第5話 『お願い』

 肌寒さを感じて、クリーム色のマントをかき寄せる。あたしを乗せた翼獅子は風をきって飛んでいく。

 眼下に、稚拙な落書きのように、ところどころ地面がえぐられ、黒い土が露出しているのがみえる。その先では草原が何百メートルにもわたって丸焦げになっていた。焦げ臭い匂いが鼻をつく。

 ドラゴンたちの戦場が近づいてくる。

 あたしは緩やかに隆起する草原の先に目を凝らした。戦いの傷跡の他には、至って静かな平原が続いているように思える。

 ――何もないのか……。

 緊張を解いた瞬間、地平の先から、ぬっと黒いドラゴンの巨体が姿を現した。先ほどの静寂がただの偶然であることを思わせる、耳をつんざく咆哮。すぐ下には銀のドラゴン。

 硬い鱗に覆われた巨体同士がぶつかり合う鈍い音がここからでも聞こえる。銀のドラゴンを下にして、二体のドラゴンが地面に激突する。空気まで震わせるほどの地響き。土煙の中で、二体が絡みあう。黒のドラゴンの爪が、銀のドラゴンの顔を狙って振り下ろされる。身をよじって、銀の方が避ける。

 争い合うドラゴンの周囲では、文字通り天変地異が巻き起こっていた。稲光と炎がドラゴンたちの一挙手一投足に合わせて巻き起こり、ぶつかり合い、打ち消し合っている。びりびりと肌がしびれるくらい、二匹の周囲に魔力が満ちていた。

(魔力の濃度が高すぎる。近づいただけで消し炭にされちゃうよ)

「互角……?」

(いや――)

 黒いドラゴンが銀のドラゴンを追い詰めている。

 黒い方が銀の方より一回りほど体格が大きい。銀の方は、地面に押さえつけられ、押し返すことができないでいる。

「イクタ王子が負けちゃう!」

 苦悶するドラゴンの声が響き、あたしは思わず叫んだ。イクタ王子が変身した方の銀のドラゴンが、ストレックの爪によって頭を引き倒される。

(そんなこといったって、どうにもならないよ。今のうちに逃げれば、ストレックも追いつけないと思うけど)

 あたしはリオノスの後ろ向き発言を無視してきいた。

「さっきみたいな魔法で攻撃できない?」

(ドラゴンは、すべからくものすごい魔法使いと思っていい。大抵の魔法は相手の魔法で無効化されてしまうんだ。ドラゴンの鱗は魔法攻撃への耐性も高い。いまのキミにできる有効な打撃は、鎌本体での直接攻撃しかないよ)

「じゃあ、それで行こう」

(あのねえ、これが重要なことだよ、キヌカ。キミが鎌を使うっていうことは、ボクが変身するってことだ。つまり、その間は飛ぶことができないんだ。徒歩であいつに近づくことなんてできっこないよ)

「打つ手なしってわけ?」

 ドラゴンたちへ向かって飛んでいたリオノスが急旋回し、魔法で荒れ狂う空間を避けた。魔法の力が同等なためか、二匹のドラゴンは肉弾戦で決着をつけようとしているらしい。このままでは、銀のドラゴンはストレックの鋭い牙によって引き裂かれてしまうだろう。

 あたしにアイデアと言えるほどのものはなかった。ただ、見たままを言った。

「べつに、飛んで行く必要はないんじゃない? あの真上まで行って、落ちれば、ストレックのところに到達できる」

(……)

 呆れているのか、リオノスが返事をしない。

「大丈夫、あたし、高いところ、得意だし」

(そういう問題じゃないと思うけど)

「じゃあどういう問題なの?」

 長いため息をついて、リオノスが羽ばたく。高度を上げ、魔法の勢力圏の上に出る。

 雲に手が届きそうな高さ。魔法の打ち消し合いが霞となって二匹のドラゴンの姿を隠している。

(行っておくけど、普通には落ちないからね)

「え……?」

 リオノスが宣言した瞬間、ジェットコースターの頂点部みたいに、視界がゆっくりと回転した。リオノスが翼をぴったりと身体によせて畳んでいる。

(出来る限りスピードを乗せて、落ちる!)

 風圧で飛ばされないように、あたしはリオノスにしがみついた。魔法の“渦”を突き抜け、あっという間に地面が迫る。狙いは今にも銀ドラゴンに噛み付こうと顎を開いているストレックの頭だ。

(いまだ!)

