Ⅲ ギデオン

 アレクシアと初めて言葉を交わしたのは王宮で開かれた夏至祭の夜会の時だった。

 二年後に王位継承を控えた中で、立候補者の王子王女らが全員顔を揃える初めての夜会でもあった。

 注目されていたのは現国王の甥でながら、第五王子として初めて公の場に出るサリムと、春先から社交界に顔を出すようになった唯一の王女アレクシアだった。双方類い希なる美貌で片や異例の立候補者、片や当選の有力候補である王女。

 訪れる人々はまだ歳若いふたりの候補とどんな言葉を交わせるか、期待に胸を膨らませている。

 そんな中、すでに主君はバスティアンと決めたギデオンは、はぐれた友人達を探して広い会場を彷徨っていた。

「おひとりでいらっしゃいますか?」

 ほんの少しあどけなさを残す声に振り返れば、アレクシアが花のように微笑んで佇んでいた。

 その瞬間まで王女が美しいのは知っていても、彼女と歳の近い妹がいることはあってもまだ子供だと思っていた。

 なのに、初めて間近で目にしたアレクシアの姿に、自分の体温が上昇するのが分かった。胸が早鐘を打って、すぐに言葉がでてこなかった。

 こんな女性がいつか自分の母のように、中庭で絵本を読み聞かせる姿が見られたら。

 幼気ない翡翠の瞳に瞬く間に脳裏に浮かんだ幻想を見透かされた気がして、ギデオンは一気に赤面した。

 六つも年下の少女に対して、一体自分は何を考えているのか。

「あ、はい。友人とはぐれてしまいまして……」

 ひとりで狼狽えながらギデオンはまごまごと返す。

「まあ。そうですの。あら、いけませんわ。ご挨拶がまだでしたわね。お初にお目にかかります、ギデオン・バルザック様。わたくし、第一王女のアレクシアと申します。今度の選挙で立候補するつもりですの。是非、応援よろしくお願いいたしますわ」

 薄紅のドレスの裾をつまんでアレクシアが淑女らしく挨拶する。

「いえ、こちらこそご挨拶が遅れまして……私の名前をご存じでいらっしゃるのですか」

 自分が名乗っていないことに気付いて、ギデオンは目を瞬かせる。

「ええ。存じておりますわ。バルザック侯爵の御嫡男で、とても有能な財務官だとかねがね噂はきいておりますのよ。今夜、お目にかかることができてわたくしとっても嬉しいですわ」

 高慢さとは無縁の無邪気な笑顔に、ギデオンはぼうっとみとれてしまう。まだ社交界にでたばかりのアレクシアに、名前と顔を知ってもらえていたことにも感銘を受けていた。

「もったいないお言葉です……しかし、申し訳ありません。私にはすでに忠誠を誓ったお方がいます」

 自分の投票先はすでに決まっているとギデオンは正直に答えた。

「バスティアンお兄様ですわね。知っております。だけれど、まだ最初の投票まで二年。結果が出るまでは四年もありますから、ギデオン様がわたくしを気に入ってくださるように頑張りますわ。わたくし、ギデオン様には夫のひとりになって欲しいと思っていますの」

 楽しげに言うアレクシアの言葉に、ギデオンはああ、と思う。

 目の前にいるのは、王女なのだ。選挙に当選すれば複数の夫を持つことになる。

 自分は主君をすでに決めている上に、理想の結婚は両親のように互いに愛人のひとりも作らず仲睦まじい夫婦になることだった。

 恋は始まった瞬間に終わっていたのだ。

 しかしその後もアレクシアのことは気になってしまっていた。

 様々な貴族との恋愛遊戯を重ねる噂を聞き、実際に地味な自分とは真逆の洗練された美男子達と仲睦まじく姿を見る度に、自分の理想とかけ離れた高嶺の花なのだと一体何度落胆したことだろう。

