第2話

 湿気と魔力が充満する下水道。中心を流れる汚水には廃棄された魔導具が大量に浮かび、多種多様な魔力を発していた。下水の壁面にはその魔力を欲してか、スライムが至る所に群生していた。

 普通ならこんな不快な領域に好んで足を踏み入れる人間はいないだろう。しかし、金髪の美少女はここに来る必要があった。いや、追い込まれたといった方が正しいかもしれない。


 ミリアの足音が忙しなく木霊する。彼女は下水の上に渡された連絡通路を必死に走っていた。

 彼女は先の仮面集団から命がけで逃げ出し、この下水道へとたどり着いた。ここなら狙撃に気を病むこともない。ただ、背後の敵に気を配ればいいだけだ。

 ファウンドは未だに彼女の背で寝ている。彼を運び為にミリアはずっと『斥力』を発動している。その結果、魔力を著しく消耗してしまっていた。

 彼をこのまま背負って、移動し続けられるだろうか。正直、半時が限度だろう。全身を魔導具に置換した彼の重量は、生身の少女が背負える限度を優に越えている。魔法を駆使しないことにはどうにもならない。

 ミリアは横目に下水を見る。下水に彼を隠せば、追っ手に気づかれないのでなかろうか。ここは薄暗く視界が悪い。加えて、雑多な魔力が蠢いている。魔力を探知して彼を見つけることは不可能に近いだろう。

 凍えるような冷気がミリアの脇を抜ける。悪魔の囁きが彼女を誘う。本来なら、彼女はそんな選択肢を選ぶことは絶対にない。だが、彼女はひたすら疲れていた。

 信じていた物に裏切られ、正しいと思った物が偽りだと突きつけられた。犯罪者の恩人を連れだって、世間で言う正義に命を狙われ続けた。

 今では彼女は頭で、機関が悪だと認識している。だが、それがどうしたというのだろう。自分も悪ではないか。


 ミリアは、裏路地で出会い頭にぶつかった機関の男を思い出す。彼は善意から自分を助けようとした。にも関わらず、暴力でそれに答えた。今頃、あの裏路地で死んでいるかもしれない。

 機関を正義と信じている人間は、悪だろうか。いや、そうではない。指示を出している上層部が悪であって、機関の悪行を知らない勇者達に非はないのではないか。そんな人たちを自分の命欲しさに傷つけるのは、やはり許せない。

