第十二話 召喚術士は弟子をとる事になりました 後編


 ヘルガが屋敷に顔を見せなくなった日から降り始めた雨は、四日経った今朝も寝室の窓を濡らしていた。

 決して強くはないが、濡れるのを無視して出歩けるほど弱くはない、間もなく初夏を迎えようとする季節に降るには冷たい雨の音は、一定のリズムでクリムの耳朶を叩いている。

 嫌になるほど聞き飽きた音を耳にしながら、クリムは寝台から身を起こした。

「嫌な雨ね」

 人知れず漏れる呟きは、雨樋を流れる水の音にかき消された。


 研究は上手く行っている。

 ヘルガのデータを元に作り上げた術具は正常に動作し、土地の持つ魔力の量を術者に伝え、安定して魔力を供給できるようになった。

 クリムの目的は達成されたと言ってもいいが、その顔は晴れない。

「ヘルガ、どうしているかしら……」

 考えるのは召喚術の下手な精霊遣いエレメンタリストの事だ。

 学院アカデミー一の秀才と呼ばれ、独力でこれまでにない発明をした彼女であっても、未だ見習いの身である。誰かに召喚術を教えた事など無かった。

 そんな彼女にできた初めての教え子が顔を見せなくなった事に、クリムは責任を感じていたのだ。

 リイトはああ言ってくれたが、励まそうとした矢先に居なくなってしまわれてはそれも出来ない。

 いや、それは気不味さを消したい自分の自己満足なのでは、と鬱々した思考は堂々巡りを繰り返すばかりであった。


 寝間着から着替えつつ考え込んでいたクリムは、ドアをノックする音で我に返った。返事をすれば、返ってくるのはユーリの声だ。

「クリム様、お客様がおみえです」

「こんな朝早くに?」

 朝早くというが、もう日が昇ってそれなりの時間が経っている。市井の人々ならばとっくに起きている時間である。研究のため夜遅くまで起きているクリムは、時間の感覚が少々狂っていた。

「ヘルガさんの知り合いだって、言ってます」

 告げられた名は寝起きの頭を一瞬で覚醒させる。クリムはすぐ行くと返事をし、急いで身支度を整えた。


                 ◆


 焦げ茶の髪を後ろで束ねた尼服の女性が、客間のソファに座って縮こまっている。

 聞いた住所に来てみれば、そこにあったのは、こぢんまりとしながらも立派な作りのお屋敷。

 番兵なのかガラの悪い男達に用を告げると、すぐさま現れた使用人らしき少年に案内され、この部屋に通されたまでは良かったが、まさか相手が貴族だったとは。

 見慣れぬ服装をした目付きの悪い男性が運んできたお茶からは、高級そうな香りが漂ってくる。口をつけてみるが緊張で味がわからない。その男性は「すぐにクリム……主が来る」と言ったきり、部屋の隅から険しい視線を向けてくるばかりだ。

 家を間違えましたと言って帰ってしまおうか。そう思い雨の降る窓の外を眺めていると、暫くして部屋の扉が開く。

「遅いぞ」

 咎めるように言う男性に一瞥をくれ、無言で部屋に入ってきたのは未だ幼さを残す金髪の少女だ。

 簡素ながらも仕立ての良いシャツを纏ったその少女は、楚々とした仕草で女性の向かいに立つと、遅参の謝罪を述べソファに腰掛けた。

「クリムヒルト・フォン・バランタインですわ。お名前を伺っても?」

「教会の孤児院で職員をしております、アメリーと申します」

 挨拶を交わすと、使用人の少年がアメリーとクリムヒルトの前にお茶のお代わりを並べる。

「クリム様、いつもと喋り方が違いますね」

「よそ行きの口調なんだろう。初めて俺と話した時もあんな感じだった」

 去り際、使用人の少年が目付きの悪い男性とそんな話をしていたが、アメリーは緊張でそれどころではない。なんとか動揺を顔に出さず名乗ることは出来たものの、貴族と話をするなど初めてである。

