滑走と累積のバルーン

穂積 秋

1 追跡

 その日、おれはもらいもののゆで卵を前に手紙を開いた。ワープロで打たれた手紙だ。

「この手紙を君が見るころ、ぼくはもうこの地にいないだろう。きみと祝杯をあげられなかったのは心残りだがゆっくり休んでくれ」

「追伸。この卵は悪くなる前に食べること」

 おれは少し考えたが、結論を出す前にやめた。まずやつの願いを叶えてやろう。それが先決だ。

 とりあえず戸棚を探した。語呂合わせのように聖バレンタインデーにもらったバランタインがあったはずだ。しかし、バランタインは見つからず、代わりに見つかったのはマッカランだった。スコッチという共通点だけでマッカランではなくバランタインを貰ったのだと勘違いしていたのだろうか。おれはマッカランの蓋をあけた。

 一滴も入っていなかった。

 しかたがない。おれはさらにその奥を漁ってまだ開けていないグレンドロナックを見つけた。買った記憶がないが、おれの家のおれの戸棚の最奥部にあるものなのだからおれのものに間違いないだろう。まだ開け初めし前髪の、と口ずさみながらグラスを二つ取り出して注ぎ、一つはおれの前に、もう一つはテーブルの向かいにそっと置いた。

「とりあえず、お望みどおり、乾杯だ」

 おれはそう言ってからグラスに口をつけ、ゆで卵を取り出した。

 表面に黒く着色してある。どういうことだ。季節外れのイースターか。

 おれは殻を割り、卵の中身を取り出した。中身は黒くはなかった。

 この卵の意味は、平らげてから考えるべきか、それとも。

 思考よりさきに体が動き、卵はおれの腹の中へと消えてしまった。あとには片側だけ黒く着色された卵の殻が残った。


***


 儀式は、済んだ。

 黒い塗料のついた卵の殻を鉢植えの肥料に使っても良いものなのか、逡巡とともにおれは立ち上がった。開け放たれた窓から秋風が吹き込んだ。秋来ぬと目にはさやかに見えねども。そうじゃない、考えを拡散させるな。悪い癖だ。考えをまとめなければならない。


 やつはおれと祝杯をあげたがっていた。

 やつはおれにゆっくり休めと言った。

 やつはこの地にいないと言っている。

 やつは表面を黒く塗った卵を置いていった。


 これだけヒントがあればおれがすべきことはなんとなくわかった。おれはやつを追いかけなければならない。だがその前に確かめることがある。

 おれは戸棚の下の観音開きの食器棚を乱暴に開けた。右奥にあるバカラのグラスを慎重に取り出した。いつもならここでバカボンのパパよろしくバカ田大学校歌を歌うかあるいはO次郎のようにばかばかばからっととかわめいているところだがいまはそんな余裕はない。さらに神経質に、その奥を覗き見た。悪い予感がしたのだ。予感は的中した。おれが探しているものはそこにはなかった。代わりになにか妙なものがあった。ガラス製の、なにやら丸いものだ。ゆっくりと引き寄せる。部屋の灯りをうけて煌めいた。おれをばかにするやつの眼もこのように光を放つことが多い。そしてその正体を確かめたおれは、やつにばかにされていると確信した。小さなガラス製の小瓶に人の顔に見えるように器用に枝豆を貼り付けてあった。それはおれにこう呼びかけているかのようだった。幻聴だとわかってはいたがはっきりと耳に聞こえた。

「みつけたよ」


***


 おれは小瓶を手に取った。小瓶自体はおれのものだ。前に何が入っていたものか覚えていない。それどころかいつから所有しているのかさえ覚えていない。だが、おれのものだ。やつが遺したものといえばおれをばかにするために細工した枝豆の豆。おれは両眼に模した緑のふた粒の球体を凝視した。

 おれをばかにした緑色の眼はいくら見つめてもおれをばかにしたままだった。張り詰めた種皮が部屋の灯りを反射し、笑って、いや、嗤っているかのようだ。

「けたけたけたけたけたけたけたけたけた」

 やつの笑い声まで聞こえてきた。もちろん幻聴だ。やつの笑い方を研究したことはないが、やつはけたけたとは笑わないと思う。どちらかというと、こっちのほうがやつらしい。

「くふくふくふくふくふくふ。くふくふ。くふ」

 しかしおれの脳はやつらしくないけたけたという笑い声を聞かせた。まあそれはよい。

 ここで冷静さを失ってはやつの思う壺だ。常識的に考えたら一刻も早くこの地を離れるべきだったやつがわざわざおれをばかにするための仕掛けをしかけた理由はただ一つ、おれを怒らせたいのだ。その事実は一つのことを示している。すなわち、逆上すればやつを追いかけることができないということ。

 おれはやつの遺した枝豆をもう一度見た。今度は見つめるのではなく、おれ自身を怒らせないように細心の注意をはらって、観察した。

 この枝豆は剥かれてからまだ時間が経っていない、と思われる。その証拠に、瓶の中に水蒸気が立ち込めているではないか。だんだんと薄れているけれども。

枝豆とはどういうことか。おれは調理前調理後にかかわらず枝豆など買うことはほとんどない。おれの家にあったものではなく、外部から持ち込まれたものに違いない。

 おれはキッチンへと向かった。生ゴミを入れるゴミ箱。遺留品は他にもある。それはおそらく枝豆の残骸。

 眼を血走らせてゴミ箱をあさろうとするおれを阻止しようと待ち構えていたのはさきほどおれの喉を通っていくはずだったが果たせなかったマッカランの空き瓶だった。キッチンの横のゴミ箱を屈みこんで覗き込もうとするちょうどその瞬間を狙い、ここであったが百年目、盲亀の浮木ウドンゲの花とばかり、空き瓶は見事に狙ったようにおれの右手の小指めがけて飛び出した。ごぎゅ、という鈍い音が骨に響き、そのまま空き瓶は床に転がった。

なにが起きたのかその時にはわからなかったが、状況を把握するとゆっくりと痛みがやってきて、おれは右手小指を押さえてうずくまった。痛みが引くまで耐え、ゆっくりと小指をうごかした。よし、動く。大丈夫だ。指切りげんまんに支障はない。おれは立ち上がり、被害状況を確認するべく右手を照明にかざした。

 働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手をする足をする。

 何かと何かを混同して別のものを作り上げた気もするが、気にしないでおく。こういうことを気にしないことが、一般的には長生きする秘訣であり、おれのいる世界では長生きできない秘訣である。

 我に帰った。啄木も一茶も今はどうでもいい。おれが今しなければならないことは何だ。

 枝豆だ。

 ゴミ箱を漁るのだ。

 おれは生ゴミの捜索を再開した。思った通り、枝豆の枝とさやが放り込まれていた。まだ熱を持っている。ガス台に移った。枝豆を茹でるのにちょうど良さそうな鍋を探し当てた。もちろんおれの鍋だ。証拠隠滅を図ったのか、きちんと洗ってある。しかし、水気が取れていないし収納場所が違う。やつがこの鍋を使ったことは間違いなさそうだ。それもたった今の話だ。もしかしたら、追いつけるかもしれない。追いつくのは無理でも、近所で目撃情報を得られるかもしれない。