 それでもアレクシア以上に心惹かれる女性はいつまでたっても現れなかった。

 そして恋に落ちてから二年、自分はアレクシアに自分の唯一無二の妻になって欲しいと求婚した。

 返事は肯定だった。


***


 秋も深まり王都の木々が夕暮れ色に染まる黄昏の季節。

 ギデオンは街の畔の大運河ジャルム川沿いをアレクシアと腕を組んで歩いていた。

 いつもアレクシアが選挙活動で訪れる修道院から王宮の帰り道、途中でアレクシアが外を歩きたいと言ってしばし川沿いを散歩することになったのだ。

「お寒くありませんか?」

 陽射しはまだ温かいが時々吹く風はもう冷たい。

「大丈夫ですわ。ギデオン様が温かいのですもの」

 ぴったりと寄り添ってくるアレクシアに、ギデオンは体を硬くする。求婚から三月余り。腕を組んで歩くことにはやっと慣れても、こうやって不意に柔らかな体を寄せられると緊張してしまう。

 特に今は少し離れた場所にいる衛士や、道行く人々の視線もある。

 ギデオンは視線だけ動かして、アレクシアの表情を窺う。幸せそうに微笑んでいた彼女は視線が合うと、にこりとさらに顔を綻ばせた。

 その愛らしさにギデオンは幸せを噛みしめる。

 ずっと恋い焦がれたアレクシアが、こうして自分の隣にいることが未だに信じられないこともある。だが、確かにこの温度は現実のものだ。

「……今日はなぜ歩きたいと思われたのですか?」

 素朴な疑問をぶつければ、アレクシアが今度は不服そうに唇を尖らせた。

「この頃ギデオン様とゆっくりお話しする時間がなかったでしょう。……寂しいと思っていたのはわたくしだけだったのかしら」

 ギデオンの立場は、表向きアレクシアが票を得るために懇意にしている愛人のひとりである。

 アレクシアを選挙に立候補させた彼女の伯父であるコルベール侯爵と、母のセシリア妃はけして降嫁など認めない。自分達の思い通りにアレクシアを動かして、権威も名誉も手に入れようとするコルベールの兄妹はもしアレクシアと自分の関係を知ったなら、徹底的に引き離しにかかってくるだろう。

 そのためにあまり親密になりすぎてもいかず、この頃は合う機会を減らし顔を合せても当たり障りのないやりとりしか交わせていない。

「あ、いえ。……私も同じくです」

 無論、自分も会えないことに寂しさは感じている。しかし選挙に負けてバスティアンに結婚を認めてもらえるか、具体策がほとんど見えていないことへの焦りや悩みの方が大きかった。

「毎日ギデオン様と一緒にいられる日が早く来て欲しいですわ」

 周りに聞こえないようアレクシアが囁く。

「ええ。そのためにも私もアレクシア様に相応しい人間にならねばと思います。……アレクシア様を他国に嫁がされるのも阻止せねばなりませんが」

「そうですわね。バスティアンお兄様に側近として使えると、思っていただかないと。ですけれど、わたくしには何もありませんの。財力は伯父様のもの。人脈も女王になるわたくしに利益を感じている方々の繋がり。いろいろ考えてみたら、わたくし自身はなにも持っていませんでしたわ」

 寂しげにアレクシアが自嘲するのを見て、ギデオンは眉根を寄せる。

「王女殿下は、たくさんのものをお持ちです。社交術に長けていて、政治に関わらず芸術まで深い知識がおありになる。即位するために身につけたものとはいえ、それは王女殿下が生来お持ちの才覚だと私は思います」

 こんこんと諭すように真剣にギデオンが訴えると、アレクシアが目を丸くして二、三度瞬きする。

「ギデオン様はお優しいわ。わたくしに何かできることがあるかしら」

 はにかみながらアレクシアが問うのに、ギデオンも考えて見る。

「できることは沢山あると思います。王女殿下は何か成し遂げたいことはありますか……修道院での子供達との触れ合いはいつも実に楽しそうに見えましたが」

 アレクシア陣営の制作の要は教育である。だからアレクシアはそれを強調するために、中流層の子供の学舎である修道院へ通って、生徒達と交流している。

 普段の社交界で談笑しているよりも、その時の方がアレクシアの表情が生き生きとしている気がしていた。

「そうですわね。わたくし、子供達が楽しそうに学んでいるのを見るのは好きですわ。……やりたいこと、なのかはまだ分かりませんけれど、やってみようかしら」

 そう言うアレクシアの表情は明るいものだった。翡翠の瞳が熱を帯びて煌めく様子は、なおいっそう彼女を美しく見せている。

 出会った十五の時から二年。過ぎ行く歳月はアレクシアを磨き上げ輝かせるばかりであったが、これからもまだ彼女は美しくなる。

「私も、できることはご協力いたします」

 何気に目をやった川面に映る自分とアレクシアの姿に、ギデオンはなんとも複雑な気分になる。

 外見はどう見ても不釣り合いである。

 まだ二十三だというのに、三十間近に見られる上に凡庸な容姿の自分とアレクシアはちぐはぐすぎた。

(見た目はどうにもならないが、俺も王女殿下を妻にいただけるだけの能力をバスティアン殿下に示さねばな)

