Ⅳ アレクシア
幼い頃からの記憶を辿ると、まず覚えたのは母に従順になることだった。
母に言うことに従うのは嫌ではなかった。物心ついた時、母と一緒に過ごす時間は身の周りの世話をする乳母や侍女達に囲まれている間よりも、ずっと短かった。
毎日昼餐の時に、とても綺麗な『お母様』という女性と会えるのが楽しみだった覚えがある。
特別なひとに思えたのだ。
もちろん、周りの誰よりも美しいのもあるけれど、すごく自分を見て欲しくいと願ってしまう何かがあった。今思えば、無意識のうちに母からの愛情を乞うていたのかもしれない。
『はい、お母様』
母が最も求めたこの言葉を口にする度、一緒にいられる時間が増えたのが嬉しかった。母の方は自分に従順で手がかからなくなってきたから、女王になるための教育をし始めただけだったのだろう。
赤ん坊は汚いから嫌い、子供は聞き分けがなくて騒がしいから嫌い。乳母や侍女に預けず自分で子供を育てるなんて信じられない。
とある貴族の夫人が乳母を雇わなかった話を訊いて、いつかそんなことを母が言っていたから、きっとそう。
子供の頃は時々自分といるより愛人と過ごすことを優先する母に対して、寂しさや憤りを感じていた気もするけれどよくは覚えていない。
こんなことを考えたり思い出したりするのは、ギデオンと出会って自分自身の心を見つけたからかもしれない。
愛する喜びを知って、愛される幸せを感じて、幼い頃胸に抱えていた寂しさをやっと知った。
そして、母に従順でいても自分の望みを叶わないと知ってしまった。
十七になってやっと自分は、自分の道を歩き始めた。
愛しい人とともに。
***
秋も深まる頃、いつも通り選挙活動のために修道院に行く日、アレクシアはうきうきとしていた。
修道院で子供達と触れ合うことは好きだった。騒がしいこともあったりするけど、楽しそうに瞳をきらきらさせている子供達は可愛いくて好きだ。ジゼルの息子に会える日も、楽しみだった。
自分の子供となるとやはり可愛いばかりではなくなるのだろうか。
(でも、嫌いだなんて思えないわ、きっと)
母のセシリアが子供嫌いだったことを思い出して、アレクシア表情を曇らせる。
愛は人を愚かにするものだから、王になるべく者も、それを支える者もけして誰も愛してはいけない。
母はいつもそう自分に言い聞かせてきた。
だから自分のことも、愛してはいないと言っていた。自分も母のことは愛してはいないと言った。
(でも、お母様が好きだった。本当は愛していたわ)
母はどうなのだろう。本心を知りたいようで、知りたくない。
アレクシアは気持ちが塞いできて、小さく頭を振る。
今日はギデオンと一緒に修道院まで出掛けるのだ。この頃ゆっくり話せていなかったので、母と伯父から修道院にギデオンを同行させていいと承諾してもらってから、今日という日を指折り数えて待っていた。
修道院で子供達と一緒に語らって、ギデオンにも会える。今日はとても素敵は日だ。
ギデオンとどんな話をしようか。できるだけふたりきりでいる時間をつくれないだろうか。早く会いたい。
いろいろな考えが頭を回るのに、一向に何ひとつ決められないけれどそんな時間すらも心が浮き立つものだった。
恋とは素晴らしいものだ。こんなにも恋人のことを考える時間が楽しくて幸せだなんて、知りもしなかった。
「王女殿下、バルザック卿がいらっしゃいました」
侍女が呼びに来てアレクシアは、つい緩みそうな表情を引き締める。
あまり浮き足だった態度は見せてはいけない。この恋はまだ秘めたままでないといけないのだから。
「今行くわ」
すまし顔で返事をしても、心の中は浮ついたままでアレクシアはギデオンに会いに行く。
人目の多い椿宮から箱馬車に移動して肩が触れ合うくらいに距離を詰めて、アレクシアはギデオンの隣に座る。
「今日はギデオン様とずっと一緒にいられますわね」
「ええ。この頃は王女殿下とお目にかかる機会も少なかったですので」
そして微笑みかけるとギデオンがごくごく普通にうなずく。こうしてふたりきりで近くにいるのも久しぶりなせいか、表情も普段より少し堅い。
こういうのがギデオンと知っているのだが、あまり喜んでいる様子を見せてくれないのは残念だった。ここまで密着しているなら、経験上男性は手を握ってくるものだと思っていたけれどギデオンの膝上に行儀よく置かれた大きな拳はぴくりともしない。