 おれは部屋を出た。


***


 駅に向かう道を歩きだしてすぐに花屋がある。ここで目撃情報が得られるに違いないと確信したおれは店先で花のレイアウトを変えていた花屋の売り子に声をかけた。気は急くがわざと余裕を持った言葉を使った。

「おはよう。いい朝だね」

「こんにちは。もう昼ですよ。何かご入用ですか」

 彼女は花を売るものにふさわしく花のような笑顔を返した。この笑顔は訓練の賜物だろう。花の笑顔を手に入れるためにどれほどの時間を費やしたのだろうか。あるいは逆で、花の笑顔を持つ娘を花屋の売り子として雇ったのか。いずれにせよ、花を売るのにはぴったりだ。

「今度なにか買わせてもらうよ。今はききたいことがあるんだ」

 とはいうものの、おれはここで花を買ったことは一度もない。だがほぼ毎日顔を合わせているので顔見知りだ。少なくともおれの方は。向こうから見たら数多い通行人の一人に過ぎないだろうが、もしかしたらおれのことを覚えていてくれているかもしれない。そして願わくはやつのことも。

 客じゃないとわかっても花は萎まなかった。見上げた職業根性かあるいは地顔か。地顔だとすれば羨ましい限りだ。おれにこの娘の十分の一も愛想があれば、もっと上手に世の中を渡ってこられただろう。

 おれは花屋の店員に付いて店の中に入った。

「今、そうだな、ここ三十分以内くらいのことだが、こいつがこの道を通らなかったかい」

 おれはやつの写真を見せた。写りはあまりよくないスナップだが、やつが単独で映っている写真はこれしか持っていない。あとの写真は豆粒か胡椒粒か山椒の粒か、どんどん小さくなる映りのものしかない。

「見てないわ」

 写真を見もせずに花娘は即答した。見る気がないということで、これは、あまりよろしくない兆候だ。

「よく見てくれ」

 娘は写真を手にとって、一瞥した。

「覚えてないわ」

「じゃあ、ここ一時間以内にこの道を通った人はどれくらいいるかな」

「わかりません。人通り多いですから」

 そりゃそうだ。滅多に人が通らないところに花屋はないだろう。花屋たるもの墓地のそばであっても比較的人通りが多いところに開くものだ。これは、聞き方が悪かったか。

「急いで通って行った若い男を見なかったか」

「ここ通るひとはたいてい急いでますからね」

「ああ、そうだな、小走りなくらいのスピードで歩いてるやつはいなかったかな」

 そう、これがやつのくせというか特技というか、やつはとにかく歩くのが速い。おれの部屋から逃げ出そうとしているのだから、速く歩いていたことだろう。

「前を走り回ってる子供ならいましたよ」

 おれはあきらめた。悪いのは運か、それともおれの聞き方かなのか、どちらだろう。あきらめだけは悪くないようにしなければやってられない。

「そうか、わかった。今度は花を買いにくるよ」

「お待ちしてます」

 全く情報を得られなかった。花屋の売り子は何も見ていなかったのかもしれないし、何か手がかりを持っていたかもしれない。ただ、情報を持っていたとしても、おれの聞き方が悪かったとしか思えない。そして、そのせいで、やつの手がかりは途絶えてしまった。おれはここで手がかりを得るものだと確信していたため、他の手立てを考えていなかった。これでは何のために外に出たのだ。おれは行動派ではないらしいといつも行動を起こしてから思うのだ。頭脳派であることを願うがおそらくそうでもないのだろう。どっちつかずの中途半端な行動パターンで、中途半端な思考パターンだ。

 花屋を出たおれを待っていたのは見覚えのない子供だった。


***


「これ」

 舌足らずな言葉を滴らせたのは六つか七つくらいの男の子だった。その子は右手に無造作に白い封筒を持っていた。

「なにかな、坊や」

 おれは微笑みとともに言葉を返した。正確には微笑みとともに言葉を返そうとした、だ。自然な微笑はおれが一番苦手とする表情で、しかめ面と受け取られることがほとんどだ。この子が怖がって逃げ出さないことを祈った。

「向こうにいたひとが、渡してくれって」

「おれにか?他の人じゃなくて?」

「うん、今花屋さんから出てくる男のひとにって」

「どんな人だ?」

「ちょっと、怖い感じだね」

 おれは考えた。やつは愛想のよいほうだ。初対面の人間にも取り入ることを武器にしている。やつのことではない。子供にそんな印象を与える知合いはいたか。真っ先に思い浮かんだのは鏡に映った自分の顔だった。他には、ほかには。いや、まてよ、これはおれのことではないのか?

「おれのことじゃないよ、これを渡してくれって言った人のことだよ」

「え、そうなの」

 まさかと思ったが。やはり、というべきなんだろうな。そういう印象を与えがちであることは自覚しているが、認めたくない現実である。だが、そういう場合ではない。この子にお使いを頼んだ人物のことを聞き出さなければならない。しかし子供に人相をノーヒントで説明させるのは難しいだろう。

「男のひとか?」

「うん」

「何歳くらい?」

「六歳。もうじき七歳」

「いや、坊やのことじゃなくてね、手紙くれたひとのことだ」

 この年頃だと世界に自分しかいないのだろう。主語を省略するとすぐこの子のことを聞いたことになっちまう。

「わかんない」

やつ、かどうかはわからないがこの子の依頼主は説明能力のないメッセンジャーを選んだ。賢明なやり方だ。

「この手紙を受け取ったのは、いつごろのことかな」

「あさ」

 今だって朝だチクショウ。いや、昼か。どっちでもいい、おれにとっては朝だ。おれはだんだんいらついてきた。

「おれをどれくらいの間待っててくれたかのかな」

「そんなに待ってないよ」

 この子との会話で初めての有意義な情報だ。急げば追いつくかもしれない。だがその前に折角の手紙を受け取っておこう。おれは急いで封筒を開けた。封はされていない。中の便箋を取り出した。このように書かれていた。

「花より団子。団子を見つけながら花を選ぶとは、ぼくが持って行ったものはきみにとってどうでもよいものなのかな」

 走り書きだ。おれはやつの書いたものをじっくり見たことがないからやつが書いたものかどうかはわからない。だが、書いてある内容からしてやつの手紙だろう。

「そいつはどっちに行った?」

 問いかけたときにはその子はもういなかった。そうか、そうだよな、一刻も早く逃げ出したいよな。

 子供の「そんなに」がどのくらいの時間なのかはかりかねた。この手紙の主はこのあたりにまだいるのかいないのか、いるとしたらどのあたりにいるのか。おれは駅に向かう方を眺めた。眺めてもなんら解決にならないことはわかっているが、男には無駄とわかってもしなきゃならないことがある。

