大人のママゴト

糸藤いち

大人のママゴト

 理恵は淡いグレーで統一されたシステムキッチンに立ち、今日一日にやるべきことを考えていた。その手元では、スクランブルエッグが調理されている。

(今日は寝室の模様替えをしよっかな。だいぶ春っぽくなってきたし、薄手のシーツに変えようかな。一昨日なんか、洋二さんってば布団から出ちゃってたもんね。あとはお風呂掃除するとして、この分だと午後は暇になるな)

家の様子を思い浮かべつつ一日の予定を立てながらも、手元はよどみなく動いている。絶妙な半熟具合で仕上げたスクランブルエッグを二枚の皿にそれぞれ乗せ、サラダを盛り付けていく。そのタイミングでトースターが鳴った。それらをダイニングテーブルに運んでいると、足音がした。理恵は振り返り、笑顔を向ける。

「おはよう、洋治さん」

(今日も洋治さんが起きたタイミングで朝食の完成。うん。私ってば完璧にお嫁さんしてるわ)

「おはよう」

起きたばかりの洋治はまだ目をしょぼしょぼさせながら挨拶をした。低血圧の彼は、自分より早く起きて朝食を作り笑顔で挨拶をする理恵を見ると、結婚してよかったと毎朝思うのだった。

「コーヒー、今持ってくるね」

「うん」

洋治は席に着くと、理恵がセットした朝刊を広げた。一面記事を眺めていると理恵がコーヒーとグリルチキンをテーブルに持ってきた。そして向かいの席に座る。

「さぁどうぞ」

「これ朝から作ったの?」

洋治はグリルチキンを取り分けながら聞く。

「ううん。昨日の夜に漬け込んでおいて、焼くだけにしておいたの。こういうメニューならどうかな?」

「すごくいいよ。これぐらい量があると嬉しい」

先週のこと。二人は朝食の件で喧嘩をした。理恵はパン派で、コーヒーと卵があれば充分だった。対して洋治は白米派、さらに味噌汁と主菜副菜が欲しいと言ったため喧嘩になったのだ。朝から両方作るのは大変だから、私は洋治さんが出かけた後で朝食を摂ると理恵が言ったが、洋治はそれを嫌がった。ならばパンと卵のみでいいかと聞くと、それでは足りないと洋治が言う。そこで理恵が提案したのが、パンに洋食の主菜をつけるメニューだった。それを今日から実践してみることになっていたのだ。

「よかった。明日からもガッツリ作るね」

「楽しみにしてるよ」

理恵は任せなさい、とおどけた顔をして見せながら言った。その表情が愛らしく、こうやって喧嘩をして仲直りすることを繰り返し、お互い愛し合って生活していこうと、洋治は思うのだった。



 理恵と洋治は三ヶ月程前に結婚した夫婦である。二人での生活は楽しい時も辛い時もあり、全てが素晴らしい時間であるわけではなかったが、辛い時間も含めて幸せであることは確かだった。特に洋治は、年下で若く明るい妻のお陰で、仕事のモチベーションも以前より一層高くなり、心身共に満たされ、素晴らしい日々がずっと続いていくように感じていた。



