俺が通ってる高校領区制国家・東京

如月 仁成

戦評定 狙うは一つ、ジュリエットの首級のみ

 四月七日の朝、前日までの暖かさを一夜にして忘れたかのような「辰巳たつみもり海浜かいひん公園こうえん」。


 東京湾、辰巳ふ頭に作られた十七万平米もの広さを持つこの公園の中央で、降り続ける冷たい雨に濡れた少年が木刀を引きずったまま立ち尽くしていた。


 雨足は強く、まるで霧の中のような視界の先、彼の目にうっすらと映るものは工事現場の黄色いヘルメットと木製のプラカード、そしてその持ち主……。

 口火が切られたばかりの戦場へ顔からずり落ちそうな黒縁メガネを向けて、地べたにしゃがみ込んだまま子供のように泣き続ける女の子の姿がそこにあった。


 ヘルメットからこぼれ落ちた長い赤髪は土砂降りの雨に濡れてセーラー服をい、若草色のスカートが張り付いた左足には靴も無く、黒々と血にまみれた布切れがかろうじて靴下としての形を保っている。


 この、捨てられた子犬以上に憐憫れんびんを感じさせる女の子の名は、織田おだ花音かのん。七千人もの高校生が参加する都内屈指の大勢力、江東こうとう区開放同盟。その頂点に立つ人物だ。


 そんな花音を見下ろしている、ぼさぼさで手入れもされていない髪から獣のような目を覗かせている少年――佐久間さくま郁袮あやねは、彼女を討つべきか助けるべきなのか、もはやどちらに次の一歩を踏み出したら良いのか判断もつかず、途方に暮れていた。


 燃えるような赤い髪の色は五年前のままなのに、この女の子はもう、自分の知っている花音では無い。

 当時よりも大人びた横顔。当時では想像もつかないほど暴虐ぼうぎゃくとなった性格。


 郁袮の耳には、花音の正体は莫大な税を領民に課し、その転居は人質を取ることによって禁止する暴君であると伝わっていた。

 さらに卑怯な手段で近隣校を服従させ、過酷な兵役を課しているとも聞く。


 ……ここに、平和を愛する少女はもういない。彼女は、変わってしまったのだ。

 ……ここにいるのは、自分が一生守ると心に決めた、ただの泣き虫な女の子だ。


 五感と思考とを鈍らせる、苦手な雨に打たれながら、郁袮は二つの想いに揺れ続けていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 郁袮あやねは、花音の騎士として生きることを五年も前から決めていた。

 その夢を叶えるため、家を出て花音が通う清州きよす高校へ進学する覚悟も持っていた。

 だが高校受験をひかえた中学三年生の一月、不穏な噂が広まった。


 織田花音は暴君である。


 その噂を裏付けるように、自分の住まいがある有明ありあけ蟹江かにえ高校領と、花音が生徒会長を務める東陽町とうようちょう清州きよす高校領との境では小競り合いが頻発し、蟹江高校へは解放同盟へ従属せよと再三にわたって通達がされているとの噂が流れて来た。


 立場が、時間が、彼女を変えてしまった。そう考えた郁袮は、清州高校領で一人暮らしをしている姉に真実を確認することも無く、失意のまま蟹江高校へ進学した。

 そして入学式のまっただ中で、解放同盟から考課測定こうかそくてい――東京都が定めた、高校とその支配地域の所有権を賭けた学生戦争――が、布告されたのだ。


 開戦は翌朝、四月七日の八時。

 この緊急事態に、深夜から降り出した豪雨の中、五時には同盟校である越中島えっちゅうじま勝幡しょばた商業高校と連携を取って、両校の全校生徒、二千人が動員された大防衛線が構築された。