「さっきの、間違い。これ」

 足下で声がしたのでびっくりした。おれの視界の完全に外側だった。さっきの子供だった。

「なんだ?」

「お花を持ってなかったらこれを渡してくれって言われてたの。間違えちゃった」

 ということはさっきのメッセージは花を買ったとき用のメッセージか。小癪な真似をする。

 おれは封筒を開けた。

「見渡せば花ももみぢもなかりけり」


***


「坊主、大事なことだ。よく考えて答えてくれ」

 おれはさっきの子供を見下ろして言った。言ってしまってから見下ろしながら話すのは良くないと思ったので、しゃがんだ。しゃがんだおれとその子供はだいたい目の高さが同じくらいになった。

「坊主は時計を読めるか」

「読めるよ。書けないけど」

「字のことじゃない。時計があったら時間がわかるか」

「うん」

「じゃあ、今何時だ」

 おれは腕を前に出して腕時計を見せた。

「短い棒が10と11のあいだ、長い棒が、あれ?長い棒がないよ」

「坊主が短い棒と思っているのが長い棒だ」

「そっか。じゃあ、短い棒は、あれ?ないよ」

「長い棒のそばをよく見てみろ」

「もしかして、これが短い棒?」

「そうだ。いま何時だ」

「長い棒はほっといて、短い棒が10と11のあいだだから、十時と十一時のあいだ」

「もうちょっと詳しい時間がわかるか」

「11に近いから、十一時ちょっと前だね」

「上出来だ」

 おれは花屋の中を指差した。

「あそこに、時計があるだろう」

「うん。でも見てないよ」

 勘のいいガキだ。

「そうか。残念だ」

 もうひとつ、聞くべきことがあった。

「おれがこの花屋に入って行ったとき、坊主はどこにいた」

「わかんない」

「おれがここの花屋に入ったのを見てないのか」

「うん」

「なら、坊主がこの手紙を受け取ってからのことを聞かせてくれるか。坊主はどこでこの手紙を受け取った」

「橋のとこ。向こうの」

 この道をまっすぐいくと川があり、川向こうは別の街だ。

「何て言われた。手紙を受け取るときに」

「花屋から出てくる背の高い男のひとに渡してくれって。花を持ってたら白い封筒、持ってなかったら黄色い封筒」

「誰に頼まれた。さっきは知らないひとひとだと言ってたが、坊主は知らないひとの訳のわからない頼みをふたつ返事で頼まれるのか」

 子供はニヤッと笑った。およそ子供には似つかわしくない笑いかただった。こいついくつだと言ってた?もうすぐ七歳?七つかそこらでこんな表情ができるのか。

 こいつは子供と思わないほうがよいかもしれない。

「なかなか鋭いね。でも知らないひとだとは言ってないよ」

「知ってるひとか」

「顔は、しってる」

「どこで知り合った」


***


  確信した。こいつは七つの子供と扱わない方がいい。からすには山に七つのかわいい子がいるかもしれないが、こいつはかわいくない。からす自体がかわいくないという話は今はおいておく。子供が好きとは言えないおれだがその中でも特に嫌いなタイプの子供だ。そう、締め殺したくなるくらいに。だが、こいつを子供だと思わなければ話はできる。

「この封筒を坊主に渡したひとを、知ってるんだな」

「顔はね」

「どこで知り合った」

「店。お父さんのやってる」

「坊主のお父さんの店の常連か」

「じょうれんてなに」

「よくくる客という意味だ」

「客かどうかはわかんないけど、よくくるよ」

「坊主のお父さんは何の店をやってる」

「喫茶店」

「店はどこだ。この近くなのか」

「駅の近くだよ」

「案内してくれ」

「じょうれんになってくれる?」

「ああ、なるからたのむ」

 おれはその子供について歩いた。橋のあたりにさしかかったとき、おれはその子に声をかけた。

「ここか」

「なにが」

「坊主が手紙を受け取ったのは」

「うん」

「坊主はここでなにをしていた」

「いろいろ」

「ひとりでか」

「うん。一人」

「橋の上にいたのか」

「いや」

「川辺にいたのか」

「かわべって」

「橋の下のことだ」

「うん。そう」

「なにをしていた」

「いろいろ」

 また同じ答えを返した。こんなガキになめられっぱなしというわけにはいかない。

「なにをしていた」

「いろいろ」

 三度めだ。叱るのがいいか諭すのがいいか。

「あのなあ坊主、おれにとって大事なことなんだ。答えてくれないか」

「なんでそんなことが大事なの」

「いろいろ事情があるんだ」

「どんな」

「いろいろだ」

「どんな」

「いろいろだと言ってるだろう」

「じゃあぼくも、いろいろだ」

 頭に血が上ったが辛うじてこらえた。七つのガキに手玉に取られるとは。くそ。

 ひと呼吸置いた。おちつけおちつけ。

「いろいろのなかにもいろいろある。坊主のいろはなに色だ」

 詭弁で攻めることにした。

「なにいってんだかわかんないよ」

 乗ってこなかった。それなら乗せるまでだ。

「好きな色を言ってくれ」

「むらさきいろ」

「よし、坊主の色は紫だ。おれの事情はくろしろきいろ茶いろ水いろ鼠いろ、種々の色にて囲炉裏の火種に薪をくべ、爆ぜる火の粉にきのこ汁、舞茸しめじヒラタケ松露、鐘楼の鐘がなるなら独鈷の跋扈、跛ひきひきひきがえる、前脚の指が四本後脚六本、前はよっつでうしろがむっつ、俗に四六のがまという、四六時中白くなったり黒くなったり白黒抹茶小豆コーヒー柚子さくら、の色だ」

「わかんない!」

「つまり坊主よりもおれのほうがいろいろだってことだ。橋の下で何をしてたか教えてくれ」

「わかんない!わかんない!」

「あのなあ坊主、大人の世界にはわかんなくてもなんかしなきゃならないことはいくらでもあるんだ。坊主が立派な大人になれるかどうかだ。わかんなくても乗り切ってみろ。坊主は橋の下で何をしていた」

子供はまだ口を開かなかった。もう一押し。

「坊主が黙っていたら、隠さなきゃいけないことがあるんだと思うぞ。そうなったらおれはこの辺を調べる。おれは人が何してたのかを調べるのは得意なんだ」

 とんだはったり、飛ばない機織り。おじいさん、私が機を織ってるところを決して覗いてはいけませんよ。鶴は結局飛んでいった。飛ばない機織り飛びにけり。鶴は千年、亀は万年、梨のばかめは十八年。

