世界一やさしいバッドエンド

水銀

世界一やさしいバッドエンド 演目

第1小節:失われたみらい

第1小節:失われたみらい

「残念ながら、あなたの妹は正義の味方になってしまいました」


 その言葉に、私は愕然と肩を落とした。

 今、目の前には私の妹がいる。でも、その姿はいつもの白いワンピースではなく、冷たく無機質な白銀の甲冑に覆われていて。何者をも寄せつけない、ナイフのように鋭い視線が私の胸を突き刺した。その暗闇の中で、私は妹の明らかな変化を実感し、絶望した。


―――どうして、こんな事に。




 私が一人暮らしを始めてから半年ほど経ったある日。妹のみらいから久しぶりに会いたい、という連絡が来た。私はすぐに返事を送った。彼女とは、半年前に家を離れて以来一度も会っていない。昔からずっと私にべったりで、何をするにも一緒だった2つ下の妹…。少し前までは当たり前の日常だったのに、気持ちが昂ぶっているのがなんだか妙な感覚だった。


 そういうわけで、私は今待ち合わせ場所である駅の待合室にいる。昨夜はほとんど眠れなかった。まず、何から話そうか。自由になった一人暮らしの楽しい事。逆に、面倒な事。私がいなくなってからのみらいの事。それから、テレビの話、服の話―――

 話したい事は山ほどあった。でも、実は……しなければいけないのは、楽しい話だけではなかった。私は、少しくたびれた色の背もたれに背中を預けながら、実家を出る日の前日を思い出す。


―――それは、些細な喧嘩だった。気持ちが通じ合い過ぎていたからこそ生まれた、小さなすれ違い。だからまさか、実家を離れるその日になって急に反対されるなんて、思ってもみなかった。

 …まだ、怒ってるのかな。だとしたら、まず最初はなんて話しかけたらいいんだろう? そもそも、いつもはどうやって話しかけていたんだっけ?

少しだけ不安になって、ガラス窓の前でそっと前髪を梳いてみる。


「……変じゃ、ないよね?」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。そして、自分の胸の中の回答に小さく頷いた。うん、身だしなみは大丈夫。家の中も念入りに掃除してきた。心の準備も大丈夫。……多分。


「…よしっ」


 私は、そう自分に言い聞かせて胸の辺りで両拳をぐっと握った。


 だが、はやる気持ちとは裏腹に、妹は中々現れなかった。時計の針は、昼の12時を指している。待ち合わせの時間から、既に1時間。電車で来ると言っていたので、列車事故などで運行が遅れていない限りはもう姿を現していてもおかしくないはずだった。


 しかし、電光掲示板に目を走らせても特にそれらしい情報はなし。

もしかして、家の方で何かあったのだろうか? だが、それなら何かしら連絡を寄越してもいいはずだ。

 それとも、やっぱりあの日の喧嘩が心に引っかかって、来るのをやめてしまった? もしそうだったとしたら、何も連絡がないのは、そのせいなのか。

手の中にある携帯電話を見る。少し前に、みらいと一緒に選んだお気に入り。メールの履歴、電話の着信はどちらも昨日の友達からのものが最後だった。…やっぱり、まだ怒ってるんだ。私が、あんな言い方をしてしまったから。

不安ばかりが募っていく。連絡を取るべきだろうか。いや、もし怒っているのだとしたら、まともに取り合ってくれないかもしれない。あの心優しいみらいに限って、それはないとは思うけど。しかし、やはり自分から連絡するのはなんとなく気が引けた。


 1時間前の浮かれきった気分はどこへやら、私はすっかり弱気になって気が付けば視線が床の方に落としていた。携帯の待ち受け画面を覗く。映っているのは私と、私より少しだけ身長の低い天使のような少女。音階記号であるト音記号の形をした髪飾りを付けたその少女は、こちらに向かって太陽のような暖かい笑みを見せていた。


「うぅ…」


 そんな事を思っていた時だった。その異変が起きたのは。

最初は、ただの停電だと思った。目に見える全ての灯りが、まるでもがき苦しんでいるかのように妖しい明滅を繰り返し、やがて事切れた。だが、それにしてはあまりに周りが静か過ぎた。都会の人々が、大抵のトラブルに順応しているといっても、突然明かりが消え、目の前が真っ暗になれば悲鳴のひとつもあがっていいはずだ。それが、全くない。私はその異様な光景を不思議に思って、待合室を出た。それで、ようやく気がついた。


 先ほどまでは、眩暈がしそうな程に多くの人でごった返していたはずの駅の構内。しかしいつの間にか、それらは忽然と姿を消し、私は誰もいないその空間に一人取り残されてしまっていたのだった。


