第6幕『Dream a dream /2』

第6幕 //第1話

 まずは黒く一面を塗り乾かしたところに、混じり気のない白で細い蜘蛛の巣を描く。繊細に、丁寧に。画一的な線ではなく、あたかも本物の蜘蛛の巣がかかっているように自然な弧を描いていく。


 大方全部の面に張り巡らせたら、次は先ほどよりやや太い筆に持ち替えて微量の青・鼠色を混ぜた絵の具をパレットの上で溶いた。べた塗りにならないように少しだけ擦れさせて、或いは水を含んで朧げに、火の玉と手形を上乗せする。火の玉の中心には白と仄かな朱色を混ぜてみた。ただの単色は少しインパクトに欠ける。

 手形を描くのは中々難しいが、擦り付けたような跡でなんとかそれっぽくはなったみたいだ。



 そこまで描いて、ふう、と一息。次が大仕事だ。



 一番太い筆––––書道部の使う大筆とでも言うのだろうか、それを手に取って鮮血の如き紅色の中に浸した。筆がしっかりと色を含むまで数回ならす。白い穂先とその中腹まで紅が染み込んだのを確認すると、俺は呼吸を整えて慎重に一字目に取り掛かった。


 『脱出型お化け屋敷』の『脱』だ。


 書体はホラーフォント。実際のお化け屋敷とか小説に出てくる台詞なんかでも使われる、文字が震えているような怖いあの書体だ。フリーのソフトを見つけて、幾度か家で練習した。

 時折血が滴るような遊びをつけ、『化』の字は鏡文字にしてみる。この方が目立つし、お化け屋敷に大事なが出るんじゃないかと思う。



 最後の『敷』まで書き切って筆を置くと、やっと張り詰めていた気が抜けた。俺は少し看板と距離を取って、教室の壁にもたれかかる。ひんやりとした壁の冷たさが、長袖のシャツ越しに伝わって来る。

 ずっと前かがみになっていたせいか、伸ばした腰がじんと痛んだ。




「紫村!調子どーお?」

 各係の様子を見回っていた片瀬が、俺に気がついたようだ。サイドで結った髪を揺らしながら、ぱたぱたと駆け寄ってくる。


「まあまあってとこ……表看板はほぼ出来た」

「ほんとぉ?……って、えぇ!?すご!?」

 床に置かれた表看板を覗き込んで、片瀬は大声を上げた。今日も濃い目の化粧が施された目が大きく見開かれる。

「ナニ、これ全部紫村が描いたの!?超本物っぽくない!?」

「そ、そうか……?」

「いやマジですごすぎだわ!!」


 片瀬の興奮した声に、周りの生徒も何だ何だと興味深々で近寄ってきた。そして俺の描いた表看板を目にすると、彼らもまた片瀬と同じように驚嘆の声を上げる。


「マジかよ……!」

「紫村くんめちゃくちゃ上手いね!」

「すげえ、結構リアル!」

 その言葉は正直嬉しい。看板の木材が届くまでの数日間、ひたすらデザインを考え家で練習を重ねた甲斐があったってことだ。


 久しぶりに物置から出したキャンパスと画材は何だか懐かしく、もうどれぐらい経つか分からないのに相変わらず俺の手に馴染んでくれているようだった。



「とりあえず、細かい修正は乾いてからだから。一応、これが完成形ってことでいいか?」

 そう尋ねると、周りから口々に賛辞と感謝の言葉がかけられた。ちょっぴり、本当にちょっぴりだがくすぐったい。

「じゃあ俺、これ空き教室に置いてくるな」

 俺は看板を持って、くすぐったさから逃げるように立ち上がった。身体が火照ったように熱い。


 これは、照れてんの?とか素直に嬉しがりなさいよ!とか言われるんだろうな––––と身構えていたが、どうやらそれは杞憂だったみたいだ。案外優しく、片瀬はいってらっしゃいと笑うと他の係の方へ駆けて行った。




 俺は有難く教室を後にする。俺たちのクラスに割り当てられた空き教室(用は模擬店に使う道具置き場ってわけだ)はプレハブ校舎の二階だ。自分の教室からは少々距離がある。

 俺は中庭を抜けて、一人プレハブへと向かった。




 ***




 普段誰も使用しないプレハブは、至る所に埃が積もり少しだけ黴臭い。四つ程机を横にくっつけて、俺は表看板を慎重に置いた。見た所、もう大部分が乾いている。流石木板だ。

 何層にも絵の具を重ねた表面をそっと撫でると、見た目では分かり難いムラを手の平に感じた。唯の真っ黒な色にさえ、濃淡、色の厚みの差が僅かながらある。久々に絵筆を取ったというのもあるが、やはり俺はまだまだ未熟だ。



「でも、やっぱ面白ぇな、描画って」

 凝り固まった肩をほぐしながら、俺はゆっくりと窓辺に近付く。傾いてきた陽の下、校庭では各クラスの大道具製作を任された生徒が楽し気に組み立てをしていた。


 大樹も陽介も、きっとあの中で壁やら墓の土台を作っているだろう。この学園祭は前原の大人たちも快く協力を申し出てくれるらしく、道具の材料に困っている様子はない。むしろ豊富と言える程に揃えられた材料、そして貸し出してもらった工具を手に、道具製作の生徒たちは一生懸命に汗を流していた。



 ––––––俺もそろそろ戻るか。ビラもあるし。



 俺はプレハブを出て、再び中庭を通った。

 そこに……––––希がいた。


 希とは美術館以来、大した話はしていない。希は何も聞いてこなかったし、俺も中々話を切り出すタイミングを見つけられなかった。俺がきちんと話すべきなんだが、少し時間が経ってしまうと打ち明けるのがこんなにも難しいなんて思わなかった。


 ––––––いいぞ、笑ってくれても。ヘタレでも弱気でも何とでも言ってくれ。



 希はといえば、いつものミラーレス一眼を構えて、中庭の中央に植えられた欅の木を見上げている。

 黄色く色づき始めた欅の葉は、日差しの中で一際明るい。薄水色の空と欅と一つの構図に収めているのだろうか、希はほぼ真上を向いて微調整をしている。



 五十メートルと離れてはいない距離なのに、希の周りだけが静かだった。



 その静けさに吸い込まれるように、俺は一歩、希に歩み寄る。

 校庭の賑わしさが段々と遠くなり、時折吹く風が欅の葉を揺らし立てる音だけが心地よく響いた。



 もう一歩、俺は右足を前に出す。

「のぞ……––––」

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