第10章:ヨミの国/ネノカタスクニ

第10章第1節:ヨミの国


   A


「橘先生は、何に興味があるのかな? 僕の専門は『古事記』の上巻だったから、ヤマトタケルとかは専門外だけど」

「小生はまず、ヨミの国について知りたいでやんす」

(まず?)

「ヨミって、地獄のことよね?」←橘ではなく神田に質問

「一般的には、そう言われるね。でも、地獄とは違うかな。古事記神話の記述を見ていこうか」


   B


「星崎さんは、イザナミって聞いたことあるかな?」

「ええ。イザナギの奥さんよね?」

「『古事記』と『日本書紀』だと、イザナキが正しいんだ」

「そうなの? 知らなかったわ」

「イザナキとイザナミは、兄妹でもあるんだよ」

 ※第2章第3節参照

「イザナミを幼女だとする説、驚きだったでやんす」

 ※第2章参照

「図書館だというのも忘れて、ついつい『マジかよ!』と言ってしまったでやんす」

((「マジでやんすか」じゃないんだ……))

「まさか、オッパイからあの説を導き出すとは……。驚愕でやんす」

(オッパイ……? 神田くん、どんな論文書いたのかしら?)

「幼女説は置いといて……。イザナミは、カグツチという子どもを産む」

「火の神よね?」

「そう。カグツチを産んで火傷を負ったイザナミは、その火傷が原因で病気になり、死に至るんだ。イザナキは大いに泣き、イザナミを山に葬った。ちなみに、カグツチはイザナキに斬り殺される」

「そんな……! 自分の子どもよね?」

「うん。それでも、カグツチは『最愛の妻を殺した憎悪の対象』だった。明らかに、カグツチよりもイザナミの方を大事にしているね」


   C


「神田氏は、上下と左右の話も書いていたでやんす」

「上下と左右?」

「『上から順に』とか『右から順に』って言い方は、現代でもよく使うよね?」

「ええ」

「スリーサイズなら、上から順にでやんす。野球の外野は左から順にでやんすね」

「古事記神話では、上と下なら上、左と右なら左が優先される傾向があるんだ。上と左なら、上が先かな」

「上と下で上が先なのはわかるけど……。右よりも左が優先なのね」

「カグツチは首を刎ねられて死ぬんだけど、その後、カグツチの体に神が生まれる。頭・胸・腹・陰部・左手・右手・左足・右足の8か所にね。この8つのパーツ、まずは頭から始まっている。今でも、多くの人が頭から始めると思う」

「そうね。私なら、頭・胸・腕の順かしら」

「ここでは、頭部からスタートして、下に向かっているね。残るのは、体の外側についている手と足。手と足なら、上にある手が先。左手と右手なら、左の方が先」

「他のところでも同じなの?」

「頭・胸・腹・陰部・左手・右手・左足・右足の順で出てくる箇所は、他にもあるんだ。あとは、左目を洗ってから右目を洗ったり……。髪飾りも、左に着けてる方が先だね」

「イザナキとイザナミが結婚する時は、右が先だったでやんす」

「イザナキのセリフのことだね。『私は右から行くから、あなたは左から』という感じのことをイザナミに言っている」

「右が先で、左が後になっているわね」

「でも、この時は結婚の儀式に失敗しているんだ。右から行ったイザナミが、先に言葉を発したから」

「イザナキが先に言わないとダメだったのね」

「そうなると、『左から行ったイザナキが先に言い、右から行ったイザナミが後から言う』のが正しい形になる。無理矢理だけど、左が優先とも言えるかな」

「まさか、あの儀式を大人になるための儀式と捉えるとは。あの柱が、成長促進装置のようでやんすな」

 ※第2章第3節参照


   D


「イザナキは、ヨミに向かうことにした。イザナミに会うためにね」

「イザナミは、山に埋められたんじゃなかったかしら?」

「その通りだけど、イザナミはヨミにいるんだ。イザナキも、それを知っていた。イザナミに会うために、ヨミの国に行くからね」

「詳しい事情は、書いてないのでやんすよ」

「1から10までの全部は語らないのは、古事記神話では珍しくないんだ」

「そうなのね」

「ただ、『イザナミが死んだこと』と『イザナミが埋葬されたこと』は事実。イザナミがヨミに行ったのは、その辺りが関係しているだろうね。ただし、ヨミは『死者だけが行ける国』ではない」

