私と傘とあなた
糸藤いち
私と傘とあなた
少女は電車から降りると空を仰いで、それから深いため息をついた。駅のホームにはあちらこちらに水溜りができ、空の遥か向こうにはどす黒い雨雲。それに対し少女の頭上では吸い込まれそうな青空が広がっていた。雨上がり特有の空気が少女の鼻をくすぐる。少女は右手に持った傘に目をやり、また深くため息をついた。太陽の光を受けてきらめく水たまりをよけながらホームを歩き、のろのろと改札口を抜ける。そして駅の片隅に置かれた公衆電話に向かい、すでに指が覚えている番号を押した。相手は2コールほどで電話口に出る。
「あのね、わたし傘を持っているの」
電話に出た相手を確認もせず、開口一番言った。
―――・・・・・・そうだね。今朝は雨がひどかったから。
相手ののんびりとした声に少女は語気を強める。
「でも今は降っていない。晴れているのに何故わたしは傘を持っているの?」
―――だって僕が持たせたもの。朝はひどいどしゃぶりだったじゃないか。
「でもわたし、普段は傘なんて持たないわ。それなのに傘を持っているのよ? おまけに男物だから大きくてかさばるし、重たい」
―――君が持っているのは僕の傘だからね。
厳しい口調で話す少女に対して、相手は全く動じることなく、のんびりと答え続ける。
「朝雨が降っていたのも、わたしが傘を持っているのも、雨が上がったのも、みーんな、あなたのせいよ」
―――そうかなぁ。僕は君の体を心配しただけなんだけどな。
「なんでもいい。迎えに来て」
―――いいよ。今どこ? まだ大学?
「もうこっち着いた」
―――どうして電車に乗る前に電話しなかったのさ?
のんびりと答え続けていた相手の口調が、少しだけ攻めるように変わった。
「だってホームに電車が来てたんだもん。発車ギリギリだったんだから、そんな時間ない」
―――だから携帯買ってあげるって言ってるだろ? この前2人で見た新機種、可愛いって言ってたじゃないか。いいかい。携帯があれば、電車に飛び乗ってもメールで連絡とれるから、君は駅で僕の迎えを待たなくていいんだよ? 君が一人の時、もし何かの事件に巻き込まれでもしたら僕はこの先・・・・・・。
少女はあわてて電話を切った。年上で優しすぎる彼は、なにかと少女の世話を焼きたがる。どんなに少女がわがままを言っても受け流すのに、少女の身に、ほんのちょっとでも自分が心配だと思う要素があると、とたんに熱くなるのだ。今の携帯の話も、さんざん聞かされ、すでに耳にタコだった。
少女には、傘を持つという習慣がない。雨脚の強い時はしぶしぶ持つが、普段は持たない。例えば今朝の天気予報が、降水確率100パーセントだったとする。空には雨雲が厚く広がり、今にも降り出しそうな空模様だったとしても、出掛けるときに降っていなければ持たないのだ。別段雨に濡れるのが好きというわけではない。傘を持つのが嫌いなのだ。学生の頃は、さすがに制服が濡れるとその後が大変なので(きまって母がこう怒るのだ。「あなたが傘を持たないばっかりに汚れてしまった制服のクリーニング代は一体誰が払うのかしら!」)それなりに持ち歩くことはした。けれどもやはり、と言うべきか大学に入り私服通学になったとたん、傘を持つのをやめた。さらに少女が輪をかけて傘を持たなくなったのは、12も年上である彼氏の存在もある。彼は、少女が頼めばいつでもどこまでも車で送り迎えをしたし、自分が濡れるのもお構いなしに、少女のために傘をさすのだ。
駅から出て、国道に出る。いつもの待ち合わせ場所であるポストの前に立った。雲一つない青空と、水滴を光らせて走る車とを交互に眺める。雨でもないのに傘を持っているのは不服だが、雨上がりの光景は好きだった。そうして時間を潰しているうちに、見慣れた車が目の前に止まった。運転席から男性が降りる。そのつむじの辺りが寝癖でぴんと立っていることに気付き、少女は心の中で笑った。しかしここで笑顔を見せては、傘の件で怒れなくなってしまうので、こらえる。車から降りた男性は、車を回り込み少女に近づいた。彼が動くと、そのたびに寝癖が右へ左へと揺れる。その様子が、普段は落ち着いた彼と比べてアンバランスで、さらに面白くて笑いそうになったが、口をとがらせ不機嫌な顔をつくり誤魔化した。
