0-8 「敗北の味が美味しいなら負けてもいい」

 ポッドが閉ざされると、あれだけ騒がしかった雑音が絶無となり、僅かな機械の駆動音だけが耳朶を震わせる。

 力を抜き、背もたれに身体を預けて、菖蒲は束の間の平穏に一息だけついた。

 設定は既に腕輪型の端末バングルに記録されている。

 後は起動コマンドを唱えるだけで、菖蒲の精神は肉体から離れて、七色の待つ仮想空間に向かう事になるだろう。


「七色、怒るよね……きっと」


 菖蒲には男装の他にも秘密がある。その秘密の所為で、七色に不快な思いをさせてしまう未来が簡単に描けた。

 躊躇している間も、無情にも秒針は進む。外界から隔絶されたポッドの内部にまで、自分を急かす声が聞こえてくるような気がして菖蒲は観念する。


「あぁぁもぉぉ。絶対に許さないからね、のえる」


 設定を確認し誤りがなければ、後は幻想世界へ誘う魔法のコトバを呟くだけ。

 覚悟を決めて、半ば自棄っぱちになりながら、菖蒲はその命令コマンドを口にする。


起動ブート――混成現実ケミストリーアル


 その声に応えるように、幾つかの機器が明滅する。正常に処理が開始されたのを見届けて、菖蒲は目を瞑った。

 次第に薄れる意識と現実感。憂鬱を持参して、菖蒲の精神は戦場へと導かれていく。

 次に菖蒲が瞼を開くと、先ほどまで自分が立っていた何の変哲もない昇降口の光景が広がっていた。

 周囲をぐるりと囲むようにギャラリーが居て、正面には純白の片翼の幻装デバイスを身に付けた七色が立っていた。


「少し遅かったですね。彼から連絡でもありましたか?」


「だったら多少は気楽になれたんだけどな」


「気楽、ですか……問題が無ければ、対戦を始めたいのですが」

  

 七色に返事をする前に、菖蒲は両手の指を動かしてみた。思った通りに違和感なく動く事を確認してから、幻装デバイスを呼び出す。


「おいで、小烏コガラス


 命令コマンドを認識した端末が設定された処理を実行した。

 菖蒲が右腕を伸ばすと、どこからともなく飛んできた一羽の烏が止まり、その形を崩す。夜の闇を抽出したような影は、やがて鞘に収まった一振りの刀となった。


「噂は耳にしていましたが、随分と凝った演出をするデバイスですね。あの『ウィザード作』と言う話は本当なのですか?」


「さ、さぁ? 貰い物だから、出処は俺にもサッパリだ。七色のその翼は、第三設定世界で人気の『空の競技』とやらで初代王者に輝いた時の景品って聞いたけど、何と言うか……煌びやかだな」


「厳密には、優勝の折に得た素材リソースで制作したものです」


 バサリとはためかせる。翼は七色の意識と連動して動くようで、その度に抜け落ちた数枚の羽が青白い燐光を発しては粉雪のように夜闇に溶けていく。

 七色の浮世離れした外見も相俟って、凛としたその佇まいは神秘的だった。


「菖蒲の準備も万端のようですし、そろそろ始めましょうか。公正を期して宣誓からです。構いませんか?」


「ああ。時間を引き伸ばしたって無駄だろうし、いい加減に俺も腹を括った」


 お互いに腕輪をしている利き手とは逆の腕を突き出す構えを取る。


「「対戦規定に従い、取り決めを履行する事をこの現実に誓う――READY!!」」


 そう二人が宣言をすると、予めプログラムされていた対戦システムが起動を承認して、二人の眼前に大きく『10』の数字が出現した。


 カウントダウンだ。


 視界の左下にはHP=体力ヒットポイントを示す緑のゲージとEP(エフェクトの使用に消費されるポイント)蒼いゲージが、敵対者の頭の上にはそれよりも縮小された物差しが展開される。

