吸血

月白 貉

第1話

ぼくのいま立っているこの場所から、明日は見えるのだろうか。どのくらいの距離かまったく見当もつかない明日は、ほんとうに見えるのだろうか。


今ではめったに人通りも車通りもない、使われなくなって久しい消えかけた旧道の中腹、もういつから人の手が入らずに過ごしたかを、その道自体が忘れかけようとしているひどく荒れ果てたでこぼこの未舗装の道を、北隣の集落まで抜ける方向へ五キロほど歩いた深い山中の溜池近くに、「鰐の水溜り」と呼ばれる骨董品店があるという話を聞いたのは、ぼくが初めてこの地を訪れるために乗ったバスの中だった。


「すみません、このバスは、え〜と、砂波さばというところには停まりますか?」


ぼくと同じバスに乗り合わせた唯一の乗客、五十代くらいに見える頭の禿げた背の低くて小太りな男性が、バスのいちばん前のひとり掛けの席に大きな黒のバックパックを肩から下ろしながら、発車前のバスの中で運転手に話しかけていた。


「ええ、砂波ね、停まりますよ、ここから580円、だいたい30分くらいだね。」


それを聞いた男性は「ああ、そうですか!」とやけに大きな声を上げてから安堵の笑みを浮かべ、座席に置いたバックパックの脇ポケットから長方形に小さく折り畳まれた羊皮紙のようなものを無造作に抜き出してバックパックの上に広げ始めた。


「どこかの地図ですか?」


運転手の言葉からすると男性が取り出したのはどうやら地図のようだったが、男性はその問いかけには一切答えずに、運転手の方に右手を上げて何度か小さく震わせた。おそらくは「はい、そうです、地図です!」という、運転手に対する返答を表す仕草だったのかもしれない。そこからしばらく時間でも止まったみたいに微動だにせず地図を睨みつけていた男性は、唐突にずいぶん落ち着きのない痙攣のような動きで何度も首を縦に振るわせると、こちらには聞こえないような掠れた小声でもう一度バスの運転手に顔を近付けて、何かボソボソと話しかけているようだった。


「いや、温泉宿はもっと先ですよ、終点の手前のね、宮の下というバス停から、そうだねえ、ちょっと奥まった場所にありますけ、少し歩くかもしれないけどねえ。」


男性は運転手の言葉に対して再び大きな声で「ああ、そうですか!」と何度も派手に頷きながら、再び小さく折りたたんで手のひらの上に乗せた地図に、シャツの胸ポケットから取り出したボールペンで何かを必死に書き込んでいる。


バスの最後尾の長椅子を陣取って発車の時間を待っていたぼくは、何を見るともなく男性と運転手とのやり取りに無意識に目を向け耳を傾けていたが、その見知らぬ男性が会話の中で何度となく口から吐き出す「ああ、そうですか」という相槌に、理由わけもなくわずかな不快感と苛立ちを覚えた。


多くの物事には、それに対するごく個人的な良し悪しの感覚というものがある。生まれてから今までの時間の中で、ある部分においては誰かに無理矢理に詰め込まれる価値観のようなものの影響もあるだろうし、あるいは何かを見て何かを感じて自分の中で自然に芽を出し、長い年月をかけて大きく生え育つものもあるだろう。食物の好みや性の対象や、宗教や思想や、戦争や平和や、もちろん相槌の仕方や、そういったものに何かの絶対的な基準点を持って、あれが正しいとかそれが間違っているとか、そんなことはもはや地球上から人類が一人もいなくなるその日まで、言うことは叶わないだろう。だからぼくが今このバスの中で、全人類レベルでの彼の相槌の良し悪しを決めるわけにはいかないし、彼には彼なりの相槌の流儀というものが存在するのかもしれない。そう思って鼻から息を静かに吸い込み再びゆっくり吐き出すと、そのわずかな不快感と苛立ちはずいぶん和らいだように思えた。


数カ月前のぼくだったら、もしどこかの場所で同じような状況に遭遇しても、そんな風にして自分を押さえつけているボルトやナットの締付けをコントロールして、気分を軽く緩やかに保ちなおすことなんて到底出来なかったに違いない。相槌も人それぞれだということ、様々な形があるということ自体は理解できたとしても、その場のその男性に対しての不快感や苛立ちを、そう簡単に和らげることなど、おそらくは出来なかったに違いない。


ぼくは自分の中の確固たる相槌論を頭のなかでグルグルグルグと猛烈に回転させだし、不快感と苛立ちをその回転の力に任せて増長させ、終いには巨大な竜巻の如きものにまで膨らませてしまっただろう。


相槌というものは、なるべく相手の話の邪魔にならないような、小さくて半透明で曖昧な言葉の欠片、人によっては欠片よりもっともっと小さく、さらさらとした細かな砂のようなもの、どこかの海岸に埋もれている波で洗われて柔らかいフォルムに姿を変えた薄曇りの緑色をしたガラス瓶の破片だったり、その海岸を埋め尽くす鳴砂のようなものだったり、いつかのある時間にどこかで無意識に拾い集めてきたような埋もれた記憶の中の言葉の欠片であるべきだと。


相槌のやり方をぼく自身はいつ知ったのだろうかと考える。その言葉のパーツの組み立て方や使い方や、そういう相槌マニュアルを小学校で渡されたこともないし、親から教えてもらったこともないが、いつの頃からかぼく自身もそんな相槌用の言葉の欠片を手に入れて、それを自分でいろいろとカスタマイズして、今ではおそらく無意識のうちに口から吐き出されるようなシステムを作り上げている。ただ時々、長い年月をかけて使うことに慣れてしまった自分の相槌のルールを変えようとして、人とうまく話せなくなってしまうこともある。