「誰にも言わない?」

「言わないよ。坊主が正直に答えてくれたら」

「お金を、拾ってたの」

「橋の下に金が落ちてるのか」

「落ちてるっていうか、しまってあるというか」

「坊主の金を隠してあるんだな」

「うん」

 おれにはうそだとわかった。いや、違うな、おれはうそをいうように仕向けた。これでこの子は引け目を感じて口が少し滑らかになるだろう。


***


 さて、やっと本題。

「坊主が金を拾ってたときに、お父さんの店でよく見る人から手紙を渡されたんだな。声をかけたのは坊主からか」

「違う」

「じゃあ、そいつはどこから坊主に声をかけたんだ」

「その、階段のとこ」

 橋の端から、川辺に向かう石段がある。

「石段の上か、途中か、下か」

「途中」

 ということは橋の上からこの子を見つけたわけではなく、この子がここにいることを知ってたために石段を途中まで降りてきたことになる。

「その人は、こいつか」

 おれはさきほど花娘に見せた写真を見せた。

「うん」

 わかってはいたが、確認だ。

「こいつは坊主がここにいることを知ってたのか」

「わかんない」

「でもここまで降りてきたんだろ」

「ぼくが降りてきたわけじゃないからわからない」

「そうか。じゃあ次だ。こいつは石段で立ち止まってから坊主を呼んだのか、それとも歩きながら呼んだのか」

「わかんない。そっちを見てたわけじゃない」

「坊主を呼んだときは止まってたのか」

「そんなこと覚えちゃいないよ」

「なんて言って呼んだんだ」

「覚えてないったら!」

「思い出せ。坊主は記憶力がいいはずだ」

「そんなことない!忘れた!」

 おれは顔を近づけた。

「あのな坊主。人間の記憶力ってのはおれたちが思ってる以上によく出来てるんだ。忘れたと思ってても覚えてるもんだ。それで、あるときひょっこり思い出すんだ。記憶力のいいやつってのはこれをある程度意識的にできる。記憶力は訓練次第なんだよ。坊主は記憶力が悪いやつにはなりたくないだろう。さ、思い出せ」

 子供は考える素振りを見せた。おれの言葉もたまには説得力があるらしい。根拠がないのが珠に瑕。

「やっぱり覚えてない。もしかしたら声に出して呼んだんじゃないかもしれない」

「声に出さなかったらどうやって呼ぶんだ」

「そうか、思い出した。足音がしたからそっちを見たら、いたんだ」

 おれは足元を見た。石段だが細かい砂利がたくさん落ちていて、意識的に大きな音を立てようとすれば難しくはなさそうだ。

「わかった。よく思い出せたな。今のやり方を、忘れるな」

 その子の顔にうっすらと笑みが浮かんだ。

「坊主はこいつを見てからここまで来たのか」

「うん」

「すぐに知ってる人だとわかった?」

「うん」

 ということは割と頻繁に顔を見てるってことだ。知合いレベル3だ。1が高いのか低いのかとか最大値がいくつなのかとかはあとで決めよう。

「こいつは、坊主に何と言ったんだ」

 その子は考え始めた。うむ、なかなか素直なところがあるじゃないか。先ほどまでならわかんないと即答してただろう。

「たのまれてくれないかっていった」

「坊主は何と答えた?」

「たのまれてってのがわかんなかったから、あげないよって答えた。たのまれてってなに?」

「お手伝いをしてくれるかってことだ。こいつはなんて言った?」

「何もくれなくていいよっていった。これをあげるからある人に届けてほしいって言って封筒をもらった」

「もらったのは封筒だけか」


***


 その子供は何も答えなかったので、他にも何か貰ったのだとわかった。おそらくお使いの駄賃だろう。

「こいつは、ある人ってのはどんな人だと言ってた」

「この通りをちょっと行った所にある花屋から出てくる背の高い男の人」

「坊主は封筒を受け取ってからすぐに花屋の前に来たのか」

「うん」

「おれが花屋に入るのは見てない?」

「うん」

「こいつは坊主に封筒を渡してから、どうした」

「どっか行った」

「どこに行った」

「わかんない。見てない」

「橋を渡ったのか」

「うん」

 駅のほうか。やつが自分で企んだことの顛末は見届けなくて充分だというメッセージだ。

「わかった。ありがとう」

 おれはそう言って謝礼を渡すために財布を覗いた。コインより紙幣がいいか。おれは財布の中から最も少額の紙幣を探し、ぴったりのものを見つけた。50スロヴァキアコルナ。なぜか外貨が入っていた。スロヴァキアがユーロに切替えているかどうかは覚えていなかったが使えなくはないだろう。

「これをとっておいてくれ」

「なにこれ」

「がいこくの、お金だ。さあ、お父さんの店に行こうか」

 その子はちょっと不満そうな顔を見せたが、黙って歩き出した。

 だいたい五分ほど歩くと、最寄り駅につく。駅に行くのかと思っていたらそうではないらしかった。駅前の通りから一本裏路地に入りさらに奥まった所にその店はおれの予想とはかけ離れた姿かたちで佇んでいた。おれは洋風の小じゃれた喫茶店を想像していたが、その店は和風だった。窓のない造りのしっかりした木製の引き戸がおれを阻んでいた。中がどうなっているのか見ることはできない。

「ここだよ」

 子供は言った。おれは間違いだと思った。

「坊主、お父さんの喫茶店に行くんだろ」

「うん。ここだよ」

 そう言われてみて初めておれは申し訳程度に、木彫に行書体で書かれた看板がかかっているのを見つけた。その横にさらに小さく、甘味、と書かれていた。

「喫茶って、日本茶だったのかよ」

 おれは思わず声を出した。

「お抹茶だよ」

「坊主の父さんは茶の師範かなにかなのか」

「しはんってなに」

「いや、何でもない。入ってもいいのか」

「いいんじゃないの」

 かなり敷居が高かった。物理的な意味じゃなくて精神的な意味でだ。閾値はしきいちと読むのではなくていきちと読むのが正しいんだよなとぜんぜん関係ないことを考えた。しきいの読みはやはり敷居の転嫁だろうか。いくら閾値が高くてもまさか生き血を抜かれることはないだろう。

「ごめんください」

 何も反応はなかった。

「ごめんください」

 再度、おれは声を張り上げた。

 静寂が谺した。


***


「ごめんなすって」

 三度めともなるとちょっと変化をつけてみたくなる。

 がたん。ごとん。

 唐突に、本当に唐突に、物音がしじまを破った。

「はい、ただいま」

 引戸をがらりと開けて中から痩せた男が顔を出した。その男は高級そうな紬を着流しで着ていた。

「どちらさんでしょうか」

 男の声は静寂に溶けこむように静かだった。

「あの、ここ、喫茶店ですよね」

 おれは少しびっくりした。店に来てどちらさんでしょうかと尋ねられるとは思わなかった。

「そうですが」

 その男は全く表情を変えずに言った。こいつ、どことなくバスター・キートンに似ている。無表情だからか。それだけじゃないな。細面痩身、後になでつけた髪、直立した佇まい。年恰好は四十前後だろうか。