 容姿ばかりはいくら飾り立てても仕方がない。財務官としての能力をいっそう磨き、もっと度量の大きな人間にならねば。

 そうしてふたりが決意を新たにしたのち、第二回の投票が行われ結果はアレクシアが一位となってしまった。


***


 第二回の投票が終わり、あまり票を増やしすぎないためにバスティアン派との交渉を重点的にやっていくと、密やかにバスティアンを交え方針を固めた。

 教育改革にはバスティアンも興味を示したので、アレクシアはこのままそちらに重点を置くことになった。ギデオンもバスティアンの目指す芸術発展のための新たな税制の指針を講じ、何かと慌ただしくなる中でアレクシアからできるだけお互い密にやりとりするために会計係をしてもらえないかと提案された。

 ギデオンは異論もなくすぐに引き受けたのだが、やはりまずはコルベール侯爵からの許諾がいるらしかった。

 そしてアレクシアから話を聞いて三日後、ギデオンは椿宮へと呼ばれた。

「失礼します」

 使用人に案内された部屋に入ると、待ち受けていたのはアレクシアでもなくコルベール侯爵でもなく、セシリアだった。

「こちらへ来なさい」

 ひとりがけのソファーに腰掛けるセシリアが、妖艶に微笑む。アレクシアをすこしきつくした顔立ちは若々しく、大きく空いた黒いドレスの胸元から覗く肌も瑞々しい。

 九つ年下のはずギデオンの方が年上にみえるほどに、セシリアは若く見える。

「は、失礼いたします」

 相手は王妃のひとりともあってギデオンは緊張気味に、セシリアの前に跪く。

 香水と白粉の匂いが混じるあまったるい匂いに、嫌な汗が滲んだ。

 セシリアは苦手な女性である。奔放に恋愛遊戯を嗜み、いまも多くの愛人を持つ彼女の色香は強すぎて、つい怖じ気づいてしてまう。

「本当に面白みのない男だわ。もっと気の利いた挨拶ができないものかしら」

 ため息すら艶やかなセシリアがドレスに片足を上げて、頭を下げていたギデオンはぎょっとする。

「お、王妃殿下……」

 なめし革のハイヒールの爪先で顎を持ち上げられて、戸惑いに声が震えた。

 予想外の事態と、ドレスの裾から覗く艶めかしい真っ白なふくらはぎに視線のやり場もなく頭の中がおおいに混乱する。

「顔も地味。物珍しいからといっても、これでは退屈なのに何が楽しいのかしら。まあ、従順な男は嫌いではないけれど……」

 赤い唇に人差し指を当ててなにやら考えているセシリアに、赤面と蒼白の中間でギデオンは完全に硬直していた。

(く、喰われる)

 まるで晩餐のテーブルを眺めるような視線に、本能的な危機を覚える。

「まあ、試してみるのも悪くないわ。ねえ、お前まだ、でしょう。ふふ。バルザック家の嫡男に手解きした噂は聞かなかったもの。わたくしが教えてあげるわ」

 社交界に出始めた若い貴族の男は例に漏れず、色事になれた女性に誘われる。

 だがギデオンは結婚するまでは清く正しくを信条にしていたため、社交界に出てすぐの頃はその手の女性から逃げるのに必死だった。遊び相手には退屈という評価が出回ってからここ数年は、まるで誘いはかからなかったが。