そう、いつだってそうやって考えすぎてしまって、決まって、自らも手に負えないほど大きくなってしまった竜巻に飲み込まれてしまい、凄まじい恐怖と苦痛の中で体をばらばらにされてしまう。そうなってしまってからやっと気が付いても、すでにもう手遅れになっている。


一瞬だけ閉じていた目をゆっくりと開きなおし、再びバスの前方に目線を向けると、男性の使っているバックパックがぼくと同じノースフェイスのものだということに気が付いた。モデルや形状も、そしてカラーも、ぼくの持っているバックパックとはまったく異なるものだったのであまり気にかけてもいなかったが、男性がもう片方の脇ポケットを探りだしてバックパックを座席から持ち上げた時に、こちらに一瞬だけ姿を表したロゴマークを見て、それがノースフェイスのものだということがわかった。山歩きを趣味にしているような体型にはまったく見えなかったが、バックパックはかなり大型の本格的な登山用のもので、黒い表面の所々には乾いてきつね色になった泥のカスのようなものが無数にこびり付いていたり、場所によってはひどく擦り切れていたりして、ずいぶんと使い込まれている様子だった。


地図を抜き出した場所とは反対側の脇ポケットからスマートフォンのようなものを取り出した男性は、その画面部分を運転手の顔の前に差し出して、今度はやけにはっきりとした口調で、少し興奮気味に再び口を開いた。


「その温泉宿の近くにですね、この写真の、これを見てください、この鰐の水溜りという骨董品店があると聞いてきたんですが、え〜と、降りるバス停は、え〜と、その宮の下でしたか、そこで降りれば大丈夫ですか?」


バックミラー越しに運転手が一瞬だけぼくの方に目を向けて、苦笑いを浮かべたような気がした。


「骨董品店?あの辺りにそがなもんがあったかいな。宮の下の手前にね、木神米穀きがみべいこくゆうねえ、もうずいぶんな歳の爺さんがひとりでやっとっちゃる商店はありますがね、あの町の店ゆうたらねえ、そがなもんだけと違うだろうか。あとはそこから続く旧街道沿いをのぼっていってもね、なんにも店などないと思いますよ。ちょんぼしは古い看板も出とるけどねえ、お菓子屋だとか酒屋だとか、大方は誰もおらん空き家だけ、もうずい分と前にやめて閉めてしまった店ばかりでしょ。町に住んでるもんも爺さんとか婆さんとかしかおらんけんねえ。温泉宿の主人が骨董好きだいう話とちがいますかね、店はどがだか知らんけどねえ。ワニの、なんだったかいな、ミズタマリのだとかいうのは、私は知りませんわ。」


男性は「はあ、はあ、」と激しく頷きながら運転手の話を聞いていた。


駅前のバス乗り場に立てられていた、錆びついて傾きかけたボロボロの時刻表からすると、バスの発車までにはまだ20分ほどの時間があるはずだった。


「私は隣の市から勤めにきてるもんでね、この土地のもんじゃないけ、砂波のほうのことはよくわかりませんわ。駅のね、売店の婆さんにでも聞いてみてください、まだ出るまでには時間がありますけ。」


運転手が話すのをやめると、男性はしばらくその場で突っ立ったままボールペンを額に押し付けたり口にくわえたりして、苛立たしそうに頭を左右に振っていたが、「わかりました、ちょっと失礼、またすぐ戻りますんで!」と言って、バックパックを座席に置いたままバスの外へ慌ただしく走り出ていった。


今の今までバタバタやらカクカクやらと、バスの中で奇妙な動作を続けていた男性から噴き出していた異様な熱気のようなものがいったんバスの外に解放されると、車内の気温がずいぶん下がったように感じられた。駅の中へと走ってゆく男性を、ひどく汚れた車窓越しにしばらく目で追っていたが、その姿が駅の入り口に吸い込まれるようにして見えなくなり、再び何気なく運転席に目を戻すと、バックミラー越しにニヤニヤとした表情を浮かべた運転手が、こちらを覗き見ている顔と目が合った。


「お客さんは、どこまでいくんですか?このバスだったら、まあ温泉か、その先の銀山見学のどちらかだろうけど、学生さん?」


「いや、ぼくは仕事なんですけど、温泉宿まで。」


「ああ、そうですか、観光さんかと思いましたけん、仕事ですか。まあ銀山もねえ、近頃じゃあずいぶん荒れとるゆうこと聞きますけんねえ。随分と賑わったのも一時いっときでね、その時分は私はタクシーやっとりましたけど、今じゃもうこんな状態で、タクシーもやれませんわ。どちらからですか?」


「東京からです。」


「は〜、東京ですか、ずいぶんと遠くから、こんな田舎までねえ。さっきの人も何だか都会の人みたいでしたが、やっぱり東京だろうか。ワニが、なんだったかいな、ワニだかミズタマリだか言うとりましたが、そんなものは聞いたことがないけどねえ。まさかあんたの目的地もワニの骨董屋だったかいな?」


ぼくはバックミラー越しに見える運転手に笑い返しながら、目的地はさっき話に出てきていた温泉宿なのだが、「岩龍がんりゅう」という宿で間違いないだろうかとたずねてみた。


「ええ、そうですよ、岩龍です。一年ほど前だったかいな、経営者が変わってねえ、その時に建物も新しいものになっとっちゃって。新しくなってから入りに行ったことはありませんけど、日帰り温泉はもうやめたゆうとってね。それまでは、よく家族と日帰りで行きましたがね、温度も熱くて、なかなかいい具合の温泉だったのに、なんで日帰りをやめたんかねえ。ここらの地元のものもたくさん来とっちゃったのにねえ。」

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