 ミリアの顔から元来の生気が失われている。唇は青白く、目は虚ろだ。豪雨による体温低下によって、彼女は明らかに衰弱していた。

 今さら、些細な悪行をしても変わらないではないか。自分はもう十分頑張ったではないか。彼も許してくれるはずだ。

 そんな思いが彼女の心を満たし、そして彼女は立ち止まった。

 彼女は通路の淵に立ち下水を覗くと、ファウンドを背から降ろした。そして、徐々に下水へと入水させる。

 ミリアの瞳に涙が溢れ、ファウンドのローブに落下する。


「どうして、あなたは私を助けたの……」


 彼女の嘆きが漏れ出る。彼女の揺れる視線がファウンドの背中へと注がれる。


「私はこんなの期待してなかった。こんなに辛いなら事実なんて、知らないままで良かった。私なんか放っておいてくれれば良かったのに!」


 ファウンドの身体は汚水に覆われていく。彼女はそれに未練がましく言葉をかけ続ける。


「ごめんなさい。非力な私を、弱い私を許して……」


 そして、ファウンドを置いて、ミリアは下水道を再び走り始めた。


ΨΨΨΨ


 ファウンドを置き去りにして数分、ミリアは呆然としながら歩いていた。

 彼女は気づいていた。ファウンドを置いてきた時点で逃げる意味が――意志が自分に無いことに。

 彼女は正義を志して生きてきた。それを支えていた柱が崩れ去った今、彼女の気力は根こそぎ消え失せていた。


『好きにすればいいんじゃない?』


 姉の言葉がふと蘇る。ミリアが勇者に成ると家族に言った時、唯一賛成してくれたのが姉だった。


『なるようになるわ。気負ってもしょうがないしね』


 姉は自由人で、おっちょこちょいで、とっても可愛らしい人だった。厳格な母とは対照的だったため、姉は母と顔を合わせるたびに喧嘩をしていた。


『ミリアぁぁぁ』


 そそっかしい姉のせいか、何故か妹のミリアの方がしっかり者になった。いつも姉はミリアに泣きついてきて、ミリアがそれをあやすのがお決まりだった。


『ふふっ。じゃあ、頑張ってね! ほどほどに』


 いたずらっぽく笑うその顔が、あまりに可愛くて、その時はミリアもつい笑ってしまった。でも、その言葉が姉と交わした最後の言葉だった。

 正直、信じられなかった。みんなを驚かそうと、どこかに隠れてる。そんな気がしてしょうがなかった。でも、実際は、彼女は永遠に帰ってこなかった。

 彼女はエリムスだった。魔法を魔導具無しで発動できる希有な人間。だから、危険な仕事をしていることもあった。だがその詳しい内容をミリアは知らされていなかった。まさか、死ぬかもしれないとは、つゆも思っていなかった。

 大切すぎる人。あまりに大切だった人が死に、ミリアはそれからより鍛錬に没頭した。行き場のない思いを、どう消化していいかわからなかったからだ。

 そして、ミリアは思った。もう、人が死ぬのはごめんだ。

 しかし、ミリアはバグラムの死を看取ることになった。姉の時とは違うリアルな死だった。

 こんな思い二度としたくなかった。だが、バグラムは死んでしまった。機関によって殺された。

 そしてもう一人。ミリアが下水に放置してきた男。ファウンド。

 きっと姉なら言うだろう。


『ミリアちゃんは頑張ったよ。仕方ないよ』


 でも、頑張って途中で放棄しては意味がないのではないか。ここまで頑張ったのに、最後まで頑張らないのはおかしいじゃないか。

 ミリアは立ち止まる。

 やっぱり、ファウンドを連れて行こう。例えそれで二人とも死ぬことになっても、彼を置いて一人逃げるくらいなら、死んだ方がましだ。

 そんな時だった。そう決意した時だった。


「気分はどうだい? ライエンのご息女さまぁ?」


 その声が聞こえたのは。

 ミリアは即座に周囲を見渡す。だが、姿が見えない。


「ここだよ。ここ」


 声はかなり近い。前方から聞こえているように感じる。だが、見えない。

 ミリアは目を凝らす。すると空気が歪み、少しずつ人の姿が露わになった。帽子を被った痩躯な男。彼は生気の感じないその身体と共に、異様な雰囲気を醸し出していた。


「あなたは……」

「俺か? 俺はデミラ。もう追いかけっこは疲れたからそろそろ終わりにしたいと思ってな。出てきた訳よ」


 ミリアは戦慄する。彼はいつでも、自分を殺せたはずだ。ミリアは彼の接近に全く気づけなかった。狙撃を防げるから安全だと思ったが、大間違いだ。魔力に溢れたこの場所は、魔力の気配に気づけない。彼女は彼の気まぐれで生かされてるも同然だ。


「嬢ちゃんを殺すのは簡単だけどなぁ。嬢ちゃんの連れも殺すよう命令を受けてるわけよ。だから、ちいと教えてくれねぇかな? ファウンドはどこだ?」


 ミリアは震える声で言葉を返す。


「知らないわ」


 答える訳にはいかない。下水に置いてきた上に、彼の居場所も教えてしまったら自分は本当に外道だ。


「知らないこたぁないだろ? 嬢ちゃん、自分の立場分かってるんか?」

「知らないものは……」


 その瞬間、彼女に魔導具が向けられた。それは狙撃用の魔導具。撃たれれば、彼女の頭は消し炭になるだろう。


「これでもか? 教えてくれたら嬢ちゃんの命は助けてやろう。ただ、答えないなら……分かってるな?」

「……」

「答えねぇってんならそれはそれでいいさ。ファウンドの事は時間をかけて探すだけだからなぁ。ただ、できれば時間を短縮したい。協力してくれねぇかな?」


 そう訪ねるデミラからは感情の起伏が感じ得ない。彼は面白がっているように見せているだけで、とことんミリアには興味がないようだった。彼の言葉通り、答えなければ容赦なく彼女は殺されるだろう。