 設定や装備次第では他にも様々な情報を映す事が可能だが、あまりごちゃごちゃとしたものは好まない菖蒲は表示項目を最小限に留めていた。

 余計な情報に神経を割いて、目の前の敵の挙動を見落としたら本末転倒。近距離での戦闘を得手とする菖蒲の持論だ。


 カウントダウンは『3』にまで差し掛かった。


 菖蒲は自らの幻装を左手で鞘から引き抜いて、その切っ先を見つめる。


 『2』


 刃長が70センチ程の無骨な打刀の刀身が、蛍光灯の光を受けて妖しく煌めいた。


 『1』


 腰だめに構える。


 『0』


 恵流不在のまま、戦いの始まりを告げる調子はずれなブザーの音が辺りに響き渡った。


「っ」


 引き絞った弦から放たれた矢の如く、一息で七色に肉薄する菖蒲。そのバネは並ではない。

 それは菖蒲自身が設定した能力ステータスに依る所も大きいが、仮想体を操作する熟練度の高さが窺えた。

 下段から切り上げられた凶刃を七色は柔らかな風を伴って、ふわりと後方に跳躍して間合いを取る。


「逃がさない……!」


 速攻にしか自らの勝機はないと踏んでいる菖蒲が懸命に追い縋る、が。


「――実行ラン――」


 七色の唇が魔法を実行する為の呪文を紡ぐ。


風の音カゼノネ


 刹那、実行ラン命令コマンドを受けた端末が仮想の世界に干渉し、七色の影響/効果エフェクトを仮想の現実に上書きする。


「まぁ、そう来るよなっ!」


 菖蒲の猛追は強烈な向かい風によって阻まれ、大きく速度を落とす。

 追撃を諦めて体勢を立て直そうとするまでの菖蒲の判断は迅速だったが、七色の方が一枚上手だった。

 翼から抜け落ちた無数の羽が意思を持ったかのように菖蒲に殺到する。


「うっわぁ。これは捌き切れないぞ」


 菖蒲は弱気を漏らしながらも器用に刀を手繰って何発か切り落とす。

 頭や心臓等のダメージ判定の強い箇所の直撃を避ける事に成功して、菖蒲のHPを現す緑のゲージが若干の減少で事なきを得る。

 

 対する七色は青ゲージを一ミリほど消費していた。

 菖蒲の攻撃を阻んだ豪風は霧羽七色に与えられた霧羽七色だけの魔法――Cランク影響/効果エフェクト風の音カゼノネ』だ。

 実行から終了まで、実行者に操作権限のある風を発生させる効果があり、実行時と風を移動させる度に少量のEPを消費する。

 攻撃力の設定こそされていないが、自然由来のエフェクトは軒並み性能が良いとされており、風の音カゼノネも例に漏れず機動力に関して抜群の補助性能を誇っている。


 ギャラリー達は菖蒲の絶技の見切りに呼吸すらも忘れて魅入っていた。


「少し驚きました。補助なしのフラットな状態で最速と評されるスピードもそうですが、PS《プレイヤースキル》はもしかしたらあたしよりも高いかも知れません」


「そんな事を言いながら、七色は随分と余裕だな」


「余裕と言うよりも、久々の強敵との戦闘に胸を踊らせているだけです」


 七色は執行部の主力であり、忌避される対象だ。勝てない戦いを挑む者は序列上位者ランカーには殆ど居ないし、弱い者いじめは七色の趣味ではなく、そうなると戦闘回数自体も減る。

