戯言と音
文月羽琉
第1話 隣人は呟く
今日も聞こえる。隣の部屋から、ピアノの音が。近くに音楽大学があり、僕自身もその学校の生徒ではあるが、隣人を大学で見かけたことは1度も無い。同じアパートの先輩に聞いてみると、僕の隣人が同じ音大ではない、と言いきっていたのでほかの音楽に関係する大学や、高校に行ってるのかもしれないし、教員免許を取るために練習しているのかも知れない。後者の可能性は極めて低いと思われるが、無きにしもあらずというところだろう。ところで、僕はこの音に困っている。隣人のピアノが下手な訳では無い。むしろ上手いと思う。だが、今現在朝の6:00前だ。そして、隣から聞こえてくるその音楽はベートーヴェンのエリーゼのために。そしてアパートの壁は薄い。
一言で言えば安眠妨害。何度か見かけて声をかけたが、反応はない。かと言って、家に押しかけて文句をつける勇気はない。
「…朝飯…。」
毎日遅くまで練習をやって6:00前に起きる。せめて、6:30くらいまでは眠りたい。が、残念なことに寝起きはいいほうなので、二度寝をすることも無く起きてしまう。やることがない訳では無いので、朝飯の準備に洗濯に、いろいろと出来ることがある。僕は主婦か…。そうこうしているうちに、音楽はやみ、僕も家を出る。毎日こんな調子で、土日は更にずっと音楽が、ピアノの音が聞こえてくる。バイトが入っていない日は惰眠を貪りたいのだが許してもらえないのだろうか。
「おはよー、
「今日も隣人さんかぁー?」
「そう。僕、ビビリだし、勇気出して声かけてもいつもシカトされるから何も言えなくてさ。」
友達に相談はしていた。最初は気にもとめなかっただろう友人達も連日クマを作って大学にくる僕を心配したらしい。
「大学カウンセラー使ってみたら?なんかちょっと変わるかもよ」
大学カウンセラー、この音大は付属の小中高校があり、大学生のカウンセリングのみを担当する大学カウンセラーというものが存在する。大学カウンセラーは、ほぼ友達感覚で、中には雑談しに行く人もいるという。
「…そう、だね。」
カウンセラーか。どんな事を話すんだろうか。まだ知らない世界に一歩を踏み出す、大袈裟だけどそんな感覚だ。
大学カウンセラーこと大学カウンセリングルームは音大1号館三階のひっそりとした所に設けられていた。
「あ、あのー、」
「
扉を開けた先には紅茶かコーヒーかを優雅にすする黒いふんわりしたワンピースの女性がいた。
「義くんやめろ。…で、君はどうした?」
「えっと、話したいことがあって、」
「あー、はいはい、そういうことね。入ってきて。」
なんだか、適当な人だ。この人を信頼して大丈夫なのだろうか。しかし、僕自身どうしようもないので、勧められた椅子に腰掛ける。紙とペンを出され、学年だとか名前だとかを書いていく。
「はい、カウンセラーの
「ぁ、えっと、1年の
消え入りそうな声になっていく。
「あら、真矢なのね、マヤかと思ったわ。」
「お前はいつまでここで暇を潰すつもりだ。」
「義くんが花江に付き合うというまでよ。」
そこで、義也くん、は女性を無視することを決めたらしい。
「ちょっと、義くん無視しないでちょうだい!ぁ、自己紹介が遅れたわね。2年の
花江、という苗字らしい。一人称としゃべり方になんだか違和感を覚えるのは僕だけじゃないだろう。
「まあ、こいつは置物だと思っていいから。それで多田野くんは何があったんだ?」
「最近、眠れなくて。っていうのもアパートの隣の部屋の人が毎日朝の6:00前からピアノを弾いているんです。隣人の休みの日は一日中弾いてて、寝れなくて。今朝はエリーゼのためにで目が覚めました。」
「…夜中とかはどうなんだ?」
夜中、夜中、と思い出す。夜中になってたということは一度しかなかった。
「1度だけ。でもその次の日からは夜中というか、夜9時以降は音がしないので言う機会を逃してしまって。声かけてもガン無視だし。」
「義くんに似たタイプなのね!」
花江さんが少し明るい声を上げた。どこが似ているのかはあえて聞きたくはないので心苦しいが無視をする。この先輩に主導権を握らせてはダメだと僕の頭にふと浮かんだ。
「いつから?」
「引っ越してきてからずっとですね。」
