第3話

朝起きると体中の節々にひどい痛みがあった。


顔を歪めながらゆっくりとベッドから起き上がって、玄関脇のユニットバスの鏡に顔を突き合わせると目が真っ赤に充血していた。ここ数日、朝起きるとやけに目が充血していることを気にかけてはいたが、きょうの充血の具合は尋常であるとはあまり言いがたかった。ぼくが好んで鑑賞するヴァンパイア映画のそれにも見劣りがしないほど、白目の部分は血のような深紅に染まり、逆に黒目の部分がぼんやりと白くぼやけているように見えた。そんな目の状態で鏡を見ている自分が、まともに自分の顔が、ましてやこの世界が見えているのかどうかさえ不安になるくらいだった。


その日は早番で仕事が入っている日だった。


ちょうど一週間前からはじめた温泉宿の清掃のアルバイトだ。規模の小さな山間のひなびた温泉宿で、お世辞にも繁盛しているとは言いがたい宿だったが、歴史は古く、ある程度の格式もあり、かつては名のある文筆家も多数、逗留の宿として足しげく利用していたとの話を聞いた。ただそれは現在の宿になる前の経営者の時代の話らしく、新しくなった宿の経営がはじまったのはつい一年前だとのことだった。


この宿で働き始める前まで、およそ16年間、東京でいくつもの仕事を転々としていたぼくは、3.11の大震災とそれに伴う福島の原子力発電所の事故をきっかけとして東京を離れることを決意する。そしてある友人の紹介で、島根県の山間部にあるその宿の仕事を始めることになった。いまぼくが生活しているのはその宿が借り上げて社宅用に使っている古いアパートだった。


職場でぼくの世話をしてくれているのは宿の番頭さんで、歳はおそらく60代くらいの温和そうな白髪の老紳士。番頭というよりは、どちらかというと執事とう肩書きの方が似合うような趣をもつ人物だった。その宿で働く女中さんのほとんどがパートタイムで入れ替わりが激しいため、ぼくの業務の指導は番頭さん自らが担当してくれている。基本的に誰に対しても公平だし、とても信頼のおける人物だが、こと規律や礼儀作法については職人気質でずいぶん厳しいところがあると、女中頭をつとめる紀子さんから聞かされた。


宿の女将については、採用面談の際に挨拶程度に言葉を交わしたほどで、どんな人物なのかはよくわからないし、働き出してからこの一週間、不思議なことに一度も姿を見かけなかった。休憩場所で何人かの女中さんたちに混じって雑談の場には加わらせてもらったが、番頭さんについての話は出てくるものの、女将についてはいい噂も悪い噂も、そして悪口もまったく耳に入ってはこなかった。ただ仕事初日、一通りの業務を終えて番頭さんと紀子さんに声をかけてから、帰宅するために裏口から出かかったぼくを、番頭さんが少し慌て気味に呼び止めた。


「白酒くん、まあたいしたことじゃあないんですがね、ひとつだけきみに話し忘れていたことがありました、いまふとそのことを思い出したので、立ち話で申しわけありませんが手短に話させてください。」


いまさっきまではとても穏やかな表情だった番頭さんの顔に、ほんの少しだがおかしなかたちをした影が見え隠れしているような気がした。

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