「せっかくのお誘いですが、私はその、結婚するまでは女性に触れない信条が、ありまして……」

 しかし今日は逃げ場がない。

「まあ。そんなつまらない信条なんて捨てておしまい。そうね、王妃として、ギデオン・バルザックに命じる、ではどうかしら」

 楽しげに唇を歪めてセシリアが立ち上がる。

 一臣下として王妃の命を無下にするわけにもいかないとはいえ、こればかりは素直に従うわけにもいかない。

 セシリアが側で屈んでギデオンの顎を今度は白魚のような手で持ち上げる。

「接吻ぐらいはしたことがあるかしら?」

「あ、ありません」

 つい正直に答えれば、セシリアが鼻で笑われてしまう。

 せめて手の甲で許してもらえないだろうかと考えていると、不意に背後の扉が開く音がした。

「失礼します、お母様、ギデオン様がいらっしゃっているのなら……」

 幸か不幸か入ってきたのはアレクシアだった。

 いや、これは大いなる不幸ではないだろうか。婚約者の母親に迫られているところを、婚約者本人に見られたのだ。

「あら。ちょうど面白いところよ、アレクシア。バルザック卿をわたくしの寝所に招待して、返事を聞く所よ」

 とにかくこの体勢をどうにかせねばと、ギデオンはセシリアの表情をうかがうと彼女は何かを探る目をしていた。

(怪しまれているのか)

 ギデオンは息を呑む。セシリアがただの奔放な女ではないということを、動揺して失念していた。

 おそらくこの光景を見せてアレクシアが、必要以上に自分に入れ込んでいないか確認するためだ。

「お母様、ギデオン様をあまりからかってはいけませんわ。あまりいじめると、バスティアンお兄様の所へ逃げてしまいますわよ。ギデオン様、気になさらないで。ただのお母様の悪戯ですわ」

 アレクシアが楽しげに言って、セシリアをやんわりと退けようとする。

「あら、わたくしは誘いに乗ったらそれは、丁重にお相手して差し上げるつもりだったけれど。まあ、退屈しのぎになったからいいわ。会計担当はお任せしていいわよ、アレクシア」

 セシリアがそのまま退出して、立ち上がったギデオンはやっと緊張を解くが、アレクシアはまだ警戒した様子で靜かにと口に人差し指を当てる。

「……まさか、お母様がこんなことをなさるなんて」

 そして他に物音がしないか確認した後、アレクシアが側に寄ってきてため息をつく。

「申し訳ありません。ひとりで対処できればよかったのですが」

 哀しげに眉尻を下げるアレクシアの姿に今さらながら、情けない気持ちがわきあがってきてギデオンはうなだれる。

「いいえ。ギデオン様は悪くありませんわ。お母様のことだから、王妃の立場を利用したのでしょう……。何もされていませんわよね」

「ええ。それはもちろんです」

 大きな瞳で心配そうにじいっと見上げられて、ますますいたたまれなくなってくる。

 もう少し、まともに女性との付き合いがあればもっと上手く対応できただろうに。

(口づけすらしたことがない……)

 まともに恋した相手はアレクシアぐらいだ。そういえばもうすぐ求婚から半年近くになるわけだが、腕を組む以上のことは全くしていない。

 しかも寄り添ってくるのは大抵はアレクシアが先で、自分から腕を出す頃合やどういう時にそうすべきなのか戸惑うことばかりだ。

 ギデオンの視線は自然とアレクシアの瑞々しく熟れた桜桃色の唇に向かう。

 どんな風に触れればいいのだろう。

 口づけてみたいと思えど、手順が全くわからない。

「ギデオン様、ご気分が優れませんか?」

 じっと黙り込んでいるとアレクシアに案じられてしまうのに、ギデオンは慌てて首を横に振る。

(いかん。俺はこんな時に何を考えて居るんだ)

 少なくとも今はそんな時ではないことぐらいだけは分かった。

 