 これに対して、解放同盟軍が動員したのはたったの三百人。

 斥候隊の報告では、深夜のうちにそのすべてが辰巳の森海浜公園に構えた本陣に収まったとのことだった。


 入学したばかりの一年生まで動員し、数の上では圧倒的とも言える人数で敵本陣前に集結する蟹江勝幡の江南こうなん二校。

 本陣である両校生徒会室には最低限の兵だけ残し、蟻一匹漏らすことことの無いよう、巨大な三列方陣ほうじんが敷かれていた。

 陣の内部も、フォーマンセルが一定の距離で配置され、隣や後ろのチームと連携しやすく一点突破されにくい、対少数精鋭には理想的な構造。


 解放同盟の攻勢を無理せず受け流し、一列目を突破されても、二列目が凌ぐ間に一列目を四列目として再編成する、土地の広さも利用した堅固な陣。

 最終的には、解放同盟の足が弱まったところで包囲、せん滅する作戦だ。


 ……郁袮あやねは、後方勤務を任されていたが職場を抜け出していた。

 そして東京都指定のゴムカバーを付けた木刀を一つ腰に下げ、解放同盟の本陣すぐそばの茂みに身を潜めていた。


 土砂降りのせいで視界がほとんど無く、斥候など役にも立たない。

 江南の斥候部隊はすべて野戦陣へと戻っていることだろう。

 でも、郁袮は開戦の時刻まで隠れ続けていた。彼の目的は、別のところにあったのだ。


 花音を、他の誰にも討たせるわけにはいかない。

 自分が地に叩き伏せ、その覇道を終わらせなければならない。


 そのために、本陣が手薄になる瞬間を狙っているのだ。


 ……そしてとうとう、開戦の時刻になった。だが、陣幕から出てくる者はない。

 不審に思って慎重に陣幕へ迫り、隙間から中を覗くと、そこには大量の抱き枕が立てられていた。


「やられた……。さすが徐珠亜ジョシュアさんだな。これはまずい」


 偽の情報と大雨を利用して、ここに全軍が集結したままと思わせるとは。

 郁袮は、おぼろげな記憶から戦術巧者の顔を引っ張り出しつつ、抱き枕の林を犬のように、四つ足になって走り出す。


 敵の消えた先と狙いを探らなければ。そう考えながら陣の中心部へ向かうと、ピクニックテーブルを三つ並べた指揮卓を見つけた。

 だが、その上に散らばった書類はすべて、土砂降りの雨に濡れて解読することもできなかった。


「雨さえ降ってなけりゃ……」


 郁袮はぐずぐずに崩れる紙片を摘まみながらポケットから携帯を取り出し、通信兵と連絡を取ろうとしたその時、視界の端に妙なものを見つけた。


 抱き枕の林の中央、ぽっかりとできた広場。そこに誰かが座り込んでいる。


 木刀をベルトから抜いた郁袮は慎重に足を運ぶと、雨のフィルターが少しずつ外れ、まず木製のプラカードが、次に黄色いヘルメットが、そして最後に見覚えのある赤い髪が目に入ると足を止め、構えを解いて剣先を地面に力なく落とした。


 自分のすべてを捧げて守り抜くと誓いを立てた女性。

 大勢力を束ねる暴君。


 それがたった一人、地べたに崩れて、顔を上げて泣いていた。


 ……彼女は、味方に捨てられたのだ。そうでなければ、たった一人でこんなところにいるはずはない。

 郁袮はそう考え、しばし花音の姿を見続けた。


 泣き顔も、変わらない。

 五年前のあの時、救急車の中で見た顔そのままだ。


 郁袮は木刀を引きずったまま花音の傍まで重たげに足を運び、間近で見下ろす。

 歴史を紐解けば、暗君に仕えた有能な人物を枚挙まいきょできる。そんな彼らの気持ちが、今の郁袮には痛いほど理解できた。


 信じたいのだ。裏切りたくないのだ。


 主君を裏切りたくないという意味ももちろんあるが、仕えると決めてからの自分の人生を、そして初めて誓いを立てたあの日の気持ちを、否定するなど簡単ではない。

 自分で自分の背骨を叩き折るという絶望感。一度信じた物を討つということは、そういうことなのだ。


 ただ立ち尽くし、花音を見つめたまま途方に暮れている郁袮の耳に、か細い声が聞こえた。


「それで……、殴るつもりなの?」


 郁袮の方を見るでもなく、肩を落としたまま花音はつぶやく。

 その言葉に誘導や謀略は感じられない。

 むしろ、郁袮が覚悟を持つための決め手となった。


「…………ああ」

「痛いのいやだから、どうして殴るのか理由を聞かせて」


 自分の中で成長し続けて来た花音よりも、もっと子供のような口調に郁袮は少し戸惑いを見せた。


 これはまるで、初めて出会ったあの日のままだ。


 郁袮はまやかしを振り払うかのように首を左右に振って、少しだけ語気を強め、しかし花音の方を見ずに言い放つ。


「お前を倒すと、多くの人が戦いから解放されるんだ。こんな狂った日常から、平和で幸せな生活に戻ることが出来るんだ。……俺は、東京から戦いを無くしたい。だから、お前を討つ」