 無謀ともいえるスピード。それだけに、完璧な奇襲となる――はずだった。

 リオノスが魔法の鎌に姿を変えようとしたまさにその瞬間、ストレックの青い目が動き、稲妻があたしたちを打った。

 軌道を逸らされ、回転しながら吹き飛ばされる。魔法の風の力で、なんとか墜落を免れる。リオノスが魔法障壁を発動したため、ダメージはない。

 ストレックが余裕を感じさせる動作でこちらを振り返る。

(まずい……。魔法の集中攻撃を受けるよ。防御できるけど、こっちの魔力が尽きたら終わりだ)

 ストレックは挑発的な短い咆哮を発した。ひりつくような恐怖を感じる。大きな手に握りつぶされるような感覚。ストレックが魔力をあたしたちの周囲に集めているのだ。

(ボクたち、できることはやったよ。逃げるのは悪いことじゃ――)

 リオノスの声が遠くなる。あたしはストレックに意識を集中した――正確には、その背後に。

 リオノスのたてがみを掴み、身を伏せる。

「飛んで、リオノス」

 急加速の反動が身体にかかる。すぐ背後で、ストレックの魔法による爆発が起こる。その爆風すらも勢いに変え、弾丸のように加速していく。

 ストレックの視線があたしを捉える。そのままでは、あたしの突進は魔法で阻止されていただろう。でもそうはならなかった。

 力尽きていたはずの銀のドラゴンが起き上がり、ストレックの首元に食らいついたから。

 リオノスの合図はいらなかった。

 あたしを前方へと動かしていた力が消え、代わりに、手の中に硬質な重みが加わる。

 そして、あたしは空中に放り出された。

 幅跳びの浮遊感が永遠に続くような感覚。

 空気の他には周囲に何もない覚束なさと、自由な開放感。

 10メートル……15メートル……20メートル……。

 どのくらい飛んだか、もうわからない。

 でも着地点は目の前。

 そこだ。

「あああーーっ!」

 あたしは振りかぶった鎌をストレックの頭に向けて振り下ろした。

 地面にぶつかる直前、魔法の鎌はライオンに変化して、クッションのようにあたしを受け止めた。リオノスに抱きかかえられて、ごろごろと数メートル転がる。

 背後で地響きが起こり、ストレックの巨体が倒れる。すぐ横に割れた頭が落下した。土煙の中で、ドラゴンの巨体から光の粒が生まれ、消えていく。肉体が、魔力に還元されていく。

「あっ……」

 大量の魔力が嵐のようにこちらに向かってくるのを感じて、あたしは目を閉じた。力の奔流に吹き飛ばされそうになりながら、リオノスにしがみつく。手に感じるリオノスの身体が変化したような気がして、あたしは薄目を開いた。金色の毛皮の感触は変わらないまま、見慣れない巨大な生き物が目の前にいた。

 全体的な形は、ライオンよりも鷲に似ていなくもない。金色のたてがみが長い首を覆い、獣の顔に繋がっている。黒い縁のある耳は少し垂れ下がっていて、鼻先はライオンよりも細長い。白い翼はもとのままだが、尾は長い羽毛になっており、先にいくに従って白からに黒変わっている。優雅で、美しい獣。

 金色の獣の瞳があたしを見下ろした。その金色の目だけは、リオノスと同じだった。

 ドラゴンの最後の魔力と土埃が渦巻き、あたしは目を閉じた。

 顔にざらりとした舌の感触。

 目を開くと、もとのままのライオンの顔が目の前にあった。幻のように巨大な獣は消えていた。幻覚なのか、それとも――。

 背後で再び地響きが起こり思考が中断される。銀のドラゴンが倒れ、その身体が銀色の光の粒に変わる。

「イクタ王子!」

 あたしはハッとして、銀のドラゴンが消えた方に走った。ストレックの魔力の残りカス――原型をとどめない残骸の横に、白い裸体がうつ伏せに倒れている。イクタ王子も同じような肉塊に変わっていなかったことに安堵しつつも、死の文字が頭をよぎる。

「すごい怪我」

 白い肉体に走ったいくつもの傷跡にあたしはうめいた。とりあえず、このままの姿にしておくわけにはいかないので、彼にもらったクリーム色のマントを着せかける。

「リオノス、治療を――」

 あたしは振り返って翼獅子に呼びかけようとした。

 そのときだった。

 地面に突き倒される。誰かが上にのしかかってくる。

 しばらく何が起こったのか理解できなかった。

「うぐ……うぐぐ……」

 声がでない。

 いや、息ができない。

 結びを解かれた銀色の髪が垂れ下がって、あたしの顔にかかる。美しい顔があたしを見下ろしている。その端正な造形にひびが入るように、何らかの感情が、彼の顔を歪めた。

 憎悪が。

「な、ん……」

 喉がさらに締め付けられる。彼の両手があたしの首を締め付けているのだ。指に爪を立てて引き剥がそうとするが、びくりともしない。

 ――殺される。

 理由もわからないまま。

 ガルル!