「いや、失礼、店舗で素性を聞かれるとは思わなかったもので」

「そうですか。いらっしゃったのはありがたいことですがまだ営業前です」

 相変わらず無表情でその男は言った。

 営業前って、もう昼なのだが。

「いつから開いてますか」

「どなたかのご紹介ならすぐ開けます」

 少し西方の訛りがあるイントネーションで男は言った。

 一見さんお断りだったとは。料亭ではなく喫茶店で。

 そして、おれは、おれをここにご紹介くださった方のご芳名を存じあげないのだった。あのガキなんて名前だ。

「ここの店主のお子さんから聞いたんです」

「店主はわたくしですが、愚息のお知り合いですか。失礼ですがどこで愚息をお知りになりましたか」

 さあどうする。さすがにさっき川向こうの花屋で知ったとは言えないだろう。おれ自身うまく説明できない気がする。この店主は無表情だがそれでもひしひしと伝わる不審感。

 おれが口ごもっていると店主は口を開いた。

「申し訳ないが、子供の言うたことゆえ本日はお引き取りください。今後ご縁がありましたら、よろしゅうお願い、いたします」

 あっさりと断られた。世の中こういうもんなのかもしれない。最後のあがきだ。

「この人を、ご存知でしょうか」

 おれはやつの写真を見せた。

「存じませんな」

 店主はちらとも写真を見ずに答えた。

「たとえ存じておりましても、わたくしの立場上、存じあげないとお答えいたします」

 一見さんお断りの店なら、当然の答えだ。おれは踵を返した。後ろでぴしゃりと引き戸の閉まる音がした。

 さて。やつを追う道はまたしても、途切れた。


***


 おれは途方にくれた。

 やつの足取りを追ってここまで来てみたものの、抹茶のおいしい喫茶店の店主からさき、道は続いていなさそうだ。この手がかりはここまでか。

 あと一歩のようにも見えたが、あの無表情の店主を切り崩すのは至難の業、おれの技量では不可能だろう。そもそもこの手がかりは花屋からつながっていたのだ。その前に戻ればいいのか。花屋で収穫のなかったおれは子供に会った。それが喫茶店に行くきっかけだった。その前は何をしようとしていたのか。花屋でおれは客のことを聞いたのではなく、通行人のことを尋ねた。半ば無駄だろうと思いながら。花屋の次に行こうとしていたところは、やはり駅の方面だった。おれは行き当たりばったりなところがあるからこうと決めていたわけではないが、駅に行ってやつの足跡を辿ればいいと思っていたはずだ。そう考えた理由はやつがおれに残した置手紙である。この手紙を君が見るころ、ぼくはこの地にいないだろう。この地を離れるためには駅に行くのが手っ取り早い。駅には列車が走っている。だが考えてみれば、列車に乗ったやつがどこへいくかなどわかりはしない。駅員がやつの顔を覚えているはずがない。花屋の前の往来でも見られていないやつが駅を目立つ格好で通りすぎることはないだろう。そうなると駅に着く前にやつが残した足跡を探して見つけて辿らねばやつを追う手だては消え失せる。

 はたしてそのような都合の良い手がかりをやつが残しているだろうか。

 いやまてそうじゃない、やつが喫茶店店主の子供に使いを頼んだのはそんなに前のことじゃない。子供の言葉を借りれば。あの子がやつと出会ったのは橋の下。橋から花屋まで歩いて二分か三分。子供の足だ、四分ということにしておこう。やつが子供に言伝を頼むのに要する時間はどれくらいか。あの子はおそらく、頭は悪くないが利発ではない。簡単な説明では頼まれたことを飲み込めないだろう。知合いではあったらしいから初対面の場合よりは時間がかからない。五分から十分といったところか。そのあとは駅のほうに行ったという。おれはあの子供とどれくらい話していたか。やはり五分から十分か。そのあと橋の下に寄ってから駅前。橋から駅まで十分足らず。橋の下では五分と見よう。

 三十分前に、やつは橋の下にいた、ということだ。そこから駅までやつの足なら五分ちょっとか。駅員もやつを見ているかもしれない。もう一度手がかりを考え直すのは後でもできる。だが万が一駅周辺のひとがやつを見覚えていたら、後まわしにすると忘れてしまうかもしれない。

 おれは踵を返し、距離的には駅前なのに駅前とは思えない静寂が支配する喫茶店を辞し、喧騒に飲み込まれたような駅方面に向かった。埃っぽい空気がおれを包み、これぞ都市圏の駅前であろうと思わせる空気がおれを含む周囲を支配し、おれは駅についた。

 駅の内外に大きな荷物を持った人たちがいて、旅行シーズンなのか。そうは思えないが、息詰まるこの街を出ようとする人はおれが思うよりも多いのかもしれない。果たしてやつを見覚えているひとがいるだろうか。

 おれは手始めに売店に向かった。


***


  店におれのほかに客はいなかった。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 おれは店頭に並んだ品物のうちから水のボトルを手にとり、小銭を探した。ぴったりの額が見つかったのでカウンタにおいた。

「ちょっと聞きたいんだけどね」

「なんでしょ」

 店員の若い男はくだけた感じで返した。

「水のボトルは何種類かあるけど、どれが売れてる」

「どれも似たようなもんですけどね、お客さんが買ったやつよりは、こいつかな」

 店員はおれが選んだものとはべつのものを指した。

「一日にどれくらい売れるのかな」

「数えてないですよ」

「だいたいでいいんだが」

「ずっと店番やってるわけじゃないっすから」

「きみがいる間だけだったら」

「いろんな時間に店番しますからね」

「でもどの商品が売れるか検討するんだろ」

「してるでしょうけど、おれはやってないっす」

「そうか。ところで、この時間はあまり客が来ないのか」

「この時間は列車があんまりないですからね、客もあんまり」

「前の列車はいつくらい」

「わかりませんが」店員はちらと時計を見た。十一時三十分だった。「十一時前後は十五分に一本くらいじゃないっすかね。時刻表なら駅構内に出てますよ」

「ありがとう、ところで」おれは写真を取り出した。やつの映ってる写真だ。「話は変わるんだけど、三十分くらい前に、こいつを見なかったか」

「こういう客がいたかってことですか」

「客かどうかはわからないが、この前を通ったと思う」

「客は見ますけど、客じゃない人は見てないっすよ」

「じゃあ、客にいたかどうかだけでいい」

「三十分前っすか」

「三十分くらい前だ」

 店員はじっと写真を見ていたが、しばらくして言った。

「だめだわかんねぇや」

「覚えてないって意味か」

「違います。客はいたんだけどこの人かどうかわからない」

「背はどれくらいだった」

「高くはなかったですよ」

「どんな格好してた」

「どんなかなあ」

「荷物は持ってたか」

「・・・いや、大きな荷物はもってなかった、と、おもいます」

 参考にならん。あきらめた。

「そうか、ありがとう」

 さて次はどこへ行けばよいのか。駅の正面入口に相対したおれの目に飛び込んできたのは、駅前のゴミ箱を漁る年配の男だった。

 割とこざっぱりとした服を着ており浮浪者ではないように見受けられた。髭はあたってあるようだ。浮浪者ではないだろう。ゴミ箱の清掃員でもない。浮浪者でも清掃員でもないものが、不労所得を得ようとしている。ゴミ箱を漁るのも立派な労働だと言われればそれに対する反論は持ち合わせていないので不労所得というのはやめようか。表現はともかく、ゴミ箱を漁る男がいた。おれはそいつを眺めた。ゴミ箱から何を探しているのか興味が出てきたのだ。

