仕事は旧校舎から安吾を追い出すこと。すでに用件は伝えた。しかし、このまま素直に安吾が応じてくれるとは考えにくい。
今すぐ……というのは無理だとしても、せめて、いつまでに明け渡すかぐらいは約束してもらわなければ、足を運んだ甲斐がない。
「珈琲……淹れます。いいえ、淹れさせていただきます」
部屋の入口脇のパーテーションで仕切られた場所には、小さな台所設備があり、そこには豆を挽く珈琲ミルや、珈琲を抽出するサイフォンなど本格的な道具が揃っていた。
実際にここが校長室だった時から、来客時に茶を用意するために使われていたのだろう。
華子は渋々そこへと向かいながら、シミュレーションから遠く脱線した自分の姿を嘆き、そして一筋縄ではいかない安吾を恨めしく思った。
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