 楽しい朝食のひとときを終え、寝室で洋治が着替えていると、そこへ理恵がやってきた。いらずらっ子のような瞳を見て洋治は察した。

「また挑戦するの?」

「もちろん。ちゃんと出来るようになるまでやらせてよ」

「いつ挫折するかな-?」

「もぉ、ひどいな。今日は出来る気がするの」

「わかったよ。ちょっと待って」

洋治は袖を通しただけになっていたワイシャツのボタンを急いで留め、裾をズボンにいれた。その間に理恵は洋治のクローゼットからネクタイを選ぶ。

「はい、いいよ」

「やだ。まだ決めてないのに」

「早く早く」

「急かさないでよ」

「俺、遅刻しちゃうよ」

わざと急かす洋治に笑いつつ、理恵は一本のネクタイを取り出した。そして神妙な面持ちで洋治の首に巻き、それを結び始める。

「こっちをこうして、こうやって。ここまでは完璧よね」

「そうそう。で、そっちをまわして」

「うん。まわして、上から端をいれて、きゅっ」

言いながら締め上げるが、何とも不格好になる。

「もー、なんで綺麗な台形にならないのかな。悔しい!」

「はい。残念でした。また明日どうぞー」

洋治は一度ネクタイをほどき、するすると結び直す。

「理恵が諦めるのと、結べるようになるのとどっちが先になるかな?」

「いじわる」

ふくれる理恵の姿を見て洋治は、頬にキスをした。

「そろそろ出るよ」

「忘れ物はないですか?」

「はい、ありません」

ジャケットと鞄をつかみ寝室を出る洋治の後を、理恵はついていく。

「今日も昨日と同じくらいの時間に帰るから」

玄関で靴を履きながら洋治は言う。

「うん。いってらっしゃい」

「いってきます」

靴を履き終わり挨拶する洋治に、理恵は伸び上がりキスをする。その頭を洋治は撫でると外へ出て行った。手を振ってそれを見送り終わると、理恵は大きく背伸びをした。

「んんー、今日も無事に出勤、っと」

朝起きて見送るまでが疲れるんだよな、と思いながら、朝食の汚れ物を片付けるためにキッチンへ行った。



 朝決めた予定通り寝室の模様替えをし、風呂場を磨き上げると、丁度お昼だった。テレビを見ながら、好物の讃岐うどんを作り、食べる。この時間帯のテレビというのは退屈だと、理恵は思っている。やたらとテンションが高く似たような話題を繰り返していたり、ニュース番組の体でバラエティ色の強い内容だったりと、どうにも興味をそそられないのだ。そんなテレビを見ながら午後の予定を考えてみる。どこか掃除が足りないところはないかと思いを巡らすが、特にないということがわかっただけだった。

「よーっし。こういう時は、健ちゃんの所へ行くに限る!」

思いつくと行動は早かった。理恵は食器の片付けもそこそこに、お隣へと出掛けていった。



 お隣、と言っても理恵の家は立派な一戸建て。対するお隣は、薄汚れたアパートだ。その一室のチャイムを鳴らそうとした。が、壊れていることを思い出したので

「お邪魔しまーす」

と言いながら家に上がり込んだ。

「まったく。鍵もかけずに不用心ね-。健ちゃーん。いないのー?」

六畳一間の空間にずかずかと上がり込み、ベランダの方を伺おうとする。

「いるよ」

と、理恵の背後から男が現れた。背の高い男で、顔の半分にシェービングクリーム。右手にはカミソリを手にしている。髪の毛は寝癖のせいか、前衛芸術のようになっていた。

「やだ、今起きたの?」

「仕方ないだろ。深夜まで仕事だったの」

「あっそ。お疲れさま」

まったく労る気のない口調で言い、ベッドに座る。

「へぃへぃどうも。まだフロ入ってねぇから臭いぞ。嗅ぐか-?」

「ばーか。さっさと入って私の相手しなさいよ」

「ったく。勝手に来ておいてコレだもんな」

「文句ある?」

「ありませーん」

男はおどけて返しながら洗面台に戻っていった。理恵はベッドに寝転がりテレビをつけようとした。が、リモコンが見当たらない。さてはまたテレビを見つつ寝たんだなと思い、枕の下をさぐると、やはりそこにリモコンはあった。テレビをつけ、さっきまで見ていた番組にチャンネルを合わせる。退屈だと思っていた番組も、ここで見るとそうは思わない。