「イザナキは死んでないわよね?」

「そう。だから、ヨミに行く方法は1つじゃないんだよ。ちなみに、イザナキたちがいた国はアシハラノナカツクニ」

「イザナキがヨミから戻って来て、その名が登場するのでやんす」

「まずは、イザナキがヨミに行く時の様子だけど──。どうやって行ったのかは書いていないんだ」

「それも書いてないのね」

「とりあえず、イザナキはヨミに行き、イザナミがいる建物まで行った。この後は、ちょっと解釈の問題になるんだけど……」

「イザナキとイザナミが、直接顔を合わせたかどうか──。でやんすね」

「うん。イザナミは、戸を閉じた状態でイザナキと会う。そうなると、『戸を閉じた状態』について解釈が分かれる」

「戸越しに会ったんじゃないの?」

「でも、『戸を開けて出た後に戸を閉めた』とも考えられるでやんす。神田氏は、どっちだと思うでやんす?」

「僕は、戸越しだったんじゃないかと思う」

「その理由は何でやんすか?」

「この後に出てくるイザナミの姿が、その理由かな」

「理由は後で判明するのね」

「イザナキはイザナミに、アシハラノナカツクニに帰ろうと言う。国作りが終わっていないから」

「そういう理由だったのね。使命のため……かしら」

「星崎氏は、何て言ってもらいたいでやんすか?」

「私ですか?『愛しているから』……とか……?」

「だそうでやんすよ、神田氏」

「え?」

「私と神田くんは、そういう関係とかじゃないわけなので! 神田くん、話を戻しましょう!」

「そ、そうだね。──イザナミは、帰ろうにも帰れなかったんだよ」

「確か……ヨミのご飯を食べちゃったのよね?」

「うん。そうなんだ」

「同じような話が、ギリシャの神話にもあるでやんすね。冥界のザクロを食べたペルセフォネは、1年のうちの数か月を冥界で過ごす必要があるのでやんすよ」

「イザナミは、アシハラノナカツクニに戻るため、ヨミの神と相談する。その間、自分の姿を見ないようにイザナキに言った。ところが……」

「見ちゃうのね」

「『見るなのタブー』と呼ばれるものでやんす。鶴の恩返しも、そうでやんすね」

「相談が長くて待ちかねたイザナキは、火を灯して、建物の内部を覗き見てしまったんだ」

「火を点けた事に関しても、神田氏は論文に書いていたでやんすね。カグツチを殺したイザナキは、カグツチの火の力を宿していたのではないか──。思わず『そんな素敵設定が!』と叫んでしまったでやんすよ」

「証拠らしい証拠がないから、『火を点ける道具を持っていなかったのだとしたら』って断りがつくんだけどね。まあ、火を点ける道具があったと考えるのが自然かな」

「それなら、イザナミを大人と考えるのも自然でやんす」

「あれに関しては、証拠を並べたからね。でも、イザナキが火を灯したことに関しては、カグツチとの関連性を示す証拠がなかった。まあ、その話は置いといて──」

「イザナキは、変わり果てたイザナミの姿を目撃してしまうのでやんすね」

「イザナミの体には、ウジがたかっていた。さらには、8人の雷神もいた。頭・胸・腹・陰部・左手・右手・左足・右足の8か所に」

「カグツチが死んだ時も、その8か所に神が生まれていたわね」

「そうなんだよ。イザナミの姿は、カグツチの死体とイメージが重なっている。ここが、2人が戸越しに会話していたと考える根拠になるんだ」

「どういうこと?」

「イザナキがイザナミと言葉を交わした時には、イザナミは変わり果てた姿になっていたんじゃないか──。僕は、そう考えてる」

「神田くんの考えだと……。あの時に2人が顔を合わせていたら、その時点で、イザナキが驚いていたはずね」

「うん。だけど、そういう話はない」

「でも、イザナキは火を灯したでやんす。ヨミはきっと、暗かったはずでやんす。それなら、直接顔を合わせていても、見えなかったかもでやんす」

「いや、イザナキが灯りを用意したのは、戸の向こう側──建物の内側を覗く時だった。建物の前までは、灯りなしで行っているはずだよ。最低限、『灯りがなくても見える』程度ではあったと思う」

「それなら、イザナミの顔が見えても不思議じゃないわね」

「では、神田氏。どうして、イザナミが変わり果てた姿となったのが、イザナキに『自分の姿を見るな』と言った後ではないのでやんす? あの後に何かがあって、あんな姿になったのではないでやんすか?」

「あの姿になったのは、ヨミでの食事が原因だと思う。彼女がヨミに来た時は、アシハラノナカツクニにいた時の姿だったんじゃないかな。その姿が変わるとしたら、ヨミでの食事だ」

「食事をしたから帰れない──。そういう話だったわね」

「それなら当然、イザナミは戸越しに会話をする。自分の姿を見るなと言うのも当然だ。イザナミがヨミの神と相談するのは、元の姿に戻るためだったんじゃないかな」

「むむむ……でやんす」

「橘先生、どうかしたんですか? 神田くんの説に不満でも?」

「小生は、『イザナミが戸を開けて外に出て、その後に戸を閉めて、イザナキと会話をした』と思っていたのでやんす」

「僕とは反対の立場だね」

「そうでやんす。さらに、小生は『イザナキとイザナミが会話をした時、イザナミはまだ元の姿だった。イザナキが外で待っている間に、イザナミの姿が変わった』と考えていたでやんす」