 暴君とは言えど、仲間にも見捨てられた今ならこの言葉が届くかもしれない。

 震える息と共に言葉を締めくくる郁袮の顔を、赤髪の少女は明るい笑みと共に見上げた。


「ほんと? あたしの願いも一緒だよ! ……良かった。じゃあ、あとは君に任せたよ。ひと思いにやっちゃって。その代わり、東京から戦争を無くしてね……」


 彼女の願いと屈託のない笑顔。そんなものを浴びせられた郁袮はもちろん、剣先を持ち上げることなどできなかった。


 躊躇ちゅうちょ。困惑。もはや頭が真っ白になり、まともに思考を結ぶことなどできない。

 苦しむ郁袮が、まるで呼吸を求めるように顔を上げると、それが目に入った。


 ……抱き枕の影から木刀の先端が覗き、その後ろから蟹江かにえ高校の制服を着た屈強な男が顔を出したのだ。


 味方だ。……なぜ、今。このタイミングで俺達を見つける?


「お前…………、織田か? 大将首もらった!」


 嬉々とした、歪んだ笑みが突っ込んでくる。考える時間など一瞬だ。

 その一瞬で、郁袮は心の奥底にある、一番の想いに従った。


「う……、うおおおおおおお!」


 濡れて滑る芝を蹴散らし、蟹江兵の前に踊り出す。

 敵は、同じ学校の制服を着た者の裏切りに驚きつつも正確に突きを繰り出した。


 郁袮は、これを腹に貰いながらも体ごと回転して受け流し、ゴム加工のされていない木刀の柄……、禁じ手を相手の眉間に打ち込んだ。


 お互い激しい勢いでの衝突だったため、一撃が必殺となった。

 だが腹を抑え込む郁袮はかろうじて膝を突くに留まり、蟹江の兵は大の字になって芝生へ倒れ、気を失ってしまった。


「や……、やっちまった……」


 呼気を荒げて大きく口で息をする郁袮は、雨で濡れた口元を手の甲で拭う。


 敵の大将を庇って、味方にやいばを向けてしまった。

 こんなの、取り繕うことなどできやしない。もう勝幡蟹江同盟へは戻れない。

 それでいながら、解放同盟に受け入れてもらえるとも思えない。なぜなら、花音はきっと彼らに見捨てられてしまったのだろうから。


 だが、不思議と郁袮に後悔はなかった。閉ざされてしまった未来より、目先の選択に満足していた。

 この世界で一人だけ……、花音だけは、俺に微笑みかけてくれることだろう。

 それでいい。


 胸中に渦巻く暗い物、何もかもを込めて大きく息を吐き出した郁袮は、晴れ晴れとした笑顔で花音へと振り向き、


 ごんっ!


 ……木製プラカードで、平べったくではなく、細い側で頭頂部を叩かれた。


「な……、なにすんじゃこら! 腹に貰った方よか痛いわ!」

「暴力反対! なんでこんなことするの!」

「はあ? 誰の為に戦ったと思ってるんだよ! 暴君のお前が何を言って……!」


 その時、ようやく郁袮は気が付いた。

 彼女が肩に担いでいたプラカードには、赤いマジックでこう書かれていたのだ。

 

 戦争反対!