「ヘルガさんのお知り合いと聞きましたが、どういったご関係で?」

「彼女とは同じ孤児院で育った友人同士です」

「まぁ、ヘルガさんのご友人なのですか。それで、今日はどうして私の屋敷に?」

「実は、ここ数日ヘルガの行方が知れないのです。聞けば彼女はバランタイン様のお屋敷を何度か訪ねていたと聞きまして、何かご存知であれば教えて頂きたく」

 アメリーの言葉にクリムヒルトの眉がピクリと動く。

 壁に背を預けて立っていた男が身を乗り出した。

「クリム」

「ええ。アメリーさん、それは何日前からかしら?」

「四日前の朝に孤児院へ顔を出してから、私は見ていません」

 クリムヒルトの顔に浮かぶのは困惑か、後悔か。アメリーにそれを推し量る術はなかったが、心当たりがあるのは確かだろう。男の方も顎に手を当て、何か考え込んでいる。

「何か、ご存知なのですか?」

 アメリーはもう一度問うた。

「四日前の夕方まではこの屋敷に居ましたわ。でもそれからは仕事があると帰ってしまって……」

「そう、ですか」

「私はヘルガさんに請われ、召喚術の手ほどきをしていたのです。ですが中々上手く行かず、彼女もそれを気にしていました。上手く励まして上げられればよかったのだけど」

 アメリーが察するに、クリムヒルトは落ち込んだ彼女がどこかで塞ぎ込んでいると考えたのだろう。だがアメリーの知る彼女はそんな性格ではない。落ち込むようなことがあっても、ただ愚直に努力し続ける娘だ。屋敷からの帰り道、事件にでも巻き込まれたのかも知れない。

「このままでは、ヘルガが危ない」

 最悪の想像に背を振るわせるアメリーと同じことを想像したのか、男が口を開く。

 しかし続いた言葉は、彼女の理解できない物であった。

「彼女は、怪人に取り込まれている可能性がある」


                  ◆


 ガルグイユ。

 それは分厚い甲羅とヒレを持つ邪竜帝国の怪人だ。口から超高圧の水流を吐き、また周囲に雨を降らす能力を持つ。過去に戦った時は水流に阻まれ近づくことも出来ず苦戦したが、イエローの持ち上げた大岩で水流を防ぎながら、なんとか倒すことができた強敵である。

