プロローグ


 マンガ家と担当編集者が打ち合わせをする場所は、マンガ家の作業場だったりファミレスだったりする。ファミレスで打ち合わせをする時は、食事代が必要経費になったりならなかったりするとかしないとか。

 ここはファミレスではないので、食事代とかは関係ないのだが。

 ここは、とある出版社(残念ながら大手ではない)にある一室。

 持ち込みされた作品を編集者が「あー」だの「うーん……」だの言いながら読むのに使ったり、プロの作家と打ち合わせするのにも使っていた。

 青年──神田は、月刊マンガ雑誌(この大手ではない出版社では稼ぎ頭な雑誌)で連載することになった新人のマンガ家である。けっこうイケメン。

 読み切りの掲載も未経験の神田だが、いきなり連載作家になってしまった。才能や将来性を認められたのか、よほど人手不足なのか。

 ちなみに、神田の作業はデジタル中心。マンガ家の道具の代表的存在であるGペンも、店で「これがGペンかー」と持ってみたことがあるかどうか……という程度。

 キャラクターデザインの時などは、ルーズリーフ(無地)に描くことが多い。ネームはデジタルだけど。

 今も、神田はルーズリーフにボールペンで絵を描いていた。

 描いているのは、主人公が使うスマホ。なお、神田はガラケーを使っており、スマホには触ったことすらない。

 とりあえず、ルーズリーフにボールペンを走らせる。

 なぜ、ボールペンなのか。

 これは特に理由がない。

 絵を描き終えた神田は、ボールペンを机に置……かなかった。ボールペンを手にしたままで、目の前の男に絵を見せる。

「こんな感じでどうです?」

「ほいほい」

 中年──二階堂は、神田の担当編集である。最近の悩みの種は、メタボとか血圧とか血糖値とか。

「ではでは、拝見拝見」

 同じことを繰り返す言い回しは、二階堂の癖であった。「マサチューセッツ」を繰り返そうとした時に「マサツセッチュー」と言ったことがある。惜しい。

 そんなことより。

「いいねいいね」

 絵を見た二階堂は、朗らかに笑った。

「私は、大学生の時に刑事訴訟法を専攻していてね」

「はあ……刑事訴訟法ですか」

「うんうん、刑事訴訟法刑事訴訟法」

 時折、二階堂の話は関係ないところに飛ぶ。

 しかし、これでも彼はベテランのマンガ編集者……と思いきや、最近転職したばかりの新人編集者だった。

 二階堂は、テストで「意思」と書くべきところを「意志」と書いて部分点すらもらえなかったと話している。法律に「意志」という言葉は出てこないとか何とか。

「私は卵料理が好きでね。特に特に、ゆで卵が1番かな」

(今度は好物の話になった!)

「半熟より、固ゆで卵の方が好きなんだ」

「はあ……(僕は半熟の方がいいな)」

「神田くんは、何を専攻していたのかな?」

(専攻の話に戻った)

「そう言えばそう言えば、大学院を出ていたんだっけ」

「修士課程ですけどね。僕は、『古事記』の研究をちょっと」

「『古事記』か。なるほどなるほど。『古事記』について話してみてよ」

「『古事記』について……ですか? 僕のマンガ、『古事記』とは関係ありませんけど……」

「いいからいいから」

「はあ……。たまたま、『古事記』は持って来てましたけど」

 青年が、リュックから『古事記』を取り出した。4000円くらいするやつだ。たまたま持って来るようなものでもないと思うが……。

「ちょうどいい偶然だね。さあさあ、語って語って」

「それでは……」

 この雑談が、新人マンガ家・神田の人生を変えることになる…………かは定かではないが、神田は『古事記』について語ることになった。

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