いままで男性に触れられることはごく当たり前で、嫌悪もなければ期待もなかった。
母や伯父に自分の気持ちを悟られるわけにもいかないので、これまで通り支援者である夫候補などと親密にしなければいけなくなるのはこの頃たまらなく嫌だった。
だけどギデオンにはもっと触れて欲しかった。腕を組むのがやっとの現状は時々物足りなくなる。
(会えるだけでいいと思っていたのに……)
自分が欲しいものが増えていくことに、アレクシアは戸惑いを覚えていた。
こんな自分をギデオンはどんな風に思うのだろう。倹約家のギデオンはやはり欲深い女は嫌いになってしまうのか。
考えている内に修道院に馬車が着いてしまった。
「どうぞ」
先に降りたギデオンが慣れない様子で手を出すのに、つい先程まで表情を沈ませていたアレクシアは途端に嬉しくなって口元を緩めて彼の手をとる。
しかしながら馬車の前後に騎乗した衛兵がついているので、あまり喜びを全面に出すことができなかった。
修道院での子供達との触れ合いはいつもと同じく楽しくて、あっという間に過ぎてしまった。できれば結婚後も時々訪れたいけれど、王女でなくなった自分でも子供達は喜んでくれるのかも自信はなかった。
(何か、できることがあればいいのだけれど……)
実際に子供達と触れ合うことができずとも、何か少しでも学びの役に立てることはないのか。
しかし王女でなくなった自分に何ができるというのだろう。
そんな迷うアレクシアの背を押してくれたのは、ギデオンだった。
言わずとも自分のことをちゃんと見てくれていることが何よりも嬉しかった。
そしてアレクシアはもうひとつ望みを得たのだった。
***
とにかくやれるだけのことをやろうと邁進した結果、アレクシアは第二回の投票はバスティアンを抜いてしまった。
支援者を得るならバスティアン派の方がいいと、方針を立て直しギデオンとも密にことを進めていく為に会計を彼に一任することにしたのだが予想外のことが起きた。あろうことかセシリアがギデオンを誘惑したのだ。
母の指先がギデオンに触れているのを見て血の気が引いた。
後一瞬、母が自分を試しているのだと気付くのが遅ければ母の手を払いのけてしまったかもしれない。
「アレクシア、バルザック卿はまだ接吻もしたことがないそうだわ。口づけぐらいは許してあげたと思っていたけれど、勘違いだったようだわ」
「まあ。どうそてそんな勘違いをお母様がなされたのかしら」
母がギデオンを呼び出した後の久方ぶりのふたりきりの晩餐の席で、アレクシアは笑顔を必死で保ちながら答える。
許すも何も求められたこともない。交際を始めて早数ヶ月経つが、ギデオンはあいかわらず不必要に触れてこず、甘い言葉のひとつもなかった。
(そういう所も好きなのよ)
不満を訴える自分の心をアレクシアは窘める。
その代わり好きだと言ったらうなずいてくれるし、身を寄せても嫌がらずにいてくれる。自分の気持ちは受け入れてもらっている。
「特にお前が気に入ってるからそう思っただけよ。もう誰かに接吻ぐらい許しておしまいなさい。その方が駆け引きも楽になるわ」
「でも、そうでなくても十分票は取っているでしょう、お母様。それに気を持たせるだけ持たせて殿方同士を競わせる手段もあると、教えて下さったでしょう」
「まあ、そうね。お前にはそれがあっているかもしれないわ。……バルザック卿はお前に取り入る気があるのかしら。会計係を任せるのはいいけれど、お前ばかりが与えすぎないように気をつけなさい」
「ええ。分かっていますわ」
セシリアの忠告に、アレクシアも愛想笑いをする。
そしてほとんど味のしない晩餐を終えてベッドに潜込んでからも、妙に胸の中がもやもやとしていた。
母にああは言ったものの、上辺だけの愛の言葉を囁かれるのには疲れていた。目の前の男性はギデオンだと思おうと対処方法を考えたもの、恋愛遊戯に慣れた男達の言動をギデオンに当てはめても違和感と虚しさしかなかった。
(与えすぎ? そんなことないわ。もっといっぱいギデオン様にあげたいもの)
どんなに伝えても伝えきれないぐらいに好きなのに、ただの押しつけになっている気もするけれど。
(……これからはギデオン様とずっと一緒にいられるわ)
アレクシアはふさぎ込む気持ちを追いやって、楽しいことだけを考えて眠りについた。
***
だけれど想像したような楽しい毎日とはいかなかった。
