1-2 「今の自分と一秒前の自分は違う」
夜が明けて、その朝。平時通り菖蒲と二人で登校して、昇降口で靴を履き替えていると、ピンクの物体が恵流の視界の隅に現れる。
「せーんぱいっ、おはようございます!」
声の方に顔を向けると、そこには月曜日に知り合ったあざとい後輩が笑顔を咲かせていた。
「おはよう。そう言えば、今日は約束の木曜日だったっけ」
朝からこのテンションに付き合うのは疲れそうだなぁと思いながらも、対応する恵流。少し離れた場所に靴箱がある菖蒲が恵流の元にやってきて、陽の存在に気付いた。
「おはよう、陽ちゃん」
「あっ、鶴来先輩もおはようございまーす」
陽が心なしか笑顔の度合いを引き上げて、挨拶を返す。恵流はその姿を見て不快感を催すでもなく、徹底してるなぁと場違いにも感心していた。
「わざわざ、の――恵流に会いに来たって事は共闘するかどうかの返事をする為か?」
「ですです。あの、ですね……」
一転して鮮やかな笑顔を引っ込めて、しゅんとした顔を作ってみせる陽の手並みの鮮やかなこと。
「ごめんなさい。せっかく好条件で誘って頂いたのに申し訳ないのですが、今回は別の所に混ぜて貰う事にします」
「そっか。それは残念」
「また機会がありましたら、その時は宜しくお願いします。それでは、陽は用事があるので、これで失礼しますです! 先輩方の健闘をお祈りしています!」
陽は丁寧に頭を下げてから、スカートを翻して生徒達の雑踏に混ざっていく。
「良い子だよな、彼女。のえるの毒牙に掛からなくて良かったよ」
その後姿を見送りながら感慨深げに呟いた菖蒲に、恵流はくすりと笑みを零す。
「毒牙に掛かってるのは菖蒲の方だよ」
言われるまでもないと溜息を吐く菖蒲。恵流は小さく「陽のね」と付け加える。
「健闘を祈ってる。だってさ、菖蒲」
その言葉の意味を深読みすると、陽の腹黒さが伺えるが……果たして、その真なる所はどちらだろうか? 大胆さと慎重さを併せ持つ後輩に、恵流は益々興味を持った。
「ん? ああ。いつも通り、お守役を頑張るぞ」
「その前に、健闘しないで良いようにしないとね」
昨夜の激戦の結果は学園中を電撃的に駆け巡り、一夜明けて大多数の生徒に知れ渡っている。
面目を潰される形となった七色。そして、七色を擁する強豪の執行部。もし、意趣返しを目論むとしたら、どの場が最適か。そんな事は、分かり切っている。
午前中の日程がつつがなく終わり、昼休み。恵流と菖蒲が人気の薄い校舎隅の階段の踊り場で食事をしていると、昨日と同じ来客があった。
恵流の視界を彩る純白。鼻孔を擽るノーブルな香りは、学内序列二位に君臨する霧羽七色の髪から発せられていた。
「こんにちは、菖蒲。それと、平野恵流」
「ここっ、こんにちは、七色」
菖蒲を呼ぶ時と恵流を呼ぶ時の声音の違いには無視するのも憚られる温度差があったが、恵流はそれを笑顔で無視して見せる。
「やぁやぁバナナさん。昨日の今日で、僕にも挨拶をきちんとしてくれるバナナさんは他の人達と比べると器が広いなぁ」
その台詞が皮肉なのか嫌味なのか七色は捉えかねた。どちらにせよ、恵流の言葉で自覚した自らの小器に僅かに顔をしかめる。
「の、のえる。呼吸をするように人の気を逆撫でするのはいつもの事だけど、七色相手には自重してくれよ」
「事実を言って素直に称賛しただけなんだけどなぁ。悪意的に受け取る方に問題があるでしょ。菖蒲の物言いだとさ、まるで僕がバナナさんの器がちっちゃいって言ってるみたいに聞こえるけど、それは菖蒲の解釈で、そして多分菖蒲の本音だよね」