 七色にとって、この菖蒲とのVR戦は喉から手が出る程に設けたかった機会だった。恵流と言う不純物もなく、この日ばかりは恵流に感謝しても良いと七色は思う。


「頼むから、過度な期待はしないでくれよ」


 一方の菖蒲は心の底から気乗りしない風だった。

 菖蒲は七色に絶対に勝てない。この一戦は七色を失望させてしまうだけだと、菖蒲にはそんな未来が既に見えてしまっている。

 先手を完全に封殺されて勝ち目が見る影も無くなり、白旗をあげたいくらいだ。けれど、それは最も望まれない展開だろう。ギャラリーにも、七色にも。

 菖蒲はこの舞台に立つ前に、自分の全てを出し切ると決めている。だから、時間が掛かった。

 与えてしまう失望の幾ばくも軽減できないだろうが、菖蒲なりに最大限の敬意を払うつもりでここにいる。


「――実行ラン――」


 自己満足を形に。虚空に手を伸ばして、菖蒲も自らの魔法の呪文を紡ぐ。


刀匠ソードスミス!!」


 その声に応えるように、命令を受諾した端末が菖蒲の青いバーから二割の代償を持っていく。


 菖蒲は想像する。風の防壁を貫く、重みのある刀身。チャキリ、と鍔が鳴る。

 一秒にも満たない時間で、何もない空間を掴んでいた筈の菖蒲の右手が一本の刀を握っていた。拵えも無骨なその刀に銘はない。


「行くぞ」


「どうぞ?」


 二度目の開戦を宣言し、菖蒲は二刀を手に疾駆する。基本的に接近戦が主体である菖蒲は距離をどうにかして埋める必要があった。


「早さだけでは、あたしの風は崩せません。まさか、二の舞いを演じて終わりではありませんよね?」


 接近しようにも馬鹿正直に突撃するだけでは、風の補助により機動力で優位を取っている七色には容易に距離を置かれてしまう。


「ああ、勿論だ。斬るだけが刀じゃ、ない!」


 その為のもう一振り。右手の一本を菖蒲は迷わず中空に踊った七色目掛けて投擲した。


「刀の用途を損なっているように感じますが、悪くない手です……でも、まだこれだけでは足りませんね」


 七色は風の方向を手繰り、即座に横殴りの風向きに変えて飛来する切っ先を逸らす。それだけで菖蒲渾身の一投はやり過ごされる。


「だろうな。それだけって、誰が言った……っ!」


 逆風が和らいだその一寸、菖蒲は機動力の優位を取り戻す。一陣の颶風となって、着地間際の七色に袈裟懸けの一太刀を浴びせる。

 しかし、七色は焦りの色の一つも見せずに翼で受け止める。七色のHPに微塵の変化も与えられず、菖蒲は歯噛みした。

 七色の幻装デバイスは武器よりも防具や盾としての性質を持っている。風の音で両者の間にまたしても空白が生じる。


「――実行ラン――」


 今度は此方の番と言わんばかりに七色が仕掛けた。


神解けカミトケ


 視界を覆う明滅の後、上空から一本の光の槍が菖蒲の頭上に降り注ぐ。

 神解けカミトケ。霹靂とも呼ばれるその言葉通り、その影響/効果エフェクトは雷を呼ぶもの。

 風の音カゼノネとは異なり、実行してからの操作ができない分、直撃すれば手痛い一撃になるは必定。

 菖蒲は咄嗟に横っ飛びをして直撃だけは避けられた。誘導雷の当たり判定に引っかかり、HPを示す緑のゲージが五分の一ほど持っていかれてしまう。


「やっぱり七色のエフェクトはずるいなっっっ」


「ずるいって、人聞きの悪いことを言わないで貰えますか?」


「紛うことなき事実だ! 自然由来のエフェクトを複数扱える上に、今のでBランクだもんな!」


 神解けカミトケを五回も使われれば、それだけで菖蒲の負けになる。フラットな状態で最速を誇る、序列六位の菖蒲をそれだけで打倒できてしまう。

 同じ序列一桁台であっても、歴然たる差が生じているのは相性の要素が大きい。エフェクトだけではなく、性能面にもそれは生じていた。

 菖蒲は『当たらなければ痛くない』を地で行くタイプで、その電脳体アバターの耐久値は近接タイプの中では壊滅的に低い。命中精度が高く、幻装デバイスで捌けない攻撃には滅法弱い。