「そこも、神田くんとは違う立場ですね」

「そうでやんす。困った事に、神田氏の説は話の筋が通るのでやんす。小生は、『食事をしたせいで帰れない』『自分を見るな』というイザナミの言葉を考慮していなかったでやんす……!」

「神田くんは、そこも考慮に入れていた」

「そうなのでやんす。小生の負けでやんす……!」


   E


「ところで……。ヨミって、地下にあるのよね?」

「古事記神話の記述からすると、むしろ、アシハラノナカツクニよりも上の方だね」

「え? 地下深くにあるものだと思ってたわ」

「地獄のイメージと重なってるのでやんすね」

「イザナミの姿を見てしまったイザナキは、その場から逃げ出す。その時の話から、ヨミは坂の上の方にあると考えられるんだ」

「地下深くじゃなくて、坂の上だったのね」

「『恥をかかされた』と、イザナミが追っ手を差し向けた。もはや、一緒に帰るという話じゃないね。イザナキは追っ手から逃げ続け、ヨモツヒラサカというところまで行く」

「ヨモツヒラサカ……聞いたことあるわ。ヨミに繋がる坂じゃなかったかしら?」

「そう。イザナキは、その坂のふもとまで行くんだよ」

「ヨミが坂の上の方なら、イザナキは、坂を下りたということね?」

「その証拠になるのが、その後の記述。──イザナキは、坂のふもとにあった桃の実で、追っ手を撃退した。桃の実があるということは、桃の木があったということだろうね」

「桃の実だけが落ちていたら、不自然だものね」

「撃退された追っ手は、坂を戻って行く。つまり──」

「イザナキはすでに、坂を下りているのでやんすね」

「もし、イザナキが坂を上ろうとして坂のふもとにいたなら、話が変になるんだ」

「撃退された追っ手が坂を上ると、追跡対象のイザナキを追い越しちゃうわね」

「だから、イザナキが坂のふもとにいたのは、坂を下りたからということになる。ヨミから逃げ出す時にヨモツヒラサカを下った以上、ヨミはヨモツヒラサカを上った先にあるんだよ」

「地下じゃないでやんすね」

「イザナキは、桃の実に対して、アシハラノナカツクニの人々も助けるようにお願いした。そうなると、撃退に使った以外の実もあったんだろうね。やっぱり、桃の木があったんだと考えられる」

「桃ってすごいのね」

「桃で撃退する話は『日本書紀』にもあって、桃で鬼退治をするようになった由来とされているんだよ」

「だから、桃太郎は桃太郎なのかしら。柿太郎とかじゃなくて」

「『桃には魔除けの力があると考えられていた』と説明されたりするね。──話を戻すと、イザナキが桃に『アシハラノナカツクニの人々も助けてくれ』と言った以上、桃はアシハラノナカツクニ側にあるはず」

「そうじゃないと、助けようがないでやんすね」

「追っ手を撃退したイザナキだったけど、ついにはイザナミがやって来る。イザナキは、1000人がかりで引くような岩で、ヨモツヒラサカを塞いだ。イザナキとイザナミは、その岩を挟んで言葉を交わすことになる」

「その2人、ほとんど顔を合わせてないわね」

「イザナキは、イザナミを連れ戻しに来たのでやんすけどね」

「イザナミは、アシハラノナカツクニの人を1日に1000人殺すと言った。それに対して、1日に1500の産屋を立てると宣言するイザナキ。1日に1000人死んで1500人生まれるゆえん──ということになっている」

「イザナミも、物騒な神様なのね」

「彼女はヨミの神となるからね。それも、大神と呼ばれる存在だ」

「ヨミのボス的存在でやんすね」

「イザナキはアシハラノナカツクニに戻るわけだけど、アシハラノナカツクニに近い順に、『桃』『岩』『ヨモツヒラサカ』『ヨミ』だね。桃はヨモツヒラサカのふもとにあるけど、その坂は岩で塞がれている」

「桃は、アシハラノナカツクニの方にないと困るでやんす」

「橘先生の言う通り、桃は岩よりも手前──アシハラノナカツクニ側にあるはずなんだ。アシハラノナカツクニとヨミの境界は、その岩かな。ヨモツヒラサカは、名前からしてヨミの側。『ヨモツ』は『ヨミの』という意味で間違いないからね」

「ヨモツヒラサカを上ると、ヨミがあるのね」

「古事記神話によると、ヨモツヒラサカは、出雲の国に実在する坂。実在する坂だと書いてある以上、極端に長い坂ではないだろうね。坂の上と言っても、アシハラノナカツクニとヨミの国は、大まかには同じ高さ──地上にあると考えらえる」

「地下深くじゃないわけね」

「もっとも、これは古事記神話に出てくるヨミの話。伝承によっては、地下世界のヨミが出てくるかもしれない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る