今は10月。四月前に引っ越してからずっと聞いてる。毎日のように、同じ曲だったり違う曲だったり。
「うーん、それで体調を崩すようなことがあると困るし、大家さんに相談するか直接話すのが一番だな。」
解決法は何も無いのだろうか。
「引っ越してきてからってことは、その前からずっとその人は住んでるのか?」
「はい。3年生の先輩が部屋を借りる前からいたそうです。」
「もう20すぎてるわね、きっと。ねぇ、隣人って女性?それから、エリーゼのために以外に弾いていた曲は?」
花江さんが黙っていられなかったのか顔を乗り出してくる。
「女性です、曲はベートーヴェンが多かったような…」
「ベートーヴェン」
ゆっくりと、ゆったりと、そしてどこかねっとりとした口調が耳に残る。
「花江。気持ち悪い。」
「よ、義也くんその言い方は、」
ないんじゃ、と続けようとするも、花江さんは気にしていないらしく、ポケットから飴を取り出して口に入れた。
「あら味方してくれるの?でもいつものことだから気にしなくて大丈夫よ。義くん照れ屋なんだもの」
語尾にハートマークでもついてそうな勢いで、花江さんは義也くんに笑いかけた。それを義也くんはじとっと睨む。
「それにしても朝からピアノか。よっぽどピアノが好きなんだな。」
「それでも限度ってものがありますよ…朝の6:00前から起こされる僕の身にもなってください。」
「俺は気にならないけどな。多田野くんが気にしすぎなんじゃないのか?」
「…そうなんですかね…」
最初はそう思っていた。しかし毎日6時前に起きて、講義中に寝そうになりながらなんとか耐えて、アルバイトして、練習に取り組んで、寝付きが悪い僕はなかなか寝れなくて、でも寝起きはいいのですぐに起きてしまう。平均何時間寝てるのかわからないけど、自分でもこれ大丈夫かと思うようなクマができる。そんな状態で一体どうすればいいんだか。それをどう言葉にすればいいのかもわからない。
「なんだか、大変そうねぇ。花江が確かめに行こうか?」
「へ?」
「花江が多田野くんのアパートに行って確かめるのが一番早いじゃない。ねぇ、義くん。」
「…まあそうだな。」
僕の知らない間に話は進んでいく。
「多田野くんのところに行くのはいけど、その服装なんとかしろよ。」
「えぇ?いいじゃない。花江は花江に似合うものを選んでるだけよ?」
「アホ。目立つだろうが。調査にしろ何にしろ、目立っていいことはないだろ。」
確かにそうねぇ、と花江さんは頷いた。指を唇に軽くあて、ぱっと閃いたような、元々決めていたようなそんなふうに義也くんに詰め寄る。
「ねぇ、義くん?目立たない服、一緒に選んでくれない?」
「多田野くん。パス。」
「へ?!」
話を振られて僕にどうしろ、と。花江さんは花江さんで僕をじーっと見て、義也くんは義也くんで僕をじーっと見る。じゃ、じゃあ、と切り出した。
「3人で行くのはどうでしょう?」
「…服装うんぬんの前に調査しようか。」
3人で服装を決めるという案はなくなったらしい。
「明日の業後に伺うことにするわ。明日またここに来てちょうだい。」
明日は金曜日か。
「明日で解決しなかったら土日にもつれ込んじゃうけど大丈夫かしら?」
「ぁ、はい。ちょうど今週アルバイトないんで!」
本当にたまたまバイトもない日なのでまたとないチャンスだ。
そして、今日は…
「運命か。」
ベートーヴェン交響曲第5番運命。交響曲も弾くのか。そう思ってしまう。…今日も眠れなかった。
「おはようございます。」
「あら、今日は講義は?」
「花江さんこそ。僕は今日は1時間目が教養科目だったんですけど、教授が急病らしくて休講になりました。義也くんはいないんですか?」
花江さんは答えない。優雅に啜っていたコーヒーだか、紅茶だかを飲み干した。
「マヤくんは、紅茶派?コーヒー派?」
「真矢です。それから、コーヒー派です。」
そう、と頷いて花江さんはコーヒーを取り出した。どうも入れてくれるらしい。僕はただ突っ立っていた。
「おはよう、早いな。1限休講だったってとこか?」
「義也くんおはようございます。そうなんです。」
二人とも鋭いんだろうか。
「はい、マヤくんのコーヒー。義くんもいる?」
「ん、もらう。」
あれ、さっき僕訂正したよね?…聞き間違いかもしれない、とりあえず二度目はほうっておく。