 そう設定したのは本人だ。

 VR内を動き回る電脳体アバター。その能力値ステータスの設定の半分は本人に委ねられている。


 項目は『与ダメージに影響する攻撃力』『HPや防御力に反映される耐久力』『エフェクトの使用回数ともすれば干渉性に関わる精神値』『素早さに直結する敏捷性』の四種類。

 各項目の最大値は[25]で、それぞれに適当な倍率が設定されていて、例えば敏捷性が[10]の電脳体は5の電脳体よりも倍の速度で動けるといった単純な数値では換算されない。


 潜在色シンボルカラーが判明すると同時に基本値の[25]がシステムによって振り分けられるが、その後に同じだけの数値を任意に振り分けられる仕組みになっている。


 鶴来菖蒲を例にすると、以下の通り。


【初期値】

攻撃[8] 耐久[3] 精神[5] 敏捷[9]

【任意値】

攻撃[9] 耐久[0] 精神[0] 敏捷[16]

【合計値】

攻撃[17] 耐久[3] 精神[5] 敏捷[25]


 初期設定後に数値を弄るには、高額なコンテンツを桜貨で購入する必要がある為、大半の者がそのまま利用している。

 七色もその一人なのだが、七色はその時点であらゆる思索を巡らせて、自らの影響/効果エフェクトの性質に合うように、数値を特化して割り振った。

 電脳体アバターとの適応性も高く、それらが見事に嵌まり、七色はこうして学内序列二位に君臨している。


「――実行ラン――神解けカミトケ


 七色の頭上に表示されている青いバーが1ドット減少する。何度目か解らない雷の槍が菖蒲目掛けて降り注いだ。

 その前兆を察知していた菖蒲は刀を空に放って、大きく飛び退いている。唸る雷光は吸い込まれるように刀に直撃した。 帯電した刀は地面に突き刺さり、放電を止める。


「――実行ラン――刀匠ソードスミス


 すかさず同じ刀を召喚した菖蒲は七色に肉薄して、上段から切って掛かった。

 七色は影響/効果エフェクトを発動させる猶予がないと判断して、迫る刃を翼で受け止める。

 先程は無傷でやり過ごせた攻防は、しかし七色のHPを示す緑ゲージを僅かに削り取った。


「貫通ダメージですか……!」


 幻装を用いた防御を行った際、相手の攻撃力が補正された防御力を上回っていた場合に発生する。

 それを察知した七色は反撃に転じるのを中断して、風の音カゼノネを発動して距離を稼いだ。

 菖蒲は追撃をせずに地面に横たわった刀を回収する。頭上のHPゲージは半分を下回り三割を切っていた。それが、貫通ダメージが発生した変化の要因だ。


「菖蒲のBランクエフェクト『南無斬ナムサン』が発動していたのですね」

 

 菖蒲の能力も七色と同様には有名であり、当然七色も知っている。


「ご明察」


 菖蒲の潜在色シンボルカラーたる『刀刃』。それが持つBランク影響/効果エフェクト南無斬ナムサン』は、自身のHPが三割を下回ると自動的に発動するエフェクトだ。

 その効果は自身の攻撃力の数値を倍加させるというシンプルながらも強力な能力となっている。発動に際して、EPの消費はないと言うのも菖蒲の超攻撃的能力値に優しい。


 これでお互いにBランクの影響/効果エフェクトまで使用した形だ。菖蒲のHPは僅かで、七色のHPは僅かしか減っていない。

 その点だけ見れば優勢なのは七色の方だが、しかし形勢は菖蒲側に傾きつつある。


「このままでは、今度はあたしの方がジリ貧になってしまいますね」


 Cランク風の音カゼノネもBランク神解けカミトケも、菖蒲には遣り過す手段がある。

 対して七色には、菖蒲の斬撃を封殺する手段がない。加えて、防御重視の幻装デバイスを貫通してダメージを与えてくる一撃をまともに受ければ、必殺となりうる危険性を孕んでいた。

