野鳥

月白 貉

第1話

大寒波が町を襲った日の翌日、薄っぺらく雪の降り積もったガタガタの細いあぜ道を、サクサクサクと踏み音を立てながら家の近所の溜池まで犬の散歩に出かけた。


東西におよそ五百メートル、幅が八九十メートルほどある細長い溜池には、食品用のラップフィルムに似た薄っぺらい氷が一面に張っていて、その氷上の所々で、風に撒き散らされた粉砂糖のようなサラサラした雪が、雲間から覗く太陽の光を受けてキラキラと光り輝いていた。犬の歩調にあわせて、とぼとぼ歩きながらその様子を何気なく目に映していると、何やらその小さな雪の粉粒の様子が、たくさんの子供たちの遊ぶ姿に思えた。やいやいとはしゃぎながら駆け回っている、邪気のない子供たちに思えた。


溜池の土手の上で腰に両手をあててスウスウと冷えた空気を吸い込んでいると、連れていた犬がワンワンワンと言ってやけに吠える。何だと思って溜池の遠く西側の端の方の、犬がワンワンワンと鼻先を向けて睨むその先にシュッと目をやると、溜池に張った薄い氷の上に、イヌイットが身にまとうアノラックのような、フードの際にモシャモシャと毛の生えたこげ茶色のコートを着込んだ小さな女の子が、ぽつんと突っ立っている。


あんな薄い氷の上に、危ないじゃないか、誰か保護者は一緒に来ていないのだろうかと、ずいぶん心配に思ってあたりを見回したが、女の子の周りにはひとっこひとり付き添いらしきものはおらず、乾き切った風の音だけが勢い物凄くビュービューと唸りを上げている。


「お〜い、おいおい、そんなところにいたら危ないじゃないか、はやく土手に上がりなさい!!!」


女の子のいる場所までは、だいたい百メートルほどだったろうか、大声を張り上げながら、犬の紐をグイグイグイと引っ張りながら、女の子のところに向けて駆け寄ってゆくと、その声に気が付いたのかどうかは知らないが、女の子がこちらに顔を向けて笑ったように見えた。けれど女の子は、急に体を大きくぶるぶるぶると、やけに大げさに震わせながら、薄い氷の上でトントントントン激しく足踏みをはじめた。


「おいおいおい、ちょっとちょっと、ダメだ、そんなことをしたらダメだよ、氷が割れてしまうよ、池に落ちてしまうぞ!!!」


あと少しで女の子のいる場所までたどり着こうとした時、徐々に鮮明になって見えてくる女の子の様子に気を配ると、その胸元あたりに両手でなにか黒いものを抱きかかえている。それは表面が湿っていて、ドロリとした光沢のある質感を持っていて、何やら真っ黒い色をした鳥のように見えた。


あれはもしかしたら鵜だろうか。ただあの大きさからすると、まだ小さな子どもの鵜だろうか。溜池で遊ぶ鵜の子どもを捕まえようとして夢中になってしまって、氷の上まで歩いて追いかけて、そうして戻れなくなったのではないか。


そんなことを思いながら、女の子に必死で大きな声をかけつつ、息を切らしながらやっとの思いでその場所まで辿り着いた時、女の子の足元の薄い氷がメリメリと割れて、あっと思う間にして女の子の体が溜池の水の中にボチャンと姿を消した。


「ひゃっ!!!」


息をのんで急いで土手を駆け下りたが、氷の割れ目の穴には、茶色く濁った水がユラユラと揺れて、大小絡みあった無数の気泡が静かにプクプクプクと浮かんでくるばかりで、女の子の姿はまったくうかがえない。水の中で溺れて藻掻いているような騒ぎもまったくない。もしや溜池の底の泥土に足を取られて身動きが取れなくなっているのではと考え、助けに水に入ろうかどうかと、あたふたあたふたと四方に動きながら迷ったが、ドロドロと茶色く濁る水のその全容がまったくわからないような状態で迂闊に足を踏み入れて、間違って自らも溺れてしまってはことだと思い、ではどこかしらに、警察か消防かに連絡せねばとダッフルコートの右ポケットから携帯電話を取り出そうとしていると、再び犬がワンワンワンと言って背後で激しく吠えている。携帯電話をポケットの中で握りしめたまま後ろを振り返ると、年の頃で六十七十と思われる白髪の男性が、杖をついて土手の上をこちらに歩いてくるのが見える。


