第4幕 //第3話

 落ちてきたボールを胸元で受け止め数回リフティングをすると、俺はボールを手の平に乗せた。土に汚れたボールは二、三度回転し––––やがて動きを止める。土埃だけが、煤けた手の平の上で燻煙の如く舞った。どうやら、ボールを扱う感覚は残っているみたいだ。



「おっ……おにいちゃんすごい!!」


 わっと巻き起こった歓声とともに、公園からわらわらと飛び出してきたのは先程の子どもたちだ。あれよあれよという間に、俺の周りには小さな輪ができる。俺よりも四、五十センチは低いところにある瞳は、俺を尊敬の眼差しで見上げていた。


「ほら、これ」

 とりあえず、俺の正面にいるいがぐり頭にボールを手渡す。彼は俺からボールを受け取るとニッと笑った。

「さんきゅ!にーちゃんすげぇんだな!かっこよかったぜ!」

「!」


 突然の賛辞に、俺はちょっと固まる。


「そうだよ!あれ、どうやったの!」

「ヘディングもすげーし、リフティングはかっけーし!」

「もしかしておにーちゃんサッカー選手なの⁉」

「えっと、それは」

「まじ?にーちゃん有名なの?」

「サインサイン!」

「はっ?……ええっ?」

 子どもたちの勢いに、思わずたじろいで一歩後退。彼らは口々に、それも好き勝手なことを言い出す。目紛しく繰り出される言葉と飛躍していく誤解に––––頼むから落ち着いて、落ち着いて話してくれ!

 俺は子どもの相手は得意じゃないんだ!得意じゃないというか、そもそも妹より年下の子どもに接する機会なんてないっつーの!


 そんな俺の内心を察するわけもなく、後ずさった俺に、彼らは更に詰め寄ってきた。


「ねえねえおにーちゃん!一緒にサッカーしようよ!」

「あっ、それナイス!」

「リフティングも教えろよ!」

「はっ!?いやいや、だからちょっと待てって」

「それちょーいい!」

 予想外右斜め上くらいからの提案に慌てて抗議するも、子どもたちは完全に無視。さも良いアイディアを思いついたと言わんばかりに顔を輝かせ盛り上がるばかりだ。もう彼らの中では、通りすがり、ただ飛んできたボールを軽くヘディングしただけの俺が加わることが決定事項らしい。


 ––––––ってそれは困るぞお前ら!



「じゃあこうしようよ!」

 俺が訳も分からず困惑している間に、何やら話はまとまっていた。

「にーちゃんと、後二人が一チームで、残り五人が一チーム!」

「おにーちゃんはちょっと手を抜いてね」

 手を抜いてねなんて、小学生が言うことか?って、違う問題はそこじゃない。俺の意志というか俺の都合は鑑みたのかいや考えてる訳ねーよな。


「決まりだな!」

「おにーちゃん行こっ!」

 子どもたちの中では一番体格の小さい子が、俺の腕を掴んで引っ張った。

「いや、俺はちょっと用事が……」

「いーじゃんちょっとだけ!」

「いや、帰らなきゃ……」

 子どもたちはようやく俺の気持ち気が付いたのか、少しだけ不安気な表情になる。よし、言うんだ俺。ごめんだけど俺はサッカーはできない、って……––––

 


 その時、右腕がきゅっと掴まれた。



「ちょっとだけでいいの……僕らと遊んで?」

 見上げる少年の瞳は、心なしか潤んでいる。


 ––––––は?潤んで?

「あーっ!にーちゃん、卓泣かしたーっ!」

「お母さんに言いつけてやろーぜ!」


 ––––––はぁ?まて、泣くのは禁止だろ!


 俺が動揺したのが分かったのか、周りの子どもたちは追い立てるように口々に非難の言葉を浴びせてくる。最近の子供は容赦がないのか。というかそもそも俺加害者じゃないだろ?俺は事実を述べたまでで……!