***


 その後、ギデオンは無事にアレクシアの教育改革の会計担当についたのだが。

「ギデオン様は頑固すぎますわ」

「しかし、利益を出す仕組みを先に立て、確実な支援をとりつけてからその枠で計画を立てるべきです」

「だから、わたくしは事業に最低限必要な予算を立てた後に、資金の調達方法を考えて調整していくと申し上げたでしょう」

 思った以上にお互いのやり方で言い合うことが増えた。

 一緒にいてもお互い政務の話になりがちで、顔を合せる度に見せてくれていたアレクシアの笑顔は少しずつ減ってしまっていた。政務以外の会話でもたつくことも増えた。

 恋人同士らしい情熱も甘さも、ふたりの間からすっかり形を潜めてしまっていた。

「それでその湿気た面構えか」

 ギデオンは休日に遠駆けに出た先で『偶然』出くわしたバスティアンに近況報告をすると、笑われてしまった。

「すっかり、王女殿下を煩わせてしまって……」

 王都の街並みを見渡せる丘の上で、愛馬を撫でつつギデオンはため息をつく。

「女の扱い方を知らないと後で困るといっただろう。いかし、まさか接吻すらまだとはな」

「……今はそんな雰囲気もありません。私のような男では、女性には退屈なのは重々承知なのですが何をすべきかすら見当がつきません」

 アレクシアもほどほど愛想がつきてしまっていないだろうかと、不安になるこの頃だ。

「俺に聞かれても知らんぞ。アレクシアとは他人同然だからな」

 兄妹といえども選挙で争う同士で、産まれた瞬間から競い合う運命だ。バスティアンがアレクシア個人のことまで把握しきっていないのは当然である。

「サリム殿下はご存じでしょうか」

 唯一アレクシアと親しいといえば、子供の頃から一緒に過ごしていて支援者でもあるサリムぐらいである。しかし、彼に相談するのは危険な橋を渡ることになる。

「貴様、その許諾を俺に取りに来たのか」

「バスティアン殿下が承知して下さるなら、サリム殿下にアレクシア様の喜ばせ方を聞いてみたいと思います」

 しかしすがれるものといえば、サリムぐらいしかいないのだ。

「まあ、下手をうって困るのは貴様とアレクシアだけだからな。好きにするがいい。貴様の新しい税制案は気に入ったから、捨てられても俺が拾ってやらんこともない」

「まだまだご不満ですか」

 拾ってやると言い切らない辺りに減点を感じて、ギデオンは苦笑する。

「及第点といったところだ。アレクシアの方を捨ててこちらに力を入れれば、俺の理想にかなうできになりそうだ」

 この主君の尊大すぎるところが困りものでもあり、そして好きなところでもあった。

 けして口だけではないのだと思える、不思議な説得力があるのだ。

「善処いたします。ですが、私は王女殿下と結婚することを諦めたりはいたしません」

 潔く諦められるほどの想いなら、求婚などしていない。

 何事にも壁はつきものだ。元々自分とアレクシアの進む道に壁は多い。まずは乗り越える努力をすることからだ。

「なんだ、相談ではなく単に決意表明か。こんなところまで俺を呼び出して、いい根性だ」

「いえ、先に呼び出したのはバスティアン殿下では」

 決意を固めるのに利用したのは事実だが、今回の報告場所を指定したのはバスティアンの方だった。

「どちらでもいい。まあ、次の近況報告を楽しみにしているぞ」

 バスティアンはさして不快になったわけでもなさそうで、この状況を楽しんでいるようだった。

 そして後日、サリムに相談に行ったはいいが結局具体的なことは何も得られなかった。

 しかしたったひとつ、分かったことはあった。

 ギデオンは次の椿宮での夜会にこそと意を決し、あれこれと講じるのだった。


***


 意を決した夜会の当日、ギデオンはアレクシアの姿に驚かされてしまっていた。

 いつも会うときの清楚であどけなさを覗かせる彼女とは真逆の、大人びた女性になっていたのだ。

「こんばんは。ギデオン様。ご機嫌麗しゅう」

 挨拶回りをしていたアレクシアがやっと自分の前に現れて、にこりと笑顔を見せる。

「は、はい。王女殿下は今日もお美しくいらっしゃる」

 目の前にしたアレクシアのあまりの美しさに、しどろもどろになっていたギデオンは視線をそらして赤面する。

 大きく空いた胸元がちょうど視線の先に来る位置にアレクシアは立っているのだ。

「この後、ご予定はありますの。わたくしは、少しなら空いていますけれど……」

「いえ、帰宅するのみで私はこれといった予定はありません。……王女殿下はまだまだお忙しいのですね」

  今夜こそふたりでこんこんと話し合って和解しようと思っていたのだが、あまりアレクシアに時間はないらしいとギデオンは考え込む。

「……ギデオン様は、わたくしともっと一緒に過ごしたいと思っていただけないのかしら」

 笑顔のままで告げるアレクシアの声音は、いつもより張り詰めていた。

 ギデオンはぽかんとしいていたが、とにかく返答を間違ったことだけは把握して青ざめる。

「あ、王女殿下、お持ちを……」

 アレクシアは一言も返さずに一礼だけして去って行ってしまった。

(俺にできることは王女殿下のお心を直に聞くしかないと思ったのだがな)