何だ、人がいるではないか、あるいはあの女の子の身内ではないかと思い、大声を張り上げて見知らぬ老人に声をかける。


「溜池に女の子が落ちました!!!あなたの、あのこはあなたのお孫さんではないでしょうか!?」


老人はその声を聞くなり、「はっ!」と言って表情を変え、杖を頭上に振り上げて左右に細かく振りながら、今さっき駆け下りてきた土手の上のところまで走り寄ってきた。


「あんた、あんたあんた、いかん、いかんよ、そりゃあ私も向こうから見ていた、あんた、あれは女の子じゃありませんよ、あぶないから、まずは早くこっちにあがりなさい、こっちに早く早く!」


老人は土手の上からこちらに身を乗り出して、こっちにこっちにと、早く早くと、杖を激しく振り下ろしている。


「女の子が、あそこに女の子が落ちたんですよ、氷が割れて、早くどうにかしないと!!!」


そう叫びながら慌てて四つん這いになって、土手の土を手の指で引剥しながら駆け上がると、老人は違う違うと首を大きく振った。


「あれはあんた、女の子なんかじゃあないよ、あれは鳥ですよ、あんた、あれは鳥です、おちつきなさい!」


老人の言葉を遮って、再び大声をあげて必死で訴えかけていると、背後の溜池のずいぶん遠くの方から、ケラケラケラケラ、不快な甲高い笑い声のようなものが耳に響いてきた。その声に反応して溜池のほうに向きなおって、なんだなんだと声のする方に目を向けてみると、溜池の向こう岸に近い氷の上に、先ほど水の中に沈んでいった女の子が立ってこちらに顔を向けている姿がうかがえた。


「えっ!!あれはさっきの、なんだ、なんだなんだ、溺れてやしなかったのか、」


女の子が無事だったことでいっきに気が緩んで、はあはあと言って息を吐き出した。


しかしさて、どうも様子がおかしい。女の子が水の中に沈んでしまってからずっと、慌てふためきながらも周囲には目を見張っていたつもりだったが、溜池の水面には一切、そして一瞬足りとも、女の子の姿は浮かんでなどこなかった。まして女の子が向こう岸に泳いでゆくような姿も、この目にはまったく映らなかった。一体どうやって、そしていつの間に、七十メートルほどはあろうかというあんな遠くの対岸までたどり着けたのだろうか。しかも今は真冬で、氷の張るような時期の溜池の水など、あんな小さな子どもがつかっていられるような温度ではないだろう。そう思いながら女の子の立っている対岸のあたりを呆気にとられて見ていると、後ろから老人が肩をドンドンと叩いた。


「あんた、大丈夫ですか、お聞きなさい、だからあれは女の子じゃないと言いましたでしょう、あれは鳥ですよ、鳥なんですよ。」


肩を叩かれて少しだけ我には返ったが、今ここで起こっていることの状況がまったくつかめず、目の前で老人が話している言葉の意味がさっぱり理解出来ず、しばらく無言のままその老人の目をじっと見据えていたが、ふと、この老人はなぜ女の子のことではなく、女の子が抱きかかえていた小さな鵜のことばかり言っているのだろうかと不可思議に思い、


「いやいや、鵜のことじゃなくて、女の子が、女の子が、」


と再びしどろもどろに切り返すと、


「いやいや違う違う、あんた落ち着きなさい、そうじゃないのです、あれは女の子でもないし、鵜でもない。あれは鳥ですよ、親鳥がまだ小さい子を抱えているんです。子はまだひとりでは飛べやしないので、ああやって抱えて育てているんです、あの小さい鳥のほうは、あれも鳥だが、まだ体も黒かったでしょう、何より、まだ鳥類のような姿をしていたでしょう。」


