第17話 都倉(9)不機嫌顔の救世主
⑻
十分遅れで教室に入ると、机に向かって絵を描いていた新牧理名が顔を上げ、僕を見た。
クリエイトの時間、教室にはほとんど人気がなかった。回を重ねるごとにだんだん教室組が少なくなるな、と僕は思った。
「野間君、ちょっと」
僕はおや、と思った。新牧が僕に声をかけるなんて、このクラスになってから数えるほどしかなかった。もしかすると神坂同様、電話ボックスでの一件が気になっているのだろうか。
「何?」
僕が歩み寄ると新牧は「あのね」と感情のこもらない口調で切り出した。
「さっきまで白崎先生が来てたんだけど、野間君に伝言をことづかってるの」
「伝言」
「放課後に、美術室に来てほしいって」
「美術室?」
僕は首を傾げた。美織先生は美術部の顧問だからわかるが、僕は美術部ではない。それに、放課後は美術部が部室を使っているのではないのか。
「うん。詳しいことは直接、本人に聞いてくれる?」
「わかった」
「それだけ。……じゃあね。私はちょっと集中するから」
用件だけを告げると、新牧は再びイラストの彩色作業に没頭し始めた。僕は訝りながら、新牧の傍を離れた。
放課後、帰宅部の連中が掃けるのを待って僕は美術室に足を向けた。
美術室は二階廊下の突き当りにあった。廊下に人影はなく、ドアの向こうからも人の気配は伝わってこない。一体、校内で美織先生が何の用件だというのだろう。
僕はドアノブに手をかけると「失礼します」と言って手前に引いた。次の瞬間、目の前に現れた風景に僕は思わず「え?」と声を上げていた。
整然と並ぶイーゼルの群れ、といった予想通りの眺めではなく、教室の中央にぽっかりと空白部分が作られた不自然な風景がそこにあった。
「何だこれ?ここで何かすんのか?」
僕は教室の中央に進み出た。先生はおろか美術部員すらいなかった。イーゼルや机といった物品はすべて壁際に押しやられ、僕のいる部屋の中央部はまるで小さな広場だった。
僕が広場の中心にたたずんで首を捻っていると、突然、バタンとドアが閉じられる音がした。振り返ると入り口の所に三人の男子生徒が立っていた。
「何だ?」
三人のうち一人はテニス部の柳原悟志だった。がっしりとした体格に強面の顔、喧嘩っ早いことで知られる生徒だった。あとの二人は他のクラスのワルたちで、名前は知らないが柳原とつるんでもめ事を起こす常習犯だった。
「おめでたいな、野間。美人教師の甘い言葉に誘われてのこのこやってきたってわけか」
「どういう意味だ?」
僕は白を切った。正直、柳原が怖くもあったが、それ以上に僕が美織先生に呼び出されたことを知っているのが不愉快だった。
「お前は馬鹿だってことさ。助平心なんか出すからひどい目に遭うんだぜ」
柳原は手下の二人を背後に従え、獰猛な笑みを片頬に貼りつけて近づいてきた。
「なぜ、こんなことをする?お前とトラブった覚えはないぞ」
僕は敢えて強い口調で言った。足元が小刻みに震えるのがわかった。
「ほう、威勢がいいな。自分がこれからどんな目に遭うのか、わかってんのか?」
柳原は僕の前まで来ると、いきなり僕の鳩尾に拳を見舞った。胃袋がせりあがり、呼吸が止まった。あまりの苦痛に僕はその場にうずくまった。
「けっ、他愛ねぇ。少しは喧嘩の練習をしておけよ。手ごたえがなさすぎるぜ」
柳原はひいひい喉を鳴らす僕を乱暴に踏みつけた。
「おい、紐は持ってきたな。とりあえず、縛れ」
柳原が命ずると、手下の二人が僕の両手首をナイロンの紐で拘束した。
「さて、あんまり派手な跡が残るとまずいからな。できるだけ効果的にダメージが残る方法で痛めつけさせてもらうぜ」
柳原はそう宣告すると、靴のつま先で僕の身体のあちこちを蹴り始めた。切れ間なく続く痛みに僕は顔をしかめた。
「ほら、お前たちも何発かやれよ。余計なことを調べるとどうなるか教えてやらないとな」
僕の周囲はあっという間に三人の男子生徒に取り囲まれた。余計なこと?僕ははっとした。じゃあ、これは僕がPCについていろいろ調べていることを快く思わない人間が、柳原を使ってやっていることなのか。
「こういう風にやるんだ」
柳原がいきなり僕の腹を蹴った。呻き声を上げ、体を丸めた僕の背中を今度は手下の二人がかわるがわる蹴った。
「そうだ、いい感じだ」
三人が僕を蹴る間隔が、次第に小刻みになっていった。絶え間なく襲う痛みに耐えられず、僕は悲鳴を上げ続けた。
「どうだ、辛いか?……声を出せるってことは、もう少しきつくしても構わないってことだよな」
柳原が笑いを含んだ声で言った。思わず「やめてください」という哀願の言葉が口をついて出そうになった、その時だった。
「やめろ」
部屋中に大きな声が響き渡った。三人の動きが止まり、僕は顔を捻じ曲げて声のしたほうを見た。開け放たれたドアの前に立っていたのは、郷堂修吾だった。
「何だ、お前は」
「くだらないことをするな。ここをどこだと思ってるんだ」
「格好いいことを言うねえ。さすがは生徒会長だ。……だがな、ここは見てみぬふりをするのが賢明だぜ。頭のいいお前ならわかるだろう?」
柳原は威嚇するように修吾を睨み付けた。
「言ってることは、よくわかるさ」
修吾は大股で三人の傍らに歩み寄ると、床に這いつくばっている僕を見降ろした。
「——だが、あいにくとこいつはいただけない。見過ごすわけにはいかないな」
「ふん、お前さんだってこの馬鹿と同じ状況にいるんだぜ。わからないか?」
柳原が言うと、子分の二人がさっと左右に別れた。やばい、ターゲット変更だ。
「わからないな。……彼と一緒にしないでくれ」
修吾は涼しい顔で言うと、僕と柳原を交互に見た。柳原は顎をしゃくると修吾を挟んで立つ二人に「行け」と命じた。次の瞬間、修吾の左にいた子分が動いた。
——駄目だ、郷堂。逃げろ!