「雨を降らす能力……おかしいと思ったのよ、この季節に四日も雨が振り続けるなんて」

 クリムの嘆息が、アメリーの去った客間に響いた。

 リイトの言葉に狼狽え縋る彼女を落ち着かせ、必ずヘルガを助けだすと約束し家に返した後、彼は自分の心当たりを彼女に話したのである。

「途切れずに降り続ける、勢いの変わらない冷たい雨……頭に引っかかるものがあったが、君のその言葉で確信が持てた。これはガルグイユの降らす雨だ」

 元の世界でも怪人の仕業だと気づかれずに数週間降り続けた雨は、ついに河川の氾濫と洪水を引き起こしたほどだ。

 ピルケの街にまだその徴候は無いが、治水技術の未発達なこの世界で洪水が起これば、その被害はリイトの想像など容易く越えるだろう。

 ヘルガだけではない。この街の住人を守るためにも、早くガルグイユを倒さなくては。そう決意したリイトは、雨具も持たず部屋を出ようとする。

「行くのね」

「ああ、すまないが屋敷の警備はゲブル達に任せる。君も戸締まりをきちんとして、外出は控えるように――」

「何言ってるの」

 リイトの言葉を遮ったクリムの瞳に宿るのは熱い闘志。

 悪と戦う者が持つ、勇気の証だ。

「私も行くわ。私だって戦える」

 危険だ。

 言いかけたリイトは、クリムの決意を感じ取り、頷く。

 正義を瞳に秘めた人間は、勇気の炎が燃える限り止まらない。止められない。

 彼はその事を良く知っていた。

「ヤツは水中戦を得意とする怪人だ。だからこそ、居るとしたらガルグイユにとって最も安全な水辺だろう」

「ローグ川ね」

 二人は頷き合うと、手早く準備を済ませ屋敷を飛び出した。

 向かうのはローグ川に面した川港だ。


 眼前を流れる大河は未だ氾濫の様子こそ無いものの、増水し濁流となってうねっている。

 クリムは雨具のフードの下で濁った大河を睨みつけると、背負っていたザックから幾つかの道具を取り出す。

「これは?」

「地下室に設置していた物と同じ、土地の魔力を感知して取り込むための術具よ。これで川の中におかしな魔力の流れが無いか探してみるわ」

 テキパキと術具を設置し、その中央で精神集中を始めるクリム。結果を待つべく川へと視線を向けたリイトは、間一髪その異変に気づいた。

「変身!」

 瞬時に変身するとバルムンクを抜刀し、クリムの前に庇い立つ。

 次の瞬間、泡立つ川面から飛び出してきたのは、邪竜帝国の戦闘員レプティリアンだ。

「ゲギギィ!」

 クリムめがけて飛びかかってきた戦闘員を、一刀のもとに切り伏せる。するとそれを皮切りに、続々と戦闘員達が上陸し始めたではないか。

「やはり邪竜帝国か!」

 現れた十数体の戦闘員達は川辺に立つ二人をぐるりと包囲した。リイトはじりじり近づいてくる戦闘員達を油断なく睨めつける。

「今、水精を使って川の中を探っているわ。ガルグイユを見つけるまで、私は水精の使役に集中しているから、頼んだわよ!」

「任せろ!」

 叫ぶと同時、一斉に襲い掛かってくる戦闘員達。だが、リイトの表情は余裕そのものだ。

「エイユウ・ブースター! イグニッション!」

 暴風。

 降り注ぐ雨すら吹き飛ばす風が、竜巻となって戦闘員を弾き飛ばした。

 否、それは竜巻ではない。エイユウスーツのポテンシャルを全て脚部に送り込む事で可能となる、超高速のダッシュだ。

 視認すら困難な速度でクリムの周りを一周したリイトは、石畳にブレーキ痕を着けながら停止する。

「ギギギ……」

 その速度の中では走っている本人も上手く狙いを付けられない。飛びかかってきた戦闘員を叩き落とすことはできても、急所にバルムンクを当てられたのは数体のみだ。ダメージの少ない戦闘員は再び立ち上がり戦闘態勢を取る。

「どうした、その程度か?」

 挑発するリイトに、激昂した数体が突っ込んでくる。上手くクリムから意識を逸らす事に成功した彼の剣舞は壮絶の一言。

 突進してきた一体の爪を逆袈裟に弾くと、振り上げた剣をがら空きになった胴体へ振り下ろす。まだ空中にある仲間の骸を弾き飛ばして突っ込んできた戦闘員には、逆手に持ち替えた剣の柄をお見舞いする。倒れ悶絶する戦闘員を無視し、突き出した剣を引き戻せば、後ろに迫ってきた敵が吸い込まれるように刀身へ突き刺さった。

 刺さった剣を力任せに横へ振るい、切りかかってきた相手に刺された戦闘員をぶつける。その勢いで抜けた剣で先程殴打した相手に止めを刺すと、三体の戦闘員が同時に飛びかかってくるのが見えた。

「エイユウ・ブースター!」

 一瞬の判断で脚部を強化。僅かな隙間を走りぬけ、ついでに一体の脇腹を切り裂く。そのままブレーキを掛けずクリムの下へ駆けたのは、彼女へ迫る一体の戦闘員を認めたからだ。