 水を打ったように静まり返った駅の構内は、全く別の場所のように思えた。その中を、私はわけもわからないまま一人彷徨っていた。まるで、時間が止まった世界を歩いているような感覚。しかし、電光掲示板はそれに対し何事もなかったかのように淡々と電車のダイヤを伝えているし、遠くからは電車が線路を走るうなり声がかすかに聞こえていた。少なくとも、世界そのものに変化はないように思える。しかし、大声で叫んでみても、窓口を覗き込んでみても…誰も、何も反応がない。


「なんで…?」


 世界に、1人取り残されてしまったような、孤独感と恐怖心。そんな心細さがあったからか。私はいつしか妹の、みらいの名前を呼んでいた。ここにいるはずがないと、わかっていながら。


「みらい…みらい…!」


 私と違ってしっかり者で、正義感が強く、困っている人がいればどんな相手にだって手を差し伸べる…それがみらいだった。多分私は、そんなみらいなら今の自分の事も救ってくれるはずだと期待してしまったのだろう。…我ながら、情けない姉だと思う。そんな心の弱さが呼び寄せたのだろうか?

 その時、私は改札口の奥にみらいの幻影を見ていた。…いや、よく見ると幻じゃない。みらいではないが、それは人影だった。怪我でもしているのだろうか、それは身動きひとつせず立ち尽くしている。


「あんな所で何してるんだろう…」


 心配に思いながらも、ようやく出会えた人間にひとまずはホッと胸をなでおろす。どういう状況にせよ、1人でいるよりはいい。それに、もしかしたらこの状況について何か知っているかもしれない。


「あ、あの!大丈夫ですか…!?」


 だが、返答はない。気づいていないのか。いや、そんなはずはない。誰もいない空間で、私の声はよく響いた。しかも、視認できる距離。よほど耳が遠くない限り、聞こえるはずだ。


「ど、どうしたんだろう…」


 差し込んだ光明に、わずかに影が射した。薄闇に包まれた通路に、わずかに体を揺らしながらひっそりとたたずむ人影には、言い知れぬ不気味さがあった。しかし、怖がってはいられなかった。もしかしたら、怪我をして動けないでいるのかもしれないし、喋ることができないほど意識が混濁している可能性だってある。そうだとしたら、今この場であの人を助ける事ができるのは私しかいなかった。


―――みらいならきっと、迷わず助けにいくはず。


 私は勇気を持って、人のいなくなった改札を飛び越えてその人影に近づいた。

 だが、人影のすぐ傍まで来て、私は思わず足を止めた。この、説明のつかない異常事態……もう少し、警戒すべきだったのだ。


―――それは、人ではなかった。

 異様としか言いようがなかった。暗闇の中でかすかに見えた黒い"人影"。それは、どれだけ近づいても黒いまま、像を結ぶ事がなく。

それは、すぐ目の前にいるはずなのにまるで映像のように実体のない、まさに"影"としか形容のできない"なにか"だった。

 一気に血の気が引いていく。受け入れ難いそれを前に、恐怖とも、嫌悪ともつかない感情が脳内を錯綜する。そのせいだろうか。"人影"が、のろのろとこちらに近づいてきている事にもまるで気づかず、我に返った時には既に、その"人影"は私の眼前まで迫っていた。その"影"が、どんな存在かはわからない。だが、本能が告げる。

―――逃げろ、と。


 しかしどんなに手足を動かそうとしても、蛇に睨まれた蛙の如く体がいう事を聞いてくれない。気づくのが、あまりにも遅すぎた。

その"人影"が、手とおぼしき部位を振り上げるとも差し伸べるともつかない緩慢な動きで私に伸ばした。


「ひ…っ!」


 咄嗟に、目を伏せる。理由は不明だが、直観的に死を覚悟していた。1秒とも、永遠とも思える暗闇の中で、みらいとの思い出が走馬灯のようによぎっては消えていく。痛みはなかった。死の刹那にしては、随分あっさりしていると思った。

だが、おそるおそる目を開くと…先に広がっていたのは、地獄でも天国でもなかった。


 まず最初に見えたのは、明滅する電灯。それで少なくとも、死んでいない事は理解できた。

 次に、"影"。私に伸ばした手は、私に届く事無くその場でピタリと静止していた。おもむろに視線を下に移すと、影の腹部に先ほどまではなかった鋭いものが生えている。


―――剣?