ギデオンとは政策でぶつかることが増えてぎこちなくなることが増えていった。親密にくっついたりすることも、思いを告げることも負担になりそうで控えていた。
元よりギデオンは積極的な女性は余り好きではなかったらしいし、この頃すれ違うことも多くて、すっかり気持ちが冷めてしまっているのではないかと不安に思うことも増えた。 そんな感情とは裏腹に、控えめにしていたらギデオンの方からもう少し想いを伝えたり触れてくれたりするのではという期待もあった。
だけれど、そんなこともなく離れている間よりも一緒にいる時間の方が妙に寂しくなってしまっていた。
自分からまた距離を詰めようと思っても、今のふたりの状況では本当に嫌われてしまうかもしれないと考えたり、ギデオンの気持ちが見えないことに苛立ちも不安もあった。
それに加え教育改革の方も不調だった。
票はバスティアンに入れても、自分自身の改革案に賛同してくれるという貴族というのはなかなか見つからない。
どんな利益が発生するか見えづらい投資となるとやはり協力を渋られることが多かった。国の未来に為にと言っても、自分が生きている内に利益がなければ無駄だという態度も暗に見えた。
何度目かの衝突をギデオンとしたあと、アレクシアは不機嫌なまま鏡を見てまた気分が沈んだ。
(なんだかすごく子供っぽい)
顔立ちを幼く見させる大きな瞳はみんな褒めてはくれるけれど、ふてくされてすねた顔をしていると途端にただの子供に見えてしまう。
もっと大人びた格好をすればギデオンも、ちょっとは自分のことを見直してくれるだろうか。
だけれど、彼はもっと清楚な雰囲気が好きだからやはり駄目かもしれない。
アレクシアは悩んだ末、翌日の夜会はいつもよりも大人びた格好で挑むことにした。
ジゼルにはギデオンの趣向に合わせる必要などないと、強がりを言ったけれど本当は普段と違う自分を見せるのは恐かった。
(ずっとわたくしのことを見いていたいぐらいに綺麗と言ってくれるかしら)
もしかしたら今までよりもこちらの方がいいと気に入ってくれるかもしれない。
怖れと期待を胸にして、アレクシアはついにギデオンの前に立ってみた。
しかしギデオンはいつも通りだった。
『今日も』綺麗だと言われて、少し時間が空いていると示してもまったく誘いもかけてもらえず自分が馬鹿みたいに思えて、ギデオンに半ば八つ当たりして奥へ引っ込んでしまった。
「……ギデオン様はわたくしのこと、まだ好きかしら」
思わず声に出してアレクシアは、視界が滲んで涙を堪える。
こんな日に泣いたら不自然に思われてしまう。だけれど沈んだ気持ちはなかなか浮き上がらなかった。
そこへひとりの来客が挨拶がしたいとやってきた知らせに、アレクシアはそんな気分ではないと断ろうかと考える。
しかしバスティアンの内偵だったので、仕方なく応じることとなった。
「ギデオン様が?」
選挙絡みの話かと思えば、ギデオンが中庭で待っているという知らせで驚く。
「あなたを怒らせてしまったと落ち込んでいましたよ。王女殿下、あんな朴念仁に遠回しな言葉遊びをしても、つまらないでしょう」
「……ギデオン様はつまらなくありませんわ」
朴念仁というのに多少うなずいてしまうところがあるとはいえ、ギデオンのことを馬鹿にされるのは面白くなくてアレクシアは唇を尖らせた。
「ずいぶんお気に入りになっていっらしゃる。会いに行く行かないは王女殿下がお決めになることですが、ひとまずは私と親しげに見せかけていただけませんか? 我が主から上手く取り入った振りをしろと命じられていますので」
アレクシアは部屋から出るのだけは了承してさりげなく腕を組むように促してくる青年に、作り笑顔を向けて腕を組む。
(ギデオン様はいつもぎこちなかったわね)
不器用に腕を組もうとしてくれる恋人の緊張した顔を思い出して、アレクシアは胸が軋む。
(言葉遊び……そんなつもりはなかったわ)
遊びを仕掛けたつもりはなかった。本気でギデオンの気を惹きたかっただけのこと。
一緒にいたいと彼の方から言って欲しかった。
やはりどんどん自分は欲深くなっている。恋をし始めた時は顔を合わせられるだけで十分だったのに、今はそれだけでは足りない。
ギデオンは何を思って自分を待っているのだろう。
「……中庭に行きたいですわ」