 右腕を掴んだ少年だけは、何も言わずに真っ直ぐに俺を見上げていた。––––その瞳に負けた。



「……仕方ねーな、ちょっとだけだぞ!」

「えっ!?」

 諦めた。子どもの涙に勝てるほど、俺は冷徹人間ではない。

「ホント?」

「おにーちゃん遊んでくれんの!?」

 渋々頷くと、非難は歓声に早変わりした。さっきまでの態度が嘘のようだ。


「ありがとう!」

 右腕を掴んだ少年は、またきゅっと俺の腕を握りしめて嬉しそうに笑った。


 ––––––よし。頼むから笑っとけ。



「早速ゲームやろーぜ!」

「おにーちゃんに勝てるかなー?」

 我先にと公園に駆けていく小さな背中たちに、あ、そうだ、と思いついて保険を掛ける。

「先言っとくけどな!全然俺上手くねーから!期待外れだとか言うんじゃねーぞ!」

 先頭を行くいがぐり頭が、ぱっと振り向く。日焼けしたまだ細い腕を真っ直ぐ伸ばすと、彼は俺の言葉に応えるように親指を立てた。



***



「にーちゃん頼む!」

「おーう」

 俺の足元へと正確に転がってきたボールを、爪先でちょんと弾くように蹴り上げる。

「前だぞ、前前!」

 ゴール付近に走り込んだ少年––––名前は卓と言ったか––––に声を張り上げると、卓はこちらを向いて大きく頷いた。若干緊張した面持ちだが悪くない。

「シュート来るぞ!」

「卓、いっけー!」

止めろぉ!」

「そこだぁあ!」


 卓は緩やかに落ちてくるボールに上手くタイミングを合わせると、ワンバウンドで大きく足を振り上げる。靴底についた、公園の赤褐色の土が勢いよく宙に散った。


「いっけぇえ!!」

 振り下ろした、右足の甲は弾んだボールを確実に捉え、


「……っ!!」

 勢いよく蹴ったボールは左に大きなカーブを描き、


「ああッ!」

 一瞬の沈黙が、数秒間のように長く感じた後––––


「はいったぁぁああ!!!!」

「やられたぁぁああ!!!!」

 悲喜交々の叫びがあがり、後にはゴールを割ったボールが公園のフェンスに当たって転がった。


「卓、やったな!」

 俺が駆け寄ると、卓はまだ呆然とした顔で自分の足と俺の顔と転がったボールを順々に見比べ––––満面の笑みで頷いた。

「いやー、やっぱすげーやにーちゃん!」

 いがぐり頭––––そろそろ名前で呼ぶとするか、––––は俺の隣に並んで満足気に頷く。鼻の上の絆創膏は、汗で半分剥がれていた。

「まあ、俺はすぐにーちゃんより上手くなるけどな」

「はっ、なってみろよ」

「あ!今バカにしただろ!」

「さあどーだろーな」

 鼻であしらう振りをすると、はすぐに頬を膨らませる。このアタリがまだまだ子どもだ。その純粋さが眩しい。



「でも、すっごく楽しかったよ!僕!」

 卓が満面の笑みのまま、細い腕を伸ばした。

「だから、はい、約束!」

「えっ?何を?」

 伸ばされた腕の先には、小指が一本ピンと立っている。一体何の約束をするって言うんだ。もしかして、もしかすると……––––

「また、今度僕らとサッカーしようよ!ねっ、いいでしょ?」


 ––––––あぁやっぱり。


「それは……」

 口を噤んだ俺の顔を覗き込むように見上げ、卓は首を傾げる。その瞳が再び潤んでくるのが分かった。

「おにーちゃん、ダメ?」

「……いや、えーっと」

「何だよハッキリしろよ!」

「そーだよ!遊ぼうよおにーちゃん!」

「僕、楽しかったよ!」

 黙り込んだ俺を、子どもたちが一斉に囲った。しまった、いつの間にか俺は懐かれてしまっていたみたいだ。卓が、いやもほかの子どもたちも、ちょっぴり不安気な顔で俺を見上げている。


 ––––––やっぱり、その瞳には負けるな。

 

 零れるように笑みが漏れた。俺は卓の前に屈み込むと、同じように腕を伸ばした。小さな小指と並ぶように、俺の小指もピンと立てて。

「分かったよ。約束な」

「……!」

 子どもたちの間に安堵の表情が広がる。

「うんっ!約束だよ!」



 こうして、俺には新しい友達––––いや、小さな仲間たちができた。毎週木曜日夕焼けに空が染まる時間、公園でボールを蹴る。ただそれ以上でもそれ以下でもない、小さくて逞しい仲間たちが。


 ただ、子どもたちとの遊びに興じ、折角買った鯵をダメにした俺が母さんにこっぴどく叱られるのは避けられようのない事実だった。

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