「で、なんの用?」

男は洗面台でひげ剃りの続きをしつつ、声を張り上げた。

「暇つぶしに来たのー」

「まったく。新婚の女がこんな所にくんじゃねぇよ」

「いいでしょ? それに愛のない結婚だもん」

「相手はそう思ってないけどな」

「でもいいのー」

会話がとぎれた。ざぶざぶと水の流れる音が響く。男が再び姿を見せた。

「おう、りぃ」

「なによ」

「俺がフロから出てくるまでに、飯作っとけよ」

「めんどくさい。あと命令口調がむかつく」

ベッドに転がり携帯を弄りながら理恵は返事をした。その様子は、自宅で洋治に見せていたものとはまるで違う。行儀は悪いがどこかリラックスした雰囲気であった。男はそんな理恵の姿にため息をつく。そして近づき、携帯の画面を隠すと意地悪な表情を浮かべて言った。

「理恵ちゃーん。ネクタイのお礼まだですよねー?」

「ちっ」

舌打ちで返したが、理恵は男の言葉に従うことを決めた様子で、荒々しく立ち上がった。



 理恵は冷蔵庫を覗いてみた。いつ買ったのかわからない卵、しなびたネギ、おそらく賞味期限の切れている生わかめ、理恵自身が先週冷凍しておいたご飯。不安のある食材ばかりだが、食べるのは自分ではないので、それらでチャーハンを作ることにした。問題があってもあの男なら消化しきるだろう、などと乱暴な思考をする。

 しばらくして小さなちゃぶ台にチャーハンとわかめスープが並んだ。そしてお茶を入れているところに、男が下着のみ身につけた姿で現れた。

「おっしゃ。チャーハンだ」

「ちょっと健ちゃん、髪の毛も背中も濡れてるよ」

「いーの、いーの」

男が下着のみであることは気にする様子もない。

「あーっ。床も水浸しじゃん。私の靴下が濡れたらどうすんの。早く拭いてよー」

「わかった、わかった。チャーハン食ってからな」

理恵の文句など右から左に聞き流し、男はチャーハンにかぶりつく。

「んで、その後どう?」

「汚いなぁ。食べながら喋らないでよ」

「腹減ってるんだよ。それで、どうなんだって」

「ネクタイの案ね、結構いいよ。多分すごく喜んでいる」

「だろだろ? あいつみたいに一人っ子のボンボンは甘やかしてやるといいんだよ」

「そういうもん?」

「そーゆーものなの」

そう返事をすると男は再びチャーハンをかき込み始めた。その様子に食べ終わるまでは会話が出来ないと理恵は判断し、頬杖をつくとテレビを眺めた。相変わらずハイテンションな番組では、タレント達が流行りの服を買いあさっている様子が映っていた。



 この男・健介と理恵は、中学以来の親友である。理恵は決して口に出すことはなかったが、お互いに一番の理解者であるし、友情や愛情を超えた何かが二人の間に流れていると信じている。

 二人が知り合って間もない中学生のある日、理恵は健介に悩みを打ち明けた。それは自分の夢についてだった。理恵の夢は物心ついた時から『お嫁さんになること』であったが、自分が相手を愛することは考えていなかった。高額な収入、自分だけを愛する夫、専業主婦をする自分、それによってもたらされる永遠の安定。それだけを彼女は求めていた。だが、同じ夢を持っているクラスメイトはいなかったし、叶え方がわからなかった。その思いを健介にぶつけると、彼はごく単純に「手に職系のやつと結婚すればいいんじゃね?」と返事をしたのだった。

 その健介の単純な言葉が、理恵には夢を叶える全てであるように思った。大人になった理恵はありとあらゆる婚活パーティに参加し、理想の相手を探した。そして見つけたのが洋治だった。地元で名のしれた診療所の院長、義父はとある大病院の経営者、一回り年の離れた自分に愛情を注ぎ、可愛がってくれる彼。自分の夢を叶えてくれるのは洋治しかいないと踏み、彼の『お嫁さん』になることにしたのである。