 じっと見ているのもつまらないので、何か口上をあててみよう。

 さてさてお立ち会い、次にご覧いただくのは種もしかけもないこのゴミ箱、ゴミ箱というからには中に入っているのはゴミでござるがゴミと一括りにするでない、ゴミの中にもいろいろござる、こちらはそこのコーヒースタンドの紙コップ、中身はなんと買ったひとの腹の中に収まって旅にでておりまする、この街に生まれて二十分、リヴァイアサンに飲み込まれたヨーナのような、漂流先はどこになるやらならぬやら、乾いた陸地に吐き出されんことを望むばかり。


***


 さてお次は大物、古新聞、新聞なのに古いとはこれいかに、説破、ええと、ええと、まあよい、お次も大物、雑誌にござい、表紙を飾るは、誰だありゃ、よくわからんがまあ誰か、この百万ドルの笑顔をもって売上部数を三パーセント向上させるべく、雨の日も霧の日も微笑み続けるのであります。笑みを絶やすな、笑う門には福来たる、悪いもん食べた腸カタル、ツァラトゥストラかく語る、神は死んだか仏はまだかいな、神も仏もあるものか、神仏一致の影響下、ジンジャのジンジャーはジンジャでジンジャなり、キシャのキシャはキシャでキシャしてピーター・パイパーが胡椒を拾い、胡椒じゃないやあの緑のはなんだ、枝のように見えるな。

 緑の枝を拾った通称パイパー氏のゴミあさりは、ぽいっと枝を投げ捨てた。

「枝豆」

 思わず声が漏れた。

 パイパー氏はちらりとこちらを見たが、またゴミあさりをし始めた。

 現代に枝豆をもち歩くファッションはおれは知らないから、枝豆がここに捨ててあるということはやつがここに来た可能性が高い。やつはおれのエダマグラスに枝豆を放り込んだ後、橋の下の子供に遣いを頼み、そのあとここ駅前に来て枝豆の枝をゴミ箱に投げ捨てた、のだろう。つまりやつはここにいたのだ。

 おれはゴミ箱を離れ、駅舎の中に入った。調べるべきは列車のタイムテーブル。

 おれは列車の発車のタイムテーブルの前に立った。十一時台。東へ行くのは0、15、30、40、50。何か見たことのある数字の並びである。やつが列車に乗ったなら東へ行ったはずだ。根拠はある。今の時間は十一時四十二分、やつが乗ったとしたら四十分発だろう。一本あとの列車で追いかける格好だ。よし乗ろう。おれはプラットフォームに向かうことにした。

 切符売場から奥に延びる通路を抜けるときに、おれは東行きの列車が発着するのが何番のプラットフォームなのかを確認することを怠っていたことに気づかされた。幸い通路の中程に掲示板があり、列車の発着予定を表示していた。

 東行き 11時40分発 10分遅

 ということは。10分遅れならもしかしたらやつはまだここにいるかもしれない。

 おれはプラットフォームへ急いだ。エスカレータを駆け上がり、躍り出た。前方をくまなく捜し、翻って後方も同様に探した。

 やつは見当たらなかった。隠れるところはない。外れか。期待が大きかっただけあって落胆も大きく、おれは待合所のベンチにへたり込んだ。

 そのときおれはかなり油断していた。おれの背後に人影が忍び寄っていることにまったく気づいていなかった。


***


「モシモーシ」

 突然背後から怪しい声が聞こえておれは跳び上がった。振り向くと背の高い、明らかにこの国の人じゃない何者かがおれを見下ろしていた。

「アナタ、キジマサン、デースカ」

 何だなんだ、何を言っているのか。おれがキジマサンかと聞いているのか。

「違う。キジマサンじゃない」

「デワ、サーマサン、デス、カー」

「違う」

「デワ、インマサンデス、カー」

「人違いだ」

「アナタ、モム、モミュ、モー」

 そいつは発音に苦しんでいるらしかった。

「モマサンデスカ」

 ビッグアップルの近代博物館には縁がないな。いや、それより、こんなやつしらんぞ。

「人違いだと言ってる」

「ナント」

 その異邦人は息を飲んだ。そして排他的に吐いた。それからゆっくりとした発音で、続けた。

「キジデモナイ、イヌデモナイ、サルデモナイ、ウント、モモデモナーイ」

 ちょっと嬉しそうだった。早口になった。

「モモデモナーイ、サルデモナーイ、イヌデモキジデモ、ナイナイナーイ」

 なんかしらんが、はしゃいでいた。

「ソナ、アナタ、ニワ、コレ、ギフト」

 異邦の人は内ポケットから黒い物体を取り出した。あまり実物を見ない物体だが、おれはその物体の名前を知っていた。その物体の名前は拳銃という。

「コレ、アゲル、ナイ、コノナカノ、ナマリノタマ、ギフト」

 ゆっくりと拳銃を握った右手を持ち上げた。

 これはおそろしくまずい状況なのではないだろうか。なんだこいつは。気がふれているのか。なぜ拳銃なぞ持っている。まさかこの小春日和の真昼間の公共の鉄道の駅のプラットフォームの待合室のベンチの上のなんのかの、こんなところで拳銃をぶっぱなす、そんなつもりじゃあるまい、というのは希望的観測に過ぎる。事実おれは小春日和の真昼間の公共の鉄道の駅のプラットフォームの待合室のベンチの上で拳銃をつきつけられようとしているわけで、この状況は小春日和の真昼間の公共の鉄道の駅のプラットフォームの待合室のベンチの上で拳銃をつきつけられている他の何ものでもないのだから、やはり自然に考えてこいつは右手にもった拳銃を他ならぬおれにむけてぶっぱなすつもりであろうなぁ。

 なぜかのんびりとしたことを考え出しそうな思考経路に移りつつあったのでおれはあわてて他のことを考えようとした。

 こんなところで拳銃をぶっぱなす気になった理由はなんなのか。おれがこいつを知らない以上何らかの恨みがあっての行動とは思えない。無目的に拳銃をぶっぱなすのであれば、なぜおれが狙われたのか。おれがここにいるのは単なる偶然によるところが大きい。予定があっての行動ではないし、思いつきの行動といっても過言ではない。