僕が息を呑んだ瞬間、予想外の出来事が起こった。修吾に飛びかかった子分の一人が、どん、という鈍い音ともに壁に向かって吹っ飛ばされ、片付けられたイーゼルに突っ込み、派手な音を立てた。相手の勢いを利用して当て身でふっ飛ばしたのだった。
倒れている子分を見降ろしている修吾に、今度は右側にいた子分が背後から襲いかかった。修吾は一切振り返ることなく、左の肘を子分の腹に打ち込んだ。二人目は「ぐっ」というくぐもった呻き声をあげ、その場にうずくまった。僕は一歩も動くことなく二人を片付けた修吾を驚嘆の目で見た。常に一発で決めることを心掛けている人間の戦い方だった。
「——さて、残るは君だけだ」
前に進み出ようとした修吾の鼻先に、いきなり光るものがつきつけられた。柳原がナイフを取りだしたのだった。
「ふざけやがって。こういう物が出てくるのも、想定できたかい?生徒会長さん」
柳原は勝ち誇ったように言った。修吾の表情は、入ってきた時と全く変わらなかった。
「ああ、たしかにこいつはびっくりだ」
修吾はのんびりした口調で言うと、柳原の手首に両手をあてがった。
「ふざけるな!」
柳原が手に力を込めた瞬間、修吾は柳原の袖を両手でつかみ、そのまま体をぐるりと百八十度反転させた。
「あっ」
柳原の身体は面白いように宙を舞い、そのまま背中から床に叩きつけられた。
「ぐうう……」
修吾は床に落ちたナイフを拾うと、柳原の鼻先につきつけた。
「こういうのって、校則違反だよな?届けておくか?風紀に。……いや、やっぱまずいよな。持ってることがばれたら処分されるからな、君が」
修吾はにやついた笑いを浮かべると、ナイフを畳んでポケットにしまった。
「取りあえずこいつは僕が預かっておくよ。……それと、君は少々、血の気が多いようだから、リラックスすることをお勧めするよ」
修吾は鼻先で笑うと、いきなり柳原の鳩尾に拳を打ち込んだ。柳原は情けない呻き声を上げ、体を丸めた。
「……さて、これでひとまず片がついたな」
修吾は僕の傍らに屈むと、僕の両手を縛っているナイロン紐をほどき始めた。
「まったく……君は馬鹿か?白崎先生の名前が出たら気をつけろと言ったろう」
「……助かった」
そう答えるのがやっとの僕に、修吾は黙って嘲るような視線を向けた。
「今、君たちの周囲ではやばいことが進行してるんだ。もし、これからも色々な事に首を突っ込み続けるつもりなら、こんなものじゃすまないぜ。覚悟するんだな」
紐をほどき終えた修吾は、突き放すようにそう告げた。
「ありがとう。君が来てくれなかったら、しばらく起き上がれないところだった」
「幸運に感謝するんだね。それじゃ、僕はこれで」
修吾はそう言い残すと、床の上で伸びている三人をその場に残し、足早に立ち去った。
美術室を出て荷物を取りに教室に戻ると、西陽の中で一人の生徒が絵を描いていた。新牧理名だった。僕は一心不乱に絵を描いている新牧の机に歩み寄った。
「新牧。柳原に僕を襲わせたのは、君だな」
新牧は絵を描く手を止めると、ゆっくりと顔を上げた。
「そうよ」
「なぜだ?オンラインゲームの話を聞き出すためか」
「それもある」
「僕に恨みは……ないだろうな。そもそも君とはあまり接点がないからな。美織先生の名前を語ったのは、先生が嫌いだからか?」
「そうかもね。……でも白崎先生だけじゃないわ。先生はみんな、嫌い」
「そうか。……まあいいや。神坂はこのことを知ってるのか?」
新牧はかぶりを振った。つまり聞き出した秘密は神坂へのプレゼントって事か。
「よく柳原を動かせたな。おかげでひどい目に遭ったぜ」
「あなたに言い寄られてるって嘘をついたの。ついでに、あなたの知ってる秘密を手に入れれば、一部の先生たちを脅すこともできるって」
「美織先生の事か。……悪いがあの人は脅迫に屈するような人じゃないぜ」
「そうね、そんな気がしてきたわ。……で、私をどうするの」
「どうもしないさ。……ただ、真犯人が知りたかっただけだ」
「そう。……じゃあもう行って。絵が途中だから」
そう言うと、新牧は再び机に向かった。僕は新牧に背を向け、荷物を手に教室を出た。歩くたびに体のあちこちがずきずきと痛み、悲鳴を上げた。
やれやれ、さんざん痛い思いをした割には、小さな陰謀だった。僕は手首に残った紐の後を眺めながら思った。
——郷堂が来てくれなかったら、こんなものじゃ済まなかったろう。
僕の脳裏に修吾の鮮やかな体術が甦った。あいつも敵に回したらやばい奴に違いない。
〈第十八回に続く〉
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