 頬を膨らませて仁王立ちする赤い髪。

 そして会えずにいた長い時間、繰り返し脳内再生され続けて来た花音の言霊ことだま

 これらのキーワードが自然と五年前に郁袮を誘う。


 ……変わっていなかったのだ。こいつは、ずっと武器を手にすることなく戦い続けて来たんだ。郁袮はこの数か月、噂というものに騙され続けてきたことにようやく気が付いた。


「虚報。……二虎にこ競食きょうしょくの計、か」


 花音の圧政……重税や従属国に対する扱いの噂は、すべてでたらめだ。

 どこの勢力の仕業か分からないが、本当の敵が勝幡蟹江しょばたかにえを煽って、かたくなに協力関係を拒むように、さらにゲリラ戦を頻繁に行うよう仕向けたのだ。


 花音の性格を織り込んでのこの計略は三か月にもわたって効果を発揮し続け、小競り合いによるお互いの消耗はばかにならないものとなっていた。


 あくまで話し合いにより解放同盟へ参加して欲しいと願う花音に対し、江南二校はその話に耳を傾けることは無い。

 このまま放っておいたら兵力は疲弊し続け、いよいよ第三者に攻め落とされることになっていただろう。


 解放同盟の幹部達は当主の泣き顔と妙なプラカードに目をつぶりつつ、江南の制圧を決めたのだ。ならば両軍が最低限の被害で済む方法を使って勝つ気なのだろう。


 その手段は分からない。ここから消えた三百もの兵がどうやって勝つ気なのか。

 でも、そんなことはどうだっていい。もう、どうだっていい。


「俺の選択は、正しかったんだな。……ありがとう、花音。変わらないでいてくれて。そしてグッジョブ、俺の深層心理!」

「何言ってんのよ! 早くこの人の手当てしなきゃ!」


 ああ、そうだ。お前はそういうやつだったな。でも、


「蟹江高校は斥候も複数人でセルを組むんだ。こいつが戻らないことを不審に思った仲間がすぐここに来る。急いで逃げるぞ」


 郁袮がそう説明しながら花音の手を引いて歩き出すと、引いた方と逆の手で足首を掴まれて顔面から芝生へ盛大に倒れた。


「ぶにょふっ」

「だから! 手当て!」

「聞けよ人の話! あと、今のが今日いちいてえ!」


 ぎゃあぎゃあと口喧嘩を始めた二人だったが、それも一瞬で終わる。


「……誰かいるぞ!」

「あっちだ!」


 抱き枕の彼方かなたから四、五人の声が響くと、郁袮は有無を言わさず花音を抱きかかえようとした。だが、この変わり者の君主は簡単に事を運ばせてくれない。


「ちょ……、や、やだ! 初めてのお姫様抱っこなんだから!」

「うるっせえぞいい加減にしろ! お前が捕まったら元も子もねえだろうが!」

「じゃあ、おんぶ……は、恥ずかしいなあ。えっと……」

「いたぞ! 織田だ! こっちだ!」


 とうとう何人かの姿が抱き枕の合間から見え隠れし始めると、怒り心頭といった表情の郁袮は花音の背中に回ってスカートに頭を突っ込み、


「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ! 変態!」


 花音を肩車で担ぎ上げて走り出す。

 これが雨の中でも驚くほどの速さで、後方の敵をあっという間に引き離した。


「はや……っ! はやーーーーーーい! あはははは、気持ちいい!」


 さっきまでの文句はどこへやら、ご機嫌になった花音が、はしゃぎ始める。


「こんなの遅い方だ。俺は四つ足の方がはええ」

「え? それって…………、君、郁袮?」

「お、ようやく思い出しやがったか」

「郁袮! 郁袮だ! 元気だったんだ! 久しぶりだ~!」


 公園を走り抜け、歩道へ飛び出すと町中の人が二人の姿を見て目を丸くした。

 車中からも指を差される疾風はガードレールを飛び越え、車道を縦横無尽に抜け、でも信号だけは律儀に守りながら走り行く。

 雨を全身に浴びながら気持ちよさそうに両手を広げる花音を見上げ、郁袮は想い人に覚えてもらっていた喜びに頬をほころばせながら、さらに加速した。


「どこに行けばいい!」

「あはははは! どこにでも連れてって!」

「ちげえよばか、お花畑かお前の頭は。……味方の所じゃまずいのか?」


 未だに、なぜ花音があんなところに一人で転がっていたのか分からない。

 郁袮はそれなり慎重に確認したのだが、それも杞憂きゆうだった。というか、花音の返事を聞いてあきれた。


「みんなのとこ行く! 戦争反対だよ、みんなを止めなきゃ。聞いてよ郁袮、あたしが言うこと聞かなきゃここから動かないって言ったら、じゃあ置いてくからな~って、ほんとに行っちゃったんだよ? ひどくない?」

「一見、主君に対して有り得ない発言だが今なら分かる。俺でもそうする」

「何でよ! ばか!」


 郁袮はぽかぽかと頭を叩かれながら考えた。どういう手段、どういうルートを使うか分からないが消えた三百人が狙うのは間違いなく蟹江勝幡、どちらかの本陣。つまり生徒会室だ。