それを知るには彼に直接会う以外に方法はないと、アレクシアは青年に中庭へ連れて行ってもらい、胸を不安でいっぱいにしながら恋人の元へと向かった。
そうして結果的に夜会に戻る頃には幸せと安心感で満たされることとなった。
ごくごく単純なことに自分は気付いていなかったのだ。
あれだけ自分の想いをギデオンに隠さず溢れさせていると思ったのに、自分がして欲しいことは何も言えていなかった。
心ではあんなにも求めていたのに、言葉にできなかったのは意地もあったけれどただそれ以上に自分はまだ何かを欲しがるという気持ちを持て余していたのだ。
欲しいものは欲しいと言えばいい。
ただそれだけのこと。
その後からギデオンは不器用にとはいえ、想いを口にしてくれることが多くなった。
「ギデオン様、次にお目にかかれるまで少し長いですわね」
「はい。この頃毎日顔を合せていたので寂しく思います……」
ある日選挙活動も関係で五日ほど会えないとなった時、歯切れ悪く言ってギデオンがそわそわしているのにアレクシアは苦笑して背伸びする。
そしてギデオンの頬に口づけた。
「……よいですか」
「ええ、もちろん。きかなくたってかまいませんのよ」
そう返すと、今度は赤くなりながらギデオンが遠慮がちに口づけてくれた。
言葉にしてくれるのはいいけれど、やはり触れるのはまだ慣れないらしいが求めてくれていることが分かるだけで十分だった。
その後は衝突してもお互い向き合って話し合えるようにもなって、選挙活動も順調に変わっていき、第三回はバスティアンの希望通り二位につけたのだった。
***
第四回の選挙結果もバスティアンと差を広げすぎ二位に落ち着いてアレクシアはほっとしていた。現在自分に入っている票もいくらか、バスティアンに最終的に流れるためもうここまで来れば、逆転は不可能だろう。
伯父や母に怪しまれている節はあるものの、なんとかやりすごせている。
教育改革も支援者はじわりじわりとだが増えて来ている。子供達が学ぶにあたって必要な紙やインクなどの消耗品の事業に関わる貴族、学者のパトロンをしている貴族を重点的に説得していってのことだ。
子供達に教育を与えたいという思いだけでなく、何より自分が国の発展と成長を欲しているということも訴えかけるようにしてから少し変わった気もする。
ギデオンがやっと結婚の報告を両親にするにあたって、まだ自分はバルザック邸に挨拶にはいけないので手紙も書いた。
今までで生きてきた中で一番悩んで書き上げた手紙は、無事にギデオンの両親の元にt届いて結婚を祝福してもらえそうでほっとした。
とにかく少々の問題は起きても、順調だった。
しかし順調であればあるほど、胸に引っかかるものの存在感が増していった。
サリムとジゼルだ。
サリムは昔の自分が王になる以外に何の価値もないと思っていたのと同じように、王配になることしかなく自分の他の可能性を見ていない。
身内びいきではなく社交術も知能も高い。もしサリムが王の実子であったならこの選挙で最後までバスティアンと争う相手にもなれたはずだ。
サリムの望みをひとつ断ち切ってしまう自分が、彼の背を押すことはできなかった。
後のことはバスティアンに託すしかない。
「アレクシア様、ぼんやりなされてどうしました? 夕べはよくお眠りになれましたか?」
「昨日は、ローランとたくさんお話できて楽しかったと思い出しただけよ」
朝、鏡台の前で身支度を調えてくれるジゼルにアレクシアは微笑みかける。
昨日はジゼルの息子のローランも晩餐会に出席することになっていて、始まる少し前にジゼルも交えて三人で一緒にお喋りしたのだ。
「そうですか。ローランが失礼をしなければと思いましたけれど、よかったですわ」
ジゼルが笑顔を返してくれてアレクシアは、気まずい思いをする。
ジゼルは自分を女王にするために結婚した。家同士の利害関係で結婚すること自体は普通のことである。だけれど息子のローランが産まれてからすぐに侍女として戻って来て、屋敷には数日置きにしか帰らなかった。
結婚がたまらなく嫌で子供もあまり好きではないのかもしれないと思って、遠回しにローランが好きか一度訊いたことがある。
とても曖昧な返事しかなかったものの嫌ってはいなさそうだった。ただ好きということもなく対して関心がなさそうに見えた。
「ジゼルは、もっとローランと一緒にいたいと思わない?」