 「ね、ね、食べ終わったらワイシャツ着て」

「まさかまだ結べねぇの?」

「・・・うん」

「りぃ不器用じゃなかったよな?」

「そのはずなんだけど、なーんか出来ないのよね」

「しょうがねぇな」

文句を言いながらも、理恵の言うとおり健介はワイシャツを取りに立ち上がった。

 健介は定職に就こうとしない。ここ数年かは探偵事務所でアルバイトをしている。とにかく自由に生きていたい、というのが健介の夢だった。だから仕事はおろか、友人や彼女でさえ何年も付き合おうとしない。例外は理恵だけだった。

 ある日のこと、結納を終えたばかりの理恵は健介を呼び出し、開口一番言ったのだ。

「ね、ね、私のお隣さんになってよ」

「はぁ?」

理恵が結婚することになったため、彼女と会う機会も減るのだろうなと漠然と思っていた健介は、素っ頓狂な声を上げた。

「私、考えたのよね。私が洋治さんにずっとずっと大事にされるには、これから先も健ちゃんのアドバイスが必要だと思うのよ。だから隣に住んでよ」

「なに言ってんだよ。俺、あいつと結婚できるようにさんざん知恵を出してやっただろ? この先はあいつと健やかなる時も病める時も一生一緒だって誓うんだろ? なのに俺に相談するのは間違ってるだろ」

理恵を説得しようとするが、彼女は聞く耳を持たない。

「それにさ、私ってば優秀だから完璧に家事をこなしても午後は暇だと思うのよね。だから隣に住んで遊び相手になってよ」

「俺の家にちょくちょく遊びに来てるのを誰かに見られたらどうすんだよ。不倫してるって誤解されるぞ」

「私と健ちゃんは友達なのに、どうして不倫になるの?」

「あのな、俺は世間一般の視点でものを言ってんの」

「そうね。高校の時はそのせいで、三年間ずっと健ちゃんとカップル扱いされて最悪だったわ」

「だろ? だから、隣だけはやめておこうぜ」

「だけってことは近所ならいいの?」

「そうじゃなっくてだなー!」

健介の言い分を理解しているくせに知らんぷりをする理恵に、彼はいらいらして頭をかいた。

「じゃあ健ちゃん、あの人の友達になってよ。どこかで偶然知り合うの。で、あの人が健ちゃんを家に連れてきて言うの。紹介するよ。友達の健介。この前知り合いになってさ、ってね」

「はじめまして、健介です。いや~美人の奥さんで羨ましいなってか。冗談じゃねぇぞ」

「もぉいいじゃん。なんでもいいから、健ちゃんは隣に住むの!」

こういう時の理恵は頑固で、絶対に譲らない。長年の付き合ってきたが、理恵のこの頑固さだけはどうにかしてもらいたいものだ。

「それに健ちゃんはプーだから昼は暇じゃん」

「俺はフリーターなの。自由じゃなくて不定期なだけだって」

「似たようなものよ」

「似てない」

いくら友人でも、これだけはうんと言えない。言ってはいけない。ご近所さんに自分と理恵の噂が流れでもしたら、理恵の夢である『お嫁さん』は壊れてしまう。あいつは地元じゃ有名なお医者先生だから、暇なオバサン連中の目は厳しいぞ。そう言い聞かせるが、それでも理恵は譲らない。

「もうなんでもいいから健ちゃんは私のお隣さん決定ね! んで私と遊ぶこと!」

結局健介は折れるしかなかった。もしかしたら理恵は、自分が夢を叶える代わりに健介が寂しい思いをするかもしれないと考えたのしれないと思うことがある。健介が人間関係を煩わしく思っていても、人並みに寂しさを感じることがあるということを理恵が理解している証拠でもあった。その辺りが理恵の理想とする結婚生活のややこしい部分でもあり、嬉しい部分でもあった。