 敵陣がもぬけの殻という情報は既に野戦陣に伝わっているはずで、今頃慌てて本陣に兵を送っていることだろう。

 どこへ行っても敵だらけ。なら、清州領へ逃げ込むのが安全か。


「いや、清州へ行こう。それが一番安全」

「だめ。それはいや」


 今までの甲高い大声と違って、芯の有る落ち着いた声だった。

 郁袮はまるで胸をぎゅっと掴まれたような心地になり、足を止めて頭上を窺う。


「……あのね、あたし、この東京から戦争を無くしたいの」

「ああ、それは分かってるけど」

「でもね、そのためには、避けて通れない戦いもあると思うの。それは全部、あたしの努力が足りなかったせいで起きる戦いなの」


 郁袮は、不条理で能天気なやつだと感じていた両肩に、一区のおさの重みを急に感じ取った。


「だから、あたしのせいで傷つく皆を、ちゃんと見ないといけないの。どんなに苦しくても、どんなに悲しくても」


 花音の平和主義は、能天気からくるものではなかった。

 確固たる信念、不退転の覚悟。

 平和を勝ち取るために、命を懸けて戦う決意があったのだ。


 彼女はこれからも苦しむことだろう。辛い思いもするだろう。

 郁袮は改めて、自分が認めた女性を誇らしく思った。


「……分かった。ここからなら勝幡の方が近い。連れてってやる」

「うん」

「でも、激戦になってるとこにそのプラカード掲げて突っ込むんじゃねえぞ?」

「それはいや。止めてみせる!」


 頭の上で力強く握りこぶしを作る花音を見ながら、郁袮は大声で笑った。

 これは、大変なやつの騎士になっちまった。そうあきれながらも、それ以上に誇らしい気持ちになった。


 ……郁袮は走り出した。埋め立て地の橋を渡りつつ、雨を浴びて。主を乗せて。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 越中島えっちゅうじま豊洲とよす運河を臨む勝幡しょばた商業高校前には、人だかりができていた。