「砂糖とミルクいるなら言ってね。」
「あ、いえ、お構いなく。」
本当なら砂糖もミルクもたっぷり入れたいところだが、飲めないコーヒーを無理して飲んでいるのではないか、と疑われたくないので強がってみる。ちなみにコーヒーか紅茶かと、問われたら紅茶は飲めないので論外だ。
「花江。」
「いくついる?」
「2つずつ。」
花江さんが砂糖とミルクを差し出す。なんだか熟年夫婦みたいだ。お互い何でもわかりそうな雰囲気がする。
「そうだわ、今日は何の曲だったの?」
「運命です。」
「あら、昨日はエリーゼのためにだったわよね。」
花江さんは楽しそうに笑う。その笑みは曇りがなく本当に楽しそうだった。きっと普通にしゃべったりしている状態ならグッとくるに違いない。だが、今この状態では何とも思えない。むしろ何が楽しいのかを聞きたい。
「マヤくんってピアノ科?」
「あ、いえ。弦楽器です。副科でピアノもやってますけど。」
「じゃ、ヴァイオリンソナタでも弾きかえしてみたら?」
「え?」
さすがにその発想はなかった。
「あと、マヤ君くん、何度か隣人に話しかけたのよね?」
「はい。」
「その時どうやって声をかけたの?」
どうやって…。頭の中で思い浮かべる。確か、距離は1mほどあるかないかで、
「後ろから、『すみません、』って。」
「彼女の肩をつかんだりとかは?」
「してないです。」
へぇ~と、何か含んだように花江さんは笑った。そして皮肉なことに一限目終了の時間となった。
「…そろそろ行きますね。すべての授業が終わったらまた来ます。」
「はーい。待ってるわね。」
いつもならミスすることの無いところでミスをしてしまう。どうも集中できない。
「ここ、この前はできてたはずよ?何かあったの?」
心配してくれているかのようでまったくそんな気配のない声が僕の耳をかすめる。
「いえ、何でもないです。」
そう言ってまたヴァイオリンを弾き始めた。副科のピアノでも、失敗ばかりが目立つ。いつもなら出来るのに、なんて思うくらいには余裕が無い。ボロボロだ。弾いても弾いても、なんだか違う。そのうちに終了の時間が来てしまう。
「今日は本当にどうしたの?」
心配なんかしてなかったような声は本当に心配してるように聞こえるものに変わっていた。
「…あ。いえ、最近寝不足で。」
嘘はついてない。本当のことだ。
「あら、ちゃんと寝なきゃダメよ?じゃあ、練習頑張ってね。」
はい、と頷いてすぐに自分の楽器を持ち予約してある練習室へと移動する。先生はこのあともほかの生徒のレッスンなのだろう。練習室のある棟には入口の管理人室にいる管理人を除いて誰もいない。この時間は僕だけの予約だったなら奥の方の部屋にする必要はなかったかな。何気なく開けた部屋からピアノの音がなっていた。あれ、ここ僕が借りた部屋じゃ、と、扉の上のプレートを見る。うん間違いない。
「花江さん?!」
ゴシックロリータに対照的に明るい色の髪。ゴテゴテの靴。花江さん以外にそんな格好の人は知らない。
「遅かったわね、マヤくん。」
「…真矢です。」
「細かいことはどうだっていいわ。ねぇ、ヴァイオリン聞かせていただける?」
「文脈おかしくないですか。」
まぁ、いいですけど、とヴァイオリンを取り出す。ちょうど今練習してる曲の楽譜を取り出して準備をする。
「…間違えが多いわね。そんなに難しいところではないと思うのだけれと。」
貸してくれる?とヴァイオリンを取られる。そして間違いなく美しく弾いた。
「花江さんって、弦楽器科なんですか?」
「いいえ。弦楽器は趣味で弾いてるだけよ。私は作曲科。あと、音楽療育の勉強をしてるだけの3年生よ。」
「作曲?!」
この大学の作曲科は超難関だと言われている。もちろん、ほかの学科、コースも難関ではあるがなかでも作曲科は基本的にあまり人数を取らないという。
「あぁ、花江はコネよ。コネ。祖父が理事長なの。」
「コネで入れるほど簡単じゃないですよね?!」
コネで入れたとしてもその先あがれるのかが分からない。順調にあがっているというなら、充分、エリートだろう。
「でも花江はまだまだだわ。歴代の先輩方や同学年のみんなの曲を聞けばいつも失望する。神にたくさんの才能を与えられたかしらね。一番やりたい作曲は中途半端。」