 エイユウ・ブースターによる加速の勢いそのまま、爪を振り上げていた戦闘員を跳ね飛ばした。

「ゲギャァッ!」

 残り数体となった戦闘員達は各個撃破されることを恐れたのか、一丸となって二人へと突撃してくるが。

「いい的だ!」

 水平に構えたバルムンクが淡く輝き出す。

 振りぬいた剣先が描くのは蒼光の円弧。

「ジーク・カッター!」

 飛び出した蒼月が、残りの戦闘員をまとめて上下に両断した。

 全ての戦闘員を片付け、ふと気を抜きかけた刹那である。

「!?」

 不穏な気配を感じ見もせずに剣を振る。

 左右に断たれたそれは剣圧によって軌跡を変え、リイトの背後にある建物へ二つの穴を開けた。

 まともに直撃していれば、リイトの腹に大穴が開いていたことだろう。リイトは冷や汗を流しながらも、すぐさまその正体を看破した。

「ガルグイユの『水流殺』か!」

 水中から放たれたソレは、薄い鉄板程度なら容易に貫く超高圧の水鉄砲だ。水流殺と名付けられたガルグイユの必殺技である。

「こいつは厄介だな……」

「でも、今ので位置を特定できたわ!」

 リイトの呟きに、瞑想していたクリムが目を見開き応える。

「水精よ! 敵を捕らえて引きずり出せ!」

 彼女の叫びに呼応し、先日のヘルガが操ってみせた物よりも太く長い水の蛇が、うねり猛って水面へと飛び込んだ。

 水蛇は真っ黒に濁った濁流の中、狙い違わず異常な魔力を発する敵に巻きつき、捕らえる。

「そぉれっ!」

 水蛇の体が張る。逃げようとする敵と力比べを始めたのだ。

 と、その合間にも苦し紛れの水流殺が水中から放たれてくる。

「巨兵の剣!」

 高度な水精操作の傍ら、クリムは増幅された魔力で巨人の剣を顕現させる。

 空の彼方から飛来した剣は石畳に突き刺さると、その腹で水流殺を受け止めた。

「やるじゃないか」

「大岩で防いだって、さっき聞いたからね」

 水流殺を放った隙を突き、一気に相手の体を引く。

 引き合いを制したのはクリムの水精だ。

 水柱を上げて川の中から飛び出してきたのは、腕の代わりにヒレを持つ河童のような怪人――ガルグイユである。

「ぎょぉえぇぇぇぇ!?」

 叫び声を上げながら石畳に叩き付けられたガルグイユは、水中から出て力の弱まった水蛇を振り払い解くと、立ち上がってクリムを睨めつけた。

「おのれぇ……小娘ぇ……!」

「おっと、ここからは俺も相手だ」

 怪人の視線を切るように、バルムンクを構えたリイトが立ち塞がる。

「よぉくもやってくれたなぁ、ジーク・ブルー! だが陸に上がった所でぇ水流殺の威力は変わらないぃ!」

 ガルグイユが嘴を閉じ頬を膨らませたのを見たリイトは、バルムンクを八相に構えると、クリムへと首を巡らし叫ぶ。

「さっきみたいに頼むぞ!」

「任せなさい!」

 バルムンクへと蒼い光が集まる。

 光は徐々に輝きを増し、ついには大剣を形作った。

 そこへ、顔を突き出したガルグイユの開いた嘴から、一抱えほどもある超高圧の水流が襲いかかった。

「今だ!」

「巨兵の剣!」

 瞬時に現れた巨剣が、再び水流を防ぐ。だが――

「水流殺・極ぃ!」

 轟いたガルグイユの声に合わせ、水流は更に太り、勢いが増す。

 それでも巨剣が貫かれることは無かったが、突き刺さる石畳を持ち上げながら剣身を傾け始めたではないか。

 徐々に勢いに負け抜け始める巨剣。しかしその傾きが唐突にぴたりと止まる。

 見れば周囲の石やその下の土が剣の根本を覆い隠している。土精を操作し、巨剣の突き刺さる石畳の方を強化したのだ。

 それでも吐き出されていた水流だったが、徐々に勢いを弱め、ついには殺傷力を失った。

「この身に集え! 神話の輝き!」