「なぜですか? 乳母も侍女達もいますし、夫もつきっきりなのでわたくしのやることはありませんわ。アレクシア様、どうしたのですか。最近よくローランのことを聞きますが」
「だって、あんなに一緒にいて楽しいなら、ジゼルももっと一緒にいたいんじゃないかと思ったのよ……」
ローランはジゼルの気を惹くのに一生懸命に見えた。かつて幼かった頃に自分が母に会えるのを楽しみにしていたことを思い出して、泣きたくなった。
知らないうちに自分が誰かから奪ってしまったものもあるのだ。
「わたくしは、アレクシア様のお世話の方がよいですわ。ローランには身の周りのことをやってくれる者達がたくさんいるけれど、アレクシア様の全てを分かってお世話できるのはわたくししかいませんわ」
あの子のお母様はジゼルしかいないのに。
そんな言葉をアレクシアは呑み込む。
いくら自分が訴えても仕方のないことだ。何もできないことは歯がゆかった。
しかしジゼルが選挙参謀である父親や、自らの野心のために自分の世話をしてくれているのではないと感じた。
この時、一番最初に真実を告げるべきはジゼルだと思った。
自分の側にいる必要がなくなれば、ジゼルは少しずつでも息子に感心を示すのではという気持ちもあった。
だからジゼルに告げて、十九年、二人の間に築いたものを全て壊してしまった。喪失感は想像以上に大きかった。
そして自分は望みを叶えるために大切なものを壊して捨てていった。
従弟も、弟も、伯父もそうして母を――。
***
ジゼルに全てを明かした時、椿宮ではいろいろと騒ぎになったのですぐに伯父と母にも全てが伝わった。
「さて、姫殿下。これはいったいどういうことかご説明いただけますか?」
椿宮の一室でひとつのソファーに腰掛けるコルベール侯爵とセシリアの前に。アレクシアはひとり立たされていた。
「お聞きの通りですわ、伯父様。わたくしは落選してバルザック卿の元へ降嫁いたします」
怯まずアレクシアは顎を引き伯父を真っ直ぐ見据える。
今さら、伯父が動いてどうこうできる問題ではないのだ。何も恐れることはない。
だけれど視界に映る母を直視することはなぜかできなかった。
「我々が姫殿下のためにこれまでどれだけ財と労力を投資したかご存じですか」
「ええ。もちろん存じ上げております。だからバスティアンお兄様には伯父様も含め、出来る限り目をかけて下さるようにお願いしていますわ。降嫁した後に、わたくしが得ている領地の分配も話し合い済みですので、お望みであれば後ほどご覧に入れますわ」
王女として父である国王から拝領している領地の預け先は、コルベール家を含めた貴族へ分配が決まっている。ただしバルザック家に対してはない。
ギデオンにはバスティアンが自らの領地を一部拝領することになっている。
「……姫殿下、そこまでして降嫁なさりたいのは分かりました。まったく、バスティアン殿下も姑息なことをなさる」
冷静だったコルベール侯爵が初めて苛立ちを見せる。
「伯父様はわたくしがバスティアンお兄様の罠にはまったと思っていらっしゃるでしょうけれど、わたくしはそれでもかまいませんわ。あの方はわたくしが本当に欲しかったものを手に入れさせてくださったのだもの」
「私どもは姫殿下になんでも与えてきましたよ。常に最上級のものばかり与えてきました」
身につけるものから世話をする者、食事に教育。確かに伯父はコルベール家の資産の多くを自分につぎ込んできたことを知っている。
「それには感謝しておりますわ。だけれどわたくしには何も欲しがらせてはくれなかったでしょう。王位すら」
伯父は自分をただの傀儡にしたいだけにすぎなかった。だから周りにどれだけ王位に相応しいと言われてもどんなに素晴らしいものか本当の価値は分からなかった。
その後も伯父の質問は続いた。詰問と呼べるほど語調は荒げないものの、静かな怒りは感じ取れた。
それでも一切アレクシアは目を逸らさずに、淡々と返答していく。
他国へ嫁ぐことについて打診され、そのことに最も時間を割くこととなったが一切うなずきはしなかった。
「……私の思い通りに動くことはしたくないと仰りたいのですか」
「そうですわ。わたくしは、わたくしの意志で道を選びます」
伯父が不意に立ち上がってアレクシアは身構える。
「どうやら、躾が足りなかったらしい。姫殿下にはもっとご自分が政治の道具でしかないことを教え込むべきでした」