老人は一度言葉を区切り、足元でハフハフ言っている犬の頭をよしよしよしと叩いてから、話を続けた。


「あれはねえ、あんた、気をつけなきゃいけませんよ、もう少しであの鳥の餌食だ。あれは危ないんだよ、あれは人の血を吸いますよ、あんたの血を吸いたくて呼んだんですよ、ああやって人を呼ぶんだ、腹が減るからね。それに吸うどころじゃない、ゴクゴクと飲むんです。そしてね、体内におかしな病原菌を持っていて、血を飲むときにそれをこちらに入れてくるんだ。蚊みたいに痒くなるだけじゃ済まないよ、あんた危なかったんですよ。ほんとうはね、国がどうにかしなければいけないのに、まったく今も昔も国というやつはいつだって何もしやしない。ちょっと待って下さい、あんなところにあれがいたらまた誰かを呼びかねないから、いまのうちにあれを遠くに追い払わなければなりません、あれは“渡り”ですからね、毎年毎年来るんだ。でもまだ寒い季節のうちに、今のうちにね、暖かくなる前に追い払ってしまわないと。」


そう言うと老人は肩にかけた茶色い革製の鞄のチャックを開けて手を突っ込み、何かゴソゴソゴソとやりながら、再び足元でハアハア舌を出して戯れる犬によしよしと嬉しそうに語りかけた。


しばらくして、ゴソゴソやっていた老人が鞄から取り出したものは、煙草を吸うための木製のパイプのようなものだった。それを見てまず、シャーロック・ホームズがいつも口にくわえているやつだ、というイメージが頭に思い浮かんだが、わざわざ口には出さなかった。ただその先端の膨らんだ部分が、ホームズの持っているような通常のパイプとは大きく違っていて、人間の首を象った精巧な細工が施されていた。


細かく彫り刻まれてた顔は日本人か、あるいはモンゴロイドのようで、目があり耳があり鼻があり口があった。頭部には乾燥させた植物の繊維のような素材でチリチリとした髪の毛まで付けられていた。目の部分には青緑色のターコイズのようなものがはめ込まれていて、左耳の耳タブにも同じくターコイズのようなもので楕円形のピアスらしきものが装飾されていた。そしてずいぶんとシャクれ気味の口には、パイプでいうところのタバコを入れて火をつける部位のような穴が開いていて、おそらくはパイプと同じように奥の奥まで、人が口をつけるマウスピースの先端までのびているようだった。そしてその口の穴の内側の際には、ターコイズとはまた別の白色の鉱物、あるいは貝殻かもしれないが、たくさんの歯までもが細工されていた。髪の毛は耳の上まで垂れ下がるオカッパ頭だったが、頭頂部の髪の毛だけが綺麗に丸く剃られていて、古の修道士だか、宣教師のフランシスコ・ザビエルだかを連想させた。そのあまりにも精密な、芸術性の高い造形につい見とれていると、老人がそのパイプをおもむろに口にくわえて、「スゥゥゥ〜」という音を立てて鼻から息を吸い込んだ。そして背筋を伸ばすようにして胸を目一杯に張り上げ、顔に真っ赤な血を駆け巡らせ、頬をトノサマガエルみたいに膨らませて、ものすごい形相でパイプに息を吹き込んだ。


息を吹き込まれたパイプの先端が、今さっき切断されたばかりの生首のような不快極まりない気配を醸しだし、その周囲には吐き気のするような強い腐敗臭が漂い始めた。同時にパイプの口の部分からは白く光る塵のような煙のようなものがモワモワと湧き上がり、「ウオォォォォォ〜」という、巨人が仲間を呼ぶために発する低い唸り声か、あるいは異端の宗教儀式で吹き鳴らされる特殊な角笛のような重苦しい音か、そんな聞いたことのない不気味な音色を鳴り響かせた。



老人は大きく一度だけパイプの中に息を吹き込み切ってしまうと顔の表情をゆるめ、その後はパイプをただ口にくわえているだけのように見えたが、パイプから鳴り響く音はその後もまったく鳴り止まず、どんどんと音量を増しているように感じられた。さらにはパイプから湧き出す塵か煙のようなものも、その音の大きさに比例してどんどんと量を増し、老人の顔の前でミニチュアのハリケーンのように、小さいけれど凄まじい迫力の渦を巻き出していた。