 いや、確か友達に無理やり連れて行かれたフェンシング部の見学で、それを見たことがあるような気がする。そうだ、レイピア―――その切っ先だ。それが、像を結ばぬ影に対し、深々と突き刺さっていた。と、同時にその影がノイズの入った映像のように一瞬不安定なものになり、やがて目の前でかすれた悲鳴のようなものをあげて霧散した。


「な…何が……?」


 目の前で起こったあまりに唐突な変化に、私はどこか他人事のように眺めながら呟いていた。やがて影は消え、そこには影を散らしたレイピアだけが残った。

いや、正確にはレイピアの持ち主だけが。


「…修正完了」


 そのレイピアの持ち主が、不意に声を発した。鈴のなるような、可愛らしい少女の声だった。でも、どことなく冷たくもあった。

私は、少なくとも先ほどの影のような危険性はないだろうと安堵し、顔をあげ―――


―――しかし再び、凍りついた。


「損傷、被害、共になし。ノイズも生じず。…これより帰投」


 レイピアの持ち主―――少女が、何か言っている。だが、その内容は一切頭に入ってこなかった。それだけじゃない。得体の知れない人影の事も、先ほどまで感じていた死への恐怖も、その一瞬で、一気に遠い過去の記憶となってどこかへ吹き飛んでいった。

 それほど、その少女の姿は私にとって衝撃的だった。

 現代の服装としてはおおよそ時代錯誤な、西洋の騎士を思わせる白銀の甲冑。私より、ほんの少し小さな体。そして―――ト音記号の形をした、ヘアピン。


「み、らい……?」


 レイピアの持ち主。その少女こそ、私が待ち焦がれた最愛の妹。

―――みらいが今、私の目の前にいた。


「…?」


 気が付いた時には、みらいの体を力いっぱい抱きしめていた。そして、心の底から安堵する。


「よかった……」


 怒ってなかった。みらいは、ちゃんと来てくれていたんだ。先ほどの人影の事とか、その恰好の事とか、聞きたい事は山ほどある。でも、今は……。

 みらいが、私の目の前にいる。それだけの事がたまらなく嬉しく、そして愛おしかった。



―――だが、そんな幸せな時間は残酷にも終わりを告げた。


「…誰」


 私の体を押し返す、冷たい掌と…その、たった一文字の無情な言葉によって。



「え…誰、って……みらい、だよね…?」


 私の声は、震えていた。

 人違い? そんなはずはない。この日の為に、彼女の顔を何度も何度も、頭の中に想い描いてきたのだ。それに、頭のヘアピン。ト音記号の形のそれは、いつしか私がみらいに誕生日プレゼントとして送ったものだ。見間違えるはずがない。

だが、目の前の少女のこの冷たい表情は? 今にも私を射抜こうとするような、鋭い視線の意味は―――?


「わ、わかった。まだ怒ってるんでしょ? ………ごめんね、ちゃんと謝るから」


 乾いた笑い。だが、私は必死だった。

 これはきっと、何かの冗談だ。多分、私の事を怒っていたみらいが、仕返しに私を困らせたくて、こんなお芝居しているんだ。だからきっと、私が謝ればすぐにいつもの優しい笑顔を見せてくれる。そうに決まってる。


 私は、心の中で呪詛のように何度も祈った。整えていた前髪がパサリと目元まで落ちても、気にも留めず。しかし、みらいのような姿の少女は、そんな私を汚いものでも見るように一瞥し、踵を返した。


「待って……―――ッ!?」


 私は無我夢中で彼女の腕を掴んだ。ここで引き止めなければ、もう二度とみらいに会えないような気がした。だが、みらいらしき少女は、その華奢な腕からは想像もつかないような力で乱暴にそれを振りほどく。


「邪魔」


 それは、はっきりとした拒絶だった。刺すような視線は、もはや完全に敵意のあるものに変わっていた。


「あなたなんて知らない。私は、セカイの調停を守る存在―――それが全て」


 私の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。

体から、力が抜けていく。気が付けば、その場にへたりこんでいた。

目の前にいるはずのみらいが、随分遠くに感じた。

 

 いつも、私のすぐ隣にいたみらい。手を伸ばせば、いつだって届く距離にあったみらい。そんなみらいが、私の中から消えていく。あんなに大好きだったみらいの笑顔が思い出の中から消えていく―――。


 コツコツと小さく響く足音。それが、立ち去ろうとするみらいのものであると気づくのに、随分な時間を要した。しかし、私は徐々に小さくなっていく彼女の背中を、どこか他人事のように見つめていた。いや、もう何も見えていなかったのかもしれない。目の前が真っ暗になった。もう何もない。何も考えられない。世界がぐるぐる回って、やがて暗闇が意識を支配した。