 七色は『面白い』とクスリとしながら、同時に『残念』だとガッカリする。


「賭物の都合上、あたしも出し惜しみは出来ません。ですから、一分です。この戦闘は、最長でも一分で決着します」


 させないとばかりに菖蒲が怒涛の攻勢に出るが、一瞬の間隙を縫って七色が大きく中空に舞い上がった。


「菖蒲も、負けたくなければ全力で抵抗して下さい」


 観念の苦笑を零した菖蒲を見下ろして、七色は強敵との対戦に沸き立つ高揚に急かされるまま、自らの内にある可能性を呼び覚ます。


「――実行ラン――」


 それは、誰もが秘めていて、けれど大多数の者が解放まで至らない影響/効果エフェクトの最高到達点。

 その解放に至った者は、この学園における一定以上の地位を約束されて、羨望と尊敬が注がれる、強力無比な魔法の一柱。


「アレキサンダーの暗帯」


 そこからは一方的な展開だった。



 七色はその手に刀を持ち、その切っ先と言葉を菖蒲に突きつける。


「どうして、Aランクエフェクトを使わなかったのですか……!」


 菖蒲は何故かAランク影響/効果エフェクトを使わずに七色に立ち向かった。

 その表情、立ち回りこそ真剣そのものだったが、それで何とか成るようならAランク解放者が序列の上位を席巻したりはしない。

 発動から、たったの十秒程度で菖蒲は武器を取り上げられるまでに追い詰められた。


「や、ちょっと事情があって。でも、勘違いだけはしないで欲しいんだけど、俺は俺に出来る範囲で全力で戦ったつもりだ」


 Aランク影響/効果エフェクト同士のぶつかり合いを期待していたギャラリー達からは落胆の声が上がっているが、七色の心境はそんなものでは収まらない。


「彼から負けるように指示でもあったんですか?」


 両手を上げて降参の姿勢を取りながら、菖蒲は無理矢理笑みを作る。もはや、申し開きも無用。腹をくくって、とりあえず笑っておこうと菖蒲は思った。


「黙り、ですか……」


 七色の胸中は複雑だった。だが、表出しそうな感情を押し込めて、七色は冷め切った無表情で言う。


「まぁ、いいです。なんにせよ、菖蒲の負けは負け。対戦前の取り決めに則って、菖蒲には明日から執行部の方に籍を置いて頂きます」


 淡々と告げて、手に持つ刀を振り上げた。と、俄にギャラリーの方が騒がしくなる。菖蒲の眼前には、目を見開く七色の姿。介錯の手は完全に止まっていた。

 不思議に思った菖蒲は、七色の視線の先を確認する。そこには群衆に紛れて見知った顔の男が一人いた。


「あれ、終わりなの?」

  

 そいつは平然とそんな事を宣い、何処からともなく取り出した板チョコを食わえる。

 菖蒲も七色と同じように硬直。そして、認識が追い付いてくると、次第に怒りが湧いてきた。


「のえる……言いたい事は色々あるけど、まず一つ良いか」


「なに? もしかして、このチョコが食べたいの? いいよ、あげる」


 恵流が、つい先程まで自分が口にしていた板チョコを菖蒲めがけて躊躇なく放り投げる。


「いらな──うわっ!?」


 飛来する板チョコは菖蒲の元に届く前に来た道を豪速で引き返した。


「あげる。じゃ、ありません」

  

 七色が刀の腹を使った鋭いスイングで打ち返したのだ。恵流の所持するチョコレートが回復アイテムだから、だとかそういう理由ではなく。


「人に勝負を持ちかけておいて、大遅刻の弁解もなしですか」

  

 七色を突き動かしたのは、純然たる憤慨だ。主に菖蒲の不可解な手抜きに対する八つ当たりの方。


「バナナさん不機嫌だね? そういう時こそ甘い物だよ。敗北の味にチョコレートはいかが?」


 七色の醸し出すプレッシャーを歯牙にもかけず、恵流は余裕綽々の様子。恵流の発言の中に聞き逃せないフレーズがあった。


「敗北? それは、貴方側の結果でしょう? それとも、この劣勢を覆す秘策でも用意しているのですか?」


「秘策なんてないよ。そもそも、もう結果が出てるしね」

 