 リイトが詠じると、巨剣が幻のように掻き消える。開けた視界の先、必殺技を防がれ狼狽えるガルグイユの姿が露わとなった。

「邪竜両断! ジィィィィク・スラッシャァァァァ!!!」

 光の速度で振り下ろされた蒼き大剣は、レーザー光の如く真っ直ぐと伸び、怪人へと迫る。

「シールド・シェルぅ!」

 ジーク・スラッシャーが当たる瞬間、ガルグイユが背を向けた。その背にあるのは亀のような甲羅だ。

「おおおおおおお!!!」

 振り下ろした剣へさらに力を込める。甲羅に一度弾かれた蒼光の剣は、リイトの雄叫びに合わせどんどん食い込んでいく。

「はァ!」

 最後の力を振り絞り、リイトがバルムンクを振りぬいた。ガルグイユの甲羅は真っ二つに割れ、背中までばっくりと切り裂かれている。致命傷だ。

「ぎょおおおおおおおおぉ!!」

 ジークス・ラッシャーで深々と切り裂かれ、悲鳴を上げるガルグイユであったが、爆発四散するには至っていない。

「チッ! しぶとい奴め!」

 止めを刺すべく駆け寄るリイトに、膝をつきながら振り返ったガルグイユがニヤリと笑んだ。

「この傷じゃぁもう戦えないぃ、ならばお前らごと道連れだぁ!」

 ガルグイユが叫んだ瞬間だった。これまで一定だった雨量が途端に勢いを増す。バケツをひっくり返したような豪雨にリイトは思わず足を止めた。

「な、なんだ!?」

 新たな必殺技かと周囲を探る。しかし何かが襲いかかってくる気配はない。スコールを彷彿とさせる豪雨だが、ただの雨だ。

「ひひっ! 俺が手を下さずともぉ、お前らは水の底にぃ沈むのだぁ! ひひひひひひ!」

 壊れたように笑うガルグイユは雨を讃えるかのように両腕を上げ、天を仰ぐ。

「邪竜帝国! 万歳ぃ!」

 轟音。

 雨の中でも衰えない漆黒の爆炎は、熱を持たないのか雨粒を蒸発させる事無く天へと立ち上り、燃え跡に倒れた少女を残して幻のように消え去った。

 

「ヘルガ!」

 先も見えない豪雨の中、倒れ伏す少女に駆け寄ると、クリムは彼女を助け起こす。変身を解除したリイトも二人へ覆いかぶさるように背を曲げて立つと、上着を被り屋根となる。

「うっ……」

 それでもなお顔へとかかる滴でヘルガが目を覚ました。ゆっくりと開かれた眼は真っ直ぐクリムを見上げている。

「クリムさん? わたし……」

「もう大丈夫よ。怪我は無さそうだけど、今は安静にしなくちゃ」

 優しく微笑むクリムを遮り、ヘルガは熱に浮かされるように言葉を紡いだ。

「わたし、クリムさんに嫉妬していたんです。わたしにも貴女のような力があれば、孤児院の子たちも、アメリーだって守れるのにって……そしたら、暗闇から声が……」

 クリムが小さく息を呑んだ。それでも動揺を見せないよう、努めて表情を保つ。教える側が弱気では、教えられる側も不安になる。そう言われたのを思い出したのだ。

「努力すれば、貴女だって上手く召喚術を扱えるようになるわ」

「そう、ですね。闇の中で見た貴女達のように、諦めなければ……きっと」

 諦めない心と、困難に立ち向かう勇気。

 それさえあれば、きっといつかは壁を乗り越えられる。


「不味いな……」

 二人の屋根になっていたリイトは、雨が弱まってきたことに気づき顔を上げた。その視線の先にあるのは、豪雨でもはや氾濫寸前となっているローグ川だ。

 エイユウギアを操作しバイザー部分だけを頭部へ展開すると、望遠機能を使って川の上流を拡大する。増水した川の流れが勢い良く下ってくるのが見えた。

 三人が居るのは北から西へカーブを描くローグ側の弧の頂点。上流のから流れてくる濁流が丁度ぶつかる場所だ。このままでは流れが鉄砲水となり、三人と川港一帯を襲うだろう。