 おれはこんなに運が悪かったのかしらん。

 しかし人間は因果の動物だ。なにやら理解不能な法則であるにせよ、ほとんどすべての人間の行動には理由がある。少なくともおれはそう信じている。もしおれがこいつに撃たれるのだとしたら、どこかにおれを撃とうとするだけの原因があったに違いない。あの短いやりとりのどこにあったのか。もちろんおれのせいじゃない理由ということもありえる。こいつが今日十三人目に出くわした人間を撃とうと決めていたとか、自分より背が高いやつが気に食わないとか、太陽が黄色かったからだとか。


***


 おれの前にいる兇漢の右腕は肩の高さまであがり、おれを狙う銃口がおれから見ると胸のあたりに相対した。

 おれはどうしようか考えようとして、そうじゃない考えてる余裕なぞないのだと自分を否定した。だがこの状況を打破するには考えなしに動くわけにはいかず、かといってじっくり考えている余裕はない。瞬時に考えをまとめなければならないのだが、考えをまとめようとすればするほど別のことを考えたくなる。拡散しようとする思考をまとめるためには自分自身に叱咤せねばならず、その時間がまた無駄に過ぎ、けっきょく何も考えていないのと同じであり、あゝお前はいったい何をしてきたのだと、吹き来る風が私に云ふ。

「ナニカ、イワ、ナイノカ。コノママ、アサリト、ウタレル、ノー、イサギヨシ、トワスマイ」

 意味がわかって言ってるのかどうか判明しないイントネーションで兇漢は言葉を発した。何か言ったほうがいいのか。何を言えばよいのか。何を言うべきなのか。

「・・・」

 兇漢は黙っておれをみていた。おれがなにか言うのをまっているかのようだ。それならば何も言わないというのも一つの手か。

 兇漢は、驚いたことににこやかな顔で、おれをみていた。おれも負けじと見返した。

 兇漢はおれに負けじとしてか、さらににこやかな顔で睨み返した。こいつはにこやかな顔で睨むという高等技術を持っているらしい。

 おれも負けるわけにはいかない。さらに睨んだ。

 兇漢の笑顔が、貼り付いた。

 おれの顔も強張っているに違いない。

「・・・・・ワロタラダメヨアップップ」

 聞き取りにくい小さな声で兇漢はつぶやいた。聞こえるか聞こえないかくらいの声だったがおれの耳にはそう聞こえた。

 そうか笑ってはいけないのか。おれはなんとなく納得した。

 しかし。笑ってはいけないとわかった途端に笑いたくなってきた。なに一つおかしくないのにだ。おかしいといえばこの状況はおかしいわけだが、笑いたくなるおかしさではなく笑いごとじゃないおかしさ。おかしな状況で笑いごとじゃない場面に遭遇しているともう笑うしかなくなってくる。そうだ。人間の笑いのもとは不条理にあると言った哲学者がいたようないなかったような。だから人間は死に直面すると笑うのだ。自分の死に条理を感じる悔悟者はそうはいないからだ。タナトスは笑いに直結している。およそどんな神話世界でも死神は笑みを浮かべている。いや、逆か。笑みを浮かべながら人間を殺せるから死神なのだ。だとするとどうする。

 おれはおれに人殺しの道具を突きつけている兇漢に意識を戻した。

 こいつがどことなく笑みを浮かべているように見えるのもこいつ自身が自分を死神と認識しているか、こいつ自身が自分を死神と認識させようとしているのか。あるいは、なんだ。

 おれはその続きを否定しようとしたが努力の甲斐もなくそこから導きだされるであろう結論がおれの意識の表層に浮かびあがってしまった。

 あるいはおれがこいつを自分にとっての死神として認識しようとしているからだ。


***


 おれはおれ自身の死への渇望だか諦観だかを自分の無意識野に見出してしまい、おそらくこの死と背中合わせの状況から抜け出そうと足掻く方向への思考を失ってしまったようである。

 例えるなら。

 晴れた空に浮かぶうっすらと膜がかかったような秋雲が太陽の輝きをオブラートに包んでいるかのごとく。

 はっきりと指向性を持った光が界面の不揃いな遮光体に遮られて四方八方十六方への乱反射を起こすかのように。

 星の降るような夜空の下で山道を歩き回っているときに人家の灯りを見つけてしまったときの心境を想起し。

 あまりにも蒼々としたまるで切れるかのような月の光が照らす帰り道がいつもとかわらないかあるいはいつもよりも時間がかかっているにもかかわらず短く感じたりするのに近く。

 すぐにでもやらなきゃならないことがあるにもかかわらずそれをするのをなるべくさけようとする状態。

 そのとき。

 兇漢はまた小声で何か呟いた、ように聞こえた。

 何を言ったんだろうと考えたが明解明快な答えは出なかった。あまり意味はないのかもしれないと思いついた。兇漢は変わらずアルカイックスマイルを浮かべシニカルにリリカルな表情をおれに向けていた。

 おれはだんだんこいつが人間ではないものに見えてきて、もちろんおれの理解の範疇にある人間性は薄いのだけれども、そういうことじゃなく、本当の死神に近い存在に見えてきて。

 古今東西死神の力は強い。死神を主神とする神話は多数にあり、死神が主神ではない神話であっても死神は主要な神として描かれる。原始宗教では物象や事象に神性を見出して神の名をつけ、その中でどの神を信仰するかを民族として選択し、民族が侵略を経て統合する過程で被侵略民族の主神は副神として鎮座するしくみだ。

 とまた今考えなくてもよいようなことに考えを巡らせていると、兇漢はまた言葉を発した。今度はこのように聞こえた。

「・・・・ヨシノヤマニハナサキ・・」

 なんだ。この国の言葉ではないのか。そうなのか。

 それともこの兇漢は自分が何かを言うことでそれに呼応しておれが何かを口にすることを期待しているのだろうか。その場合どうなる。笑ってはいけない、言の葉を載せてはいけない。とは思いながらもこの兇漢が出題した命題に対しての解答が頭に浮かんだ。


 花千品のちりぬれば

 吉野の山に立ち連れぬ

 桜のもとに憂ひあり

 その香を模して花立ちぬ


 だからなあ、歌を吟じている場合でもないというのに。しかもさらに悪いことに、なかなかうまくできてると思って表情を崩しそうになった。もともと崩れた貌立ちだがそういう意味じゃないことはわかるよな。

 ふと、崩れた貌立ちで表情を崩してもわからないのではなかろうかという考えが脳裏をよぎって、試したくなってきた。

 だがそんな思いつきに従っていたら命がいくつあっても足りない。おれは意を決して兇漢をにらみ返した。兇漢は相変わらずにこやかな顔でおれを見つめた。右手に凶悪な凶器を構えたままで。

 おれはこのまま時が過ぎていった場合のことを考えた。このまま時が過ぎるといかににこやかで凶悪な兇漢とはいえずっと構え銃の姿勢を取ることは難しいだろう。そうなったときこのにこやかな凶悪な兇漢はどうするだろうか。