 激闘を想定して大きく北西側から迂回して近寄ってきていた郁袮あやね花音かのんは学校から少し離れたところで正門を確認し、物陰に隠れながら慎重に近寄った。だが、


「……織田だ」

「なにいっ!」

「どこだ?」

「いた! あそこだ!」


 自分たちの後方にいた敵にあっさり発見され、怒りに震える表情をした勝幡商業高校の学生と蟹江高校の学生、十数人が迫って来た。

 郁袮は慌てて花音を降ろして木刀を抜くと、獣のように低い姿勢で刀を構え、敵と対峙する。


「ちきしょう、いきなり見つかっちまった! 花音! 俺があいつらを抑え込んでる間に細い路地へ逃げろ!」


 多対一では数秒も持たない。路地で一人ずつ相手にするのが賢明だ。

 郁袮は花音へ逃げるよう指示してから一歩を踏み出すと、後ろから足を掴まれてアスファルトに顔から落ち、


「ぽぎゃい」


 変な音を口から鳴らした後、花音に噛みつくほどの剣幕でがなりたてた。


「今日だけで鼻が顔にめり込んで無くなるわボケ!」

「今、戦おうとしたでしょ! 暴力反対!」

「この鼻血は暴力の結果ではないと言うんだな!」

「それはそれ」

「どれとどれだよ!」


 急に口喧嘩を始めた二人を前に、敵の一団は呆気にとられて立ち止まる。だが、すぐに怒気を再燃させ、民家の塀を背にした二人を取り囲み始めた。


「と、とにかく後だ! 俺の背中から離れるなよ!」


 花音がきゅっと握る力を学生服の背中に感じた郁袮は、決死の覚悟で敵を睨みつけながら木刀を構え直すと、力いっぱい後ろに引っ張られて背中から塀に叩きつけられた。


「だからさあ、聞いてよあたしの話」

「………………っ!」


 後頭部を抱えてアスファルトに倒れ込み、叫び声も出ないほどの激痛にもんどりうつ郁袮の前に、敵を割って二人の男達が歩み寄って来た。


「はいはい! 皆さん方、お怒りごもっともだけどさ、もう勝負はついたんだ。うちのマスコットに因縁つけるのはやめてくれ」


 二人のうち、グレーアッシュの髪をなびかせる端正な顔立ちをした男がそう言うと、花音達を囲む皆は舌打ちと呪いの言葉を残しながら離れて行く。


「え? 何? 考課測定、もう終わってたの?」


 郁袮が事態の急変に混乱しながらもよろよろと膝に手を突いて立ち上がると、はしゃぎ声を上げて急に飛び出した花音に背中を突き飛ばされてまたも顔面から地面に落ちた。


滝川たきがわ君! ゆーと! もう終わったってことは、戦争しなかったの?」

「したよ。開戦から十分くらいで両校生徒会長を捕まえて完全勝利。作戦、説明したじゃん」

「おお、徐珠亜ジョシュア。このバカが人の話、聞いてるわけねえだろ」


 短く刈った白っぽい金髪をソフトモヒカンにしたチンピラ風な男に指を差され、花音はふくれながらじたばたと暴れだす。


「ばかじゃないもん! ゆーとのバカ!」

「おお、てめえは割り算とルートの区別がつくようになるまで人様をばかにすんな」

「あれはじっくり考えれば分かるもん! それより、戦争はだめって言ったのに!」

「まあまあ、それよりかのんちゃん。彼は?」


 グレーアッシュの男が肘を引っぱって、鼻と後頭部を押さえてふらふらしている郁袮を立ち上がらせると、


「二人とも覚えてない? 郁袮だよ郁袮! あたしを守ってくれて、ここまで連れてきてくれたの! 肩車で!」


 花音は無邪気に郁袮の腕へ飛び付いた。


 五年前、たった一日の付き合いだが、背中を預けて戦った戦友を忘れるはずはない。二人の男は郁袮の顔を眺めた後、お互いに顔を見合わせて頷き合った。


「ちかちゃんの弟君か! 久しぶりだねえ」

「えっと、徐珠亜さんと……、悠斗ゆうとだったっけ。久しぶり」

「おお。てめえ、蟹江の制服着ておいてこいつを守ってたのか? 物好きだな」

「いや、守ろうとする度、一機ずつ殺されてただけな気がする。俺、あと何機?」


 郁袮が首の後ろを叩いていると、徐珠亜と呼ばれたグレーアッシュの男が鼻血はそうやって止めちゃいけないんだよと制止しながら、


「ひょっとして、かのんちゃんに気付いて寝返ったのか?」

「ほんとは俺が引導渡してやるつもりだったんだけど成り行きで……。でもさ、こいつの相手するのが面倒なの分かるけど、ほったらかしにして行くんじゃねえよ。俺がいなかったらどうなってたと思ってんだ」

「ああ? こいつがあそこでぎゃーすか泣いてなきゃ、抱き枕のデコイが一瞬でばれちまうだろうが。わざと置いてきたんだよ」

「意味分からん」


 郁袮は悠斗の説明に納得がいかないまま、腕に抱き付きながら自分を見上げている花音に目を向けると、急に顔を赤くして視線を逸らした。


「ありがとね、郁袮! あの時誓ってくれた通りだね!」


 降り続けていた雨もいつの間にか止んで、雲の切れ間から差し込んだ光が花音を照らす。その光が彼女の首から鎖骨へ流れた滴を輝かせたために、つい胸元から覗いたピンクのフリルに目が行ってしまったのだ。