恵流の背後で七色の両目が眇められる。弁解しても墓穴を掘りそうだと直感して、菖蒲は内心で汗を流しながら話題を切り替える方向に働きかける事にした。
「七色は俺達にまた用があって来たんだよな?」
「逃げましたね」
「逃げたね」
追従するなと言うように七色は空色の瞳で恵流を一瞥してから、咳払いをする。まともに相手するだけ痛い目を見るのだと、七色もいい加減学んだ。
「腹の探り合いをするつもりはありませんから、単刀直入に聞きます。隔週のイベントのエントリー日時を教えて下さい」
受付の締め切りは明日のホームルームが始まる直前までだから、大方の生徒達は既にその腹を決めている。
ただ、情報は武器だ。特に、強豪に狙われている自覚があるのなら、それこそ胸中に秘めておくのが最善だと菖蒲は考えているのだが、恵流はチョコレートを口に含んで。
「とりあえず、午前十時の部にエントリーするつもりだよ」
事も無げに告げる。疑うにはあまりにも自然体。
「嘘は吐かないから、安心してよ」
恵流は邪気のない微笑みで、七色の不機嫌面と対立する。此方は駄目だと見切りを付けると、真贋を決する対象はもう一人の方へ移り、菖蒲はまたも板挟み。
七色の険を含んだ視線を浴びながら、菖蒲は穏便に済ませる為に早々に答えてしまう事にした。
「お、俺も恵流からそう聞いたぞ」
スッと瞳を細めて、菖蒲を見つめること数秒。七色は後ろ髪を払って咳払いをする。
「菖蒲があたしに虚言を弄するとは考えられませんし……解りました。貴方の言葉を信じます」
そう七色は告げて表情を和らげた。
「用件も済ませましたし、あたしはこれで。貴重なお昼の時間を割いて頂いた事、感謝します」
落ち着きのある所作で一礼して、七色は踵を返す。
火山が噴火せずに済んで安堵する菖蒲の傍らで、見るも鮮やかな白銀の髪はそれだけで絵になるなぁと見当違いな感想を抱きながら、恵流はより見当違いな台詞を吐いた。
「バナナさんもここで食べていけば?」
「先約がありますから今回は遠慮します」
背中を向けたまま七色が応じる。恵流はそのぞんざいな対応を気にした様子もない。
「そっか。それなら仕方ない。また機会があれば誘ってみる事にするよ」
今度は七色からの返事はなかった。七色の後ろ姿が廊下の方に消えて行く。
「のえる……頼むから、いたずらに七色の気を逆撫でしないでくれないか。心臓に悪い」
昨日の今日で、恵流に嵌められた屈辱が薄れるわけもない。悪感情を継ぎ足しするような振る舞いは控えるべきだった。
「僕は別に煽ってるつもりはないんだけどなぁ……でも、今後はもう少し気を使ってみるよ」
「そうしてくれ」
性悪の認識を得ている恵流だが、ちゃんと話せば解ってくれるのだ──。
「でさ、エントリー時間なんだけど、気が変わったから他の時間帯にしようか」
──そう本気で思っていた時期が菖蒲にもあった。
「おい……平然と嘘を吐いたのか」
「いや? 『つもり』って言ったよね、僕」
「最初からその『つもり』だったんだろ」
「バナナさん擁する執行部が同じ時間に合わせて来る気配がなければ、本当にさっきの時間にしたよ。でも、事情が変わった。無策で怪物の口に飛び込むのは得策とは言えないよね」
恵流の言い分は最もだった。七色擁する執行部コミュニティは学園屈指の強豪で、まともに衝突すれば自分達は欠片も残らず粉砕される。
「事情を変えたのはのえるだろっ」
二日後に待ち受けるであろう苛烈な尋問を想像して、菖蒲は頭を抱えたくなった。
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