 獣の声がして、イクタ王子の身体が吹き飛ばされた。猛獣の力を持ってすれば、人間の身体を引き裂くのは簡単だろう。だが、そうはせずに、リオノスは飛ぶような足取りであたしのもとへ戻ってくる。

「ゲホッ、ゲホッ……」

 翼獅子が金色の輝きに包まれ、咳き込むあたしの手に手の中に鎌が出現する。

(キヌカ、とどめを)

「何を言ってるの……?」

 リオノスのタックルを受けて倒れていたイクタ王子が、よろよろと起き上がるのをみて、恐怖で身体が強張る。

(彼は殺しておくべきだ。ストレックのようになる前に――今、ここで)

 首を振って、後ずさる。

 氷の色をした目が、あたしを射抜く。彼はまだ、戦意を失っていない。

 ――また、襲われるのか。

 あざ笑う声が聞こえる。自分の懇願する声も。

 幻の痛みが左肩を刺す。

「やめて、来ないで!」

 あたしは魔法の鎌を前につきだした。

 振ったつもりはなかった。

 それでも確かに、鎌の先端は十五度ほど傾き、たったそれだけで、魔法は発動した。

 真空の刃が巻き起こり、イクタ王子を襲う。幸か不幸か、狙いは少し外れていた。右半身を無数の見えない刃に切り裂かれて、彼はうつ伏せにばたりと倒れた。クリーム色のマントに、赤い色が広がっていく。

「あ……」

 手からこぼれた鎌が地面に落ちて、転がりながら翼獅子に変化する。

 とんでもないことをしてしまったという感覚だけが手に残っている。

「イクタ王子!」

 震える膝を叱咤して、あたしはイクタ王子に近寄った。もう彼は起き上がれそうになかった。大量の出血を見て、血の気が引く。手が冷たい。イクタ王子を助けるより先に自分が失神しそうだった。

「あたし、人を斬ってしまった」

(彼が人間だと、本当にそう思ってるの?)

「リオノス!」

 あたしはキュッと目を閉じ、言った。

「わざとなの? リオノス」

(何が……?)

 息が苦しい。首を締められたとき以上の苦しさを伴う感情がわだかまっている。ぐちゃぐちゃの胸の中を嗚咽が熱く焼いていく。あたしはぐっとそれを飲み込んだ。

 魔法を使うのはリオノス。だけどそのトリガーを引くのはあたし。イクタ王子を傷つけたのはあたしだ。

 両手を身体の前に伸ばす。リオノスが光り、手の中に魔法の鎌となって収まる。

 ――やっぱりそう。

 これまではリオノスに『お願い』しなければ魔法を使えないと思っていた。けれど、ストレックと戦っているとき、リオノスはほとんどノータイムであたしの指示に従った。リノオスがあたしの意志を汲んだのとも違う。あたしはリオノスを意のままに動かしたのだ。そうしないと間に合わなかったし、そうする必要があった。

 魔法を使うのはリオノス。

 だけど、あたしは意志はその上位にある。あたしが欲すれば、自由にリオノスを鎌に変え、魔法を使わせることができてしまう。

 リオノスの意志自体をスキップして、あたしは魔法を使ってイクタ王子を癒せる。

 あたしは目を閉じて、リオノスを操る感覚を呼び起こそうとした。リオノスの身内に宿る大きな力へと手を伸ばす。それは快楽と恐怖の手触りがした。

 ぞっとして、冷や汗が吹き出す。

 これは本当に、あたしに触れていいものなのか。あたしは首を振って、その感触を振り払った。

「リオノス、イクタ王子を癒やして」

 リオノスに『お願い』する。

(いいの……? 彼はキミを殺そうとしたんだよ)

「何かの勘違い。きっとそう」

 自分に言い聞かせるように、言う。

(キミがそれでいいなら)

 拍子抜けするほどあっさりと、リオノスはあたしに従った。

 鎌が発光し、見る間にイクタ王子の怪我が癒えていく。あたしは血まみれになったマントをめくり、イクタ王子の身体に触れた。切り裂かれたはずの左肩は白く滑らかで傷ひとつない。呼吸も落ち着いたものに変わっている。

「おーい、勇者さまーっ! イクタ王子ーっ!」

 平原の向こうから、馬に乗ったアウスンがこちらに向かってくるのが見えた。

 アウスンの顔をみた瞬間、緊張の糸が切れて、あたしはその場にへたり込んだ。

「勇者様……」

 状況がわからずに困惑するアウスンを前にして、あたしは泣きじゃくった。

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