 こんな至近距離でそんなものを見ていたら、絶対すぐばれる。郁袮は花音の顔だけに集中すべしと心で唱えてから、再び彼女に振り向いた。


 だが、それはそれで、もっと顔を赤らめることになってしまった。

 彼女の大きな黒縁のメガネから覗く少し垂れた目は可愛く自分を見つめ、つややかな唇は、うっすら縦に走る皺すら見えるほどの近さで微笑んでいる。

 さらに雨に濡れた赤い髪は妖しく郁袮の腕に絡み付き、高校二年生にふさわしい、大人っぽい色香を匂わせていた。


 ……自分が一生守ってあげたいと誓いを立てた、五年前に惚れた女の子は、誰にも奪われたくないと感じるほどに美しく成長していたのだ。


 それに、腕に感じるほのかな柔らかさ。…………成長していたのだ。


 女性に免疫がない郁袮が緊張して、顔を真っ赤にしていることに気付きもせず、


「あれ? あたしに誓ってくれたこと、覚えてないの?」


 花音は頬を膨らませながら、さらに強く腕にしがみつく。そして照れくささのせいで目を離す郁袮を顔で追いかけるため、もはや正面から抱き着いているような密着具合だ。


 鼓動に気付かれまいと、花音の両肩を掴んで体からひっぺがした郁袮は、その体勢のせいで自然と目が合った想い人に覚悟を決めて返事をした。


「い、いや、ちゃんと覚えてる……。あの時、誓ったからな」

「誓ってくれたもんね!」


 一人はぎこちなく、一人は能天気に笑顔を浮かべて見つめ合い、


「一生、お前の騎士でいてやるって」

「あたしの馬になってくれるって」

「その記憶とお前の頭、どっちもおかしいからな!」


 そしてぎこちない方が、能天気な方へ噛みついた。


「あのなあ、もしほんとにそう誓ったとして、後生大事に記憶しておくもの?」

「五年生にもなって、頭のおかしなこと言う子だなって思って覚えてた」

「ちきしょう! 俺はお前の聞き間違いのせいで五年間バカだと思われてたのか!」


 郁袮の泣きそうな怒り顔を見て、徐珠亜と悠斗は思わず噴き出した。

 花音はそんな様子を意にも留めずに、ぴょんと飛び跳ねて郁袮から離れると、


「じゃあ、馬じゃなくて騎士になりたいの? それ、どういう意味?」


 無邪気で鈍感な質問を投げかけた。


 勝幡商業高校の正門付近では戦後処理も一通り終わったようで、いつの間にか付近は静寂に包まれていた。

 勝幡の生徒会から、付近住民に対して考課測定が終了したことも通達されているだろうから、もう数分もしたら町は日常の騒音を鳴らし始める。


 そんな、一瞬の空白。

 よりによって、そんなお膳立ての中で言わなければいけないのか。


 郁袮は視線を泳がせながら、音を立てて唾をのみ込んだ。


「え……、そ、それ、聞くか普通?」

「なんでよ聞くわよわかんないもん」

「そ、それ……は」

「うん」


 花音が真顔になるのと反比例して、後ろの二人はにやにやし始めた。

 しかし、てんぱっている郁袮にそれらを確認している余裕などない。

 彼はとうとう声までひっくり返らせながら、


「い、一生! お前を守ってやりたいって……、意味……」

「ほんと? ……え? 一生? 考課測定がある高校生の間だけで十分だよ?」

「そ、そうじゃなくて! つ、つき、あって、欲しいと……」

「え? なに? よく聞こえな……」

「付き合って欲しいと言っている!」


 静寂の中にこだまする、人生を賭けた叫び。

 これが学校の正門から校舎から、付近の家から会社から、多くの人の耳を打ち、そしてすべての視線が二人に注がれた。


 そんな世界の中心で、ヒロインはきょとんとした顔で郁袮を見つめていた。


 その表情と次のセリフまでのは愛の告白を受けた女の子のそれとして正しいのだが、このおかしな君主がまともな話にするはずはない。


「……思い出した! 郁袮、あの時も言ってた!」

「そうだよ! あの時は自分より低いのは嫌だとか言って断りやがって。でも、今度は同じ言い訳させねえぞ。追い抜いたからな。俺の方が絶対上だ」

「……うそ?」

「誰がどう見たって……ってかお前、俺のこと見上げながら言う?」

「え? どうやって年上になったの? 年下はいやよ?」


『年齢かよ!』


 郁袮ばかりか、二人に注目していた約百人ほどから総突っ込みを受けた花音が驚きながら周りを見回すと、皆が悔しそうに涙を呑んでいた。


 その視線の先で、郁袮は膝から地面に崩れ落ちる。


 そして徐珠亜と悠斗は大笑いしながら、郁袮の両脇にしゃがんで肩を叩きだした。


「おお、てめえ見直した。まあ、相手にこれを選んだセンスは最悪だがな」

「いや~、ナイス玉砕! そうだ、君、清州領に引っ越してこないか? かのんちゃんの親衛隊長やって欲しいんだ。そうすれば、チャンスはいくらでもできるだろ?」

「年上になるチャンスなんて無いだろ! どーせーってのさ徐珠亜さん!」

「おいおい、俺が謀略ぼうりゃく家だってこと、忘れたのか? 策ならいくらでもある!」

「……かっけえ……。さすが徐珠亜さんだ。俺、頑張る! 清州に行く!」


 徐珠亜としては厄介な主君のおもりを任せることが出来る人材をスカウトしたかっただけなのだが、郁袮はすっかり騙された。

 だが、これは騙された郁袮が悪い。徐珠亜は、自分が謀略を使ったぞと、ちゃんと宣言している。


 すっかり騙されて、やる気になった郁袮は颯爽と立ち上がり、花音を指差して高らかに宣言した。


「見てろよ! お前を、必ず攻略してや…………びえっくし!」

「いつか年上になったら考えなくも無いけど。……それより、風邪ひいちゃった?」

「雪は好きなんだけど雨は嫌いで……っくしょ! 体調悪くなるし、なぜか悪いことばっか起きるし、相性最悪なんだ。雨の日は外に出たくない。……ん? 三人とも渋い顔してどした?」