そのグルグルと渦を巻くものに恐る恐る顔を近づけてじっと見てみると、それは粉粒のように極小で、そして鈍い銀色をした無数の甲虫の群れだった。パイプから鳴り響いていると思っていた音は、どうやらパイプから止めどなく湧き出す、何百何千という数の大量の甲虫が羽を震わせる音のようだった。その正体を知ってギョッとして肝を潰しそうになり、「わあっ!」と声を上げて甲虫の群れから後ろに飛び退きざま、目を見開いて老人の顔を見ると、老人は口先にパイプをくわえたままピクリとも動かず、ただ目だけは自分の足元の犬のほうを見下ろして、ニコニコニコと穏やかな笑顔を浮かべていた。


パイプから湧き出してきた銀色の甲虫の大群は、渦のような塊から徐々に形を変え、空中に銀色の線を描くように細長い隊列を組んで、溜池の対岸の女の子を目指して飛んでいっているようだった。どんどんどんどん長くのびてゆく甲虫の隊列の先端が、対岸の女の子にもう少しで届かんとするところまで到達すると、突然、女の子が癇癪を起こすみたいにして手足を狂ったようにバタバタと振り回しはじめ、次の瞬間、肩のあたりから巨大な鳥の羽根のようなものが、バサリ、バサリと広がるのが見えた。


背筋に、首元から入って腰まで抜ける、突き刺さるような悪寒が走り、厚く着込んだ服の下の両腕に、ザワザワと波打つ鳥肌が立つ感覚があった。


その羽根は黒く湿った皮のような質感を帯びていて、鳥の羽根というよりはどちらかと言えばコウモリの翼により近く、生き物から剥いだ生皮と、ゴツゴツと歪んだ筋や骨で組み上げられている禍々しい凧のようにも見えた。あるいは聖書の場面を描いた絵画でいうならば、それは天使の描写ではなく、完全に悪魔の描写だった。


「ウギヤァァァァァァァァ〜ッ!!!!!」


今までに聞いたことのない、感じたことのない空間の震えが、溜池のこちら側にまで押し寄せるように響いてきた。巨大な翼を持つ女の子の姿をしたものは、大きく広げたその翼を再び背中に折りたたみ、溜池の対岸の土手を四足よつあしのような恰好で駆け上がると、そのまま隣接する大きな雑木林の中へ、野生の獣が追い立てられて身を隠すような速さで消えていった。対岸の空中に細い煙のような姿を映す無数の甲虫の群れは、その何かが走り去った足跡を標すように、そしてどこまでもそれを追尾するようにして、どんどんと雑木林の中に吸い込まれていった。


気が付くと、老人は口からパイプを離していて、「ほうほう」と言って頷きながら対岸の様子を眺めていた。周囲に満ちていた不快な空気も、そしてひどい腐敗臭もまったく消え去っていた。遠く対岸のあたりにまだ微かに聞こえていた甲虫の羽音も、その群れが遠ざかると共に、徐々徐々に、雑木林の奥へと奥へと進むようにして、聞こえなくなった。


老人は「ふ〜っ」と言って小さなため息を付き、手に持ったパイプを太ももの所でトントントンと数回叩いてから、もとの鞄の中へ無造作に仕舞いこんだ。そしてゆっくりとその場にしゃがみこんで、犬の頭をよしよしよしと何度も撫でた。


「じゃあ、ごめんくださいね、ワンちゃん。」


しゃがんだまま犬に向かって小声でやさしくつぶやいた老人は、今度は立ち上がってこちらにも笑顔を向け、「それじゃあこれで、ごめんください。」と言って深く一礼したかと思うと、すぐにくるりとこちらに背を向けて歩き出した。


頭を撫でられた犬が、雪のわずかに残る地面に寝転がって腹を天に向けて、コロコロコロコロと気持ちよさそうに揺れてる。


「ちょ、ちょっとちょっと、ちょっとすみません、あの、あれはいったい、」


老人はこちらには二度と振り返らず、ゆっくりとした歩を止めもせず、杖をどんよりと濁った天空に向けて一直線に掲げてから、クルクルクルクルとその杖先を何度も回した。その杖の先を口を開いたまま見上げていると、空からぼってりとした雪が舞い落ちてきていた。


またいずれ、大きな寒波がやってくるのだろうか。

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野鳥 月白 貉 @geppakumujina

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