 まさかこんなところで躓くとは思わなかった。

「バルザック卿、どうやら王女殿下のご機嫌を損ねたらしいですね」

 次はまともに顔を合せてもらえるだろうかと、ギデオンが途方にくれていると来客のひとりに声をかけられる。

 相手はバスティアン派の内偵のひとりである青年だった。

「面目ない」

 気まずいところを見られたとギデオンはうなだれる。

「一体、何を仰ったのですか」

 訊かれるままに答えると、青年が呆れた視線を向けてきて大仰にため息をついた。

「……それは忙しいという意味合いだけではなくて、短い間でもあなたと一緒に過ごしたいということですよ。だいたい恋人があんな着飾って扇情的になっているなら、男の方から誘うものです」

「なんと、まわりくどい……」

 ギデオンはついうっかり本音を口に出してしまっていた。

「そういうちょっとした変化から察したりや、言葉遊びをするのが恋愛遊戯の楽しみ方だというのに……どうりで今まで恋人のひとりもいないはずだ」

 異論はいくらかあるものの、失敗したのは確かなのでギデオンはなにも言えずに哀れみの視線を大人しく受けるしかなかった。

「俺は二度も、間違えたということか……」

 いつもと雰囲気が違うアレクシアに通り一遍の挨拶しかできず、会話の返答も誤ってしまった。

「バスティアン殿下からあまり酷いようだったら手を貸してやれと命じられましたが、必要ですか?」

「殿下がお気遣い下さっていたのか……」

 ギデオンはなんのかんのといって根回ししてくれていた主君に驚きつつ、考え込む。

「……王女殿下とふたりきりになりたいと思います。伝言をお願いできますか?」

 まずはふたりで話せる時間をつくるしかないと、アレクシアを視線で探すが見当たらなかった。

「奥で休まれているそうです。取り入られたふりをしろと命じられていますので、誰かに私と王女殿下がふたりきりになった所を見させて、あとはこっそりあなたに変わりましょう。外の池の東側の椿の生け垣でお待ち下さい」

「はい。お願いいたします」

 段取りの良さに感心しつつ、ギデオンは青年を使わしたバスティアンに感謝する。

 そして中庭に降りてしばし待つことにした。椿の蕾がほころび始めた今は季節の境で、冬の寒さが行ったり来たりしていて特に夜は冷えることも多いが、今夜は幸い温かく明日には花も満開となりそうだった。

(あの日と今日はよく似ているな)

 指定された場所に向かう道すがら、第一回の選挙のあとの夜会が脳裏に蘇ってくる。

 あの時は椿宮ではなくコルベール家の屋敷であったが、アレクシアを探して中庭をうろついて彼女が支援者と逢い引きしている所へ出くわしたのだ。

 支援者が口づけを拒まれていたいたことを思い出して、ギデオンは渋い顔をする。

 受け入れてもらえた支援者は一体何人いたのだろうか。

(ひとりやふたり……いやもう少し多くても)

 あまり考えないようにはしているものの、一旦考えだすときりがないので頭を振ってギデオンは無理矢理思考を追い出す。

 過去のことを考えても、不条理な嫉妬しかわかないのだ。

 考えるだけ不毛である。

(王女殿下は恋愛遊戯はお好みではなかったのではないのだろうか)

 そしてサリムから聞いた話ではそだったはずだったと、ギデオンは首を傾げた。アレクシアは駆け引きの遊びがしたいわけではなかったはずだ。

「ならばなぜあんなまどろっこしいことを」

 女心の複雑さにギデオンは悩みながら、ふと気付く。

 アレクシアはただ一緒にいたいと言って欲しかったのではないのだろうか。

 思えば自分からアレクシアを誘うことはほとんどなかった。気恥ずかしさと不慣れなこともあって、触れることも彼女への想いを言葉にすることもなく、常に受け身であるというなんとも腑抜けた有様だった。