「ガルグイユの奴が言っていたのはこういう事か!」

 いかに超人的な力を持つリイトであっても、川の流れを一人で堰き止めることなど出来ない。

 とにかく二人を連れて遠くへ逃げようとした時だった。

「水精よ」

 クリムが立ち上がり、その手を川へと翳した。召喚陣が淡い光を放ち浮かび上がる。

「水精を操って鉄砲水を止めるわ。リイトはヘルガを連れて下がって」

 濁流は魔獣をも越える速度で迫りつつあった。再び瞑想を行い土地の魔力を吸い上げる時間はない。彼女一人の魔力だけで何とかしなくてはならない。

 パスを通って精霊界エレメンタリアから現れた水精の力は魔力に触れ、その形を変質させる。物理法則を容易く捻じ曲げる『この世在らざる者』の力は、巨大な質量を持った濁流の勢いを弱めるべく川を走る。

 だが、足りない。

 僅かに勢いを弱めなこそすれ、未だに人を飲み込むには十分な勢いだ。

 眉間にしわを寄せ歯噛みするクリムの横に立つ者があった。

 ヘルガだ。

「私も、やります」

 その瞳に宿るのは、屋敷を飛び出した時のクリムと同質の物。

 川へと手をかざし、集中する。

 パスを通った水精に、己の魔力を食わせるイメージ。なだめ、すかし、最小の餌で最大の働きをさせる。

 いつでも二人を抱えて走れるよう変身して見守るリイトの視線の先、ヘルガが協力し始めてから目に見えて濁流の勢いが弱まってきた。

 次は流れの操作だ。川に沿って水が流れるよう、その方向を調整してやる。

 水精はヘルガの命令に素直に従うと、その異能を存分に発揮し、川の流れを正常に戻していく。

 そして、雨が止み、雲間が見えた頃。

 増水しながらも緩やかに流れるローグ川が、そこにはあった。


                ◆


「そう、その調子よヘルガ」

 よく晴れた空の下、二つの人影がこぢんまりとした屋敷の裏庭にあった。

 クリムの見守る前で、ヘルガが小さな焚き火に向き合っている。

 焚き火は通常あり得ないような速度で、次々と組まれた枝に燃え移っていくと、物の数秒で大きな炎となった。

 炎は薪を燃やし尽くしてもなお赤々と燃え盛り、揺らめく。そして一際大きく燃え上がったかと思うと、嘘のようにあっさり消え去った。後に残るのは僅かに燻ぶる焚き火跡だけだ。

「もう少ししたら、種火がなくても火が熾せるようになりそうね」

「はい!」

 満足気に頷くクリムと、嬉しそうに返事をするヘルガ。

 そこへ近付いて来るのは手に盆を載せたリイトだ。

「井戸水で冷やしておいたアイスティーだ。暑くなってきたからな、水分補給はしっかりした方が良い」

「ありがと」

「ありがとうございます」

 例を言い受け取る二人を見ながら、盆を小脇に抱えたリイトが思うのは、本格的に動き出した邪竜帝国の事だ。

 街中でただ暴れまわっていたリントヴルムやウイヴルと違い、ガルグイユは何か目的を持って、街を雨の中に沈めようとしていたように思う。

 そもそも怪人たちは何故この世界の人々に危害を加えようとしているのだろうか。そして、負の感情を持つ人間を取り込んだ怪人とは……

 考えることは多いが、リイトのすることは一つだ。

 ヤツらが何を企んでいても、必ずそれを打ち破り、召喚術の話をしながら微笑む少女達の――この世界の人々の笑顔を守ること。

 それが、正義のヒーローである自分の使命である。


 太陽の光に手を翳し、リイトは高く澄んだ空に誓う。

 見上げた異世界の空は、元の世界の青空と、とても良く似ていた。

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