 選択肢はふたつ、いや、みっつ。

 撃つ。

 下げ銃。

 左手に持ち替えつつ。

 おれとしては初めのやつが最悪で、真ん中のやつが最高だ。しかしえてして現実は真ん中の状況になるのであろう。中庸がよいと釈尊も言っている。そのときにおれはどうするだろうか。

 これも選択肢はみっつ。いや、よっつ。

 逃げる。

 喚く。

 反撃。

 放心状態。

 おれとしては最後の状況でなければよいのだが、えてして自分の取る行動は最悪なものを選ぶのだろう。中庸がよいと釈尊が言っているにもかかわらず。そういうものだ。


***


 だがそこまでわかれば目的は一つの形を帯びて見えてくる。おれがしなければならないことというのは、この兇漢が行動を起こしたときに、対応した行動を起こせるようになることだ。アクトに対するリアクトを瞬時に起こせるように心構えをしておくことだ。しかし問題がある。この兇漢がしびれをきらしたときにおれがしびれてないかということ。心構えをしておくだけで体が動くかどうか。ましてやにらめっこの最中、表情筋ひとつ動かさないように努力しているときにいきなり行動を起こせと言われて起こせるのか。寝た子を起こすかのように起こせずむずがらせてしまうのではないだろうか。寝た子を起こすの使いかたが間違っているような気もするがこの際どうでもよい。おれは兇漢に呼応して動けるか。動けず撃たれるか。動いて撃たれるか。

 ハッピーな結果は難しいだろうと結論した。もし動けたとしても向うはアクティブなアクション、こっちはパッシブなリアクション、分が悪いのは明白。

 待てよ。

 おれが受身になる必要はないのではないか。

 いまの状態は兇漢がおれの行動を見張っている状態。つまりおれが能動、兇漢が受動。

 おれが動けば、この兇漢も動かざるを得まい。いや、動かないのが重畳ではあるが、そう都合よくことが運んだ試しはないから、動くに違いない。兇漢が動いたときにさらに呼応して動けるような動きかたをする必要がある。とすると身体の強張りを解きほぐすような動きかたを最初にするべきだ。

 なんだかゼロサムゲーム理論の落し穴に見事なまでにずっぽりどっぷりとはまってしまった結論のようにも思えるが、他ならぬおれ自身が出した結論だ、潔く従おう。それで撃たれても本望。

 ほんとか。

 おれはおれ自身をそこまで信頼できるのか。

 非常に疑問ではある。

 だが、おれがおれ自身を信頼できないとしたらいったい誰が信頼してくれるというのか。

 この表現は悲しいな。訂正。

 おれがおれ自身を信頼できないとしたらいったい誰を信頼すればよいのか。

 堂々回りの疑問だ。

 ここはおれを信頼せざるを得まい。おれが信頼に足る人物かどうかは置いておいて。

 つまり何だ、おれ自身とおれの利害関係は寸分違わずがっちり合致するのは明白、おれに害なす考えはおれ自身にも害を及ぼす。おれに有益な考えはおれ自身にも有益だ。

 だからおれはおれ自身を信頼に足る人物と認める。

 ・・・考えてものすごく悲しくなってきた。おれ自身を信頼するのに理論武装しなければならないとは。

 まあよい、結論は見えたのだからあとはそれに向かって実践あるのみ。

 次の行動を起こしやすいような動きかたとはどのような動きかただろうか。

 その設問に対する回答を模索しようとしているときにおれの脳裏に浮かんだものは、関節を曲げないようにして動くパントマイムの動きだった。あのロボットを模したような動きだ。おれの脳内でおれはそのまま掌を拡げて前に出し、見えない壁を作った。おれが動くのを見て兇漢は発砲したが、見えない壁に阻まれて銃弾は飛んでこなかった。跳弾が兇漢を直撃し、兇漢が蹲っている間におれは悠々とその場を後にした。なぜか拍手まで聞こえてきた。おれはまたもや舞台に戻ってきて一礼したあと、見えないロープに引っ張られて退場した。


 絶句。


 だからお前は信頼できないんだよ、とおれはおれ自身に向って吐き捨てた。


***


 とはいえさきほどおれはおれ自身を信頼しようと決めたばかりだ。

 のっけから信頼を裏切ってどうする。

 おれ自身はおれの信頼に応える責と義務がある。

 考えろおれ自身。おれ自身にはそれだけの能力があることをおれは信じているぞ。

 というわけでおれに激励されたおれ自身は最良の結論を導きだすべく、能力の限りを尽くして考えをまとめるのであった。

 だが、そのとき。

「マチク、タビレタ。ジカンワ、ジュブニー、アタェタ。ユッコーニ、ツカナカタ、ジブンジシニョ、セメルガイ」

 兇漢が言葉を発し、右手に力を込めようとしてるのが見て取れた。

 ままままってくれ。今ちょうど自分自身を責めている最中だ。

 そう言えばこいつおれが何か言うのを待ってたな。何か言えば時間稼ぎできるのか。何を言えば。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

 口をついてでてきた言葉がこれだ。意味わかって言ってんのかおれは。

 兇漢はそれを聞いて、一瞬何を言ってるのだろうという表情を見せたが、そのあとすぐに笑い出した。今までのイメージを覆すように呵々大笑した。おれ自身意味を理解できていない呪文の意味を理解したらしい。兇漢はこんな言葉を発した。

「クロスニ、カカルガ、オノゾ、ミカ」

 しめた。おれに話しかけたということは、おれの答えを期待しているということ。答えの次第によってはこの窮地を脱することができるかもしれない。だが、何と応えればよい。ここまで来たら出典をもあわせるべきだろう。おれは右手にもっていた水のボトルを差し出して、言った。

「飲むがよい。これは契約の血である」

 兇漢はさらに大笑いした。おかしくてたまらないというふうに。おれはぜんぜん面白くなかったが、おれの応えが、延命効果がありそうな答えであったことはわかった。兇漢はおれの言葉のどこに共感したのかわからないが、何か心幹を震撼させる要因があったのだろうか。

「ワカタ。エリヤガ、クルマデ、マテヤロウ」

 兇漢はそう言い、驚いたことに、本当に驚いたことに、右手をおろし、右手にもっているものを左手に持ち替え、右手で水のボトルを受け取った。そして、去っていった。

 去っていった。

 ほんとかよ。

 何だったんだ。

 おれは脱力してベンチにへたり込んだ。

 追いかけようという気にすらならなかった。それどころか、どこへ行くのか目で追うことすら考えなかった。

 横で列車が発車した。いつのまにかプラットフォームに到着していたらしい。

 十分遅れあるいはそれ以上の遅れで発車した列車を横目に、おれは当初の目的がいま発車した列車に乗ることだったことを思い出し、もう一度自問した。

 何だったんだ。

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