―――だが、そんな時だった。どこからともなく、その声が聞こえたのは。


「残念ながら、あなたの妹は"正義の味方"になってしまいました」



「…え……?」


 その声に、私はわずかだが意識を引き戻された。

 そして見上げると、いつの間にか全身黒づくめの喪服のようなドレスを纏った、落ち着いた雰囲気を持つ女性が目の前に立っていた。その時の意識はまだぼんやりとしていたけど、綺麗な人だな、と思った事だけは覚えている。

 

 立ち去ろうとしていたみらいも、いつの間にかその女性に気づき、私に対するものと同じ視線を彼女に向けていた。だが、その女性は敵意を剥き出しにしているみらいの視線など意にも解さず、優雅な足取りで私のすぐ隣まで来て折れた私の心を包み込むように、そっと両肩に手を置いた。



「せいぎのみかた、って、なに……?」


 言葉の意味を理解できず、私は半ば呆然と呟いた。まるで、小説や舞台の中に入り込んでしまったみたいな錯覚を覚えた。それに対し女性は、私から返答がある事に少し意外だ、というような顔をする。が、すぐに柔らかい表情を戻し、私を諭すような声で答えた。


「今、この世界はとても不安定なのです。あなたが体験した、不意に周囲の人間が消えてしまった現象も、不安定になった世界が瓦解していく光景の一端。放っておけば、やがてこれは世界中を侵食し、抗いようのない滅びがやってくるでしょう。それを阻止する為に、彼女は選ばれてしまった。その不安定な綻びを修正し、世界の調停を守護する救世主―――"正義の味方"、という存在に。きっと、とても優秀な方だったのでしょう。そして、世界を救うに足る雄大な愛と優しさを備えていた。だから世界が、彼女を欲したのです」


 なに、それ。

 女性の言う言葉は、どれも意味がわからなかった。

 世界だとか滅びだとか、それこそ小説の中の世界だ。突然そんな話をされて、理解できるはずがなかった。

 唯一理解できた事と言えば、みらいがセカイさんとやらに認められるほど優秀な人間だという事だった。そんなの、ずっと前から知っている。みらいにできない事なんてほとんどないし、自分の全部を投げ打ってでも他人を幸せにしようとする途方もない愛を持ってる。だから、もし世界の危機とやらが本当に起こっていたとして、それを何とかする方法が"せいぎのみかた"になる事しかないと言われたら、彼女は迷わず"正義の味方"になる道を選ぶに違いない。


 しかし、女性はみらいが"選ばれた"と言っていた。それはつまり、世界の都合で勝手に妹の意思を、未来を捻じ曲げられてしまったという事ではないのか。

 それを裏付けるように、今のみらいはまるで心を失くした機械のような冷徹さを湛えている。みらい自身の意志がまだ生きているなら、それはありえない。私の知るみらいは、いつだって明るい太陽みたいな暖かさを持った少女だった。

もしそうだとしたら……そんなの、身勝手すぎる。


「元には、戻せないの……?」

「ええ」


 一縷の望みを託して、何とか声を振り絞って出した問いに、漆黒のドレスを纏った女性は淡々と告げた。その絶望的な宣告に、目の前が真っ暗になった。もういっそ、さっきの人影に殺されていた方がマシだったのではないかとさえ思えてくる。

と、その時。ガン、と不意に衝撃音が響いた。みらいだった。あの人影に向けて突き刺したレイピアを、今度は私達に振り下ろしている。いや、正確には私の隣にいる女性に向かって、だ。


「セカイの仇名す者は、全て排除する」


 抑揚のない、冷淡な声。それはもはや、みらいと同じ声をした別の何かだった。


「いいのですか? お姉さんも巻き込みますよ」


 女性は、いつの間にか手にしたヴァイオリンのような形した盾でみらいの攻撃を受け止めた。そして、がら空きになったみらいの腹部に右手の弓を振るって一撃を加える。想定外の反撃に思わず後ずさるみらい。だが、すぐに体制を立て直し今度は横にレイピアを振るう。かわした。動きづらそうなドレスにそぐわぬ、軽やかな動き。と、不意に女性が私の頭を掴んだ。


「へ、ちょっと…!?」


 あまりに唐突な出来事に、私は体が強張るのを感じた。そして、それが何を意味するのか理解する暇もなくされるがまま彼女に思い切り頭を抑え込まれた。結果、したたかに額を地面に打ち付けてしまう。抵抗しなかったせいで、勢いがつきすぎた。


「へぐ…っ!」


 頭を揺さぶられるな激痛が襲う。


「な、なんでこんな…」


 しかし直後、悪態づこうとする私のすぐ頭上をみらいのレイピアが横切った。もしそのままその場で呆然としていたら、私の首は今頃地面に転がっていただろう。もはや今のみらいは、悪を断罪する為なら私もろとも切り捨てようとお構いなしのようだった。