「ごめんね、待たせちゃって」
呼び出したのは少女なのに、彼はひどくすまなそうな顔をした。そしてもう一度謝り、頬に軽く口付ける。少女は不機嫌な顔のまま、無言で傘を突き出した。
「あー、やっぱり不機嫌?」
少女は返事をせず、そっぽを向いて見せた。彼は少女の頭を撫でながら言った。
「ごめんね。ほら、機嫌なおして。ね?」
「・・・・・傘、重かったわ」
「うん。今日は学校まで送っていってあげられなくてごめんね。ほら、急な打ち合わせが入っちゃったのは、君も知ってるだろう? でも君に風邪を引いて欲しくなかった僕の気持ちもわかってよ」
と、その時不機嫌だった少女が急に吹き出した。
「え、ちょっと、どうしたの? 僕、変なこと言った?」
唐突に少女が笑ったので、彼は焦りだした。なおも少女は笑い、そして言った。
「違うの。今日は、よっぽど忙しかったのね」
「ああ、うんそうだね。特に朝はどたばたしてたね。雨で暗かったから2人とも寝坊したし、朝からクライアントから打ち合わせしたいって電話が入るし、電話のお陰で君の朝食を2品しか作ってあげられなかったし・・・。あ、もちろん打ち合わせさえ入らなかったら、学校まで送っていたんだよ。だから機嫌を」
不機嫌だった少女が笑い出したことを疑問に思いつつも、彼は少女の機嫌を直そうと必死に言葉をつむぐ。少女は笑いながらそれをさえぎり、もちろんそれはわかっているわ、と頷いた。
「で、あなたは忙しさのあまり寝癖を直す暇すらなかったわけね」
「えっ、僕、寝癖ある?」
「つむじの所。綺麗にまっすぐ立ってる。真剣な顔で話すのに、頭の上で寝癖がふわふわ揺れるんだもの。おかしくておかしくて」
だから笑ったのか、と言いながら彼は自分の頭をなでつけた。
「そう言えば、クライアントもやたら僕の頭を見てたんだよね。もうてっぺんの方が薄くなってきたかと、心配しちゃったけど寝癖だったのか」
「もう。顔を洗うとき、鏡見なかったの?」
「見たつもりだったんだけどね。・・・・・・・それで、機嫌は直りましたか?」
「さあ、どうでしょう?」
おどけて言う少女に彼は微笑み、そろそろ行こうか、と言って少女を車へとうながす。そして彼女のために助手席のドアを開けた。少女は小声でお礼を言ってから乗り込む。彼は後部座席に傘を置き、運転席に座る。エンジンをかけると、静かにジョン・レノンの声が流れ出した。そして車はゆっくりと走り出す。
大学一年生で18歳の少女と、在宅プログラマーで30歳の彼。2人は喫茶店で知り合った。彼は元々その喫茶店の常連で、仕事に行き詰まると必ずそこでコーヒーを飲むのが習慣だった。
その日も彼は酷使した脳を休るため、その喫茶店に居座っていた。そこで何気なく店内を見渡し、彼は電撃に打たれた。たまたま同級生とお喋りをしていた少女に、一目惚れしたのだ。まさか、と思いコーヒーを一口飲む。相手は制服を着ている。様子からして高校生だろう。高校生相手にドキドキしているなんて、まるでスケベおやじみたいじゃないか。そう言い聞かせ、もう一度少女を盗み見た。もう一度見たら、目が離せなくなった。どうやら本気で好きになったようだと確信したら、いても立ってもいられなくなった。この喫茶店の常連である彼は、ここに来るだいたいの客を知っている。彼女は初めて見る顔だから、もう二度と会えないかも知れないと思った。彼は荷物をその場に置いたまま、店を全速力で飛び出した。早くしないと彼女が帰ってしまうかも知れない。大急ぎで花屋とアクセサリーショップで大きな花束と指輪を買い、再び喫茶店に戻る。店内で見かけただけの少女にここまで必至になってしまうのが不思議だった。また、自分がこれからやろうとしている行動は異常だとも思った。でもその行いをやめることよりも、少女と二度と会えないことの方が恐怖だった。
店内にはまだ彼女が友人と談話していた。その姿を認めた瞬間、あんまりにもほっとしている自分に気付き、本気で好きになったと再認識した。そして勢いに任せて愛の大告白をした。少女のもとにひざまずき、花束と指輪を差し出して、思いの丈を叫んだ。少女にしてみれば、たまったものではない。見知らぬ男に突如、愛の告白をされたのだから。少女はどんな表情をしてよいのか、全くわからず呆然としていた。