 ワイシャツを着た健介は、ベッドに腰掛けた。そして録画したドラマを見始める。その前に理恵は座り、ネクタイを結び始めた。

「りぃ、もうちょい頭下げて」

「見えなかった?」

「すっげぇ邪魔」

「ごめん」

ドラマを見るのは健介の数少ない趣味だった。だからいつもなら悪態で返すところを素直に謝り頭を下げる。結んではほどき、ほどいては結ぶ。

「まだできないの?」

黙って何度もやり直している理恵に、健介はドラマを一時停止してから話しかけた。

「結び目が綺麗な台形にならない」

すると理恵はわざと頬を膨らませて答えた。健介はその頬を左手の親指と人差し指で潰しながらアドバイスしてやる。

「力の加減があるんだよ。見た目ほど力を入れて締めないんだって」

言われた通りにやってみると、三回目には納得のいく仕上がりになったようだ。理恵はとたんに笑顔になる。

「やった。見て見て。さすが健ちゃん」

「さすが俺。もっと敬いたまえ」

そう言った健介の額に、調子に乗るなよとデコピンをお見舞いする。

「これでネクタイはクリア出来そうだし、次は何をしようかな」

「次はフェラのれん・・・」

「却下」

言いながらネクタイを強めに締める。

「超絶技巧を仕込んで・・・」

「却下」

さらに強く。

「ギブギブ。苦しいって」

理恵が力を緩めたところで、すかさずネクタイを外しながら言った。

「りぃに頼まれたって絶対練習台にならねぇよ。噛み千切られで恐ろしいわ」

「私だってそんなの頼まないわよ。健ちゃんのなんか見るのも嫌」

「・・・その割に俺のパンイチは嫌がらねぇのな」

「うん。なぜかそれは平気」

「あっそ。そろそろドラマ再開していいっすか?」

「どーぞ」

健介は再びドラマの鑑賞をし始めた。理恵はもうネクタイの練習は飽きたらしく、ベッドにあがると強引に健介の膝を枕に昼寝をしだした。

 ドラマを見終わると健介は理恵を起こした。そして二人は六畳一間の掃除をし始めた。と言っても健介は邪魔にならないようにしているだけだ。理恵が片付けて洗濯をし、ゴミをまとめ、掃除機をかけていく。理恵が健介に隣に住めと言った時、彼は一つ条件を出した。俺の部屋を掃除しろ、と。家事は理恵の趣味であったので彼女はすんなり了承した。この条件を出した時、せいぜい月一で来訪するくらいであろうと予想していたが、週に一回は来訪するため健介の部屋はだいたい綺麗なのであった。



 理恵が洗濯を干し終わり伸びをしたところで、健介が声をかけた。

「コーヒー淹れたぞ、りぃ。それで終わりだろ?」

「サンキュー健ちゃん」

洗濯カゴを振り回しながら理恵がベランダから戻ってきた。

「あ。健ちゃん。血みどろのTシャツ、カゴに放り込んだままになってたよ?」

「忘れてたわ。血ぃ落ちた?」

「漂白したら落ちたよ。また修羅場だったの?」

「そーそー。不倫してる奥さんの尾行頼まれてたんだけど、旦那がこらえきれずに包丁持って突撃に来ちゃってよ-。間男をぶすーって。そいつの応急したらこっちも血みどろだよ。そのせいで傷害事件になってよ、ドロドロの不倫騒動が余計ぐっちゃぐちゃだよ」

探偵事務所でのアルバイトの大半は、誰かの素行調査だった。そして修羅場に巻き込まれることも多く、前にも服を血だらけにして帰ってきたことがあったので理恵は血まみれのTシャツを見ても驚かなかったのだ。