 更に、間髪入れずにみらいの突きが雨のように彼女に降り注ぐ。しかし、やはり女性はやはり表情を崩すことなく冷静にそれらをかわす。そして、隙のできた所に再び一閃。それが、みらいの純白の甲冑の一部を破り去った。同時にみらいの体がのけぞり、地面に膝をつく。


 2人の闘いは、さながら舞台での演武だった。その光景に、いつしか私は見惚れていた。それも、みらいの方ではなく、その舞いの主役である黒いドレスの女性の方に。


「あなたは…?」


 そしていつしか、彼女の事が気になっていた。

 みらいと同じ、"せいぎのみかた"ではない。でも、先ほどの人影のような歪さも感じない。そして、私にみらいが置かれている状況を教え、さらに今も私を守ってくれた彼女の正体は、一体…?

 そんな疑問に、彼女はやはり穏やかな笑顔でこう答えた。


「私は……そうですね。彼女達とは真逆の役割に分類されている者です。つまりは……"悪者"、ですかね」



―――そして、最後の一振りと共に彼女の演奏は幕を下ろした。







「先ほどは妹さんを元に戻す方法はないと言いましたが…実は、全くないわけでもないです」


 夕闇の光が差す駅の待合室で、私と隣り合って座る彼女はそう切り出した。

 みらいは、あの後すぐに仲間と思われる人達が現れて、共に姿を消した。私は最後までみらいの名を叫んだが、やっぱりその声が届く事はなかった。彼女の言葉は、そんな私の心に差した、一縷の希望だった。


「ただ、可能性はあまり高いとは言えないですがね」

「それって、どういう…?」


 私は、食い入るように女性を見つめる。藁にもすがる思いだった。だが、彼女が発したその提案は、希望と呼ぶにはあまりに退廃的なものだった。


「妹さんは、"世界"によって変えられてしまった。だったら、その"世界"を壊してしまえばいい」


 私にはすぐにわかった。これは、悪魔との契約だと。


「でも、世界を壊すという事はつまり…あなたの願いが叶えられた時には、私達"悪者"の統治する世界になっているという事……いや、それよりもっと酷くて、世界なんて跡形もなく消えてしまっているかもしれない。どちらにせよ、普通の世界で妹さんが戻ってくる事は、もうありえないという事です」


 冷静に考えれば、彼女の言う方法でみらいを取り戻す事が出来たとしても、その先に未来はない。一時的な私の自己満足。それに、みらいのような"正義の味方"なんてものが必要な状況を生み出している直接の原因は、世界の調停を乱す"悪者"がいるせいなのではないか。だとしたら、むしろ私は世界よりも先にこの人たちを恨むべきだ。それはわかっている。


―――しかし。


「あなたには選択肢が2つあります。ひとつは、妹さんの事は忘れてこれまで通り平穏に生きていくか。もうひとつは、私達と同じ"悪者"となって、世界を敵に回すか…です。一つ目を選ぶなら、私があなたの記憶を弄って今日の出来事を綺麗さっぱり忘れさせてあげますので、ご心配なく」


 女性は、白々しく笑みを浮かべた。多分、最初から彼女は私を利用するつもりだったのだ。みらいを奪われ、世界に怨讐の念を抱く事になった私の心の闇を。


「決めるのは、あなた自身です」


 その私の考えを見透かすように、女性は静かに私を見据えた。あくまでもこれは提案であり、一度選択してしまえば二度と後戻りはできない。彼女の凛とした瞳が、その事を克明に告げていた。


「私は……」


 改札の奥に視線を向けると、そこには戦いの跡があった。もし、彼女の目論見に乗ったなら、私もまた、あの中に身を投じることになる。そして私の日常は、もう帰っては来なくなる。しかし―――私の答えは、とっくに決まっていた。



「みらいを、取り戻したい」


 時として人は、それが間違いだとわかっていたとしても、あえてそれを犯してでも進まねばならない時がある。そして私にとっては、今がその時だった。

すると、私の言葉に彼女は静かに目を伏せ、かすかに微笑む。


「…きっとそうだと、思ってた」


 そして、声から儀礼が消えた。彼女は、決意を固めた私のその表情に満足したとでもいうように、膝に置かれた私の掌をそっと握り締め、やはり涼やかな笑みを湛えたまま私の肩に頭を預けた。


「ようこそ……"悪者の世界"に」




―――こうして私は、妹のみらいを取り戻す為に世界を滅ぼす"悪"となった。


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