「…才能…?」
自慢なのか、謙遜なのか。
「うーん。二つじゃ足りないわね。まずこの美貌でしょう?それから頭はいいわよ。楽器も大概弾きこなせるわ。料理も出来るし、運動もそうね、部活に入ったときは3日あればレギュラー入り果たしたわね。お金もあるわね。株で稼いでみたりもするし…。ほら、花江才能の塊でしょ?」
「…はぁ。」
ここまで自分に酔える人はなかなかいないだろう。いや、見たことない。
「だからね、作曲のこと以外で欠点がないのよ。花江。」
「…そうですか。」
まともに取り合ってはいけない。そんな気がする。
「…マヤくん。」
「なんですか。」
「邪魔をしてる花江が言うのも何なんだけど、練習時間もったいないわよ?」
「じゃあ花江さん、出てってください!!」
花江さんの言動はもう諦めるしかないのだろう。態度も何もかも変わらない。これが花江さんなんだと割り切るしかない。
時間は経ち、カウンセリングルームへと向かう。もうすでに義也くんがいた。
「あれ、カウンセリング中ですか?」
「は?あー、これ、花江。」
「えぇ?!」
髪色はたしかに花江さん。だが服装が違う。昨日も今朝も確実にフリフリのゴシックロリータだった。黒っぽいヘッドドレスがついてた。たしか、くるくるに髪も巻いてた。それが、髪はまっすぐストレート。服装はピンクの小花柄のワンピース。足元は少し高めのヒール。どこからどう見ても普通の大学生だ。
「ストレート当てて、普通のワンピースを着ただけよ。ピンクのワンピースなんて久しぶりだわ。」
「いつもそういう格好してたらモテそうですよね。」
「花江には義くん以外に好かれる必要ないもの。モテなくていいの。」
義也くんの腕に自らの腕を絡めて甘えたような表情。これで義也くんの表情が冷めた目つきで汚いものでも見るかのようなにらみ方でなければお似合いのカップルにしか見えないだろう。喋りながら、そんなに長くもない家までの距離を歩く。いつも1人で帰るため複数人と帰るなんて初めてだ。
「あら、いいアパートじゃない。レトロで可愛いデザインだこと。」
花江さんの感想はほぼ無視して、部屋へと案内する。隣人の部屋は電気もついてなければ人がいる気配もしない。僕はふたりを部屋に招き入れた。
「結構綺麗だな。」
「何かあった時誰が入ってくるかわかりませんから。」
「でも、花江的にこの部屋は30点ね。」
「は?!」
人の部屋にケチをつける人など聞いたことがない。ケチつけるだけならいい。点数までつけた。しかも30点だ。
「シンプルすぎるわ。それに楽譜が日光に当たるところに置いてある!焼けちゃうわよ?ピアノがグランドピアノじゃないのは仕方ないとしても電子ピアノって、確かにヘッドホンつけて夜弾くことも出来るし便利だけれどアップライトピアノの方が音はいいじゃない。」
「楽譜は今日たまたま朝、急いでたからです!ピアノは昼間練習できないからヘッドホンつけて弾くためにも電子ピアノがいいんです。」
机を取り出し、そこにカップを三つおく。
「…コーヒーとか紅茶とかないんでジュースでいいですか。炭酸水か野菜ジュースしかないんですけど。」
冷蔵庫から二つのペットボトルをとりだす。
「あらお構いなく。それより遅いわねぇ、隣人さん。」
花江さんがキョロキョロとしてるのを無視して義也くんは野菜ジュースを僕につがせる。僕自身の分には炭酸水を注ぐ。そして、花江さんがキョロキョロしてるのをいいことに、義也くんは野菜ジュースを炭酸で割ったものを花江さんの前に置いた。
「暇だわ。隣人さんはいつも遅いの?」
「…いえ、そろそろピアノがなる時間ですね。夕方から9時まで大抵弾いてるんで。」
夕方6時を過ぎた頃少しの物音のあとピアノの音が聞こえる。
「…これね。月光…。本当にベートーヴェンが好きなのね。」
花江さんは静かにつぶやくと、僕たちのほうを見る。
「ねぇ、マヤくん?隣人さんは長い髪をおろしていた?」
「…そうですね、おろしてました。」
「あなた以外の人から声をかけられていてもすべて無視?」
「あー、はい…いや、大家さんと話してるのは見たことあります。」
この質問はなんの意味があるんだろうか。