「手遅れですしたわね、伯父様」
アレクシアは冷ややかな伯父の目を見返す。
コルベール侯爵はため息をひとつついて部屋を立ち去った。アレクシアは緊張を緩めて肩の力を少し抜く。
これ以上揉めても得策ではないと、コルベール侯爵は判断したのだろう。見切りがいいのはよく知っている。もはや価値のないものに執着するより、新しい投資を考える方がいいと考えているに違いない。
「アレクシア」
セシリアに不意に名前を呼ばれて、思わずアレクシアは息を呑んだ。
「ごめんなさい、お母様……」
そして口をついて出てきた言葉は謝罪だった。心の奥底ではまだ母に小さな期待があった。
女王にならない自分でも必要だと言ってくれるかもしれない。
「まったく、せっかく国王の妻になったのにお前のせいで台無しだわ」
ねめつけられてアレクシアは口を引き結ぶ。
「お母様にとってはやっぱり、女王にならないわたくしはいらない子かしら」
無理に笑みを作ろうとした唇が震える。
「いらないわ。わたくしは一番いい夫を手に入れて、一番いい子供を産んで、国の貴族で一番の女になりたかったのだもの。女王にならないどころか、侯爵夫人だなんて。そんなのいらないに決まっているでしょう」
迷うことなくセシリアが答えて、アレクシアは反射的に溢れそうになった涙を堪える。
「……ねえ、お母様。わたくしのこと、小さな頃ぐらいは愛していて下さっていたかしら?」
せめていつもいつも母を恋しがっていた自分くらいは、愛していて欲しかった。
「愛していないわ。子供は嫌いだもの。大人しくわたくしに口答えしなかったことだけは褒めてあげてもよかったけど、結局わたくしの思い通りにならなかったから駄目ね」
ほんのわずかな希望も握りつぶされてしまって、押しとどめていた涙がじんわりと滲んだ。
母が愛していたのは娘でもなく、多くの愛人達でもなく彼女自身だけだと薄々とは感じていたことだったが、実際に聞くのは辛かった。
「わたくしはお母様のこと、愛していましたわ。愛して下さいなんて無理なお願いはしないけれど、愛していると言わせて欲しかったわ……」
誰も愛してはいけないと咎められていたが、本当は愛していた。
母のこともジゼルもサリムも、みんな。
愛してくれていなくても、せめて愛させて欲しかった。
「そうね。わたくしと兄様に対してぐらいは、執着させてもよかったかもしれないわ。そちらの方が鬱陶しいけど扱いやすかったかしら」
セシリアが辛辣につぶやくのに、アレクシアは瞳を伏せる。
「……お母様、わたくし明日からバスティアンお兄様に牡丹宮に住まわせていたくことになったので、出て行きます」
「好きにすればいいわ。……わたくしもここにいると苛々して、顔が歪みそうだから今夜からは別邸に移るわ」
美しさを保つために怒らない苛立たない嫉妬しないのみっつを信条としているセシリアは、こんな時にすら感情を露わにすることがなかった。
先に部屋を出たのはアレクシアだった。
ひとりで寝室に戻ってもジゼルはいない。その代わり何人かの侍女が牡丹宮についていきたいと言ってくれていたので、それだけで少しは寂しさがやわらいだ。
そうして最後にサリムとも別れを告げて、アレクシアは必要最低限のものだけ持ってこれまでの人生の全てを過ごした椿宮を出た。
***
牡丹宮に移ってからもアレクシアの多忙な日々は続いた。
教育改革についてはバスティアンにこのまま一任してもらえることになったので、そちらの政務にとりかかっていた。もうアレクシアが選挙を放棄したことはあちこちに伝わっていたので、支援者への対応も忙しかった。
「アレクシア、サリムをクーバッツの駐在大使にするぞ」
昼餐をしながら政務の状況を報告する中、バスティアンがそう告げてアレクシアは目を丸くする。
「まあ、そんな遠いところに? とてもいいお役目だけれど……」
もう二度とまともに顔を合せてもらえなさそうとはいえ、長らく共に過ごしたサリムが偶然姿を見かけることすらできない場所へ行ってしまうのは寂しかった。
「いい役目だ。広い所に出た方があれも色々学べる」
「そうね。サリムは語学も得意だし、クーバッツは人の往き来も学問も盛んだからなにかやりたいこともみつかるかもしれないわね」
きっと外交上でも要となる人物になれるはずだ。サリムにはもっと自分の可能性を知ってもらいたい。
寂しいけれど、サリムには一番いい道だろう。