 二人は小さなちゃぶ台を囲み、コーヒーを飲む。日はもう傾き始め、部屋は少し薄暗くなってきた。理恵はこの時間にこうしてコーヒーを飲むのがお気に入りだった。

「なぁあいつを尾行してみようか。それでやましいことをでっち上げて慰謝料たんまりもらって離婚するんだよ」

沈黙をやぶって健介が言う。それは少し固い声だったので理恵は笑ってしまった。

「やだぁ健ちゃん。私が愛のない結婚をしたこと心配してるの?」

「一応な」

少し恥ずかしそうに答える。

「心配しないでよ。私、あの人に愛されているの。すっごく大事にしてもらって甘やかしてもらって、余裕があるから好きなものを買ってもらえる。私はこういう生活が夢だったの。お金があるだけじゃ駄目なの。私を可愛い可愛いって言ってくれるあの人がいないと駄目なのよ」

「じゃあ、今のままの生活を続けたいってこと?」

「うん。だって私、幸せだもん」

「ならいい」

笑顔で答える理恵。それに対して健介は何か言ってやりたい気持ちになったが飲み込んだ。

「ところでさー次はどうしようか真面目に考えてよ」

「ネクタイの次? 胃袋も掴んでるし困ってることもないし、特別なにかしなくてもいいんじゃね」

洋治と付き合っている頃から、理恵はこうして健介に二人の仲が上手くいくヒントをもらっている。今理恵が練習しているネクタイもそうだし、朝食のメニューのことも、理恵が洋治に対して行っている事のほとんどは健介の提案だった。

「そういうもんかな」

「というか、そろそろ付き合ってる時と勝手が違ってきて俺じゃ限界だぞ。既婚者に相談しろよ」

「嫌よ。健ちゃんがいいのー」

「相談できるやつを見つけるのが面倒だと正直に言えよ」

「そんなことないもーん」

ごまかすようにして理恵はコーヒーと共に出されたマドレーヌをつまむ。これは健介が作ったものだ。変な男で、普段の食事はほとんど作らないくせにお菓子だけは作るのだ。そしてそのどれもが美味しい。ネクタイの次が思いつかないのなら、お菓子作りを習うのもいいかもとしれない、と理恵は思った。

「りぃ。ずいぶんのんびりしてるけど、夕飯の買い物はいいのか?」

ふと時計を見た健介が言った。

「もうこんな時間か。まだメニュー決まってないから面倒だなー。健ちゃん、なに食べたい?」

「豚の角煮」

「今からじゃ間に合わないよ」

「圧力鍋使えよ」

「わかってないなぁ。あれはトロ火でじっくり煮た方が美味いんだぞ」

「そう言うなら、実際に作って俺に違いを見せてくれ」

「じゃー肉代出せ」

「嫌だ」

そう言い合いながら二人は玄関に移動する。靴を履く理恵を見守りながら健介は聞いた。

「結局夕飯のメニューは?」

「しゃぶしゃぶ」

「肉を茹でるだけじゃん」

「失礼ね。ちゃんとタレは自作するもん。では私は帰ります」

「じゃあなー」

「ばいばい」

理恵はまるで自分の家を出るような風情で、健介の家を後にした。



 夜、玄関のドアを開ける音がしたら理恵は急いでお迎えに向かう。そして、洋治さんがいなくて一日寂しかった、と抱きついてみせる。その姿に洋治は仕事の疲れが飛んでいく心持ちがする。そして洋治が部屋に荷物を置き食卓つくまでの間に、夕飯の準備を整え終える。洋治にはキンキンに冷やしたビールを注いでやりながら、今日もお疲れ様でした、と声をかけてから二人は食事を始める。

「今日はしゃぶしゃぶか」

「前にしゃぶしゃぶのお店に連れて行ってくれたでしょう? あそこのゴマだれ、洋治さんが気に入ってたから真似して作ってみたんだけど、どうかな?」

「よし、早く食べよう」

「自分では近い味になったと思うんだけど自信ないな」

「そんなことないよ。あそこのより俺好みだ」

洋治さんの喜んでもらえて嬉しい、と言ってから理恵も食事を始めた。二人は仲良く談笑しながら夕食をとる。彼女が理想とした時間がゆっくりと過ぎていく。

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