「もしかしたら、なんだけど。隣人さんは突発性難聴者かもしれないわ。ベートーヴェン、彼も聴覚障害を持った音楽家だわ。」
「朝から弾いてる理由には全く関係ないんじゃ…」
「…それはそうなのよねぇ…。」
ただ、無視された、という事実にはそれで説明がつく。
「直接話に行くのが一番楽だけどそれは避けたいのでしょう?」
「まぁ、そうですね。」
これからもしばらくここに住む身としてはなるべくことを大きくしたくはない。
「…ベートーヴェン…月光にエリーゼのために…運命…マヤくん、その頻度は?」
「あー、月光とかエリーゼのためにはよく聞きます。あと、交響曲第8番ヘ長調とか」
「花江の推測の範囲だけれどわかったわ。」
…何か法則でもあるのか、僕にはわからない。
「ベートーヴェンの曲の中でも、エリーゼのために、月光は恋愛の曲だわ。交響曲第8番ヘ長調もそう言えるかもしれない。…夜中まで弾いていたというときはきっと失恋したんだわ。未練なのか、忘れるためなのか無我夢中でピアノを弾いているのね。ベートーヴェンは若い頃たくさん恋していたのよ。でも多くは変わり者と言われたり自分本位の性格だったなどと言われてるわね。そして彼は、難聴者だった。40歳頃には全く聞こえなくなったそうよ。」
「えっと…?」
どういうことだろうか…。
「もしかしたら確認してるのかもしれないわ。まだ聞こえているかどうか。そして安心するのよ、今日も聞こえている。眠っているうちに聞こえなくなっていないか、仕事をしている間に学校に行ってる間に聞こえなくなっていないか。そんなふうに確認しているのよ。自分の耳のこと、そして聞こえて安心するんだわ。今日もちゃんと聞こえてるって。…というのが花江の推測よ。」
隣人はベートーヴェンのように全聾になることを恐れているということだろうか。
「ベートーヴェンは難聴になってからも曲を作ったわ。つまり難聴になってもピアノを弾いたのよ、鍵盤を叩いたのよ。そんな姿を自分と重ね合わせたのねきっと。」
そして花江さんは一息ついた。
「これ頂いてよろしいのかしら?」
義也くんが炭酸で割った野菜ジュースを手にもつ。義也くんが頷いた。僕が止めるよりも先に花江さんはコップに口をつけた。
「げほっ、不思議な味ね、」
涙目のまま花江さんは咳き込んだ。炭酸で割った野菜ジュースを不思議な味で済ませたことに僕は一番驚いている。
「行くぞ。」
義也くんが立ち上がった。
「ど、どこにですか?」
「花江の推測が正しいか確かめに行くんだよ。」
義也くんに花江さんと僕が慌ててついていく。チャイムの音の少しあと、はい、と不機嫌そうな声とともに女の人が出てきた。
「どちら様ですか。」
「と、突然すみません。隣に住む者です。」
僕が慌てて挨拶をする。
「はぁ、それでなにかごようですか?」
「彼があなたのピアノの音で眠れないそうです。」
「夜中には弾いていませんが。」
「朝です。早朝。」
義也くんと隣人さんはたんたんと言葉を交わす。
「今後気をつけます。それでは。」
早く切り上げたいらしい。扉を締めようとしたところで部屋から出て黙っていた花江さんが声を上げた。
「ベートーヴェンはお好きですか。」
「え?」
「…花江は大好きなんです。ベートーヴェン。」
「急になんですか、」
「あなたの月光お聞きしました。でもね、なんだか感傷的なの。私傷ついてますとでも言いたいのかしら、そんな演奏だったの。」
花江さんは小さくつぶやいた。
「花江ならこんなふうに弾くわ。」
失礼、と花江さんは隣人さんの部屋に入っていく。隣人さんは慌てて花江さんを止めようとついていく。アップライトピアノを嬉しそうに触って、花江さんは月光を弾き始めた。さっきの隣人さんの演奏とはまるで違う。
「…すごい。」
「ねぇ、あなたは何に傷ついているの。」
俺がつぶやいた言葉は花江さんには無視された。
「別れたの。ずっと付き合っていた彼氏と。彼はね難聴になっても一緒にいてくれた。でも彼はずっと疲れていたのよ、きっと。彼はさよならと一言いうとすぐにさったの。私は、幸せになりたかったの、ただ彼がいてくれればそれでよかったの。難聴になってから友達は遠のいたわ。面倒なのよね、しょせんそれほどの仲だったのよ。どこにもぶつけられなかったの、ピアノ以外には。そのうち朝は寝てる間に耳が聞こえなくなっていないか確認のために、夜は働いている間に音が聞こえなくなっていないか確認しないといけない気がしたの。じゃないと、もっともっと悪くなるのではないかって、聞こえなくなって、ついに誰にも必要とされなくなるんじゃないかって思ってしまうのよ。仕事だって、選べないわ。事務は電話番もできないし接客もできないんだもの。」