 恵流はチョコレートを頬張りながら、片手で中空に表示させたパネルを弄る。ディスプレイを可視化させるタブにチェックを入れて、七色の方に向けた。

 そこには日付と時刻が表示されている。時計の表示は、日付が変わってから三分が経過している事を教えてくれている。


「時間がどうしたのでしょうか?」


 七色は表示ミスをしているのではないかと暗に告げた。 恵流は片手でチョコレートを弄びながら、画面をそのままに端末を操作して音声ファイルを再生する。


『勝負内容はシンプルにしよう。僕を倒したら君の勝ち。倒せなかったら君の負け。バナナさんが勝てば、菖蒲は執行部に入って、僕は菖蒲との接触を金輪際しないことを誓う』


 今日の昼休みに恵流と七色の間で交わした対戦の取り決めを録音していたようだ。それを聞いた七色は、なるほどと理解を示す。


「どうやら、貴方を倒さなければならないようですね」


「その通り」


「ですが、これは決して油断をしているのではありませんが、貴方とあたしでは勝負にならないと思います。要の菖蒲は虫の息。無駄な抵抗はやめて、潔く負けを認めて頂けませんか?」


 これ以上、あたしの気持ちを逆撫でする前に……そんな副音声を菖蒲だけは正確に汲みとった。


「の、のえる。もう七色は怒り心頭だから、ここからは煽るなよ。絶対煽るなよ?」


「人聞きが悪いなぁ。僕は人を挑発した事なんて、この人生で一度もないよ」


「沢山してるからな! 俺のこの目がしっかりその現場を見てきたからなっ」


「相手が勝手に邪推したり暴発したりしただけだよ。僕には悪気はないのに、言葉って難しいね」


「白々しい! ほんとに、今回だけは頼む。後生だから」


 自身の喉元に突き付けられた刀が夜光に煌めいている中で、恵流に懇願をする菖蒲は自分の置かれている状況が可笑しくて泣きそうだった。

 これもある意味では命乞いなのかも知れない。そこまでされて何も感じないほど恵流も鬼ではない。


「話し合いが済んだのなら、早く結論を出して下さい。こんな茶番は早々に切り上げて、布団に入りたいです」


「じゃあ、試しに戦ってみる? 君じゃ、勝てないと思うよ」

 

 小さな声で「負けもしないけど」と付け足す。悪意に塗れた発言のチョイスだ。菖蒲は心の中で、のえるのばかー! と喚き散らす。


「ほぉぅ……」

  

七色の瞳が好戦的な色を帯びた。怒りと期待が綯い交ぜになり、アドレナリンがどぱーっである。


「堂々と勝てないだなんて言われたら引き下がれません。途轍もなく消化不良でしたし、都合が良いです」

 

 菖蒲のアバターが光を散りばめて霧散する。あっさりと菖蒲にトドメを刺して、七色は恵流と対峙する。

 恵流は鬼ではない。鬼ではないなら、何か。答えは出ている。恵流は自他共に認める『ゲス』だ。鬼と喩えるなら、七色の方がよっぽど適役だろう。

 ゲスは鬼ほど強くない。非力だからこそ、戦わずして相手の戦意を踏みにじる手段を取る。


「戦う前に、もう一つだけ良いかな」


「降伏の申し出以外なら構いません」

  

 恵流はニッコリと微笑んで、中空に表示されている画面をタッチする。操作に応答したのはまたしても音声ファイルだ。


『「今日の夜に決着にしない?」

 「調整は可能です」』


 音声は其処で途切れる。今のやり取りがどうかしたのか? と、七色が睨むようにして恵流を見る。


「これ、録音した日付が昨日になってるんだよね」

  

 恵流の小細工を察した一部の聴衆から非難の声が上がり始めた。ここまで言われれば、恵流の仕掛けた言葉遊びに七色も気づかざるを得ない。


「昨日中に貴方を倒せなかったあたしは敗者だと……そう、言いたいのですか」

  