「バスティアンお兄様。サリムのこと大事にしてくださってありがとう」
「使える物は使わんともったいない。それだけのことだ。サリムも、貴様もな」
照れ隠しなどではなくバスティアンの本音であるには違いなかった。
兄は自分自身の可能性を過剰なほど信じている分、他人の可能性もよく見ている。王となるべきはバスティアンだろうと、アレクシアはこの頃心の底から思うようになっていた。
「まあ。ギデオン様がいらっしゃったのね。ここにご案内して」
そこへギデオンの来訪が告げられて、アレクシアは声を弾ませる。
「……毎日、毎日、ギデオンの奴もよく来るな」
バスティアンが呆れたため息をつく。
牡丹宮に移ってからというもの、ギデオンは毎日これといって特別な用事があるわけでもなくとも会いにきてくれていた。
「失礼します。申し訳ありません。お食事中でしたか」
「かまいませんわよ。食事はもうほとんどすんでいますもの。ギデオン様、毎日いらしてくださって嬉しいですわ」
「いえ、私もできるかぎり王女殿下のお側にいたいので……」
真面目な顔でギデオンが告げる言葉が嬉しすぎて、アレクシアの表情は自然と緩む。
「……ギデオン、アレクシアと嫌でも毎日顔を合せるようになっても王女殿下と呼び続けるつもりなのか?」
バスティアンが冷めた顔でつぶやいて、アレクシアとギデオンのふたりは目を見合わせて驚いた。
「まったく考えていませんでしたわ」
自分は王女ではなくなるのだし、結婚してからもそれでは不自然過ぎるというものだ。
「私もです。……アレクシア、様とお呼びするのがよいのでしょうか」
「ギデオン、自分の妻に様も奇妙だぞ」
アレクシアもバスティアンの言うとおり、まだ少し他人行儀な気がして少しばかり不満が残った。
「ギデオン様、わたくしアレクシア、と名前だけで呼ばれたいですわ」
「……いきなり呼び捨てというのも慣れないので、しばらくは様をつけてもよろしいでしょうか。私だけ敬称をつけていただくのも落ち着かないので」
この真面目で控えめすぎるところがギデオンのいいところでもあるが、時々もどかしいとアレクシアは苦笑する。
「ええ。これから一緒に練習をしましょう。そうですわね、わたくしもギデオン様の呼び方を変えようかしら……」
せっかく夫婦になるのだしと考えて、アレクシアは自分が最も素敵だと思う呼び方を思いついて瞳を輝かせる。
「わたくし、結婚したらギデオン様を旦那様とお呼びしたいですわ」
口にしてみるとやはり、夫婦になったという実感が湧いてきて想像以上によかった。
「嫌ですか……?」
しかしギデオンの反応は鈍くアレクシアは不安な顔で婚約者の顔を覗き込む。
「あ、いえ。なぜかとても胸を打たれてしまって……とても嬉しいです」
照れながらもギデオンが喜んでくれて、ほっとする。
「では、さっそく練習しましょう、旦那様」
「はい、アレクシアさ……」
ギデオンは最後の『ま』だけはかろうじて呑み込んだ。
「旦那様、もう少しですわ」
「アレクシア……!?」
ちょっとした悪戯心を起こしたアレクシアは、ギデオンが『さ』と口を開き書けたところで彼の唇を口づけで塞いだ。
ギデオンは突然のことに驚いて、耳まで真っ赤だった。
「ふふ。こうすれば練習ももっと楽しいですわね」
「……王女殿下、これでは練習にならないのでは」
ギデオンが顎に手を置いてぼそぼそと言う。
「間違っても褒美をもらえるなら練習にならんな。というか貴様ら後でやれ。結婚の準備も進んでいるんだろうな。俺は最低限のことしかやってやらんぞ」
「ええ。ちゃんと考えておりますわ。今度ギデオン様のおうちにご挨拶に行きますのよ」
最初の結婚報告は手紙でしかなかったので、ギデオンの妹夫婦も読んで晩餐を近日共にすることにしたのだ。
「アレクシア、父上に先に挨拶にはいかんのか」
「え、ああ。そうでしたわね。すっかりお父様のこと忘れていましたわ……」
父とは子供の頃からほとんど一緒に過ごしたことがなかったのと、母と縁が切れてしまったせいで自分の親にという意識がすっかり抜けていた。
「……すっかり失念しておりました。国王陛下になんと不敬な」
アレクシアはあっけらかんなものだったが、ギデオンの方は深刻な顔で落ち込んでしまった。
「まあ、父上も有能ではあるがあれでよく当選したと思うぐらい影が薄いからな。反対はせんだろうが、俺も父上にサリムやアレクシアの身の振りを決めたことを報告せねばならんから、一緒に行くぞ」