隣人さんはさらっと吐き出した。
「そう。それで今後はどうするの?どうせ弾き続けたいんでしょう?」
「それは、もちろん…。」
花江さんが少し考えるそぶりをする。
「空いてる時間にピアノを弾かせてあげるわ。耳のことも考慮する。だから事務で正社員として花咲音楽大学で働くというのはどう?」
花江さんの提案に義也くんはふっとため息をついた。
「勝手に決めたらまずいだろ。」
「あら義くん、花江を誰だと思ってるの。」
「いや、理事長の孫娘だからって好き勝手するわけには、」
「いいのよ。無理なら無理で大学カウンセラー室のじ、事務とか…?」
花江さんが無理やり絞り出そうと頭をひねる。
「…電話してくるから、ちょっと、当事者同士多田野くん話しとけ。そういや、お名前は?」
「ぁ、神保凛子です。」
隣人さん、神保さんが名前を告げたところで僕と花江さん神保さんの三人が残った。
「あ、えっと隣人の多田野真矢です。」
「ご丁寧にどうも。…長い間ごめんなさい。何も言われないから誰も気にしてないのかと、」
「僕が、ビビリで話しかけられないのもあって、綺麗な演奏だったし聞き入ってた時もありました。でもどうしても寝不足になってしまって花江さんたちに協力してもらったんです。」
僕はありのままを伝えた。花江さんは口を出さなかった。
「これからは気をつけますね。朝はなるべく弾かないようにするし、」
「…話の途中?」
ガチャッと音がして、義也くんが入ってくる。
「神保さん、大学カウンセラー室事務員として来週から採用することになったから。急だしコネだしで嫌かもだけど、俺と花江がいるからあんまり心配はしないで。」
神保さんがはてな顔を浮かべながら頷いた。どうやら来週から神保さんとは学校で顔を合わせる可能性ができたらしい。神保さんは花江さんと義也くんに何度も頭を下げた。
「おはよー。」
「おはよ、真矢、顔色良くなったな~」
1週間もしないうちに朝早くからのピアノの音は減り、夜のピアノの音も減った。毎日気持ちのいい睡眠をとっている。
「大学カウンセラー様々かな。」
義也くんと花江さんの顔を思い浮かべる。そういえばあれ以来お礼もろくに言えてない。今日行ってみようかな。ひっそりとした校舎の中を一人歩いていく。
「こんにちは~?」
初めて訪れた日同様に花江さんが座っていた。明るい髪はくるくるに巻いて黒と赤がベースでフリルやらリボンやらが、ふんだんに使われたワンピースを着ている。ヘッドドレスも揃いなのだろう。ひとり優雅に紅茶を飲んでいるようだ。
「あらマヤくん。その後調子はいかが?」
「真矢です。ゆっくり眠れるようになりました。義也くんいないんですか?」
「義くん?いるわよ。」
奥から義也くんとともに神保さんが出てきた。神保さんは花江さんと対照的なシンプルで可愛らしい服装だ。
「驚いたわ、まさか舞紀ちゃんがロリータファッションが通常運転だなんて。初めてあった時とあまりにも印象が違うんだもの、正直、まだ慣れないのよね。」
「もう凛ちゃん早くなれてちょうだいな。」
もうお互い名前呼びか。これなら僕の名前も覚えていて欲しいものだ。
「そういえばマヤくんもう何か面白いことはないの?」
「え、」
「花江退屈なの。義くんは凛ちゃんに仕事を教えて暇じゃなさそうだし、講義には出る気起きないし、」
「作曲科ですよね?!必修ものすごい数のはずじゃ、」
「金曜日は入ってないの。だから金曜日には何か面白いはなしをもってきていただけるかしら?マヤくん、」
ニコッと笑った花江さんはこの世のものかと言いたいくらい綺麗な笑みを見せた。しかし、花江さんの発言はそれで帳消しにしてはいけない。
「僕は真矢です!!」
戯言と音 文月羽琉 @469ma
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