あまりにも奇妙で衝撃的な出会いではあったが、2人は付き合うことになった。始めは彼の性格に慣れず、ひたすら甘やかされることに悩んだ時期もあったが、今ではそんな彼を受け入れている。少女が大学生になったのを機に同棲を始め、あの喫茶店での日から3年がたっていた。
ジョン・レノンの声に合わせて鼻歌を歌っていた少女が言った。
「ねえ、ついでに夕飯の買い物していかない?」
「そうだね。そうしよう。それよりも携帯だけどさ、やっぱり持ちなよ。前から言ってるけど、料金は僕が払うんだし。ね? お願いだよ」
「またその話? 必要ないって言ってるのに」
「でもね、何かあった時、絶対に役に立つと思うよ。今のはGPSがついてるから誘拐されても・・・・・・」
少女は彼の小言を聞くまいと、体ごと窓の方を向いた。と、突然、窓に雨粒が走った。始めは小粒だった雨が、見る間に大粒になり雨脚が強くなる。しかし空には青空が広がっている。
「見て。きつねの嫁入り」
「ほら、傘を持って出掛けてよかっただろう? 君が傘を持って出掛けたから、今ここに傘があるんだよ。僕が君に傘を持たせていなかったら、僕らは買い物をしながら濡れてしまうところだった」
「別にいいじゃない。2人で仲良くずぶ濡れになれば」
飄々と言う少女に、彼は肩をすくめた。
窓の外を車の速度と共に雨が流れていく。人々は青空を見上げつつ、頭上に手をやりながら走る。こんなに雨が降っているのに、空が青いだけで何故こうも特別な気分になれるのだろう。これで空が灰色だったら全然面白くないのに。
そんなことを考えていた少女は、信号待ちで止まった時、あるもの見つけた。それは靴屋のディスプレイに合わせて飾られたカラフルな傘だった。青や黄色や桃色、緑。模様自体はシンプルだけれど、いろんな色がちりばめられた傘は、まるで絵の具のパレットのようだ。
「ねえ、あの傘見てよ。すごく可愛い。あんなにカラフルな傘、初めて見たわ。あの傘を持って雨の中を歩いたら、とても楽しそうじゃない?」
「うん。きっと君に似合う色だ。あの傘だったら持ち歩いてくれる?」
ある種の期待を込めて彼は問うた。
「そうね。一度だけなら歩いてみたいわ。それに、わたしが傘を持っていても、きっとあなたが傘を差してくれるのでしょう?」
「そうだね」
「折角だもの。あの傘に入って、並んで歩きたい。それにあの傘だったら大きいから、2人で入ってもあなたが濡れてしまうことはなさそうだし」
信号が青になり、彼は再び運転に集中する。彼は店の場所を心に書き留めた。傘はディスプレイ用の非売品かもしれないが、きっとどこかで手に入るだろうと思った。そして明日になったら傘を買いに行けるよう、帰ったら予定を調節しようと決めた。少女にとっては戯れに言った事だったかもしれないが、彼にとっては本気だった。
「でも、やっぱり普段から傘を持って歩いて欲しいよ。今日みたいに僕が一緒に行けない場合もあるんだから。それにあの傘を持った君は、きっと可愛いよ。もちろん傘を持っていなくても可愛いけどね」
「そんなことないわ」
「いいや。君はどんな女の子より可愛いよ」
はっきり言われて少女の頬に赤みがさした。彼はこういうことをよく言うが、何度言われたって慣れるものではない。
「そんなに言うなら、今日の夕飯はペペロンチーノにしてよ。付け合わせはカプレーゼと、白身魚のカルパッチョね。もちろん美味しい手作りジェラートもつけて。それと重たい傘を持って疲れたからマッサージして」
少女は恥ずかしさを隠すため、うんとわがままを言った。いつか彼が叶えられないわがままを言ってやるのが夢だ。でも、わたしのわがままを叶えられなかった彼は、ものすごく悲しい顔をしそうで、少し怖い。
「はい、かしこまりました、お姫さま」
「変なあだ名やめてよ」
「でも僕にとって君は、本当にお姫さまのような存在だから」
恥ずかしいのもこれが限界だった。赤くなった顔とゆるんだ口元を見られまいと、わざと不機嫌な顔を作る。そんな少女の表情を見て、彼は満面の笑みを浮かべた。少女の左手には今日もあの指輪が光っている。
私と傘とあなた 糸藤いち @tokunaga_riku
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