「お願いしますわ、バスティアンお兄様。ふふ。ギデオン様、そんなに怖がらなくてもお父様はまったく気にしませんわよ」
「一応ひとり娘だが、大事なというわけでもないからな。娘に限らず息子も全部国王の義務でつくった子にすぎんのだ。……別に俺達兄弟は父親がそうなのは気にしていないから、そう困るな、ギデオン」
乾いた父と子の関係にギデオンがどう反応すればいいのか戸惑っているのに、アレクシアは笑いかける。
「わたくしもお父様に嫌われていないなら辛くはありませんわ」
「……アレクシ、様。必ずお幸せにします」
ギデオンがアレクシアの両手を握って、力強く誓う。
「はい。ふふ、今でも十分幸せなのに、もっと幸せになれますのね」
ギデオンに出会えて、本当によかったとアレクシアはしみじみと思う。
喜びも幸せも、哀しみも苦しみもきっと彼となら分かち合い乗り越えていけるはずだ。
それから結婚式まではあっという間だった。
父である国王も降嫁は禁じられているわけではないので問題ないと、なんともあっさりとした返答を貰った。
ギデオンの両親との顔合わせが一番緊張したが、つつがなく受け入れてもらえたどころかギデオンの母から結婚式のドレスまで譲ってもらえた。
戴冠式ではサリムと和解できたことがとても嬉しかった。
失ったものを取り戻すのではなく、これから自分は新しい大切なものをたくさん得るのだ。
「アレクシア、迎えに来ました」
結婚式の日、扉の向こうでギデオンが自分の名を呼ぶ声に、アレクシアは立ち上がる。
「お待ちしておりましたわ、旦那様」
迎え入れるとギデオンがいつか求婚してくれた時と同じように、目の前で跪いた。
「私は、今日よりあなたを妻としてこの家に迎え入れ、変わらぬ愛を誓います」
そうして瀟洒な銀の指輪がアレクシアの指に嵌められた。
「わたくしも誓いますわ」
指輪を嵌めた手でギデオンの手を握り、彼を立たせたアレクシアは自分もギデオンの指に指輪をつける。
今すぐにでも口づけをしたい気分だったが、それはもう少し先だ。
「では、参りましょうか」
「ええ」
アレクシアとギデオンは腕を組み、侍女達に見送られて部屋を出た。
***
屋敷の裏口からアレクシアとギデオンはバルザック邸の中庭へと出る。
そこには多くの人々が集まっていてふたりに祝福の声を浴びせかける。屋敷の裏口から正門にかけて敷かれた絨毯の上を緩やかに歩みながら、沿道に集う人々からふたりは一綸ずつ花を受け取っていく。
広い中庭を通り過ぎ正門が見える頃には、ふたりの中で色とりどりの花束が出来上がっていた。
「おめでとうございます、姉上。とても綺麗ですよ」
屋敷の入り口には双方の親族だけとなって、アレクシアの方はサリムと国王の代理でもあるバスティアンしかいないがそれでも祝ってくれる近親者がいるだけで十分だった。
「サリム、来てくれてありがとう。髪、切ったのねよく似合っているわ」
アレクシアはサリムから薔薇を受け取って、またうっかり出そうになった涙を堪える。
「無事嫁入りだな。これからも夫婦揃ってこき使ってやるからな」
バスティアンがこの次期にどこから調達してきたのか大きな牡丹とを差し出してくる。それといっしょにサテンの白いリボンも渡される。
「ふふ。自分自身のためにもバスティアンお兄様のお役には立ちますわよ。ね、旦那様」
「ええ。夫婦ともどもこれからもよろしくお願いいたします」
ギデオンがいつもどおり堅苦しい挨拶をするのに、アレクシアはバスティアンから貰ったリボンで花束を纏めながらくすくす笑う。
「息子を貰っていただき、ありがとうございます、もう、本当にこんなに綺麗な姫様を、うちのギデオンが……」
屋敷の入り口で立つギデオンの母が涙ぐんで若夫婦を迎える。
「いいえ。わたくしの方がこんな素敵な方に嫁がせていただいて、本当に幸せですわ、お母様」
アレクシアはもらい泣きしかけながら、出来上がった花束をギデオンの母に渡す。
そしてギデオンも父親に花束を渡して、ふたりで開けられた屋敷の扉の下に立ちそっと口づけを交わす。
歓声に包まれてふたりは一緒に屋敷の中へと入る。
幸せはまだ始まったばかりだった。
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