 異性との付き合いになれた慣れたアレクシアに、いろいろと任せすぎではなかっただろうか。

「俺はまともに王女殿下に愛していると言えていない……」

 これが自分だったらと思うと、不安で不安でたまらない気がする。

 やっとのことでアレクシアの表情に落ちていた影の正体が見えて、ギデオンは頭を抱えて猛省するばかりだった。

「……誰かいらっしゃる?」

 そして生け垣の向こうから声がかかって、ギデオンは神妙な顔でそちらへ視線を向ける。

「王女殿下……」

 呼びかけると、姿を現わしたアレクシアが心許なさげにしていた。あどけない少女の表情が化粧では隠し切れていなくて、ギデオンは己のふがいなさをますます痛感する。

「申し訳ありません。私はずっとあなたを、不安にさせていました」

 アレクシアが先に何か言う前に、ギデオンは謝罪する。

 彼女ははっとした顔をして眉尻を下げた。

「……不安でしたわ。わたくしばかりがギデオン様のことが好きなだけで、ギデオン様はもう求婚した責任感ぐらいしかないのかしらと考えたりもしましたのよ」

 ぐっと嗚咽を堪えるように言葉を詰まらせながら、アレクシアが言う。

「けして、けしてそのようなことはありません。私も王女殿下を心よりお慕いしています。伝えることを、おろそかにしていたのです……どうやってお伝えしていいか分かりませんでした」

「ただお心のままを伝えて下さるだけでよかったのですわ。でもわたくしもいけませんわね。ギデオン様が自分から想いを言葉にしたり、触れて欲しくて意地になりすぎていましたわ」

 アレクシアが歩みよってきて、ギデオンの目の前に立つ。

「王女殿下……私はあなたを本当に愛しています。本当に、側にいるだけで幸せだと思えるほどに、王女殿下を想っています」

 必死に思いを言葉にしても、まだいささかアレクシアの表情は不満げだった。

「わたくしは、側にいるだけではもの足りませんわ。もっとギデオン様から愛の言葉が欲しいし、触れてみてもほしいのですのよ。……いやだわ。わたくしこんなに欲張りで我が儘でしたのね」

 アレクシアが自分自身の言葉に驚いた顔をして、うつむいてしまった。

「私も同じ気持ちです。どう切り出してよいのか迷う内に望む前に、王女殿下が言葉にして、触れて下さるので……それに甘えすぎていました」

「ギデオン様も、わたくしに触れたいとお思いですか?」

「それは、もちろん……も、申し訳ない!」

 ギデオンはほとんど無意識に視線が彼女の胸元に行っていて、一気に顔に血を昇らせてアレクシアから顔を逸らす。

 いくらなんでも不躾で雰囲気も何もなさすぎた。

 またアレクシアを怒らせてしまっただろうかと、視線だけ向けるとアレクシアは目を丸くしていたが、すぐに口元に手を当てて吹きだした。

「まあ。では、触ってみますか?」

 アレクシアはからかっているのではなく、本気に見えてギデオンは慌てて首を横に振った。

「け、結婚まではご遠慮させていただきます! いえ、触れたくないわけではないのです、ないのですが、こればかりはなりません!!」

 取り乱しすぎてもはや自分でも何を言っているか分からなかった。

「そうですの。せっかくギデオン様のお心が聞けましたのに」

 自分の胸元を押さえて残念そうにするアレクシアに、ギデオンは胸を突き破りそうなほど激しく鼓動する心臓を必死に宥める。

「…………王女殿下、あの、口づけをしてもよろしいですか」

 呼吸を整えてギデオンが訊ねると、アレクシアがふわりと微笑んで顔を上げた。

 ギデオンは震える手でアレクシアの細い肩を掴んで、身を屈める。

 アレクシアの閉じた瞳の睫の長さがやけに印象に残る。

 いつ閉じていいか分からず、ギデオンは目を開けたままアレクシアに口づけた。

 ふに、と柔らかい感触が一瞬あったかどうか。

 それだけですぐにギデオンは顔を離してしまう。

「……は、初めてなのものであまりきちんとはできませんでしたが、いかがでしょうか」

 正直これでいいのか悪いのか分からなかった。

「わたくしも初めてなのですけれど、あまりよくわからなかったのでもう一回していただけます?」

 アレクシアが首を傾げて考えるのに、ギデオンは驚く。

「初めて、でしたか」

「ええ。選挙で特に貢献してくれそうな特別なに初めての口づけを差し上げるつもりでしたけれど、ふふ。こんな風に選挙名なんて関係なく、わたくしにとって大切な方に捧げられるなんて素敵ですわね」