 ぴくぴくと眦を震わせて、震える声で尋ねる。恵流は笑みを絶やすどころからニパーっと太陽のように笑った。


「そうだね!」


「……っっう」


 その笑顔が、七色の内に眠る邪心を煽るのなんの。無邪気な恵流の様子に七色は喉元まで出かかった反論の言葉を飲み込む。

 何を言っても、手痛い反撃を食らうのは自分だと判断して自制心を働かせる。

 卑怯だと罵れば、ルールについてきちんと言及しなかった七色が悪いと返されるだけだ。言葉通りに受け取るなら、恵流は何も間違ったことは言っていないのだから。

 恵流の人間性についても噂だけではなく幾度もの対話で理解していた筈なのに、ちょっぴり不利な条件を付けられたくらいで七色は油断していた。


――戦いなら勝てると、慢心していた!


「それで、結果は出てるけど、やっぱり戦うの? こう、むしゃくしゃしたからとか、そんな感じで。それって何だかとっても往生際が悪いよね」


 ニコニコニコニコと人を喰ったような笑みで正論の並べ続ける恵流に、七色は自らの浅慮に苛立つ。

 ここで恵流の口車に乗せられて攻撃をしようものなら、不名誉な烙印を負うのは避けられない。先程自らが告げた降伏勧告を翻す事になってしまう。

 だが、七色側もこのままおめおめと引き下がるわけにはいかない。身一つならまだしも、七色の敗北は執行部全体の損失に繋がるからだ。


 どう切り出すべきか。恵流の仕掛けた罠は卑劣だが、言質という強力な材料によって支えられている。

 公正ではない。公正ではないが、恵流の口八丁を見抜けなかった七色にも落ち度がある。

 場合によってはそれこそ往生際の悪い醜態を晒す事になる。八方ふさがりかも知れない、と七色は思った。


「僕達の勝ちだから、敗者であるバナナさんには此方の要求を履行する義務が生じるね」

 

 そう告げて、恵流は再び音声ファイルを再生する。


『「貴方が勝った場合は?」

「そうだなぁ。バナナさんには、僕達に協力して貰おうかな」』


 協力――その言い方も狡猾だ。協力の内容については一切言及していなかった。要求が長期に渡って効果を及ぼすものだとしたら、七色は実質的に執行部から去る事になるだろう。

 菖蒲と恵流のチップが『今後、金輪際』接触を断つと言う物であった以上は、よっぽどの内容でもなければ文句を言える立場にない。


「その協力の内容についても、事前にちゃんと聞いておくべきでした」


 相手はゲスで評判の平野恵流。これから何を注文されるのか、考えるだけでも悍ましい。


「別に、無理難題を突き付けるつもりはないから安心していいよ」


「御託は結構です。貴方はあたしに一体、どんな協力をさせるつもりですか」


「隔週のイベントが終わったら、僕達と一緒に"フラグナ"に潜って欲しいんだ」


 フラグナ。それは非公式に"バグ"の認識を得たクエスト一つ残して、既にクリアされた第一設定世界の名称。

 共に設定世界にログインするだけ。それは、七色の想像よりも遥かに易しい内容だった。しかし安堵するのはまだ早い。もう一つの問題が残っている。


「は、はぁ。それで、期限は?」


「その一日だけ。一応、ズルをしたって自覚もあるし、このくらいでちょうど良いかなって」


 その緩すぎる条件が、反って七色の不審を煽る。リスクを列挙して、吟味して、七色は結論を出した。


「その程度で宜しければ、喜んで」


 中身が何であれ、一日で精算できる。しかも、フラグナは既に用済みの世界。多少の無茶をした所で影響は少ない。


「ありがとう。やっぱりバナナさんは菖蒲の姉貴分だけあって器が大きいね」


 恵流の気が変わる前に要求を確定させた。その程度で済むなら安いものだと、この時の七色はホッとしていた。


 それが間違いだったと七色が気づくのは、まだ少し先の話。

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