 だが、ミリアは決めていた。ファウンドの居場所は絶対に言わないと。我が身可愛さに彼を犠牲にする訳にはいかないと。

 ミリアは恐怖を何とか押しのけデミラを睨みつけた。

 しかし、そんな彼女のささやかな抵抗むなしく、魔導具の発動音が響いた。

 彼女の太股に光の刃が突き刺さる。


「あああああああぁっ」


 彼女は全身に衝撃が走り、地面に倒れる。

 デミラの放ったのは『電撃』の魔法が宿ったナイフ。それは彼が尋問に使う、お決まりの道具だった。


「時間を短縮したいって言っただろ? お前が悩むのをこっちは待ってられないんだ」


 デミラは悶えるミリアのそばまで来ると、座り込んで彼女のこめかみに、狙撃用魔導具をぐりぐりと押しつける。


「ファウンドはどこだ?」


 その質問に対してミリアは全く別の事を考えていた。電撃で頭が麻痺したのかもしれない。だが、この一瞬だけ彼女は恐怖を度外視して、デミラに抱いた意味のない感想を口にした。


「あんた、友達、いないでしょ?」


 瞬間、デミラはミリアの太股に刺さるナイフに魔力を込めた。


「あああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ」


 ミリアは全身を反らせながら大声で叫んだ。強烈な痛みが彼女を襲う。

 デミラはミリアがあと数回の『電撃』で、口を割るだろうとふんでいた。彼は経験上、人間は痛みに対して脆弱な生物だと知っている。だからこそ、この目の前の少女も同様だろうと思った。

 しかし、彼はミリアに対して一つの思いこみをしていた。彼は彼女が魔導具を殆ど使用せずに、怯えて逃げまどう姿を見てきた。そのため、彼女が魔力の乏しい、弱々しい少女だと思っていたのだ。だが、それはファウンドを庇いつつ、かつ機関に刃向かわないよう行動した結果だ。

 だからこそ、彼女が魔導具を容赦なく使った時どうなるか、彼は想像できていなかった。


ΨΨΨΨ


 ミリアは痛みに耐えられず、自身の魔力を全力で解放した。それに呼応し、両手両足に填められた魔導具が一斉に魔法を解き放った。

 彼女を中心に衝撃波が放たれる。老朽化しつつある地面や壁が、より大きくひび割れ抉れる。瓦礫と汚水の混じった混合物が高速で弾かれ、空気すら一時的に押し出された。

 当然、近距離にいたデミラはただではすまない。目に見えない力の塊が彼を遙か彼方に吹き飛ばす。下水道の天井や地面に何度も叩きつけられる。

 竜巻のような荒ぶる衝撃が収まる頃には、デミラはミリアの倒れていた場所が、視線の彼方に辛うじて見える所まで吹き飛ばされていた。

 彼は全身を打ち付けたはずだが、何事も無かったかのように、埃を払いながら立ち上がる。

 彼の衣服は所々すり切れており、彼の表皮を露出させる。それは完全な群青色。それが意味するところは、彼もまた肉体を魔導石へと置換しているということだ。しかも、その色の濃さは魔導具のそれそのもの。置換率はファウンドを越えるだろう事は想像に容易だった。

 デミラは地面に転がるひしゃげた狙撃用魔導具を手に取る。彼はそれをまじまじと見つめてから、投げ捨てた。


「やってくれるじゃねぇか。嬢ちゃんよぉ。こんなに魔力量があるなんて聞いてねぇぞ」


 デミラは言葉とは裏腹に眉一つ変えずに、爆心地まで戻る。だが、そこには当たり前のようにミリアの姿は無い。しかも、崩れた天井から土砂が流れ、道を塞いでいた。


「さて、どうすっか」


 デミラは独り言を呟くと、魔眼を光らせる。彼の瞳に、雑多な魔力に紛れて金色の魔力が浮かび上がった。

 彼の魔力探査精度は、この下水道においても衰える事がない。ミリアの魔力程度、見分けるのは容易だった。例え彼女が、魔導具の残骸漂う汚水の中に潜っていようと、数センチ単位で場所を特定する事ができるだろう。

 しかし、デミラは頭をひねる。何故、ファウンドの魔力が消失したのか。彼の魔力は完全に把握していたはずだ。だが、この下水道に入ってから少しして、奴の魔力の痕跡が完全に消えてしまった。死んだのだろうか。


「嬢ちゃんから聞くのが一番だよなぁ」


 そんな緊張感のない台詞を吐きながら、デミラは暗闇の中へと姿を消した。

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