アンチヴレイブ
出壊鉄屑
アンチブレイブ
一章 少女と勇者
プロローグ
濃霧の立ちこめる街路を、朝日が微かに照らす。普段なら住民が起床するには早く、街は静寂に満ちている。
だが今日に限っては、その静けさをかき乱す珍客がいた。
石畳の地面を慌ただしく蹴る音が、煉瓦作りの壁面に反響した。霧に視界を奪われ、つんのめりながらも、男は必死だった。
普段は裕福な暮らしをしているのだろう。
彼は何度も、自分の走ってきた方向を振り返り、恐怖を振り払うように頭を振った。
男は後悔する。昨夜、女を侍らせ豪遊したことを。女達と一夜を共にしたことを。
それがなければ、酒を飲み過ぎる事も、刺客の存在に気づく事が遅れることも無かっただろう。
「あのクソ女が!」
男は理不尽な叫びを上げる。彼にとって女は、遊びや道具にすぎない。しかしその道具が足かせになり、男は窮地に立たされている。それが男にとっては何よりも許せなかった。
彼はその整った容姿と甘い言葉で、多くの女と関係をもっていた。始末が悪いのは、興味がなくなった女を奴隷商に売りつけることだ。彼の女癖の悪さは、とどまることを知らなかった。
しかし今その男は、誇りも対面もかなぐり捨て走っている。不気味な追っ手から、逃れるために。
街路に重低音が響く。それは音が何十にも重なっているように聞こえる。まるで心臓の鼓動のように、一定の周期で大気を振るわせ彼の耳に届く。そのたびに彼は焦った。この音こそが自分を誰かが追っている証拠。それは次第に彼へと近づいてきている。
次の瞬間、光が煌めいた。男は思わず立ち止まる。外壁に先端の折れた剣が突き刺さっていた。彼の頬が薄く切れ、血がにじむ。
「がぁぁぁぁぁぁ!」
男は振り向きざまに、腰に吊した細剣を振るった。すると、三日月型の光り輝く斬撃が飛翔し、霧もろとも宙を切り裂いた。それは辺りを照らしながら、外壁に衝突した。
男はぎょっとする。その光によって、一瞬だけローブ姿の人間が露わになったのだ。そいつは道を挟んで反対に立っていた。
男は咄嗟に路地裏へと走った。逃げる目標はない。彼は、その場にいたくないという一心で闇雲に走っていた。
男は恐怖で震える。男が怖いのは追っ手の風貌やその執拗さではない。さきほど垣間見たローブの奥にある眼。その眼にあらがいようのない、不快感を覚えたからだ。
あの眼は、何度も見たことがある。女を殺す瞬間、女どもは揃ってあの眼をしていた。憎悪に蝕まれ、殺意に染まった眼だ。俺は死に神に見入られてしまったのか。
男は、半ば狂乱しながら逃げる。息を切らせながら、狭い通路を進む。
「久しぶりだな、ルイア」
唐突に自分の名を呼ばれ、男は咄嗟に剣を振るった。
「誰だ! お、俺はお前なんぞ知らない」
精一杯、
「分からないだろうな。お前はいつだって女しか頭にない」
狭い通路に声が反響する。どこから聞こえてくるのか分からない。
「な、何の恨みがある!」
「心あたりが、あるんじゃないか?」
静かで落ち着いた声色。人間味のない冷徹な響き。その時ルイアは、追っ手の声を聞いて察した。こいつはルイアの命に毛ほども興味はない。ルイアが死のうが死ぬまいがどうでもいいといった様子だ。では何故自分を殺そうとしているのか。ルイアにはその理由が分からず、不気味で仕方なかった。
追っ手の発する重低音の振動だけが、路地裏に響く。それを聞くたびに、ルイアには死が近づいているように感じた。彼は絶望しながらも、必死に訴える。
「なあ、助けてくれ! これまでのことは反省してる。お前の欲しいものなら何でもやる!」
「本当か?」
「あ、ああ。本当だ。金でもなんでも。女だっていくらだって取り繕ってやる」
ルイアは覚束ない足取りで、細い路地の奥へと進んでいく。声の主を探るべく、ひっきりなしに視線を動かす。
「なあ、どこにいるんだ! 俺が身につけているものも、全部持っていっていい。だから……」
「俺が欲しいのは……」
ルイアの言葉を遮るように冷たい声が響く。
耳元で、吐息と共に言葉が発せられる。
「お前の命だ」
「うぁぁぁぁぁぁぁ!」
ルイアは振り向き、乱雑に剣を振るう。周囲の壁や、地面に斬撃が衝突し、剣の跡を刻んでいく。
だが、その一つたりとも人影を掴むことはなく、ただ瓦礫の山を築くだけだった。
ほどなくして、ルイアは剣を降ろした。息を大きく乱しながら、周囲を見る。いつのまにか、霧は晴れ、眼前の光景がしっかりと視界に入った。裏路地は、まるで嵐が通ったかのような荒れようだった。
そこで、ルイアは胸をなで下ろす。さっきまで聞こえていた不気味な振動音が消えたのだ。奴はルイアを殺すことを諦めたようだ。
「やった!」
そう喜んだ瞬間、背中に何か堅い物が当たった。
咄嗟に振り向き叫ぶ。
「やめ……」
その言葉を待たないまま、肉の引きちぎれる音が響いた。
ルイアの頭部は吹き飛び、彼の体はその場に崩れ落ちた。
「まずは一人」
ローブ姿の男は最後にそう呟いた。
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