 急に表情を曇らせた皆を見ているうち、郁袮も眉間にしわが寄り始めた。


「なんだよ、俺、なんかまずいこと言った?」

「い、いや~! じゃあ、郁袮の転校手続きは俺がやっとくからさ、引っ越しの準備よろ~! じゃあかのんちゃん! 捕虜にしてる勝幡の生徒会長に会いに行くか!」

「誤魔化すなって。なんだよ」


 徐珠亜が花音の手を引いて逃げるように歩き出そうとしたが、花音はぴくりとも動かない。


 そして上空では、さっきまで切れ間を作っていた雲がその瞳を閉ざし、再び厚く陰り始めた。


「……捕虜? なんで?」


 花音は震える声で、徐珠亜に問いただす。

 すると悠斗が横から、


「ああ? さっき説明したろうが。奇襲して捕虜にしたんだ」

「誰も……、怪我してない? 怪我、させてないよね?」


 小刻みに震えながら徐珠亜に問いただす花音の目に、校門から列をなして出て来る救急車が映ると、辺りは夜のように暗くなり始めた。


 またひと雨来るかもしれない。郁袮は大きなくしゃみをしてから恨めしそうに空を見上げると……、


「な、なんだこりゃ!」


 そこには禍々まがまがしい黒に塗り固められた、自然現象ではありえない色、形状をした雲が自分達の頭の上だけに浮かび、生き物のようにどくんどくんと脈動していた。


  目を口を、開きっ放しにして驚く郁袮をよそに、徐珠亜は花音へ説明を始める。


「怪我人だらけだよ。どっちも激戦だったから、両校両軍合わせて百人は病院だ」


 冷たい一言を聞いた花音は、悠斗にすがり付いて涙声で叫んだ。


「ゆうと! 今の聞いた? 滝川君が酷いんだよ!」

「ああ? 馬鹿かてめえは! 小競り合いが長引いたら、もっと被害が出てただろうが! 間違いなく最小限の被害だ。わがまま言って怪我人増やすんじゃねえ!」


 しかし徐珠亜よりもっと辛辣な言葉を浴びせられ、ふらふらと後ずさる。


 郁袮は、解放同盟全体の決断が正しいと考えながらも、花音の気持ちを痛いほど理解できた。

 だから、倒れそうな少女の背中を優しく支えてあげながら、親衛隊長として最初の仕事をこなすことにした。

 彼女が心に負った傷を、和らげてあげようとした。


「まあ、やっちまったもんはしょうがねえだろ、諦めろ。それよか早く屋根のある所に行こうぜ、雨はいやだ」


 ……不器用だった。


 そんな郁袮の誠意が伝わるはずも無く、花音は波打つように唇をゆがませると、とうとう大声を上げて泣きだした。

 しかし彼女の泣き声は、誰の耳にも届かない。

 皆に聞こえるのは、


 どざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 プールをひっくり返したかのような雨が地面を叩く音だけ。


 急な豪雨に呆然とする郁袮の耳に、徐珠亜が近付いて、


「言ってなかったけど、こいつが泣くと、雨が降るの」

「………………ないない」


 現実主義が服を着て四つ足で歩いていると形容できるほどの郁袮だが、今のタイミングはその信念が揺らぐほどのものだった。


「こんなやつだけど、これから頼むぜ、親衛隊長」

「……ないない」

 

 ……五年間、暖め続けた恋心。

 平和を愛する少女への想いは、郁袮の中でいつも変わり続けていた。

 想像の中で成長する彼女の性格や容姿に合わせて、年齢相応の愛情として、常に変化を続ける。

 一つ変化を遂げるたび、その愛情はさらに熱を持って。熱く、熱く育っていった。


 だが現実はどうだろう。その熱量にふさわしい邂逅かいこうだったのか。はたまた大きな隔たりがそこにあったのか。それは誰にもわからない。


 ただ一つ分かるのは、大嫌いな雨が呆然と立ち尽くす少年の体温を際限なく奪い、頭を抱えて膝を突く彼は後悔の色をその精悍な顔に滲ませながら、今、両手を地べたに付けて何かを大声で叫んでいる……そんなことだけだった。

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