 幸せそうに表情を緩めるアレクシアに、愛おしさが胸いっぱいに溢れてくる。

 どうしてこんなにも愛しい女性に想いをろくに伝えずにいたのだろうか。昨日までの自分を目の前に立たせて説教したくなるほどに、自分自身に腹が立つ。

「では、王女殿下……」

 今度は少し緊張を緩めて、ギデオンはアレクシアに口づける、

 先程より長く触れ合わせた唇の感触は、なんともいえないほど柔らかく心地よかった。

「いかがですか?」

「幸せって、こんな感触ですのね……」

 アレクシアがうっとりとつぶやいて、ギデオンもうなずく。

「私も、同じくそう思いました」

 そうしてふたりで見つめ合って笑みを零しあい、小さく笑い合ってもう一度幸せの感触を確認したのだった。


***


 初めて口づけた夜会の後からも、政務でぶつかり合うこともあったが以前ほど気まずい雰囲気になることがなくなった。

 お互いに本当に心の一部を分け合った気持ちになったからかもしれない。

 冷静になってからゆっくり話し合う余裕もできて、将来のことや新婚生活をどう過ごしたいか理想を語り穏やかに愛を育みながら選挙の方も無事に進んでいった。

 アレクシアの政策に投資する者も多く増えて、アレクシアはバスティアン派の中に確実に人脈を広げていっていた。ギデオンもアレクシアとバスティアンの双方の会計役として多忙な毎日を過ごし、ついに最終投票まで三月を切ったとき両親にアレクシアと結婚することを打ち明けた。

 これまではバスティアン派として、アレクシア陣営に潜り込んでいると話していたのだ。

 両親の口が堅いのはよく知っている。しかし、ぎりぎりまで隠し通せとバスティアンに命じられたのだ。

 母はというとあまりに女性に免疫がなさすぎる息子が、妄想に口走っているのでは疑い預かっていたアレクシアからの手紙を見せると感極まって泣き出して大変だった。

 寡黙な父はその場では反対もせずうなずいただけであったが、その後に書斎へとひとり呼ばれた。

「父上、今までお話せずに申し訳ありませんでした」

「かまわん。座って呑め」

 書斎に入って改めて謝罪をすると、父がテーブルセットの上に置いてあるブランデーを示す。

 父が仕事部屋で酒を開けるなど、初めてのことでギデオンは目を瞬かせる。しかしこれは父なりの祝いなのだろうと気付くと、嬉しくなった。

「ありがとうございます」

 蝋燭の灯に映える琥珀のブランデーは、香りだけでも上等なものと分かった。口に入れれば舌触りの良さも一級だった。

 今日はきっと、父にとってとても特別な日になったのだ。

「お前が、結婚するのか」

 顔に深く皺を刻んだ父が感慨深そうにつぶやく。

「はい。王女殿下をお幸せにすると誓いました」

「……ギデオン、この期に爵位を継ぐ気はないか」

 グラスを回しながら思案する父が切り出された言葉に、ギデオンは驚きながらもできればそうしたいと考える。

「王女殿下を妻にするには、肩書きはないよりもあった方がよいと思います。しかし、バルザック家当主という肩書きに自分が見合っていなければ、所詮無意味です。自分は今もこの先もバルザックの名に恥じぬ行いを心がけていますが、父上から見て今の私はバルザック侯爵を名乗るに値すると思いますか」

 自分自身に自身が全くないわけではない。だがやはり長らく名門バルザック家の当主として生きてきた父を前にすると、まだまだ自分には足りないものがあるのではと萎縮してしまう。

「その心がけを忘れない限りは、お前はバルザックの当主として相応しい。私達夫婦はしばし領地を回って過ごすことにする。あれももっと、あちこちに行きたいと言っていたからな」

 饒舌になりながら酒を飲み干す父に、ギデオンは背を正す。

「父上、今日までのこと、誠に感謝いたします」

 万感の思いを込めて礼をすると、父が無言で酒を注いでくれる。

 言葉は少ないが、今までになく父とじっくりと向き合えた夜となった気がした。

 そうして最終選挙のひと月前。

 アレクシアの方は母親と決別することになった。きっともう、二度と母と子の関係にはなれないと彼女は寂しげに言った。

 いつか修復できるという気休めは言えなかった。

 自分ができるのはアレクシアが心の底から幸せだと感じる家族を築いていくことだけだ。

 その誓いを胸に、ギデオンは待ち望んだ結婚式の日を迎えた。

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